2022/1/8, Sat.

 規則ただしく設計され、建築されて、しかもなんらかの目的にかなった建造物、たとえば宮殿を、その形態と細部とにおいて認識することと、おなじ建造物を「適意の感覚をもって意識すること」、つまり美しいと判定することとは、まったくべつのふるまいである。後者のばあい対象は主観に関係づけられ、しかも「快あるいは不快の感情」へと関連づけられている。
 そのとき私自身は、たしかに「じぶんとしては、口をあけて見惚れるためだけに造られたもの(end35)など好まない」とシニカルに言うこともできるし、ルソーとともに、王侯貴族の虚栄について口をきわめて罵る――「やつらは人民の膏血を、これほど無用なもののために浪費したのだ」――こともできる。そうした評価と、美しい [﹅3] ものをめぐってたしかな趣味を示すこととは、まったくべつのなにごとかである。美は関心を排除し、とりあえずは倫理をも視界の外におく。美と善が独立なことがらであることが、趣味による判定には関心のいっさいが欠けていると語られるさいに、意味されている消息のひとつなのである(以上、vgl. ebd., 204f.)。
 そうであってなお、美しいものをめぐる経験は、倫理的な心性との関連を、この場面でも隠しもっている。どうしてだろうか。ここであらためて「快適なもの」と美しいものとの差異を問題としてみよう。
 なんらかの対象は、その対象を目にし、耳にすることがたんに楽しく、または好ましく、あるいは悦ばしく、嬉しかったりすることもある。この件は、関心のすべてが不在であっても対象がなお意にかない、したがって美しいと判断されるかどうかとは、べつのことがらである。前者のばあい対象は、すくなくとも私にとって快適 [﹅7] である。快適であるのは、つまり「感官にとって、それを感覚するさい意にかなうもの」なのだ(vgl. 205f.)
 対象を快適なものであると宣言する判断は、同時に「対象に対するなんらかの関心」をふくんでいる。そのような対象にかんする関心は「感覚をつうじて、そのような種の諸対象へと向かう(end36)欲求を刺戟する」からである。快適なものはかくて、たんに私の賛意を要求するだけではない。快適なものをつうじて生みだされるのは、一箇の「傾向性 Neigung」なのである(206f.)
 傾向性とは「欲求能力が感覚に依存しているありかた」にほかならない。「倫理の形而上学の基礎づけ」の規定に立ちかえってみれば、傾向性が示しているものはつねになんらかの欲求なのだ(vgl. GMS 413 Anm.)。快適なものをめぐる判断は、かくして傾向性と欲求とに囚われつづけるほかはない。傾向性の対象は「私たちに自由である余地をのこさない」。純粋な趣味判断であるならば、そこには関心が不在 [﹅5] であることでむしろ傾向性と欲求からの自由が存在 [﹅5] している。前章で確認しておいたところであるとおり、そのいみで、美しいものに対する適意は「自由な適意」なのである(vgl. KU 210)。
 ただしそればかりではない。美が経験されるさいの自由な [﹅3] 適意は感性的で、あるいみでは動物的な次元からの解放を、そのかぎりでの自由をふくんでいる。自然をめぐる [﹅6] 経験のなかで美しいものが呈示されるばあい、その経験のうちには人間のうちなる自然の超越 [﹅5] が、自然を超えた倫理 [﹅2] の水準が交差する。倫理と自然との関係については次章で立ちいる。とりあえず、美しいものの経験とともに人間の超感性的で、叡知的な次元がかすかに告げられることになるだろう。
 (熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』(講談社、二〇一七年)、35~37; 第2章「美しいものは倫理の象徴である――美への賛嘆は宗教性をふくんでいる――」)



  • きょうは朝からの労働なので六時のアラームで起床。滞在は四時間強とみじかいがからだはかるく、こごりもなくてすぐに起き上がり、そのままとどまることができた。眠いというかんじもあまりない。ヒーターにあたってちょっとあたたまってから水場へ。しかしまだ暗い早朝の寒さのために顔を洗う気にもうがいをする気にもならず、ちょっと水を飲んで用を足すのみ。もどると瞑想というか静座して呼吸。からだを内からほぐして二五分ほど、六時四〇分くらいに上階へ。例によってハムエッグを焼いた。それを丼の米にのせ、もう一品、なにかあたたかいものを飲みたかったので即席の味噌汁。食べているあたりで母親が起きてくる。かのじょが南窓のカーテンをあけてもさいしょはまだひかりの色がみられず、白いレースをとおしたさきの空もほとんど曇っているかのように希薄にみえたが、テレビのニュースが左上に七時八分をしめすころには窓の中央にあたるガラスの黒枠にオレンジ色が塗られ、その後室内にもだんだんとあかるみがはいりこんできた。
  • 食事を終えて皿をあらうと顔を洗ったり髪をちょっとととのえたり、うがいをしたり。部屋にもどって前日の記事を投稿し、カール・ゼーリヒ/ルカス・グローア、レト・ゾルク、ペーター・ウッツ編/新本史斉訳『ローベルト・ヴァルザーとの散策』(白水社、二〇二一年)をほんのすこしだけ読むともう支度へ。歯を磨き、スーツすがたになる。電車で行くにはおそくとも八時五分には出なければならなかったのだが、上階にあがった時点で七時五五分だった。出るまえに排便しておきたかったのだけれど、朝のはやい時刻から起きてあまり時間が経っていなかったこともあり、すぐに出るかこころもとなかったので、母親が送っていこうかというのに甘えることに。八時二〇分にとお願いしてトイレに行き、余裕をもって腸のなかみを排泄して室を出ると父親が起きてきたところだった。数分あったのでわざわざバッグを持って自室にもどり、『ローベルト・ヴァルザーとの散策』を読む。本をすこしだけ読んだのはこのときで、さきほどはむしろ読んでいなかったかもしれない。そうして出発へ。
  • 車の後部座席にはいり、はこんでもらう。八時すぎなのでまだ陽は低く、街道沿いに家の影もおおくさしこまれているが道がちょっと曲がるところで窓から見える歩道は白銀のかがやきを一面いっぱいにのせており、みぎてからは東南の青空にふくらみかかって建物のあいまにあらわれる太陽が車内の目にまでまぶしさをとどける。母親が座す運転席のすぐうしろに乗ったので正面のようすはふさがれてみえずまえを行く車のすがたもうかがえないが、道路の左側にひろがる日なたのなかをその影が伸びてすすみながれていくのは目にはいる。「(……)」のそばで降ろしてもらい、職場へ。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • そうして一時すぎに退勤。天気が良いのであるいて帰ることに。こんな日にあるかないのはまちがっている。土曜日の昼方なので駅前も比較的ひとがおおく活気づいている印象。裏道へ。ゆるゆるあるく。建物にしろ住宅にしろ林の樹々にしろ電線にしろ見るものすべてあかるいひかりのなかで色とかたちをくっきりとととのえており、古井由吉のことばを借りれば明視感というような澄んだ明晰さが空間にあるが、それはつよくせまってくるものではなく、明晰でありながらおだやかにおちついている。とちゅうの木が微風にこずえをさわやかにさざめかせていた。前方から女子高生が三人横にならんでつれだってきていかにもな口調ではなしており、そのむこうには男子のグループもふたつほどつづいているのが見え、高校も下校の時間かと見てさわがしさを避けるために行き当たった坂でおもてに折れた。街道沿いの北側を行けば陽射しは歩道をつつんでつねにまぶしく身をあたため、右手をみやれば家並みのむこうに丘は緑を弱くして、雲なく満ちた青空とのさかいにカラスが一匹飛んでいるのもはっきりみえる。二車線の道路をとおりすぎていく車たち、人間の意思もかんじられずといって自然の過程ともみえず、たんなる自動的なはたらきのようにしてながれていく乗り物をみながら、ふだんなんの変哲もない日常的なものとしてなにもかんじないけれど、これもいかにも近代的な情景なんだよなとおもった。そもそもこのようにアスファルトで舗装された道路というものじたいも、おそらく自動車の出現によって要請されて生まれたものなのだろうし、と。太陽は西寄りの南空に浮かんで遮られることがなく、顔にふりかかってくるまばゆさもあるくあいだに絶えることがなく、視界はつねに銀がかって白く透明なすじに浸食されており、目をほそめながら行くなかでたまに片手で庇をつくってとおくをながめた。裏路地にはいってからも同様にすると、それまでまぶしさにまぎれて見えなかったこまかな羽虫がひかりを浴びつつ宙をただよっているのがわかる。坂道を下りていってその下端、ひだりてに樹々がなくなった場所で、近所の家並みのひろがりから川やそのむこう、さらにかなたの山影まで一望できるので、ふたたび片手で陽をさえぎってその景観をみはらした。やはりすべてがあかるさのうちで憩いながらつやを発散しており、ひかりはまっさらな水色をたたえられた空のど真ん中からなだれるように宙をすべって空中に膜をのがれるひとひらもなく、とおくの山は全面それを貼られて一様にかすみ、薄青さを封じこめたようなすがたになっていた。
  • 帰宅。あるいてきたためか、疲労感がそこそこ濃かった。睡眠がみじかかったことも理由だろう。それで自室できがえるとベッドにころがってしばらく休息。三時ごろになってようやく食事へ。煮込み蕎麦。母親がつくっておいてくれた汁に麺を入れてちょっと熱し、丼へ。卓にうつって新聞を読みながら食べた。エンタメ欄に田中泯がとりあげられていたので読む。今月の終わりごろにかれをあつかったドキュメンタリー映画が公開されるらしい。ポルトガルとか各地の路上などで即興的におこなったストリートダンスというか、「場踊り」のようすなどがおさめられていると。なにかをかんじたときにそれにしたがえばからだのうごきはしぜんに生まれてくる、みたいなことを言っていた。からだよりもさきにまずこころが踊りだすのだと。岩田宏の詩みたいなことを言っているなとおもった。「ショパン」に、「この地球では/足よりも手よりも先に/心が踊り始めるのがならわしだ」という一節があるのだ。そういう自発性から型にはまらない、独自のうごきや身体表現が生まれてくるという記事の趣旨だった。ダンスをはじめた当初も既存の型や流派を習って、踊りじたいはじぶんのすすむべき道だと確信し、それがじぶんの生になったが、既存の表現にはどこか得心しきれないようなものをかんじていたらしい。
  • 食後、部屋にもどると(……)さんのブログを読んだ。中国のマッチョ傾向にかんするしたのはなしはかなり興味深かった。こういう風潮はぜんぜん知らなかったので、なるほどそうなんだ、とおもった。

ゲイの話もたくさんした。いま(……)くんと同じ専攻に所属している男子学生は彼を含めて四人きりであるのだが、全員がゲイであるという。先生のことを何も知らずに見たらたぶんほとんどのひとがゲイだと思いますよと(……)くんはいった。実際、彼は店に到着してほどなくこちらとのツーショット写真を撮り(いつものように変顔をしたら、まじめな顔をしてくださいと真剣に言われた)、それをモーメンツに投稿したわけだが、すぐに仲間たちから「新しい彼氏か?」というコメントがついたらしい。服装がやっぱり原因かな? とたずねると、それもありますが、全体的な雰囲気ですね、芸術家っぽい感じがすごくします、そして芸術家はゲイが多いです、という狂った三段論法みたいな説明があった。日本にいたころよりも中国に来てからのほうがはるかにゲイであると勘違いされる機会が多い、ということはやはりそう思われる要因のいくらかはファッションにあると思うのだが、その点指摘すると、中国ではまず男性のほとんどがファッションに無頓着ですという返事があった。そう言われてみればたしかにその通りで、こちらが知るかぎり、ファッションにこだわりがある男子学生はこれまで(……)くんと(……)くんと(……)くんと(……)くんくらいで、前の三人はみんなゲイである((……)くんに関しては彼女を取っ替え引っ替えしていたわけだが、それでもこちらはなんとなくバイなんではないかという気がしている)。ファッションを楽しむという考え方自体が女性っぽいとする価値観があるらしく、それでいえばアメリカもたしかそんな感じだったはずだ、夏場であればシンプルにTシャツとジーンズ、あとは筋肉がひたすら重要みたいなマッチョな価値観(アメリカと中国に共通するマッチョな価値観については、はじめて中国にやってきたときからずっと気になっているテーマだ)。実際、これは(……)も言っていたことであるが、日本のメンズファッションはアメリカではすべてゲイファッション扱いらしい(一度トートバッグを持ってロスを歩いていたとき、すれちがいざまに身知らぬ人間からnice bagと皮肉を言われたことがあるという話があったはず、アメリカ人男性はカバンといえばリュックサック以外持たないのだ)。そういう中国であるので、ZARAに行く男はみんなゲイであるという考え方があるらしい(ZARAの単独狙い撃ちには正直クソ笑った)。(……)くんはファッションを楽しむことのできない中国のヘテロ男性たちをディスりまくった。これに関しては同意。あるいはこの感覚の延長に、自撮りする男子とか、メンズ化粧品を使う男子とかが位置付けられるのだとすれば、これまでは縁がないと思っていたそういうあれこれとじぶんもさほど遠くはないのかもしれない(そしてそういう視線に立脚するとき、撮影時にかならずといっていいほど変顔をするこちらのふるまいは、一種の防衛としても理解されうるかもしれない)。

    *

店を出た。雨降りの中、十分ほど歩いたのだが、繁華街にある服屋はすべてレディースの店舗。メンズをとりあつかっている服屋はマジで一軒もない。これもやはり中国のヘテロ男性がファッションに興味をもたない——あるいは、もてない——事実のあらわれだ。店で実際に衣類を試着して購入するというふるまいそれ自体を女性的とみなす風潮があるみたいなことを(……)くんはいった。

  • そのあと「読みかえし」を読んだのだが、口をうごかしながら眠気にやられて目が閉じてくるようなありさまで、しかたがないのでベッドで頭板にもたれてしばし休む。五時で上階へ。アイロン掛け。シャツやズボンなど衣服を処理する。台所では母親が鍋のたぐいをつくっていた。父親は階下の室でなにかやっている。とちゅうで(……)ちゃんがやってきて、林檎だったかなんだったかくれたらしい。ついでに父親(母親には「(……)ちゃん」と呼ばれているひとで、いまは亡き(……)さんのつれあいであり、もうけっこうあたまがぼけているときいている)のはなしもしていったもよう。(……)だかそちらのほうで、知り合いがやっている施設にロングステイしているとか。アイロン掛けのあいだに玄関からきこえてきた母親の声音は、なんと言ったらいいのかわからず困りながらほんのすこしだけ感情的なトーンをふくませてあいてを気遣う、みたいな調子だった。といって、べつにいますぐ死ぬほど悪いというわけではないはずだが。しかし、八〇だの九〇だのになればきょう生きていた人間があした死んだっておかしくはない。
  • 夕食まではカール・ゼーリヒ/ルカス・グローア、レト・ゾルク、ペーター・ウッツ編/新本史斉訳『ローベルト・ヴァルザーとの散策』(白水社、二〇二一年)を読んだ。とちゅうか後半でなにかべつのこともやって散漫になった気がするのだが、よくおぼえていない。夕食は遅くなり、あがったのは八時半をすぎていたとおもう。夕刊をみたとおもうが、読んだ内容はおぼえていない。それか朝刊の国際面か。カザフスタンのデモ弾圧が激化しているという記事を読んだ気がするが、正確な内容はやはりおぼえていない。大統領が治安部隊に、警告なしの射撃を命令した、という情報はふくまれていたはず。あとはバイデンが演説でドナルド・トランプを非難したという報をあらためて読み、もうひとつなにか読んだ気がするがわすれた。
  • 夕食後はこの日の日記を記述。しかしとちゅうでちからつきた。あるいはちからつきたのは入浴後だったか。いずれにしても風呂のまえから疲労感はあって、それはどうも胃に由来しているのではないかとおもわれた。緑茶をまたよく飲んでいるので胃が悪くなっているのではないかと。風呂から出たあとも日記にすこしだけ取り組んだが、疲労感がかさんでいたのでまもなくベッドに避難してしまったのだ。臥位になりきらないように枕とクッションを支えにしながら半端な態勢で休み、さらに、ひだりを向いたほうが胃液があがってきづらいといぜんきいたのでそのようにしていたのだが、じきにちからつきてかんぜんな臥位になり、そうするととうぜんいつの間にか寝ていた。気づくと三時半すぎで、しかたないのでトイレで小便だけしてきて、そのままパソコンをシャットダウンもせず、歯も磨かずに就寝。
  • あと、この日だったか前日の夜だったかそれかおとといの夜だったかに、(……)さんのブログが更新されているのを発見し、そこに記された近況を読んだ。「ものすごくリアルに大便を口からを吐き出す」というやばい夢を見て、「わけわからんくらい巨大だった。非常に苦しく気持ち悪かった(……)」というからあいかわらず健康が心配されるが、とりあえず生きて活動しているようでよかった。ほか、「偽日記」をのぞくと「2021年夏に起きた小山田圭吾氏の炎上問題について時系列の整理とファクトチェック」(https://ifyouarehere.studio.site/(https://ifyouarehere.studio.site/))というページが紹介されていたのでちょっと読んだが、すごいしごとだなとおもった。古谷利裕も言及しているけれど、このファクトチェックを見るかぎり、(そのまえから2ちゃんねるや匿名ブログによる下地はあったものの)毎日新聞の記事がかなりずさんなしごとでありながら決定的なものとなってしまったようだ。ほんとうは毎日新聞(やほかの新聞社)こそが、権威と影響力をもった大手メディアとして、きちんと原典にあたって記事原文とネット上の情報を照らし合わせ、分析して、不正確なぶぶんや誤りをたださなければならなかったのだろう。典拠主義、文書主義、記録の正確さってマジで重要だなとあらためておもった。かくいうじぶんもインターネット上に流布されていた、小山田圭吾はむかし障害者いじめをしていて人格的にはクソな人間だ(った)というはなしをふつうに信じてしまっていたのだけれど(じぶんがそういう情報にはじめて接したのは去年の件ではなく、何年もまえに「(……)」を読んでいた時期のことで、そこで、Corneliusは音楽はいいけど人間としてはやばい、という趣旨で、過去の障害者いじめを雑誌上で自慢していた、というはなしが書きつけられていたのだ)。ところで、この問題の本線からするとちょっと横道にそれた点ではあるが、小山田圭吾がオリンピックの開会式にかんしておこなったしごとにたいしてギャラが支払われていないという事実もあるらしく、それもやばいなとおもった。2021年6月の欄の記述によれば、以下の次第。「関係者の相次ぐ辞任や五輪強行開催への国民の反感ムードの中、制作チームは直前まで何人も交代があったという。『抜けた人の代わりに、出来上がった開会式の映像の一部に音楽をつけてほしい』と小山田氏(当時52歳)にオファーがあったのは開会式直前の約1ヶ月前。正式な契約を交わすことのないまま小山田氏は楽曲を制作・納品した」、「音楽担当辞任後に「小山田氏はオリンピックで稼いだ金を障害者支援などに寄付するべき」「電通人脈による採用」など批判する声があったが、本来は電通がアーティストと交わすべき契約を交わすことなく納品したため、小山田氏へ楽曲制作のギャラは支払われていない」。