2022/1/13, Thu.

 一九世紀に起こった産業革命と、二〇世紀に進行したメディア革命とが合流し、ひとつの大きな文明の変化が引き起こされています。というのも、大量生産の産業とメディア技術とが合流したときに生み出されたのが、想像力を産業の中に組み込むという出来事だったからです。
 じっさい今日の世界では、「想像すること」が大きな産業となっています。たとえば、テレビ・コマーシャルのことを考えてみましょう。あるいはアニメとかゲームのことを考えてみましょう。テレビ受像器のような想像力の補助具を産業的に大量に造り出し、消費者の想像力をターゲットにして、テレビ番組やビデオやDVDのような「メディア・コンテンツ」を商品として流通させる。そのようなことが二〇世紀には広く起こりました。それによって、人々の時間の過ごし方に大きな変化が起こります。時間の「パッケージ化」といわれる現象です。「想像力」の「補助具」が技術的に次々と生み出され、「想像」の代補をするようになる。「消費者」としての「想像力」が作り出され、「想像」を「消費」することが産業の大きなテーマになっていく。人々の「意識」そのものが「消費者」としての在り方になるように、消費者の「意識」が作り出されるようになったわけです。(end230)
 このような社会を、二〇世紀の社会思想に大きな影響を与えたドイツのフランクフルト学派の中心的な哲学者であるアドルノとホルクハイマーは、『啓蒙の弁証法』の中で、「文化産業」が支配する社会の到来である、と述べました。産業化された様々な想像力の道具が、人々の生活世界に埋め込まれるようになったのです。
 現在、私たちの生活世界を包囲している音楽CDや映像DVD、テレビ番組といった「メディア・コンテンツ」は、フッサールが「時間的対象」と呼んだような、対象そのものの中に時間性が備わっている商品です。前にメロディーの例で見たように、音楽や映像のような時間性において成立する現象は、意識がその時間性を内在的に構成することによってのみ経験しうるものです。そのとき、意識はそれらの現象を時間の中に捉えることによってのみ自らを意識として構成するのです。
 たとえば、音楽という「時間的対象」を「コンテンツ」として収めた商品が音楽CDであるとすると、それを聴く人はその音楽を聴く「意識」と化すのです。つまり、その人の「意識」とは、消費者の「意識」として自己を構成することになる。あるいは、テレビ番組を考えると、視聴者は、番組を見て「想像力」を働かせる「意識」として、自らの「意識」を生み出していきます。彼/彼女の「意識」は、視聴者の「意識」として、番組を通して「産み出される」ことになるのです。これが、商品化された「時間的対象」を通した、消費者の「意識」の生産のプロセスです。
 このように「時間的対象」が商品になっていく。時間がパッケージ化され、商品化され、いつでも「再生」できる「記憶」として売られていく。あるいは電話のように、だれもが消費者として「同時」につながって、人々の意識が「同じ現在」の中に、消費の「時間」によって結びつけられていく。
 (石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、230~232)



  • 作: 「はろばろと地球が疼く春の日に所有欲などゴミにしちまえ」
  • 一〇時四〇分離床。瞑想おこなう。三〇分ほど。きょうははっきりしない天気で、基本的にはけっこうよどんだ曇りだったが、ときおり陽の色も漏れて差した。胃のかんじはそこそこ。まだやはりいくらか悪い。いちどめの食事と、とちゅうでリンゴを食ったときにはあまり問題なかったが、夕食はまたすこし苦しくなった。これまでどおりの量だといまの胃には多いようで食べきれないので、しばらくすくなめにしたほうが良いかもしれない。とはいえからだのかんじは改善にむかっているし、食事時いがいにはとくに不調はおぼえない。
  • 「読みかえし」を読み、古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)をすすめる。ほんとうは図書館で借りている本の返却日がきのうだったので分館まであるいてかえしに行こうとおもっていたのだが、めんどうくさくなってあしたでいいかと払った。きのうの出勤時にわすれなければ良かったのだが。夕方にアイロン掛けをするあいだテレビのニュースをちょっとながめたが、東北や日本海側では大雪になっているらしく、青森なんて三メートルいじょう積もっているという。しかもそれがまだ続く見込みだと。ほか、来週からゆうちょ銀行でも金をあずけたりおろしたりするさいに手数料がかかるようになるといったが、硬貨のみらしい。枚数のおおさによって料金も増えると。硬貨などあずけも引き出しもしないのでこちらには関係がないが、業種によっては困るという声も出ていると。たとえば食券機のお釣りのために多くの小銭が必要なラーメン屋では、足りなくなると銀行に行って両替をしていたというのだが、そのさいに手数料がかかるとなると意外と馬鹿にならない。それでなるべくお釣りが出ないようにしようということで、そのラーメン屋は七九〇円だった品を切りよく八〇〇円に値上げするという。ほか、番組のコメンテーターかキャスターだかの男性は、紙幣の財布と小銭入れと持っているのだが、日々の買い物で小銭が出て袋がパンパンになると家の貯金箱みたいなものにうつしていた、それがいっぱいに貯まると銀行にあずけに行ってすこしばかりの貯金をつくっていた、というが、それもやりづらくなるわけだ。
  • 作(風呂): 「実存が死期を悟ったこの夜にどこかでだれかがくしゃみをしてる」
  • 作(24:53): 「祝福は静寂である風よ知れどこまで行っても夜は夜のまま」
  • 一〇時くらいからだったか、石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)の書抜きをしてさいごまで終了。BGMに落日飛車(Sunset Rollercoaster)というやつをながしてみたが、これは台湾のシティポップバンドだという。ここちよくてよろしい音楽ではある。一一時にいたって風呂にはいろうとおもってあがったところが、ソファについていた母親がまだはいっていないというので、トイレで用を足してもどり、瞑想。Bill Evans Trioをながした。この日はぜんぶで四回も瞑想して、そのうち後半の二回はEvans Trioをともなった。ディスク2の”All of You (take 2)”からはじめて、”I Loves You, Porgy”まで。このときの瞑想は”Waltz For Debby (take 1)”からはじめて、”I Loves You, Porgy”までではなくてそのつぎの”My Romance (take 2)”までだったかもしれない。あまり記憶がない。”Alice In Wonderland (take 2)”がわりと印象にのこっていて、このテイクではLaFaroはそこまで頻繁に浮かび上がってはこず低音の刻みを中心にして比較的尋常なバッキングにちかいふるまいかたをしている気がしたが、それでもときおり、いきなり三連符の連続をながくはさむようなこともあって、いやおかしいでしょ、こんなことやったらふつう怒られるでしょ、とおもった。ソロも三連符の速弾きを流麗につらねる箇所がおおくてよくうたっている。ほかの曲とくらべるとまだみんな暴れていない、相対的にはふつうのピアノトリオにちかいかたちの演奏とおもわれたのだが、そうだとしてもやはりなんともいえない特殊さがあって、なんなんだろうなこれはとおもった。みんなふつうにメロディを奏でたり刻んだりシンバルを鳴らしたりしているだけなのに、ほかにない感覚をおぼえるわけである。それはおのおののきわだった独立感なのかもしれず、ベースとピアノが左右で極端にはなれている録音の様態もそれを後押ししているかもしれない。
  • 入浴はながく浸かった。その後はたいしたこともなし。古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』は70から153まで。三時半直前に就寝。
  • あとは部屋にもってきていた九日日曜日の新聞を読んだのだった。エマニュエル・トッドへのインタビューなど。かれはドナルド・トランプを評価している。人騒がせな言動はさておき、中国との経済対立で保護主義的な政策をとったり、米国が世界の警察官であることをやめようとしたことは評価できると。エマニュエル・トッドの見方ではバイデンはトランプいぜんの古い世界のとらえかたをしており、要するに軍事的優位で地政学をかんがえるパラダイムにとらわれており、おそらくいまだに世界の警察官というか、世界一の軍事大国としての立場をもとにかんがえているだろうと。だから中国との対立も経済面だけではなく、軍事的なものになってくる。米国の対中安全保障の枠組みとして中核になってくるのは米・英・豪の例のAUKUSだろうということで、民族的にはアングロ・サクソンの集まりなわけだけれど、トッドはこの件で第一次大戦前を連想して悲観的な気分になったという。記事の冒頭では、中国の出生率低下ははなはだしく、1.3だから日本並みの低さで、これから急激になってくる人口減によって長期的には脅威ではなくなるだろうと言っていた。ただ、中国じたいが脅威ではなくなるとしても、よくもわるくも中国の状態が人口減などによって混乱したり不安定化したりすれば、それは地域情勢にとってはかなり影響がおおきいのではないか。