2022/1/6, Thu.

  • 「読みかえし」、265番。「愛撫とは、それ以上ではありえないというほどにそこにあるものを、不在として索めつづける憔悴なのである」なんて、ちょっとかっこういい言い方。

 愛撫される皮膚は、生体の防御壁でも、存在者のたんなる表面でもない。皮膚は、見えるものと見えないもののあいだの隔たり、ほとんど透明な隔たりである。〔中略〕〈近さ〉の測りがたさは、認識と志向性において主観と客観が入りこむ接合とは区別される。知られたものの開示と露呈を超えて、法外な現前と、この現前からの退引が、不意に驚くべくもたがいに交替する。退引は現前の否定ではなく、現前のたんなる潜在でもない。つまり、想起によって、現勢化によって回収可能なものではない。退引は他性なのであって、相関者との共時性において総合へと集約されるような現在あるいは過去とは、共通の尺度を欠いている。〈近さ〉の関係は、まさにそれゆえに離散的なものなのである。愛撫にあっては、そこにあるものが、そこにはないものであるかのように、皮膚が自己じしんの退引の痕跡であるかのように、探しもとめられる。愛撫とは、それ以上ではありえないというほどにそこにあるものを、不在として索めつづける憔悴なのである(143 f./171 f.)。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、248; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」; 『存在するとはべつのしかたで』より)

  • 一一時まえに離床。九時くらいから覚めてはいた。一〇時くらいに意識がわりとかたまり、呼吸をくりかえしてからだをあたためた。起きてからは瞑想。二五分ほど。
  • きょうは純然たる曇りで、雪が降るとかいわれているらしいが、たしかにひじょうに寒く、降ってもおかしくはなさそうな空気感。食事を終えてもどってくるときにも、冷えたフローリングのうえをあるく裸足の裏がじりじりするくらいだった。上がると寒いなかでジャージにきがえ(窓外の空は一面真っ白にくすんでおり、風の気配はみられず、寒々しくしずまった地上にうごきはまったくない)、うがいをよくおこなう。食事はきのうの残り物。豚汁や肉炒め。新聞は国際面のあたらしい家族のかたちみたいな連載を読んだ。きのうの夜にも読み、きのうの記事ではイスラエルのゲイカップルのことが記されていた。イスラエルではユダヤ教が同性愛をタブー視しているから風当たりはつよく、同性婚も法的にみとめられていないのだが、抜け道も用意されていて、同性婚がみとめられている外国で結婚してもどってくれば権利は保証されると。代理母による出産も同様。それはショアーがあったのでイスラエルでは子どもをおおく産んで人口を増やすというかんがえが奨励されているからだといい、平均してひとりの女性が生涯に三人くらいの子どもを産むというデータがあるらしい。きょうの記事はドイツの共同住宅というか、「多世代の家」といって知らない者同士があつまってつくった小共同体みたいなものの紹介で、ベルリン市内南部の町にあるそれがとりあげられていた。創立者によればさいしょはヒッピーがコミューンでもつくるのか、うまくいくわけがない、などといわれていたが、もう一七年つづいていると。公有地を共同で買い上げて家を建てたり中庭をつくったりして一〇世帯だかがさいしょにはいり、そこから拡大していまは七〇人ほどが住んでいるとあったか。住民は頻繁に中庭とか共同のばしょにあつまって交流し、問題があればその都度みなでしっかりはなしあって解決したりものごとを決めたりしていくと。もちろん衝突もあり、家族ではない他者とともに暮らすことはうつくしいことであるいっぽう、痛みをともなうこともあると住人は口をそろえて言うのだが、そのなかで妥協と寛容をまなんでより親密になっていったのだと。記事のさいごで、わたしたちは家族みたいなものです、という言があったが、家族そのものよりも「家族みたいなもの」のほうがよっぽど好ましいなとおもった。
  • 風呂を洗い、蕎麦茶とともにもどるとLINEをひらき、(……)確認して返信。その後、「読みかえし」。二項目のみかるく。それからここまで記せば一二時四六分。
  • きのうの記事を書いて投稿し、ちょうど一時間。すなわち、一時四五分にいたっている。沖縄では新規感染者が九八〇人出て、過去最高を更新したらしい。
  • 雪が降ってきた。そこそこの量。空中が白く埋まってかすむくらいには降っている。うすく積もるかもしれない。
  • 軽くストレッチ。その後あがっていくと、買い物から帰宅していた母親が、雪が降ってきたよと。送っていってあげようかというので、甘えさせてもらうことに。きょうは電車で行くと余裕がないのであるいていこうとおもっていたのだが、雪の降る寒さではその気も失せる。三時半ごろ出ることに。炒飯と即席の味噌汁を用意して(炒飯を電子レンジで加熱しているあいだに洗面所で髪を整えた)、部屋に持ち帰って食事。すませてかたづけてくると、カール・ゼーリヒ/ルカス・グローア、レト・ゾルク、ペーター・ウッツ編/新本史斉訳『ローベルト・ヴァルザーとの散策』(白水社、二〇二一年)をすこしばかり読んだ。三時ごろにいたって身支度。ひさしぶりにうたをうたいたいような気になって、曲をながしてちょっとくちずさんだ。Oasisの”Married With Children”と北川修幹。Amazon Musicで検索するといままでみたことがなかった北川修幹のアルバムが出てくるようになっていた。『preserved flowers』というやつ。しかしこれは新作ではなくて、二〇一六年のデビューアルバムのようだ。
  • 居間にあがって窓際に立ち、雪の降るさまをしばしながめる。すぐ目のまえの窓ガラスをはさんだ至近で視界の左上から絶えず白片があらわれては右下にむかってながれつづける。視界の端から粒が闖入してくるさまに、視覚が一瞬押されたような刺激を目につぎつぎとかんじる。雪のながれかたはどこをとってもさほどの差異はないものの、なかにいくつか、ほかよりも緩慢にゆったりと落ちていくものたちが定期的にあらわれる。畑の野菜や草のうえには白さが乗せられて地を染めているけれど、道路のうえに色が溜まるほどのいきおいではない。風の気配はかんじとれずシュロの葉がくすぐったいように身じろぎするのみで、梅のほそい裸木も角度が急でないものは器用にうっすら雪を乗せて片面を白く塗られており、虫がとおるための道を舗装したかのようだった。
  • 出発。傘を持つ。車の後部へ。寒いので脚を組み、コートのポケットに両手を入れて息を吐く。せっかくの雪なのでよくみえるようにと眼鏡をかけた。まずガソリンスタンドに行って給油したいとのこと。車内のBGMはRoberta Flackで、発車したときにかかっていたのは”Will You Still Love Me Tomorrow”。Carole Kingが『Tapestry』でやっているので知った曲。そのつぎは”Where Is The Love”で、これはJohn Legendが『Live From Philadelphia』のたしか八曲目でCorrine Bailey Raeをまねいてやっていたので知っている。オリジナルはたぶんこのFlack版なのだろうか。男性ボーカルもはいっているが、それはおそらくDonny Hathawayか? そのつぎが有名な”Killing Me Softly With His Song”だった(ネスカフェのCMにつかわれていたはず)。そのころにはガソリンスタンドをあとにして市街のほうを走っていたが。このサビのメロディーとコードのながれはやはりメロウでなかなかたいしたものだなとおもった。道中母親は宅配業者をみつけて、メルカリでたのんだのがいま来るかなともらしていた。入れ違いになってしまったかという危惧である。ガソリンスタンド(「(……)」)につくと窓をあけて顔なじみのひとに新年のあいさつをしていた。給油や窓拭きのあいだはずっと運転席横の窓をあけているので寒かった。給油量は三〇〇〇円分だけ、とたのんでいたが、いつもそうで、三〇〇〇円しか入れないの、とじぶんでとりなすように笑っていた。そうして市街のほうへ。職場付近でおろしてもらい、礼を言って傘をひらき、勤務地へ。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 駅へ。降りはやんでいた。改札をくぐったあたりで接続電車が来たのでやや急ぐ。階段も一段飛ばしでのぼって乗車。すわって息をととのえながら最寄りに着くのを待つ。ホームには雪がほんのすこしまぶされており、除雪剤の白い粒もあたりに撒かれてあった。なぜかある地点をさかいに雪は消えている。駅を出て木の間の坂にはいっても路面に粒が散らばっていて、靴裏がそれを踏みにじる音がしずかな夜の空気のなかにジャリジャリとひびくが、このあたりまでだれが撒いたのだろう? 駅のそばではあるものの、スタッフがそこまでやるものだろうか? 役所のほうで人員が派遣されたりするのだろうか。きょうは時間がなかったので職場で眼鏡をはずさずそのままで来たが、マスクのために吐息でレンズがくもり、下の道に出るとそのくもりのなかで街灯がクジャクの羽のように緑や赤も混ぜた多層光暈をひろげている。視界をにごされて道のさきは見通しづらいが、車が一台やってくるとそのフロントライトもおなじ多色の暈をともない、くもりをおしのけるようにはしってきて、さいしょは円がひとつだったのにちかくなるといつのまにかそれが分裂してふたつ目のそれぞれが周囲をいろどっていた。
  • 帰宅。手を洗って帰室。さすがにさむかったのですぐにスーツを脱ぐ気にならず、ヒーターを身のちかくに引き寄せて点け、ベッドにこしかけて熱線にあたりながら両手をこすりあわせた。その後きがえると、さっそくきょうの日記をつづった。勤勉なしごとぶり。しかしとちゅう、勤務時のことを書いているあたりで背がこごったのでベッドにたおれてしばらく休み、それからまた書き足して、職場でのことまで終えると食事に行った。セブンイレブンのコロッケや炒飯ののこりや豚汁的な汁物のたぐいなど。夕刊一面に、沖縄県は六日に新規感染者が九八〇人ほど観測される見込みと発表し、蔓延防止等重点措置の適用を政府に要請したと。ほか、広島と山口県の二件もいちぶ地域にかんして要請しているとか。政府は七日に適用を決定する予定。沖縄ではキャンプ・ハンセンなどの米軍基地から市中に感染がひろがったと見られるが、山口県でも岩国基地からの拡大とかんがえられているらしい。テレビは『櫻井・有吉THE夜会』で、友だちの家でやる気楽なパーティーみたいなことをやっていた。簡易燻製器でポテチを燻蒸したり、「ito」というカードゲームをやったりなど。このゲームは、参加者がそれぞれ一から一〇〇までの番号が書かれた数字を引き、出されたお題(このときは「美味しい食べ物」と「いま欲しいもの」の二例がおこなわれていた)にあわせてその数字(お題にどれだけちかいかをあらわす指標もしくは点数ということになる)にたとえ(「ビーフシチュー」とか「ゴーヤ」とか「空気清浄機」とか)をあてはめたあと、みんなではなしあって数字がすくないとおもわれるひとから順番にカードを公開していって、見事にすくない順になれば成功、というものだった。
  • 食後、緑茶をつくって持ち帰り、ここまで日記を加筆して一一時半。勤務があったのに当日中に現在時に追いつくことができた。すばらしい。
  • 入浴。湯のなかにすわって目をつぶっていると浴室内の音が四方から湧き寄ってきて、おおかたは換気扇の持続的なひびきなのだが、換気扇と一口にいってもそのなかに三種類くらいの音響が混ざっているようだ。プロペラのうごきや壁の内に配されている機構の駆動など、いくつか音源があるのだろう。なかに低く鈍いうなりがあって、広大な空を行く高所の飛行機からはるかにつたわってくるようなかんじでもあり、もっと拡張しておおげさにいえば無窮の宇宙を運行する星々の音をイメージさせるようなひびきだった。ほか、たたんである蓋から湯面に水滴が落ちてたたく音がときおり混ざり、タイマー式の換気扇がとまってからシャワーをつかうと、もういくらかがたついているようでそのヘッドからしずくが漏れて落ちる打音が小刻みに立つ。てきとうにあたまのなかで短歌をもてあそんだ。
  • 作:

 狐火のひとつきりのがゆれもせず地球のように無情に燃える

 亀の目になみだを見たか堕落したひとのかわりに泣いているのだ

 鶏肉のようなピンクの未来児に道をおしえてもらいたくない

 緑葉はひかりの嘘を知りながら罪をゆるさぬひとひらもなし

 蒼穹に居場所をもてぬ雲もあり花に映らぬいろも世にある

  • ひさしぶりに書抜きをすることに。Amazon Musicでは再生履歴をもとにマイディスカバリーとかいうプレイリストを勝手につくってくれるのだが、そこにある知らない音楽でもながしてみるかとおもって、GEZAN『NEVER END ROLL』をえらんだ。GEZANというなまえはなぜかきいたことがある。Wikipediaをみるとマヒトゥ・ザ・ピーポーというひとがボーカルで、このなまえもなぜかきいたことがあった。それでながしたところ、なんだこりゃ、とおもった。声がめちゃくちゃ変だったので。加工してあんのか? という。変すぎてすごい。男性なのか女性なのかもわからなかったが、男性のようだ。
  • 五曲目(”wasted youth”)までは甲高く鼻にかかったような、ほそいのだけれど妙にかたくするどい、それでいてのっぺりして少年じみたような、ある種畸型的とでもいえるような声はおなじかんじで、バックのトラックの色合いが意外にけっこう多彩で(基本的にはあかるくキャッチーでメロディアスなのだけれど、それをひそめてハードなぶぶんもあったり、ちょっとドラマティックな装飾もあったり)微妙なところでちがっているのに声はずっとおなじで、そのインパクトがきわだっており、楽曲にうまく乗っているかとか合っているかとかとかんがえるとたぶん合ってはいないのだけれど、どんな色合いのうえにも異物的に浮かんでしまうそのかんじがある種おもしろく、ちょっとFISHMANSを連想させるようでもあった。佐藤伸治のばあいは楽曲に調和していると言っていいとおもうが、どんな曲でもこのひとがうたえばトラックとはなれたところでその色になってしまうし、個性一発でどんなばしょでも行けてしまえるというか、しかもうまいとか下手くそとかが問題にならず、どんなうたいかたをしても成立してしまう、みたいな印象が。#6の”light cruzing”と#7の”MU―MIN”は曲にメロウさがあって、ここでは比較的低いほうの音域もつかっており、声色に息もふくまれており、そうするとまだすこしはふつうの声にちかづいていた。#8の”feel”はまた前半のかんじにもどっていたが、アップテンポだったり激しかったりする曲で声が大きくなったり張ったりするとああいうかんじになるのだろう。
  • その後休んだり本を読んだりして、四時四五分に就床。