2021/12/7, Tue.

 [『家族歴』において] 「昭和十二年秋、父は遂に脳溢血の発作によって倒れ、中二日おいて、意識不明のまま六十三歳の生涯を了った」という言葉についで、父の手で「先祖代々之墓」と書かれた納骨堂の「窪み」へと滑りこんでゆく「私」の記憶が語られている。

 洞内の澱んだ空気のなかで私はあたかも肉親達に実際かこまれているかのような不思議な錯覚に襲われた。頭上には、腰の曲りかけた小さな母と、療養生活のため形容にややストイックなものの加わって来た若い妹が、膝をついて父の骨壺を差出していた。それを受取る時、私は自分が死者と生者とをつなぐ一本の靱帯 [﹅18] となったような気がしたのである。

 「死者と生者とをつなぐ一本の靱帯」という比喩にこめられている意味あいは、藤枝的な小説風土にあってははかり知れぬ重さを担っている。それはまず、堅固で平坦な土地から大地の不可解な窪みへと伸びる不可視の道を、確かな足どりでたどりうる特権者たち、つ(end135)まりは「章」や「私」そのものの在りようと深く関わりあっているからである。そしてまた、「現実」から「芸術」へと環境をかえうる特権的存在としての「作家」藤枝静男自身の姿勢とも、多くの触れ合う領域を持った言葉でもあるからなのだ。しかも、章や、「私」そして藤枝静男も、平坦さから窪みへの歩みや「現実」から「芸術」への歩みが、決してそれ自身として成就されうることなく、藤枝的「存在」の大地の皺への没入の瞬間は、いかに濃密な不在の影をたたえていようと所詮は虚構の死としてしか演じられることはなかろうし、またその予行演習としての演技がつむぎあげてゆく言葉も、「芸術」を完成させる以前にその手前の「現実」の側で足をとめてしまうであろうことを、充分に意識しているのだ。そしてその意識は、作家にとって不幸な無力感しかもたらしはしない。「死者と生者とをつなぐ一本の靱帯」たらんとする特権的な意識は、それが「生者」によってはぐくまれたものである限りにおいて、出発点からして実は「死者」の世界にとっては無効なものだからである。「靱帯」とは、だから「生」の領域にとり残され言葉のさ中に存在しつづけるものにとっては、宿命的な避けがたい一つの錯覚なのである。
 『硝酸銀』では祖父母や伯父伯母の、そして『家族歴』で父や兄妹の死を語った藤枝静男は、『文平と卓と僕』では妻の父と兄の、『冬の虹』では一人の叔母の死を描き、そして近年に至って『私々小説』で母と弟の、また最近の『盆切り』では母の初盆といま一人の叔母ならびに従弟の死を描くといった具合に徹底して「家系」の小規模な寸断にこだわりつ(end136)づけているが、それは、作家藤枝が、肉親の死を契機として「芸術」に一歩一歩接近しうると信じているからではもちろんない。「父」の死が、それが可能にする距離と遠近法によって彼に「父の小説」を可能にしてくれたわけではないのである。また、「母」が九十二歳まで生き伸びたから「母の小説」がこれまで書けなかったのでもない。そうではなくて、不意に身近に現出する貴重でかけがえのないものの不在の影が、言葉よりは絶句を藤枝に課し、「作品」への距離を無限におし拡げてしまうとき、なお「靱帯」への錯覚に捉われ続けているものの徹底した貧しさ、無力感を確かめるために藤枝は筆をとるのだ。そうでなければ、あの『私々小説』や『盆切り』の異様な短さは、あのぶっきらぼうなまでの排他的な文体はどこから来るのか。あれは、意図的に感動を圧し殺して「現実」と「芸術」との調和をはかるといった文学的虚飾にすぎぬあの「淡々たる筆づかい」などとは異質の、むしろ積極的な貧困を前にした言葉自身のいらだちなのである。そしてそのいらだちのうちに、藤枝は、死が獲得しえぬものであるように、「芸術」もまた獲得しうるものではなく、あるとき、世界の不意の陥没として存在を襲うものであることを察知しているのだ。たとえば「歴史」に題材を求めた森鷗外の晩年の諸作が、なお「芸術」ととり結んでいた曖昧な癒着関係、それをも砕いてみせそうな藤枝の文体は、だから、解脱し、枯淡の域に達した「心境小説家」のそれとは本質的に異っている。また「現実」と「芸術」とを程よく中和させる「私小説作家」のそれともやはり違っている。ここにあるのは、「作(end137)品」との越えがたい距離を前にして、ついに自分の所有に帰すことはなかろうその他者性をうけいれ、なおその事実を肯定しがたい二律背反に引きさかれたものの生の苦悩ばかりなのである。それは、生と死を結ぶ特権的な「靱帯」の錯覚にあえて執着し、「家族歴の系譜」を書きつぐ自分が犯しつつあるエゴイスムの自覚による、存在の不条理な迷いにほかならない。藤枝的「存在」たちは、無意識のうちに何ものかを結びつけんとしている。たとえば「生」と「死」を、あるいは「現実」と「芸術」とを程よく調和させうる特権を自分が持っているものと信じこみ、平坦さと隆起=陥没を、ふとしたきっかけで結びつけることができはしまいかという錯覚に捉われているのだ。
 (蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)、135~138; 「藤枝静男論 分岐と彷徨」; 「Ⅲ 家系、妻、そして芸術」)



  • 覚醒正午前、起床一二時二二分とおそくなってしまった。よろしくない。冷凍のナポリタンや牛丼で食事。きょうの天気はきのうにひきつづいて曇りで、ただしひととき雨の散ったきのうよりは白さのよどみがすくないようで、ほんのうっすらと陽の色合いが見える場面もないではなかったが、全体的には寒々しい曇天であり、いま四時一六分だけれどもう部屋の明かりをつけなければものも見えない。食事や風呂洗いなどすませてもどったあとは音読をけっこうたくさんやった。「読みかえし」はプルースト。その後、フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』を読んだ。きのうあたりからまた生の姿勢がゆるくなっており、とにかく楽にやればいいやとちからの抜けたかるいかんじになっているのでよい。書見もそれでなにかを発見しようとか気負わずにただゆるりと読んだ。冒頭の「僕ら」の件は書くのがめんどうくさいのでまたいずれ。ただ、話者の一人称複数は物語がはじまってからとおからず消えるわけだけれど、いま読んだなかで58に「われわれ」といういいかたがあった。「ふつうならこうした呼びかけは作家の筆をとおしてはじめてわれわれの胸に迫ってくるものなのだから」というぶぶん。とはいえこの箇所の「われわれ」は総体的な「ひと」とか「人間」とおなじ位置づけのはずなので、おなじ一人称複数でも最序盤の「僕ら」とはちがい、変質しているだろう。逆にいえば、この時点ではもはや話者は「僕ら」と語っていたころのそれとはちがう存在になっているとみなせるのかもしれない。「われわれ」の一語がその証拠になると。とはいえ、「僕ら」と語る話者がいっぽうで「われわれ」という人間の総称をつかっても不自然ではない。それによくかんがえれば、「僕ら」が指す範囲は中学校の同級生やクラスメイトという領域に限定されているけれど、「われわれ」はもっとひろく人間一般をさししめす語なのだから、それら種類のちがう一人称複数が共存することはふつうに可能だ。ところで語りのもちいる人称代名詞については61でもうひとつ、「おまえ」という二人称があらわれるのが注目される。「そしてまた忘れもしない、舞妓らの腕にもたれて四阿のかげに陶然と長煙管をくゆらすサルタンたちよ、異教徒たちよ、反り身のトルコ刀よ、トルコ帽よ、おまえらもそこにいた。なかでも忘れがたいのはおまえたち、世の人の焦がれてやまぬ国々を描く鈍色の風景画よ。おまえらはしばしば、檳榔樹を、樅の木を、右には虎の群れ、左には一頭の獅子を、地平はるかに韃靼の尖塔、前景にローマの廃墟を、はてはうずくまる駱駝の群れを、ことごとく一望のもとに見せてくれた」という一節がそれである。ここは尼僧院の寄宿舎ですごすエンマが修道女たちに見つからないよう寝室でひそかに「胸をおどらせながら」読む絵入本のなかにどんな挿絵がはいっているかという列挙の一段である。このぶぶんの直前まではふつうに三人称で、~~な絵があった、とか、~~は~~していた、といういいかたになっているのだけれど、ここでなぜか急にこのように芝居がかった二人称が導入されている。ところでうえの引用のなかの「異教徒」という語には訳註がついていて、「ペルシャ語源の原語 djiaours はふつう giaours と綴り、正確には「トルコ人から見ての異教徒、とくにキリスト教徒」の意。しかしエンマの頭の中では逆に「キリスト教徒から見た異教徒」、ここではとくに「回教徒」の意味で考えられているのであろう」(575)という説明があるけれど、ここの記述はエンマの回想をなぞっているわけではなく、語りとその対象であるエンマは截然とわかたれていると読めるし、この「おまえ」の瞬間だけエンマの声を召喚してきたとも見えないので(すくなくともエンマがこんな大仰ないいかたをするとはおもえないから、直接話法ではありえない)、ここで画中の事物や「風景画」そのものにたいして「おまえ」と呼びかけているのは、あきらかに話者当人である。したがって、訳註にある「エンマの頭の中では」という理解はおそらく誤りで、djiaoursを「キリスト教徒から見た異教徒」の意でかんがえているのは、エンマではなく話者自身(もしくはばあいによっては作者フローベール)だろう。「忘れもしない」「忘れがたい」といういいかたもそのことを傍証しているようにおもわれる。というのも、このオリエンタルな風景をエンマが「忘れがたい」とおもっているとして、そのかつて熱中した本の挿絵を「忘れがたい」とおもいだしているエンマがどの時点のエンマなのか、直接的にむすびつけられる記述が見当たらないからだ。いいかえれば、シャルルと結婚した直後のエンマのようすを語る物語の前線地点(現在時)において、エンマが寄宿学校時代のことや、そこで見た絵入本のことを回想しているという具体的な言及が存在しないということである(いちおう過去への参照はあるのだが、具体的な「回想」や「想起」として描写されているわけではない)。だから、エンマの来し方を語るこの第一部第六章の記述は、彼女の記憶をえがいているのではなく、エンマがシャルルとの結婚生活におぼえた不満や物足りなさを説明するのに必要な情報として、話者が自主的にかたってみせた遡行場面だということになる(当時のエンマの性質やその趣味をいくらか皮肉げに批評するようなことばが混ざっていることも、その証となるだろう)。したがってトルコの情景を「忘れがたい」「忘れもしない」と強調的に評価しているのは話者当人であるはずなのだが、そうかんがえると、奇妙な印象をあたえられることになる。なぜ話者が、とりわけてこの東洋風の情景のみをえらんで「忘れがたい」といい、あまつさえ演出的に「おまえたち」と呼びかけてさえいるのか、その理由がわからないからである。推測できる可能性はせいぜい三つである。(1)ここの記述はじっさいエンマの内面への言及を意図したものだったのだがそれがうまく実現されていない、もしくはこちらに見落としがあってエンマへの直接的なむすびつきが周辺のどこかに記されている。(2)作者フローベールのたんなる好み。(3)この小説が書かれた当時、こういうある種の東洋趣味がフランス社会一般に一定程度行き渡っていて、トルコへの芝居がかった言及はその世間的価値観を参照している。
  • 第一部第六章は、いわゆる「ボヴァリズム」ということばで流通しているエンマの(過去の)空想志向をつらつら説明するパートになっている。第五章の終わりの一文で、結婚生活におもったほどの幸福をえられないエンマについて、「そしてエンマは「幸福」とか「情熱」とか「陶酔」とか、書物のなかで読んだときにはあんなにも美しく思われた言葉が、実人生では正確にいってどんな意味を持つものなのかを知ろうと努めた」とかたられており、したがってエンマは「書物」(ここではフィクションとしての小説や物語を指す)を参照し、それをもとにしながら「実人生」をかんがえようとする、という姿勢をここでしめしている。彼女にとっては、「書物」がさきにあったわけである。エンマの「書物」への熱中とそこから生ずる夢想は幼少時からはじまっており、第六章はそれをふりかえる役割をもった一段なのだが、そのさいしょの一文ではやくも、「エンマはかつて『ポールとヴィルジニー』を読んで、竹造りの小屋や黒ん坊のドマンゴや忠犬フィデールを夢みたことがあった」というふうに、具体的な作品名をともないながら彼女のふるまいがあらわされている。尼僧院の寄宿舎にはいるためにルーアンに連れていかれたその晩、泊まった旅館での夕食時に出くわすのも、「ラ・ヴァリエール公爵夫人の生涯を描いた」「焼絵皿」である。その他、「宗教画に見入っては」「イエスさまを愛した」り、聖書や『説教集』やシャトーブリアンなど「宗教書の朗読」に「聞きほれた」り、ときおり尼僧院へ縫い物をしに来る没落貴族の老嬢から小説を借りてウォルター・スコットを読んだり、フランス史上の有名な女性たちに尊崇の念をいだいたり、「ロマンチックな歌曲」をいろいろうたったり、さきに触れたように「胸をおどらせながら」挿絵入の本を読みふけったりと、おおざっぱに言って「芸術作品」のたぐいとエンマのかかわり、そして彼女がそこからえるあこがれや甘美さなどの情緒について、これでもかというくらいにつぎつぎと羅列的に記述されている。
  • この日読んだなかでは、エンマとシャルルの結婚式に来る客たちがどういうかっこうをしているかというのをこまかく描写した段落と、そのあと一同そろって教会から役場まで野のなかを行列になってあるいていくという場面の記述に惹かれるものをおぼえた。やはりそこにあるものを細部まで詳しくえがくという種類の文になにか魅力をかんじてしまうらしい。あと55の、「さて学校を出てからの一年と二ヵ月というものは、ベッドにはいっても足が氷のように冷たい後家といっしょに暮らした。ところがどうだ、今こそは最愛のあの美女を永久にわがものにしてしまったのだ。シャルルにとっては、宇宙とは妻のペチコートの絹の手ざわりの内側を超えるものではなかった」という一節。「ベッドにはいっても足が氷のように冷たい後家」というのも、いいかたじたいは凡庸としても、からだの一部の特徴から敷衍されて前妻の性質をよくあらわしているようにかんじられてちょっとよくおもわれたのだが、そのあとの「宇宙とは妻のペチコートの絹の手ざわりの内側を超えるものではなかった」という文はなかなかすごいのではないかとおもった。
  • きのうの日記を書いているさいちゅうに、(……)くんがきのう聞かせてくれた自作曲についてあらためて正確な感想をおくっておくかとおもったので、以下をぱっとしたためてLINEに送信。

(……)

  • 日記は六日の分をしあげることができ、この日の分も多少書いたのでよい。五時でアイロン掛けをしに行った。両親は昼間でかけていて五時すこしまえに帰ってきたのだが、母親が、きょうなんの日かわかると聞いてきて、それで、ああ結婚記念日かとおもいあたった。まったくわすれていた。太平洋戦争がはじまった日付だとしかおもっていなかった(日本時間では八日だが)。(……)の(……)まで行って飯を食ったらしい。アイロンかけをしながらテレビのニュースに目をむけていると、ニューヨーク市が市内企業の全従業員にワクチン接種を義務化するという報があった。かなりおもいきった措置という印象。とうぜん反対もおおくあるわけだろうけれど、ただ、ふだんから伝統としてあれほどみんなが自由自由と口にしているアメリカという国(とばあいによっては欧州も)が、こういう緊急事態にはすみやかに、あまり躊躇なく個人の自由を制限しにかかるという、その転換のはやさは印象的ではある。それもまた伝統や制度のうちにくみこまれているのだろうか。そのあとは、カセットテープやラジカセがさいきんまた人気になってきているという話題が紹介された。Billie Eilishとか、カセットテープで新曲を売り出したりもしているらしく、若い世代でもわざわざカセットやラジカセを買うひとがいるらしい。いま音楽はだいたい配信サービスできかれ、データとしてすら手もとにのこらないようになっているから、そういうなかでメディアの物質的な側面とか、聞くまでに手間がかかる点とか、収録曲を書き記したりしてじぶんでテープをつくるというような身体性とかに惹かれるむきがあるようだ。
  • 新聞の文化面には大岡昇平高橋三千綱についてそれぞれ記事があった。大岡昇平は、戦争体験について聞いたインタビュー音声が読売新聞オンラインに公開されているという知らせ。高橋三千綱という作家はギリギリなまえだけ聞いたことがあってそれいじょうなにも知らなかったのだが、今年八月に亡くなっていて、「最後の無頼派」とか呼ばれていたらしい。とにかく酒を飲んだもよう。
  • (……)さんのブログを三日分読んだ。そのうちのどの日かの冒頭の引用。

 諸々の身体=形態の、ただそのように構築されているだけの連鎖を、私は「儀礼」と呼ぶ。
 私は、存在一般を儀礼的なものとして捉えている。
 世界が、メイヤスーの言うように非-必然的=偶然的な事実なのだとすれば、世界とは、最大規模の儀礼であると言える。自然法則とは、「存在論儀礼」である。自然科学は、その壮大なる儀礼の解読に他ならない——壮大だが、たんに形ばかりである儀礼の。
 物質自体が、儀礼的なものである(「世界の非理由、あるいは儀礼性」)。物質が存在すること自体にいかなる理由もないからだ(メイヤスーは、まったくの無からの発生という仮説を持っている)。ここから逆に、文化や社会における儀礼的事象は、物質性を呈しているのだと言えることにもなるだろう(「さしあたり採用された洋食器によって」)。
 諸々の身体=形態はそれ自体が儀礼的存在であり、また、それらのコミュニケーションも儀礼的なものである。儀礼的なコミュニケーション、それは「社交」である。
 レオ・ベルサーニによれば、社交とは、他者に対して全面的に関わることではなく、有限な側面だけで、自分を「以下」にして関わることである(「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」)。社交とは、「以下性 lessness」を工夫することだ。社交は、有限性自体への意識を賦活する。そしてベルサーニの論は、人間のみならず、事物一般の以下性にまで及ぶ。あらゆる事物は互いに以下的に、つまり有限に関わり合っており、だからこそ事物は複数存在するのだ、というのである。
 もし事物が全面的な関係のなかにあるのだとしたら、事物の区別はなくなるだろう。それは、接続過剰の状態である。以下になる=有限化とは、非意味的切断、意味がなく無意味な切断であり、それが事物の複数性を実現するのである。
 ここで、第三節で示した相対主義の構造について考察をさらに進めたい。いま導入した儀礼の概念がそれに関わってくる。
 改めて整理しよう。相対主義は、思考不可能な実在=〈意味がある無意味〉=xを拠り所にして作動している。xは、要するに、真理であると言ってもよい。誰も真理には到達できない。立場次第でxをめぐって色々な言明を言え、そのどれもが決定打にならない。どれもが決定打にならないから、特定の立場への「狂った」ようなコミットメントを決定的に退けることもできない。つまり、相対主義は、信仰主義に転化するのだった。
 さて、今日の相対主義批判者は、科学的なエビデンスにもとづき、世界について絶対的言明を言おうとする。だが、しばしばそれは十分に支持されない。なぜか。なぜなら、相対主義の構造がある状況においては、科学へのコミットメントも信仰主義と区別がつかないからだ。
 相対主義・信仰主義を退けるには、x=〈意味がある無意味〉=真理を消去せねばならないのである。それは、真理から事実への転換である——以上において「真理」と言っていたのは、正確には、「必然的にそうであること」であり、対して、いま導入した「事実」とは、「非-必然的=偶然的にそうであるだけのこと」である。真理=「必然的にそうであること」をめぐって生成される相対的言明、これを「解釈」と呼ぶことにしよう。相対主義を超えるとは、解釈の増殖を止めることだ。無限の多義性を止めることだ。〈意味がある無意味〉の消去だ。
 解釈が消える。人々が言明するのは解釈ではなく、事実、すなわち「非-必然的=偶然的にそうであるだけのこと」であることになる。xを消去しても、唯一の事実に対応した唯一の言明が得られるわけではない。相対主義が働いていた状況と同じく、齟齬する複数の言明が言われ続ける——だが、言明の複数性の存在論的な性質が変化する。複数の言明は、ひとつの真理をめぐる諸解釈ではなくなり、絶対的に「別々の事実」を言うものとなる。なぜなら、事実は偶然的なのだから、ある事実に対してつねに、それを否定するものも含め、別の事実への置き換え=分身がありうるからだ。このことは、メイヤスーにおいては、事実としての世界の変化可能性に当たる。
 これが、いわゆる「ポスト・トゥルース」の状況に他ならない。それは、真理=〈意味がある無意味〉が蒸発し、真理をめぐる解釈の増殖が止まり、齟齬する言明がそれぞれ別の事実を言っている状況だ。そしてそれが、〈意味がない無意味〉の側への移行なのである。
 ポスト・トゥルースとは、ひとつの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実と事実の争いが展開される状況である。さらに言えばそれは、別の世界同士の争いに他ならない。真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=世界のあいだで展開される。ポスト・トゥルースとは、真理がもはやわからなくなった状況ではない。「真理がわからないからその周りで諸解釈が増殖するという状況」全体の終わりなのである。そうなると、他者はすべて、別世界の住人である。まさしくこの意味において、あらゆる他者は何をするかわからない者なのである——私にとっての事実の端的さの外部から、別の事実の別の端的さによって、異質なる自明性によって、意味がなく無意味に私に接近してくる他者。
 ポスト・トゥルースとは、〈意味がない無意味〉の側への移行である。
 (…)
 もはや問題は、解釈の争いではない。世界と世界の争いである。そうなっているにもかかわらず、その状況を依然として解釈の争いとして見るならば、いかなる立場へのコミットメントもすべて信仰主義となり、何らかの有害な立場に対する科学的批判も信仰主義になってしまう。そうではなく、科学の言明も、その他オカルト的なものであれ何であれ、あらゆる立場はすべて偶然的事実の言明だと見なすというポスト・トゥルース状況の受け入れこそが、私の考えでは、相対主義批判の本質なのである。
 そこで問題となるのは、同じ事実をいかに共有するかである。たとえ科学的エビデンスを用いても、人々が同じ事実=世界を共有することを必然性として主張すると、信仰主義になってしまう。人々がある世界に共存することは、偶然的でしかない。偶然的に成立している共同性としての世界とは、儀礼的なものだと言えるだろう——真理による裏張りのない、ただそうであるだけの身体=形態の連鎖としての儀礼
 世界が複数化したポスト・トゥルースの状況においては、同じ世界=事実という儀礼へと人々を誘い込むようなふるまいが必要である。何らかの規範のごり押しではない。ある事実へのインビテーションが必要なのだ。それは、社交である。社交とは、異なる事実=世界のあいだですり合わせを行い、ひとつの儀礼をつねに未完のものとして、変化可能=可塑的なものとして構成し続けることである。
 前提として他者は別の事実=世界を生きているのだから、いつ裏切りが起こるかもわからない(=メイヤスーにおいて世界は、いつ豹変するかもわからない)。そうだとしても、別の世界に属する他者たちを、デリダ的に言えば「歓待」するのである。世界と世界の差異をまたいだ歓待が、相対主義批判の本質である。裏切りの可能性に耐えながら歓待すること、そのことが、儀礼の可塑性に一致している(「アンチ・エビデンス」)。
 真理による裏張りのない、ただたんに共にいるだけだという事実を組織すること、共存の時空を〈意味がない無意味〉にまで切り詰めること、それが儀礼である。
 (千葉雅也『意味がない無意味』より「意味がない無意味——あるいは自明性の過剰」 p.30-34)

  • この日のことをこの日のうちにあまり書けなかったのが反省点か。といって、休みの日なのでたいしたこともなかったが。あとそう、五時ごろに(……)さんから着信がはいっていて、なにかとおもえば、あした(……)にヘルプに行ってほしいということだった。了承。(……)さんは会議でたぶん教室には来られないというので残念。ヘルプはしょうじきめんどうくさいというか、勝手のわからないべつの教室ではたらくのにわずかばかりの緊張とか気後れをおぼえないこともないけれど、緊急としてたのまれちゃしかたないし、まあどうにでもなる。