2021/12/12, Sun.

 シジュフォスは、周知のごとく、滑りおちてくる岩塊を絶えず支えていることに、その生の条件を見出している。また、わが国の明治以後の伝統的な小説の主人公たちは、崩れ落ちた岩塊の下敷きとなった作家自身の、その敗北の意識を、心境的な [﹅4] と呼ばれる文体に包みこんでみせる手つきの鮮やかさに、その存在理由を求めていたということができよう。だが、安岡章太郎にあっては、その岩塊がどこにも存在しないのである。「順太郎もの」の主人公は、試験そのものをいささかも重圧とは感じておらず、合格するのも落第するのも、究極的には同じことだと考えている。つまり、岩を支えることも、支えきれずにおし潰されることも、世界の言葉を耳にしようとするものにとっては、さして重要な違いではないのである。安岡的宇宙には、世界の不条理が一挙に露呈されるような一点は残されてはおらず、だから徒労と呼ばれるものが、熱量の無駄な発散のあとに訪れるあの虚脱感をもたらすことはない。そこでは、行為は行為ならざるものと、運動は停止と、立っている姿勢は横臥のそれと、優位は劣性と、生産は消費とたちどころに融合してしまうの(end222)だ。そして、安岡章太郎の小説群には、価値基準の曖昧な崩壊からくる無節操な融合がいたるところにばらまかれている。安岡を真に安岡たらしめているものは、まさに、この類似と、転倒と、融合からなる徹底した差異の欠落ぶり [﹅7] なのである。
 (蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)、222~223; 「安岡章太郎論 風景と変容」; 「Ⅱ 中間層の彷徨者たち」)



  • 一〇時すぎに覚醒して、寝床のなかで深呼吸をくりかえす。一一時ぴったりに離床。天気はきょうもよく晴れていた。水場に行ってきてから瞑想。二七分くらい座った。上階に行ってゴミを始末したり急須の茶葉を捨てたりしたあと、冷蔵庫を見ると昨晩ののこりの肉や天麩羅があったのでそれらを皿に。ハヤトウリの煮物も。それぞれあたため、米とともに卓にはこんで食事。食べていると母親がはいってきた。あるいてきたという。(……)さんにひさしぶりに会ってきけば旦那さんはもう一年くらい入院していて、いくらかぼけてきているようだとのこと。どこまであるいたのかと聞くと、東の坂をのぼって(……)の実家の脇で折れ、もどってきて川沿いを行き、(……)も越えたさきからあがって帰ってきたと。あるくのは良いことだと賛同する。あるくことはつねに良いことである。人間あるけなくなったら終わりだから、とさらにつけたしておいた。ほか、したの元(……)さんの家に越してきたひとについて(……)さんから朝電話があり、まだあいさつにこないと言われたと。しかし組としてはうちの区分ではないらしいので、なんでわざわざうちにかけてくるの、と母親は文句を言っていた。むかしは新参者はおなじ組の家にあいさつまわりに行ったらしいが、もういまはそんなのねえ、ともらすので、同意して、そんなことはどうでもよろしい、と切っておいた。あと、山梨の祖母は状態がけっこうやばいらしく、さいあく脚を切断することになるかもしれないと。このあいだもそう聞かされて、状況がすすんだのかよくわからないが、その可能性がより濃厚になったということなのだろうか。父親はきのうから山梨か病院かに行っており、きょうだいたちとはなしあっているもよう。
  • 皿を洗って風呂も。風呂を洗うまえに蕎麦茶をいっぱい急須につくり、ポットに水を足そうと薬缶をもってながしに行ったところ、そのときテレビは『のど自慢』でシャ乱Qの"ズルい女"をうたったひとが、熊本県益城町の役場の水道課につとめていて地震後は水道をしらべて修復したりあたらしく管をひいたりはたらいたとかたっていたのだが(益城町は二〇一六年四月の熊本地震で被害の中心地だった地域である)、ぐうぜん地震が起こった。一二時三一分ごろだった。そこそこのゆれで、しかし持った薬缶にそそいでいた水はとめず、ながしによりかかりながらおさまるのを待った。ポットに水を足してから速報がでるだろうとテレビをながめていると、震源はわからないが茨城県北部あたりが震度四、我が家のあたりはたぶん震度三くらいだったかとおもわれた。それから風呂洗い。休みで余裕があるので、洗濯機に湯を汲みこむためのポンプや浴槽の蓋もあらって、ぬるぬるした感触をとっておいた。
  • 蕎麦茶を持って帰室。LINEにきのうの礼を入れ、ウェブを見てからきょうのことをここまで。一時半。
  • いま午後九時半で、書抜きをしていた。さきほど白湯を用意しにあがっていったところ、おばあちゃん、亡くなったって、と母親から知らされた。さすがにいますぐ死ぬとはおもっていなかったので、マジで、とおどろいた。その可能性をかんがえないわけではなかったが。それでさっそく、(……)さんに事情説明のメールをしたためておくっておいた。なんともめぐりあわせの悪いことだというほかないが、あしたから一週間、彼女は特別休暇で不在にするのだ。返信を受けて、あしたまでは出勤、水曜日と金曜日はやすむということになった。(……)先生にも事情の説明をおくっておいた。七時ごろ亡くなって、たぶん今夜は遺体を実家に引き取り、葬儀屋などに連絡して日程をはなしあうのはあしたになるのではないかというわけで、あしたじゅうに来いということにはならないだろうという予測である。もろもろのかたづけなんかも、ちょうど父親のきょうだいたちがそろっていたわけだから、人手は足りているはず。母親はもしかしたらあしたもうでむくかもしれないが。父親の連絡を待って勤務を休むかどうか決めるもよう。
  • いまもう一六日の木曜の夜で、法要をすませて帰ってきたあとなのだけれど、この日曜のことでおぼえていることはとうぜんもうほとんどない。記録によればHolly Williams, "How vaginas are finally losing their stigma"(2019/11/15)(https://www.bbc.com/culture/article/20191114-how-vaginas-are-finally-losing-their-stigma(https://www.bbc.com/culture/article/20191114-how-vaginas-are-finally-losing-their-stigma))や(……)さんのブログを読んではいる。おぼえていることは風呂のなかで祖母の死について多少かんがえたということで、訃報をうけたこの夜の時点で、かなしみやさびしさというたぐいの感情はまったく生じなかったのだけれど、風呂につかりながらそれをじぶんで認識した。急ではあったものの、もう九〇を越えていて(九二になる直前だった)いつどうなってもおかしくないといえばそうだったし、またふだんからいっしょに暮らしていたわけでもないので、明確なかなしみをおぼえなくともふしぎではない。ただ、父方の祖母のことは好きだった。ひとつ屋根のしたでともに暮らしていた母方の祖母よりもむしろ好きだったかもしれない。べつに母方の祖母のこともきらいだったわけではなく、ふつうに好きだったが、ふだんからちかくにいるぶん鬱陶しいということもあったわけで、父方のばあいはそういうぶぶんを見ることがなく距離があったからこそ孫に見せるよい祖母としての印象のみがのこって好意がおおきいようにかんじられる、ということだろう。とはいえ、山梨の祖母はじつにできた人間で、なにしろいちども怒ったところ、不快をしめしたところ、おおきい声を出したところ、子どもを叱りつけるところを見たことがない。悟りにいたったかのようなおだやかさと柔和さをつねにたたえており、こちらじしんも気をつかったり心配したり応援したりすることばしかかけられたおぼえがない。子は五人いてみなそだてあげたのだからまったく立派なもので、(……)じいさんが、こちらにはやさしい祖父としての顔しか印象にないけれど、酒飲みだからむかしはけっこう荒れたこともあったようだし、父親なんかも、じぶんの世代や家だと親父ってのはこわい存在で、食事のときにはなしかけることもできなかったといぜん言っていたから、まあ昭和的な家父長の典型的なイメージというか、頑固親父みたいなところもたぶんあったのだとおもわれ、(……)さんはそれで苦労したこともいろいろあったのではないか。ところで数年前に父親が、いままでの人生のことをちょっと書いてみてくれと言って祖母に来し方をつづらせたことがあって、何年かまえの日記にもそのことはふれているのだけれど、それがけっこういいかんじの文章で、戦争時に疎開に行くさい、(……)駅から列車に乗ったときに、おなじ車両にいた女子学生だったかが、なんじなんふん(……)発の列車で、みたいなうたをうたっていて、それでいまでもその時間をおぼえている、という内容がひとつには書かれてあり、じぶんはそのささやかな細部にかなり感動した。いまこうしてふたたび記していてもやはり感動するし、過去がたしかに存在したのだ、過去があり、ひとりの生がたしかに存在していたのだというすさまじいリアリティをおぼえる。あきらかに、小説家的な感性をもった人間にしかとらえることのできない世界の細部だとしかおもえない。だから祖母はたぶん、文章を書くという機会や習慣をあたえられれば、よい書き手になっていたのではないかととうじかんがえたものだ。
  • 風呂のなかではそういったことごとをおもいだし、そのあとで例のごとくじぶんもそのうち死ぬんだなあという感慨にながれたのだけれど、じぶんのばあいこのある種のメメント・モリは、それいじょうなんのおもいにもつながらない。ときにうすいむなしさや無常感をおぼえることはあるけれど、じぶんもそのうち死ぬんだなあ、から、だから精一杯生きなければならないとか、生きているうちにやりたいことをやらないととか、あるいは反対に、どうせ死ぬのだしてきとうにやればいいやとか、生なんてどうでもいいわ、とか、なんであれそういったべつの感慨がまったく生じてこない。じぶんもそのうち死ぬんだなあ、というそれじたいがそれだけでひとつの感慨となっており、いつもそこで停まってそれいじょうひろがらない。死ぬのが怖いというかんじもない。とはいえパニック障害の全盛期は心臓神経症があって、つぎの瞬間に心臓が破裂して(現実には破裂するというより、うごきが止まるとか、血管が詰まったり破れたりするとか、そのくらいのことしかないのだが、なぜかじぶんの恐怖のイメージは破裂だった)死ぬのではないかという不安に日々おそわれてねむれぬ夜をすごしたりしたし、鬱様態のときも死にたい死にたいとベッドに臥せっていながら橋から飛び降りることをかんがえるとこわくてとても実行にうつす勇気が起こらなかったりもしたのだが、いまはそういう恐怖がまったくない。ただこれはやはり、なんだかんだまだ若いから、じぶんの死というものがどうしてもかなりとおい気でいて、抽象的なイメージでしかないからだろう。じぶんの心身にもっと具体的な死の気配みたいなものが生じてくれば、やはりおそれるのではないか。それでいえばこの日風呂を出て洗面所でからだを拭いたり鏡にむかったりしているときに、身内の不幸というか、人死にというのはつづくものだ、という観念があたまのなかに浮かんで(それはもちろん迷信にすぎず、偶然を事後的にそういうふうに論理づけするという態度が一般化されてひとつの疑似法則のごとくいわれるようになっただけなのだが、こういういいかたやかんがえかたがある程度一般的な観念として流通しているようにもおもう)、それにつづいて、ではつぎに死ぬとしたらそれはじぶんではないか、という可能性も即座によぎり、その瞬間だけは死がすこしリアリティをおびてちかづいたような不安をかすかにかんじた。これはなかなかおもしろい。こういう理路はなんの合理的な根拠もない迷信なのだけれど、迷信であれなんであれそういうふうに論理のみちすじが引かれてしまったことで、抽象的なかなたにあったじぶんの死がともかくもいまのじぶんに接続してくるようにかんじられたということだろう。しかもその論理づけがなんの合理的な根拠もない迷信だからこそ、むしろそこに不安が生じるのだともかんがえられる。なぜならば、なんの合理的な根拠もない迷信だからこそ、合理的な論理でもってそれをかんぜんに否定しきることは不可能だからだ。