[『判断力批判』] 第一章の第一節「趣味判断は直感的なものである」をカントはつぎのように説きおこす。念のため引用しておく。
或るものが美しいか否かを区別するために、私たちは表象を、悟性をつうじて認識のために客観に関係づけるのではない。むしろ(おそらく悟性とむすびついている)構想力によって、主観と、主観の快あるいは不快の感情へと関係づける。趣味判断は、かくしてなんら認識判断ではなく、かくしてまた論理的なものでもなく直感的なものである。そのさい直感的ということで、それを規定する根拠が主観的 [﹅3] であるほかはありえないものが理解されている。表象が有する関係はすべて、感覚のそれであっても客観的なものでありうる(そしてそのばあい関係が意味するのは、なんらかの経験的な表象における実在的なものである)いっぽう、快不快の感情に対する関係だけはそうではない。後者の関係をつうじては、まったくなにごとも客観についてしるし(end14)づけられるところがないのであって、その関係にあっては主観が、この表象によって触発されるとおりにみずから自身を感受するだけなのである。(KU 203f.)
カントによれば「美しいもの das Schöne」を判定する趣味判断は、対象についてなにごとかを劃定する認識判断ではない。いま目のまえのなだらかな丘陵に見わたすかぎり草原がひろがっているとして、その草原の緑色は感官の対象であり「客観的感覚 [﹅2] 」にぞくしている。これに対してその色が快適であること、あるいは丘陵の起伏が意にかなって、美しく、その知覚に快がともなうことは「主観的感情 [﹅2] 」にのみ帰属する(vgl. *ebd*., 206)。後者は表象を客観に関係づける論理的判断ではありえない。それは、むしろたんに「直感 [﹅] 的 ästhetisch」なものである。
美しいものにかかわる趣味判断は総じて直感的判断である。その判断を規定する根拠は、一般に主観的なもの、主観の(快不快の)感情であるほかはないからである。そのような判断には、かくて「認識に対してなにごとも寄与するところがない」。判断はここでは、対象そのものにではなく、対象をとらえる認識能力に関係し、また認識能力どうしの関係にかかわっている。美しいものをめぐる判断は認識能力の次元へと回帰するものであることで、カントのいう反省的判断力にかかわる(vgl. 204)。反省的判断力については、第4章で問いなおされることだろう。
或るものが美しいと判断されるときに、その或るものは「適意 Wohlgefallen」の対象となる。(end15)適意とは快の一種であるけれども、とはいえ適意の対象となるもの、つまり意にかなう [ゲファレン] ものは、美しいものにはかぎられない。「快適なもの」も意にかなうばかりではない。「よいもの」もまた意にかなっている。このうちで快適であるものとは「感官にとって、それを感覚するさいに意にかなうもののこと」である(205)。そこには、当の対象の「現実存在」、つまりそれが現に目のまえに在ること、あるいはすくなくともその「表象」がむすびついている。快適なものは、その存在が望まれるものであるからだ。快適なものの適意には、ひとことでいえば「関心」がむすびあっているのである(vgl. 204)。
たほう、よい [﹅2] ものとは「理性を介して、たんなる概念をつうじて意にかなうもの」にほかならない。なんらかのものはなにかべつの [﹅6] もののために良い。すなわち「有用」である。それはたんに「手段」として意にかなっている。いっぽう、世界のうちにはそれ自体として [﹅7] 善いものが存在している。後者であれば、「それ自身だけで意にかなう」ものである。それでも、この適意にもまた関心がまとわりついている。良いものであれ、あるいは端的に善いことがらであれ、それは「現に存在すること」が期待され、また希望されるものだからである(207)。生存のための手段であるならば、それはときに切望される。絶対的に善いものであるとすれば――ちなみにカントによれば「およそ世界のうちで、そればかりかこの世界の外部にあってすら、なんら制限もなくよいとみとめられるものとしては、ただひとつ、善い意志のみが考えうるだけである」(GMS(end16) 393)――、人格に対して一箇の「絶対的な価値」を与えるものとなることだろう。それは快適なものの総体である「幸福」とはことなり、「無条件的に善である」ものなのだ(以上、KU 208f.)。
(熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』(講談社、二〇一七年)、14~17; 「第1章 美とは目的なき合目的性である」)
- 九時半ごろに覚醒。夢をみていた気がするが、もうわすれた。しばらく深呼吸をして気力をひきよせる。カーテンをひらくときょうも空気はあかるく太陽は見えるものの、いまはまだら状の雲もうっすらと敷かれていて、きのうまでよりややあかるみの弱い天気だった。九時五〇分になったところで起き上がり、水場に行ってきてからきょうも枕にすわって深呼吸。さいきんは起床後に無動式の瞑想ではなく息をながく吐き出す呼吸法をやる習慣になっているのだけれど、からだをほぐしたり意識をはっきりさせたりする効果でかんがえるとこちらのほうがうえなのでそうなった。ほんとうは非能動性としての瞑想をやる時間もとりたいのだけれど、いまは呼吸法のほうに気がむいていてそちらばかりやっている。ひとまずそっちを優先して心身をより高度にととのえる習慣にしていき、そのあとで瞑想もおのずとはいってくるかどうか、というところ。きょうは、この起床後の深呼吸のときについでに音楽もきけばよいのでは? とおもって、Sam Wilkes『Wilkes』をききながらやった。Louis Coleのドラムがいちばんめだつ。とおもったのだがいましらべてみたらドラムはおもにChristian Eumanというひとがやっているようで、Louis Coleがドラムでクレジットされているのは#4 “Tonight”のみだった。ほか、Sam Gendelがアルトで、いちぶギターがはいっていたり、Sam Wilkesじしんがベースだけでなくいろいろ弾いたり打ちこんだりというかんじのよう。主役というかソロを担当するのはもっぱらアルトサックスで、曲によっては左右でオーバーダブしてバトル的なかんじをちょっと出していなくもなかった。Sam Gendelのサックスは音出しがやわらかくなめらかで、フレーズとしてもほとんどアウトせず、叙情に寄りもせず、ひかえめなメロディアスさでするするながれる。アンビエント的な質感が全篇にわたって中心的で、音空間はどの曲も靄がかってこもったような手触りになっており、ドラムはそのなかでけっこうたたくけれど(とくに#5の“Hug”がいちばんアグレッシヴにバシャバシャやっていたはず)、それも霞のなかにつつみこまれてはげしさやするどさが抑えられ、角が立たないようになっている。「グルーヴを手に入れたFennesz」みたいな評言をTower Recordsだったかdiskunionだったかのページで見た気がするが、わからないでもない(Fenneszは『Venice』しかきいたことがないが)。曲構成は冒頭の”Welcome”(Coltraneの曲)をのぞいてどれも八小節とかそのくらいのみじかい枠組みをループさせるたぐいのもので、だから基盤的なぶぶんでは展開はなく、さだまったその反復単位のなかでどう足し引きして発展させるか、というものになっている(伝統的なジャズもそうといえばそうだが、くりかえしの単位がよりみじかく、ちいさくなっている)。
- 終えると一〇時半。上階へ。ジャージにきがえて屈伸。うがいなどして食事。カレー。新聞一面、オミクロン株の市中感染が東京都内でも発見されたと。五〇歳代の男性医師。一六日だったかに帰宅後に発熱し、一七日に入院、ゲノム検査でオミクロンと判定されたと。直近に渡航歴はなく、感染経路は不明。都内の一日の新規感染者数は増えてきているし、たぶんきょうから続々とオミクロン株の感染が発見されていくだろう。市中感染が見つかっているのはいまのところ大阪、京都、東京の三都府で、大阪や京都ではきのうまでの情報にくわえてあたらしい感染者が発覚してもいるよう。あと山口県の岩国基地でも発見されているというが、これは市中感染にあたるのか? 市中感染ではなく、海外から帰ってきて隔離されているひとなどでは、もっとおおく見つかっているもよう。大阪、京都、沖縄につづいて東京都も希望者に無料でPCR検査を提供する方針。
- 北京オリンピックをめぐる「外交的ボイコット」の件では、米国などと歩調をあわせて日本も閣僚などの代表団はおくらないことに決定したと。日本オリンピック委員会、パラリンピック委員会の長や、橋本聖子オリンピック担当大臣は出席する。中国に配慮して「ボイコット」ということばをつかうのは避けるという。その中国では、南京事件について政府見解とあわない発言をした女性教員が精神病院に入院させられたという事件が起こっているらしい。女性は湖南省のひと。まず上海の職業訓練学校だかのべつの女性教員が、一四日だったかに、南京事件の被害者は三〇万人であるという公式見解について、データの裏付けがないと授業内で発言したところ、生徒が撮っていたらしいその授業の動画がネット上に出回り、それによってこの上海の教員は解雇だかになった。で、湖南省のひとはSNSじょうでこのひとを擁護し、まちがっているのはかのじょではなくて政府や、動画を撮った生徒や拡散させた人間である、と発言したところ、むりやり入院させられるという事態になったらしい。当局は、かのじょは精神疾患をかかえており、親族の意向で入院させることになったと表明、また、不適切な発言があったとして調査する方針だと。あいかわらずとんでもない国だ。
- 皿を洗い、風呂も洗って白湯とともに帰室。あたたかい湯をちびちび飲みながらウェブを見ていると母親が来て、布団にカバーをつけるのを手伝ってくれというので寝室へ。二八日から兄夫婦が来るというので(……)さんが寝るための布団としてそれを用意するらしい。ふくらみのあって厚い羽毛布団をカバーのなかにおさめて、ベランダに干しておいた。もどるときのうのことをしあげて投稿、さらにきょうのことをここまで記して一二時半。きょうの労働は二時。
- 勤務の時間までは『ボヴァリー夫人』を読み進めたり、ストレッチをしたりしたとおもう。一時半ごろから準備。ちいさなおにぎりをひとつつくって食べて、服をきがえ、出発へ。父親はソファで布団を口のあたりまでかぶってまどろんでいた。母親はなにかしらやっていたはず。
- 空にけっこう雲が朦々としたかんじで湧いて、陽射しがとぼしくなっていた記憶がある。北側をみあげればおおきな雲の輪郭線のきわなど、空の青が端麗な濃さできりっと締まって、あまり冬らしくもみえなかった。木の間の坂をのぼって駅へ。乗って着席。瞑目。なぜかこの日は電車内でちょっと緊張した。からだが不安定で、呼吸をしていると吐くほうと吸うほうの切り替わりの一瞬にごくちいさな恐怖感のひとしずくがはさまる。パニック障害の全盛期も、もちろん程度ははるかに甚大だが、おなじかんじだったなとおもいだした。着いて降りると職場へむかう。
- (……)
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- 帰路はなんだかんだやはり寒い。帰宅後はたいしたこともなし。Cath Pound, “The images that fought the Nazis”(2020/7/14)(https://www.bbc.com/culture/article/20200713-the-images-that-fought-the-nazis(https://www.bbc.com/culture/article/20200713-the-images-that-fought-the-nazis))を読み、熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』(講談社、二〇一七年)を書抜き。風呂にはいるくらいまではからだの感覚としてもまだ行ける、というかんじなのだけれど、風呂を浴びてもどってくるとなぜか脚が重たるいようになっており、それを解消してから日記を書くなり本を読むなりしようとおもうところが、ベッドに転がって『ボヴァリー夫人』を読んでいるうちにまた意識をうしなっていた。さいきん毎晩のようにそうなっている。気づけば四時。やむなく就寝。