実際、『流離譚』の物語は、嘉助がどんな気持でそれに参加したのか皆目わからない「天誅組」の五条代官所焼打ちを語るあたりから、ほとんど嘉助の姿を見失っている。もちろん「武器取調方」というかなりの要職にあった嘉助のことだから、「天誅組」をめぐ(end264)る資料や文献にその名はきまって出てくるし、中には絵にまで登場しさえするのだが、われわれが感じとることのできるのは、意識も欲望をも欠いた曖昧な人影が移行するその運動の軌跡ばかりだ。また文献にあたってみても、高取城下のある町に夜討ちをかけたときの状況一つにしてからが、「諸説があって明らかではない」。正確な記録として残されているのは、攻撃の途中に立ち寄った酒屋で酒をのんで景気をつけた「二十四人」の氏名ばかりだ。天ノ川辻での指揮が嘉助に委されていたことを証言する資料は残されているが、そのあたりから、「その際、嘉助はどうしたかといふ記録はない」、「嘉助がこのとき活躍したといふ記録はない」、「はつきりしたことはわからない」、「そのどちらが正しいか、しらべることが出来ない」といった、わからないこと [﹅7] の確認ばかりが物語を活気づけることになる。当初、情報の不足に苛立っていたかにみえる作者は、いまや、そうした語り口こそが嘉助にふさわしいやり方だと確信しはじめでもしたかのように、むしろある種の誇りをもって否定的な言辞をつらねはじめる。その姿勢を、正確さを欠いた断言をさしひかえようとする慎重さととり違えてはならない。無知が確立した瞬間に語るのをやめるのが話者の条件であったり、その欠落を想像力によって補ってみせるのが小説家の手腕であると思われているとき、安岡章太郎は無=知によって語るというかつてない物語をつくりあげたのだ。知が切断され、連続性が失われるときに語り出される言葉を、彼は難儀しつつ語りながら捏造していったのである。そのことによって、『流離譚』は、いかにもそれらしい(end265)ルーツ探索の物語のいかがわしさを鋭く暴露してみせることになる。知らないが故に知ろうとし、知りえたことを誰もが納得しうる脈絡におさめた上で、そこに一人の人物を導入し、人が容易に同調しうるような心理だの性格だのを賦与し、その野心の挫折だの無私の精神の貴重さだのを涼しい顔で語ってみせるいかにも本当らしい物語が氾濫している中で、この切断と欠落と無=知による語りは途方もなく刺激的である。事実、読むものは、無=知が口にされる瞬間に何とも名状しがたい感動をおぼえるのだ。
鷲家口の戦いで捕えられ、負傷したまま、京都の「六角の獄舎」に収監される。「しかし、誰がどの牢に入れられてゐたかといふことはわからない」。この無=知の指摘によって、多くの書物がそれに言及していた「六角の獄舎」が、不意に生なましく迫ってはこないだろうか。また、「安岡文助の日記には、次男嘉助の処刑について何の記述もない」という一行は、いわゆる歴史小説にありがちな抑制の文体を越えて、歴史という語彙と小説という語彙とを安易に結びつけてしまう文学的な申し合わせを、不気味に動揺させてはいないだろうか。虚構 [﹅2] を前にした事実 [﹅2] の威力をいたずらに顕揚することもなく、歴史であるにしろ小説であるにしろ、いずれにしても物語られるしかないものが、その持続を、こうした欠落と切断に負っているという事実を、こうした一連の無=知が、生きる者のみに可能な繊細さをもって語っていはしまいか。知っていることはいささかも語る言葉を正当化したりはしないのである。
(蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)、264~266; 「『流離譚』を読む」)
- 一〇時半に離床。例によって起きるまでに深呼吸をながくつづけたので、からだのまとまりはよかった。瞑想はサボってうえへ。ジャージにきがえて屈伸をする。食事は炒飯ときのうの味噌汁ののこり。それぞれあたためているあいだにトイレに行き、もどってくるとさらに洗面所で洗顔やうがいなど。
- きょうの天気は曇りで、それもひかりがなくて寒々しい色に無性化されたほうの曇りで、かなり寒い。家のなかにいるときはほぼつねに裸足なのだけれど、廊下や自室のフローリングのうえをあるくと足の裏への刺激がつよかった。今冬いちばんの冷えこみかもしれない。食事をとるあいだ、新聞記事はほぼ読めず、どういうものがあるのか瞥見したのみ。きのうの夕刊で見た情報をもうここに書いてしまうと、アメリカで起こった竜巻の件があった。八州で五〇くらい発生したといい、死者はケンタッキー州だけで一〇〇人を超えそうだと。ケンタッキー州メイフィールドという人口一万人のちいさな町がもっとも被害を受けたようで、蠟燭工場が倒壊して生き埋めになっているひともいるもよう。同町に住んでいるひとの証言が載っていたが、竜巻を感知して知らせる警報というものがあるらしく、それが作動して接近を知らせたのでいそいで夫や一三歳の娘とともに地下室に避難した、まもなく停電が起こって室内は真っ暗になってなにも見えず、娘に大丈夫だからと声をかけながら竜巻がすぎるのをただ待ち、終わったあとに地下室から出てみれば家の二階部分があとかたもなく消え去っていた、どこに飛ばされたのかはわからない、というはなしだった。やばすぎる。
- 皿や風呂を洗って蕎麦茶とともに帰室。Notionを用意して、きょうはさいしょに音読した。「ことば」と「読みかえし」。よいかんじ。なにをやるにしても、とにかくちからを抜くにかぎる。とちゅうで買い物に出ていた母親が帰ってきたので上階に行き、裸足にサンダル履きで玄関を出て、石油のポリタンクをはこんだ。軽自動車の後部座席に置かれてあったものをまず取っ手を持って片手でもちあげ、それから両手でしたからかかえるかたちに移行し、重みをからだにかんじながらゆっくり勝手口のほうへ。あらかじめひらいておいた箱におさめる。室内にもどると買ってこられたものたちを冷蔵庫に整理。マクドナルドのチーズバーガーとポテトを買ってきてくれたので、ひさしぶりだなとおもいつつ食べることにして、バーガーひとつと取り分けたポテトを電子レンジであたためて部屋に持ちかえった。食ったあとに「読みかえし」ノートの音読をつづける。Ward Wilsonの、原爆ではなくてソ連の侵攻が日本の降伏を決定づけたのだという論考が主だったが、このあたりの知識は入れておいたほうがよいので、一項目二回ずつではなくてもっと読んでもよいのかもしれない。知識をおぼえようとなるとめんどうくさいからただ読むだけでいいというスタンスでやっていたのだが、やはりおぼえたいことがらにかんしては多少余分に読んでもよい。そのあたりも時々の気分にまかせる。
- 214から220まで。それからここまでつづって二時まえ。昨晩中に知らされていたが、祖母の葬儀は一六日の木曜日に決まり、その日だけで通夜もないし、どうやら一六日の午前に山梨にでむけばよさそうだ。たぶん手伝いにいかなくてもよい雰囲気で(この点はまだ確定ではないが)、ということはべつに水曜日と金曜日の勤務をやすまなくてもよかったようで、やや先走った感がないでもないが、いまさら撤回するのもそれはそれでまためんどうを生むだろうし、しごとがないことはいいことなのでやすませてもらう。
- その他、とくだんのこともなし。とおもったが、父親が帰ってきて祖母の亡くなるまでの経過についてかたられたのがこの夜だったはず。去年だか二年前くらいからからだがかゆいということをうったえていた祖母だが、それは胆嚢から胆汁を通過させる胆管がつまったことでなんとか性黄疸とかいうものになり、それでからだの内側から、内臓からかゆくなるという症状だったらしい。それにかんしてはなにか体内に器具を入れるとかで一時解決したのだが、多少再発したりとか、その器具をプラスチック製からべつのものに変えるとか、そういうこともあったようだ。またいっぽうで、先日から脚が痛いということも言い出して、その原因は脚の付け根の動脈に血栓ができてしまっていたからで、血管がまったくふさがったわけではなくかろうじてほそいながれがのこってはいたのだけれど、微々たるものだから、脚はもう黒いようになってしまっていたのだという(血栓ができたのは、黄疸関連で器具を入れるにあたって、ふだん飲んでいた血液のながれを促進する薬を止めていたのが影響したのだろう、ということらしい)。ただ、年齢もあり、またからだのなかがどこももうボロボロということもあって、手術はできない。だから薬でなんとかするしかないという状況だった。そうして一二月一〇日にまた説明があるからときょうだい四人そろって聞きにいったところ、さいごの手段としていわれていた脚を切断するということももうできないくらいの状態だとはなされたと。切ったところで、血流が弱すぎるということなのか、切断面がうまくふさがらず膿んでしまい、そこがまたわるくなって、細菌なんかが体内にまわって死にいたってしまうだろう、という見通しが説明されたらしかった。それなので、実質、もうなるべく苦しまないようにいろいろな投薬をしながら死を待つほかない、という状況だとそうはなされて、とはいえいますぐどうということではないのでその日はいったん帰り、じゃあこれからどうするか、ほんとうなら「(……)」にもどりたかったが、もっと設備のととのった施設にうつさなければならないか、と今後のことをはなしあっていたところが、一二日になって容態が急にわるくなったのできてほしいと連絡があり、かけつけた。そのときはもうくるしそうな呼吸をしており、また意識もあやふやで、声をかければいちおう反応は見せるものの、こちらをたしかに認識しているのかもあやしそうだったと。とはいえいちどもどることになり、(……)の家にいたところ、午後にまた連絡があってふたたびかけつけ、そのまま看取ることになった。さいごはしぜんに、だんだんと呼吸がちいさくなっていって、くるしそうなようすもなく息を引き取ったという。とつぜんのことではあったが、子どもら四人全員でたちあうことができたのはよかっただろう。ねむるように逝き、死に顔もおだやかだったというのでそれもよかった。脚を切るかもときいていたから、そうならないですんだのもよかったとおもったとこちらがいうと、父親は、それもそうだがいまは脚を切断してもサポートが充実していてわりとふつうに生きているひとはけっこういるから、じぶんとしては切ることになってもそれでいのちがつなげるならそうしてもらいたかった、ただ(……)さんは、いや、わたしは切ってほしくないと反対していたが、と笑っていた。