2021/12/27, Mon.

 カントが「趣味判断の第二の契機」としてとり上げるのは、その「量」である。質の契機としてあきらかとなったとおり、「いっさいの関心を欠いている」趣味判断にとって「適意の対象」(end19)となるものが美しいといわれる。ところで、或るものに対するだれかの適意が、じぶんにとってあらゆる関心を欠落させたものであることを意識する者は、その対象が「だれにとっても適意の根拠をふくんでいる」と判断せざるをえない。
 快適なものであれば同時に欲求の対象であり、関心を引くものであるなら、それは判断する者の [﹅6] 現在とかかわっている。その現在は、あらゆるひとにとって現在 [﹅2] であるとはかぎらない。純粋な趣味判断によって対象を美しいと判断するばあいにひとは、その判断がたんに「直感的」な、それゆえに判断する「主観への関係」をふくむにすぎないものであるにもかかわらず、「あたかも美が対象の性状であり、その判断が論理的なものであるかのように」語らざるをえない。かくて「趣味判断はいっさいの関心から分離している」と意識されているかぎり、美しいものをめぐる判断は「万人に対する妥当性への要求」、つまり「主観的普遍性への要求」がともなっていると言わなければならないのだ(以上、 [KU] 211f.)。
 快適なものをめぐる判断と、美しいものにかかわる判断とのあいだの決定的な差異が、ここにも存在する。テクストを引用する。美しいものと快適なものを比較し、とりあえず後者の徴候をカントが挙げようとしている部分からの引用である。

 快適なものにかんしてなら、だれでも弁えていることがらがある。それはつまり、みずから(end20)の判断は個人的な感情にもとづいており、その判断をつうじてじぶんが対象について語るのは「それが本人にとっては意にかなう」ということであるかぎりで、ひとえにまたじぶんという個人に制限されているということである。それゆえ、かれは「カナリア産のぶどう酒が快適である」と口にしたときに、べつのひとりがかれにその表現を訂正して、「私にとっては [﹅6] 快適である」と言うべきなのだと注意しても、そのことにまったく不満はいだかない。そしてこの件は、ひとり舌や口や喉の趣味〔味覚〕にあってばかりではなく、目や耳に対して各人にとって快適であるようなものについても同様である。ある者にとってすみれ色は穏やかで愛らしく、べつの者にとっては生気なく死んでいる。あるひとは管楽器の音を好むいっぽう、べつのひとは弦楽器のそれを愛好するのである。こうしたことがらをめぐって争いをかまえて、私たちのそれとはことなる他者の判断を、あたかもそれがじぶんの判断に論理的に対立するものであるかのように「正しくない」と罵ろうとするのは、愚かなふるまいというものだろう(212)。

 快適なものの判断をめぐってだれかを批難し、他者たちと争うことは愚劣である。なぜなら、しょせん「各人はみずからに固有の(感官の)趣味をもつ」ものであるからだ。その意味では「私にとっては [﹅6] 快適である mir angenehm」という表現こそただしく、意義を有する。美しいものにかんしてならば、そうではない。たとえば、風景、建物が、また衣服が、演奏や朗読などが(end21)「私に対しては [﹅6] 美しい für mich schön」と語ることで趣味を誇示しうると考えるならば、それこそが嗤うべき誤解であろう。たんに当人の意にかなうものについてなら、それを「美しい」と称することは許されない。美はむしろ「あたかも事物の性質であるかのように」語られる。要するに「そのものが [﹅5] (die Sache)美しい」のだ。美をめぐる判断は他者たちの同意を要求するものなのだから、「だれであれ、みずからに固有の趣味をもつ」と語ることは、「そもそも趣味などというものは存在しない」と断言することとひとしい(212f.)。
 主観的 [﹅3] 普遍性ということばは、注目にあたいする。ふつうのいみでの普遍性 [﹅3] 、つまり客観的な普遍性であるならば、そのいわば「起源」ははっきりしている。共通した概念にもとづいた原則にしたがう判断、たとえば原因性の原則にしたがった判断であれば、それは客観的 [﹅3] に普遍妥当的なものでありうる。くだんの起源は概念にあるわけである。趣味判断は対象への適意をあらゆるひとにあえて要求するものでありながらも、「その適意は概念にもとづくものではない」。概念にもとづくなら、その適意は美ではなく、有用性と善とに向けられたものとなるだろう。
 とはいえたほう、美しいものにかかわる判断は、普遍性への要求を手ばなすこともできない。普遍妥当性を求めないなら、美ということばを使う必要はない。むしろいっさいを快適なものと見なしたほうがよい。だれかにとって快適なものは多かれすくなかれ、ほとんどのひとにとっても快適である。にもかかわらず、ひとはこの次元での快不快をめぐって、他者たちの同意をこと(end22)さらには要求しない。逆に美しいものにかんする判断は、じっさいにはときとして他のひとびとの同意を獲得できないことがある。それでも「美しい」ということばを使用する以上は、ひとはみずからの趣味判断をめぐって万人の一致を期待しているのだ(以上、213f.)。普遍的な同意とはかくしてとりあえず「たんなる一箇の理念にすぎない」。美 [﹅] ということばが使用されることが、それ自体として、問われているのが(同意する者たちのあたま数という、ただの事実 [﹅2] ではなく)理念 [﹅2] であるしだいを告げているのである(vgl. 216)。
 (熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』(講談社、二〇一七年)、19~23; 「第1章 美とは目的なき合目的性である」)



  • 一〇時すぎに起床。快晴。水場に行ってきてから瞑想。きょうは音楽を聞く気にならず。深呼吸をしばらくしたあと、呼吸をしぜんにまかせて静止する時間もつくった。それはそれでよい。上階へ。母親はしごとに出ており、父親は掃除のつづきをやっているよう。寝床にいるときから窓を拭くかなにかしているらしい音がきこえていたが、じっさい窓ガラスは南も東も曇りなくきれいになっていて、ふだんは東側のカーテンはレースにとどめてすべてはあけないのだけれど、いまはレースもあけてあって澄んだ景色がよくみえる。晴天のもとで蔭の青さや樹々の色など明暗がきわだつくっきりとした風景であり、林の縁の緑色がさわさわとこまかく泡立つように震動しているから風もすこしあるようだ。
  • ハムエッグを焼いて米にのせ、きのうの味噌汁とともに食事。新聞は国際面。ミャンマーで国軍と少数民族武装勢力の戦闘が激化しており、市民が巻きこまれていると。東部カヤ州では武装勢力側が声明を出して国軍の行為を非難。ある村での戦闘のさいに、女性や子どもが乗りこんで逃げようとした車両に国軍がガソリンを撒いて火をつけたと。そういったことなどで市民三〇人が犠牲になっているらしい。おなじく東部のカレン州でも空爆などおこなわれているようで、国境を越えてタイに逃げるひとも数千人規模で発生しているもよう。
  • アフガニスタンではタリバンが旧政府の選挙監督組織(「独立選挙委員会」というなまえだったとおもう)を廃止した。米欧主導で設置されたもの。また、勧善懲悪省によって、車の走行中に車内で音楽をかけることが禁止され、礼拝の時間には停車するよう規則がさだめられたと。ほか、フランスの大統領選にかんしての記事。左派がどの候補も低迷しており、統一候補を立てないと存在感をしめせずに終わりそうだが、左派内でもへだたりがあって賛同はひろがっていないと。直近の世論調査ではマクロンが支持率二〇パーセント、共和党ヴァレリー・ペクレスが一六、エリック・ゼムール一四、マリーヌ・ル・ペン一三となっており、左派ではジャン=リュック・メランションが一二パーセントでいちばん支持率が高いらしい。パリ市長で社会党のアンヌ・イダルゴはわずか二パーセントだし、ほかも一桁。イダルゴが統一候補への呼びかけをしているのだが、緑の党のひととメランションはじぶんが窮地を脱したいだけだとか下手な芝居だとかいって反対している。富裕層への減税などもっとも基本的なところでは一致できても、政策のちがいもけっこうあるようで、とくにメランションは反EUでフランスの主権を強化したいたちばだ。主要候補ではエリック・ゼムールがマリーヌ・ル・ペンより高くなっているのが意外といえば意外で、極右二陣営が糾合したら決選投票にのこりそうだが、そう単純に合算できるのかもよくわからない。『女になりたがる男たち』なんていう本(邦訳されている)を書いているのを見るかぎり、ゼムールは男性中心主義的なかんがえだろうから、その支持者も同様と想定すれば、女性であるマリーヌ・ル・ペンを大統領にしたくはないだろうし、ル・ペンのほうだっていままで地道に活動して支持をひろげてきた歴史(なにしろ父親の代からである)があるわけで、そこをぽっと出の人間にゆずりたくはないだろう。
  • 皿と風呂を洗って白湯を持って帰室。きょうのことをここまで書いて正午。きょうあしたは労働がながいが、あしたまで行けば年末年始の休みにはいりはする。
  • きのうのことも書いてしあげた。それから出勤まではおおかた職場からコピーしてきた現代文のテキストを読んだり、共通テストの問題(英語リーディング)を読んだりでつきた。二時まえに洗濯物を入れてたたむ。陽がまぶしくてベランダの戸口に立つと目をほそめずにはいられない。オーブントースターに朝からたらこがはいっていたのを炙って白米とともに食した。それで米がなくなってしまったのであたらしく磨いでセットしておき、身支度。
  • この日はもう一回排便したのだけれど、勤務がながいから出勤前にもできれば出しておきたいしなんとなくそんな雰囲気をかんじてトイレにはいったものの、けっきょく出ず。それで余計な時間をつかい、出発は三時すぎ。晴れ晴れしい空。坂の入り口にはまだ日なたがあって、はいれば背がおだやかにあたたかいが、行く手はもう青いような蔭がおおくてあかるみはすぐにとぎれている。晴れていても空気はかなりつめたく、風も寄せるが、コートにストールの防備で身内までははいりこんでこない。マスクをつける習慣になってひとつよいことは、顔への寒さをすこし防げることだ。きょうはとくにいそがず、ゆるやかな調子であるいていく。めんどうくせえなあというかんじがあって、テンションはあまりたかくなく、どちらかといえば倦怠気味だった。裏通りにも日なたのひらきはとぼしくて、たまに家並みのあいまを縫ってくるひかりが路地の北側の端にはみだして塀にこちらの影を呼んだりするが、それもみじかい。北側にならぶ家々はそこそこ陽をかけられているもののそれも半端で、そのさらにむこう、線路を越えて林縁の家やその背後に伸び上がる丘のみがまだあかるさにつつまれていた。
  • きょうはべつに尿意も便意もとくだんなかったのだけれど、(……)にはいって用を足した。いちおう個室にはいって腰を下ろしたが、腸はあまりうごかなそうだったので小便しただけですぐに退出。そうしてのこりの道を職場までたどり、勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)その後、ともに退室。一〇時まえ。駅へ同行。(……)のことなどはなしながらホームに移動し、(……)が一〇時三分だかでまもなく発車しそうになったので、乗ってくださいと言って別れ。いちおうその場で待ち、発車してながれていくすがたに会釈をして見送る。その後やってきた電車に乗って帰路へ。