2022/1/19, Wed.

西谷 以前、大学での戦争論の講義をもとにして『夜の鼓動にふれる』という本を出しま(end259)したが、その最後に、「戦争が腐乱していく」ということを書きました。戦争の変容が、その輪郭を崩して腐乱していくような、非常にネガティヴな形で起こっているということですが、そのもっとも深刻な側面は、もはや第三項がなくなっているということに要約できると思うのです。
 証人がいなければ何でもできます。メディアが検証を放棄してプロパガンダに走れば、もはや真実などどこにもなくなります。冷戦期には、もちろん力と力の対峙はあったにしても、一方の主張に対して、対抗的に検証するというような動きがあって、結局それが第三者的なジャッジメントを可能にして、世界の世論を動かすこともできたわけです。たとえばベトナム戦争の場合ですね。
 ところが、現在のような一極化した状況に(end260)なると、その一極と、それに対峙する側の関係はつねにむき出しの力の対面関係で――それが「テロ」に対する「戦争」ということですが――、そこにジャッジメントの審級がないわけです。
 イラク戦争に関して言えば、あの戦争は、交渉が破綻したから、仕方なく戦争に訴えて決着をつけるというのではなく、サダム・フセインが名指され、あらかじめ「悪」として断罪されている。そして戦争は、すでに断罪された者に対する刑の執行として行われるわけですね。
 そこでは、裁く者と、制裁するつまり暴力を振るう者とが同じになっている。そのことが正義の可能性をあらかじめなくしているにもかかわらず、その力が「正義」を名乗るわけです。それがまた、世界的な共通了解の足場を崩してもいます。
 (石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、259~260)



  • 九時四〇分ごろに覚醒。布団のしたで息を吐きつつ脚を伸ばしたりして時間をつかう。胃や腹のほうも揉んでおいた。それで一〇時三六分に離床。天気は雲混じりだが晴れ。水場に行ってくると、きょうは瞑想のまえに合蹠をちょっとおこなった。けっきょくからだ全体に血がよくながれているかというのが気分のあかるさとか落ち着きとか意識の明晰さとかストレス耐性とかを決めるという結論に回帰し、もうなるべくはやいうちに血流を促進してしまったほうがいいだろうと。それから瞑想。三〇分弱。そうして上階へ。燃えるゴミを始末し、ジャージにきがえ、髪をちょっと梳かして食事。焼きそばときのうの味噌汁ののこりである。新聞からは一面の、一日のコロナウイルスの感染者が日本全国で三万一五〇〇人かそれくらいをかぞえたという記事をみた。各地で過去最高を更新しているようで、東京は過去最高ではなかったが五〇〇〇人を超えた。地域面で区市町村ごとの数字を見てももちろん軒並み増えている。感染拡大のペースは第五波とくらべてもそうとうはやいが、重症者はいまのところその一〇分の一くらいにおさまっていると。きのう読んだ新聞の情報によれば、オミクロン株は変異した箇所がおおく、それだけ人間の細胞にくっつく突起が増えているらしい。そして気管支での増殖ペースはデルタよりもはやいのだが、しかし肺にはいると増殖が弱くなった、という観測があると。動物実験でもおなじ傾向がみられたとはいうが、とはいえ重症化のすくなさがオミクロンのもともとの特性によるものなのか、それともワクチンを接種して免疫がついたことによるのか、それはまだ予断をゆるさないとのことだった。一面にはまた、ジョー・バイデンが気候変動関連法案にかんして、地元の石炭産業を支持基盤としているジョー・マンチン上院議員の反対に苦慮している、という報。いぜんからつたえられていたのがあらためて取り上げられているかたち。ジョー・マンチンはウェストヴァージニア州選出の上院議員で、民主党なのだが、地元の石炭業界の利益を代表しており、脱石炭を加速させて雇用をうしなわせるような法案にはとても賛成できないというわけで、昨年末に反対を明言していた。選挙区の石炭組合みたいな組織の会長室に行くと、偉大な州の発展には偉大な石炭産業が必要だ、みたいなマンチンのことばが掲げられているといい、この会長はドナルド・トランプとツーショットでうつった写真を掲げているようなひとなのだが、マンチンのことは民主党だとはおもっていない、と言っていた。
  • 三人分食器を洗って風呂も。うがい。白湯を持って帰室。「読みかえし」を読み、それから一七日、一八日、きょうと日記をつづった。一七日の通話時のことを書けていないが、これは後回し。きょうの帰宅後かあしたに記せばよい。いまは一時四七分にいたっている。
  • ストレッチをした。いつものセットに加えて、血をながすなら太ももをあたため稼働させるに如くはないというわけで、スクワット、というか、上下をくりかえすのではなく、両手を頭のうしろで合わせながら開脚して軽く腰を落とした姿勢で息を吐く、ということをおこなった。これもおりにふれてやったほうがいいだろう。一日のうち、どれだけはやくストレッチできるかでその日の活動の質が決まる。二時を越えて上階へ。洗濯物を取りこむ。陽射しはあるがやや薄めで、あまり乾きはよくない。特にタオル。焼きそばのあまりをすべて大皿に盛ってレンジへ。ストーブのうえに置かれた鍋のおでんも少量もらう。それらを持って室に帰り、(……)さんのブログを読みながら食べた。その後もあわせて一七日分と一六日分。(……)といろいろ雑談している一七日がおもしろかった。『紅楼夢』を三回通読しているだの、文化大革命を機にひとびとの意識や価値観がどのように変わったのか知りたいだの、え? そんなひとだったの? という意外さ。人間が開示されている。まだ見ぬ世の一片が浮かび上がってきたときの興趣があり、それを呼びこむという意味では、やっぱりひとがはなしていたことなんでもいろいろ書いておいたほうがあとから読んでもおもしろいんだろうなあ、とおもった。そのほかにもおもしろいところはあり、思い出すこともあったが、これについてはのちほど(と書くと、ヴァルザーの『盗賊』のはじまりがそういう書き方だったことを思い出す。「エーディットは彼を愛しています。しかしこれについてはのちほど」みたいな文言だったはず)。
  • 食べ終えると階を上がって皿やフライパンを洗ったり米を磨いだりしたのち、タオルは母親の帰宅後にヒーターであたためてもらうことにして、寝間着やジャージや肌着などをたたんだ。仏間のほうに運んだり箪笥にしまったりもしておき、またマットを洗面所やトイレなど各所に配置。ベランダにはまた編笠みたいなかたちの、まるくおおきなザルのたぐいに輪切りで薄くスライスされた大根がならべて干されてあったので、それも入れておいた。白湯を一杯ついで帰室し、(……)さんのブログを引き続き読みつつ一服、そして歯磨きもして、FISHMANS “感謝(驚)”をながしながらスーツにきがえてここまで記せば三時三三分。もう出発の時刻だ。
  • (……)さんのブログでおもしろかった箇所というのは以下の、一年前から引かれているながいはなしで、これは昨年に読んだときもおもしろいとおもったが、あらためて読んでもかなりおもしろく、かつ大事なはなしだった。「それまでの常識が「間違い」であることを知り、そしてその「間違い」とみなしたものが実際はただの「違い」であることをまた知る、その上でしかし「違い」のままですませてはいけない「間違い」もまたあることを、そしてその一線を見分けるものが知識であり、その一線をみずからの手でひきなおしていくことがプロセスとしての学習である」なんて、至言ではないか。

 それでまた陰謀論について思うわけだが、じぶんがこの手の言説にハマらないのは十代と二十代の断絶のおかげなのかもしれない。田舎のローカルルールや価値観がまったく通じない都市部の大学に入学すると同時に本を読むようになり、じぶんのそれまでの人生すべてを否定されるような衝撃を受けたことによる去勢が、思考や価値観と呼ばれているものすべてに対する根深い懐疑になっているのではないか。いまでもおぼえているのだが、ゼミで知り合った(……)という同級生がいて、彼はたしか生まれは台湾で育ちは関東、父親はパイロットというエスタブリッシュな出の男で(そういう経歴の持ち主が国際関係学部にはたくさんいた)、そのプロフィールを知った時点で当時まだ左耳にピアスを五つくらいつけて眉毛をちょんちょんにしていた18歳のこちらは「なんやそれ! 少女漫画の住人かよ!」と若干気遅れするわけだが、たしか大学に登校した初日か二日目だったと思う、その彼がひとでごったがえした校内の廊下を歩いている最中、向こうから歩いてくる男子学生と肩をぶつけた瞬間に、「あ、ごめんなさい」とものすごく自然に謝ったのだ。これは死ぬほど衝撃だった。つまり、こちらの常識でいえば、すれちがいざまに肩をぶつけるということはすなわちケンカの合図であり鞘当てであるのであって、そこからガンつけ→巻き舌→殴り合いの三段式に事態は進行すべきであるし、そう進行しなかった場合はそのプロセスを拒んだほうがその後永遠にビビリのレッテルとともに過ごさなければならないものであったのだが、(……)はそのプロセスを拒んだというよりはまるでそんなプロセスなど存在しないかのようにふるまったのだった。いや、実際彼の世界にはそんなプロセスなど存在しなかったわけなのだが、とにかく、このときの衝撃はいまでも忘れられない。どれくらい衝撃的だったかというと、当時まだ伊勢にいた(……)に帰宅後わざわざ電話をかけて京都と伊勢は全然違う、高校と大学は全然違うぞと報告したくらいだった。じぶんから他人に用事もないのに電話をすることはまずないこちらがわざわざ夜アパートの自室から電話をかけた、そのことの重みを理解してほしい。
 (……)だけではなかった、(……)にしても(……)にしてもそうであるが、ヤンキーオーラを出しているこちらにたいしてごくごく普通に話しかけてくるその構えのなさにも心底おどろいた。田舎の不良社会というのはいわばマウントの取り合いがそのままコミュニケーションであり、いかに相手をびびらせるかという勝負がごくごく普通のやりとりのあいだも底流のようにしてあるのだが、標準語をあやつり屈託なく初対面のこちらのことをほとんど無防備にファーストネームで呼んでみせるそのふるまいに当時のこちらはやはり度肝を抜かれた、こいつらそんなふうには見えないがよっぽど腕に覚えがあるのか? 黒帯か? と疑心暗鬼になったのだった。ひとことでいえば、みんな上品だった。あるいは、18歳のこちらが下品だった。
 (……)に誘われて新京極をはじめて歩いたときも驚いた。派手な格好をしている男たちがうじゃうじゃいるのに、だれひとりとしてケンカを売ってこない(この違和感は後年、京都にやってきた(……)も表明していた)。髪を染めているもの同士ピアスをつけているもの同士が路上ですれちがったら、まずはガンつけするのが普通であるしそれをしないということはじぶんはビビリですと認めるようなものであるはずなのに、みんな平気でこちらから目をそらす、それも勘弁してくださいの逸らし方ではなくほんとうに文字通り「眼中にない」という感じの、目が合ったはずの一瞬もあったのにそこにはなんの意味もないという感じの逸らし方で、不気味に思えて仕方なかった、ぜんぜん落ち着かなかった、だから最初のうちは四条河原町のほうに出るのが嫌だった。
 ただ、じぶんはかぶれやすい人間なのでそういう非地元的なふるまいにもろにかぶれた。主に大学の同級生らをモデルに、彼らのふるまいや物腰を全力でインストールした。その過程はすごく楽しかったと思う。しかし、かぶれすぎたせいで、地元に対する感情がその後長期間にわたって「憎悪」や「軽蔑」で塗り固められていくという弊害も生じた。この感情には当然、問題だらけの家庭から離れてひとり暮らしすることになったあの解放感もかかわってくるわけだが(京都のアパートで寝泊まりすることになった最初の夜、めちゃくちゃ嬉しくなってひとり部屋でガッツポーズをとりまくったのをおぼえている)。
 話が大脱線した。ここで言いたいのはつまり陰謀論にハマらないためには去勢の経験が大切なんではないかということだ。千葉雅也は中学生か高校生のころ、いまほどまだ一般的ではなかったインターネットに毎晩接続して匿名のチャットをしていたらしいのだが、齧った程度の現代思想の知識をそのチャット上でひけらかしていたところ、チャット相手であった専門の大学教授に鼻っ柱をバキバキに折られたとずっと以前Twitterでつぶやいていたことがあったが、そういう去勢の経験、もっとカジュアルにいえば面子を潰されたという経験が、(情報そのものではなく)情報に触れる自分自身の知性を常に疑うという構えを一種の症候として作り出すのではないかと思ったのだ。つまり、陰謀論にハマらないためには(ワクチンとしての)黒歴史が必要だということだ。黒歴史の持ち主はじぶんがまたやらかしてしまうのではないかという不安に常につきまとわれている。それは別の言い方をすれば、自分自身の感じ方、考え方、認知に対する不信感のようなものだ。そういう不信感を適度に持ち合わせている主体は、よくもわるくも慎重になるし、その慎重さが「答え」に飛びつく安易さを牽制してくれる。
 それでいうと清水高志が炎上していた際、本当かどうか知らないけれども彼とかかわったことのある大学関係者だったと思うが、清水高志はじぶんの親族は全員が東大に入学しているので東大に入学することが当然みたいなことを語っていたといっていて、その文脈が知れないので勝手なことはいえないのだが、もしそれが批判者のいうように、一種のマウンティングとしてドヤ顔でなされた発言であったとすれば(さすがにそれはないと思いたいが!)、去勢なしでその年まで生きてしまったひとというふうにも理解できてしまう、知にかんしてじぶんがあやまることはまずないという前提が、こんなにも容易な陰謀論やフェイクに手を出してしまうというおよそ哲学者らしからぬふるまいを可能にしてしまったのかなと推測できる。めちゃくちゃ乱暴なアレだが。
 じぶんが18年間ずっと間違い続けてきたことを知る衝撃というのは、そしてそれを認める抵抗というのは尋常ではない。いまおもえば京都に出てほどないころ、当時はそんな言葉を知らなかったがじぶんは完全にSADっぽい症状を発症していたし(いちばん記憶に残っているのは、マクドナルド金閣寺店でひとりでハンバーガーを食べようとしたところ、周囲の視線が気になって全然食べることができなくなったことだ)、あれは一種の適応障害だったのではないかと思う。そしてその障害をこちらは、地元的なものを全否定することで一時的に誤魔化し(これはたとえていえば、極右から極左に転向するようなものでしかなく、主体に本質的な変化をもたらしてはいない)、その後十年以上かけてじっくり分析と解釈をくりかえしていったといえる。それまでの常識が「間違い」であることを知り、そしてその「間違い」とみなしたものが実際はただの「違い」であることをまた知る、その上でしかし「違い」のままですませてはいけない「間違い」もまたあることを、そしてその一線を見分けるものが知識であり、その一線をみずからの手でひきなおしていくことがプロセスとしての学習であることを理解するという長い旅路。
 常識、固定観念、身体や環境によって作りあげられてきた諸々のパターンを、これは間違いであると一度でも認識したことがあるかどうか、あるいはそれが間違いとなってしまう別の域に越境してみたことがあるかどうか、それがあるかないかだけで人間の深みのようなものにおそらくおおきな差が生まれる。去勢とは越境であるといってみてもいいかもしれない。

  • あと、したの箇所を読んで、じぶんも二〇一九年の夏にロシアに行ったときに一家そろって兄とともによくわからん施設に行って、おそらくほんとうは駄目なのだけれど兄の家に滞在することができるように手続きをしてもらったなとおもいだした。たぶんロシアもほんとうは、「友人宅に泊まるにしても、常徳を出て24時間以内に滞在先の公安に出向いて具体的にどこどこに滞在するという情報を登録しなければならないらしい」みたいなことが必要だったのだとおもうが、どうやってか知らないけれどそれを免除されたのだとおもう。施設で受け付けてくれた女性が、けっこう困ったような顔をしながらいろいろ電話をかけていたのをおもいだす。かのじょのはなしていたことばは、「ニェーット」という否定語しかききとれなかった。あとおなじ施設やその周辺によくわからんメタラーみたいな連中がたむろしていて、われわれが室内で待っているあいだにもめちゃくちゃガタイのいいおっさんが入ってきたのをおぼえている。

(……)長沙ではsystemを取り入れているホテルにしか宿泊することができないという話もあった。要するに監視システムみたいなものだと思うのだが、誰がどこに滞在しているか把握するためのネットワークみたいなものがあるようで、たとえば中国人であれば電車に乗るときはかならずえげつないマイナンバーみたいなカードを利用する必要があり、それによって移動先を常に捕捉されるわけであるが(そして外国人の場合はそのカードの代わりにパスポートが用いられるわけであるが)、宿泊先でもやはり中国人はそのカードを、そして外国人はパスポートを利用しなければならない、そしてその宿泊情報はすぐさまネットワークに登録され——みたいなアレが、ずっと以前からおそらくあったのだろうが、コロナ以降は特に厳格に運用されるようになったということなのだろう、とにかくそのシステムを取り入れていない安宿に外国人が宿泊することは現在できないという。友人宅に泊まるにしても、常徳を出て24時間以内に滞在先の公安に出向いて具体的にどこどこに滞在するという情報を登録しなければならないらしい。監視国家ってレベルじゃねーぞ

  • ロシアに行ったときのこともせっかくなので引いておく。2019/8/7, Wed.から。

 麦茶を囲みながら雑談を交わす。このあと、ユースホステルのような施設に行って、外国人登録を済ませなければならないということだった。ロシアでは外国人滞在者はそういう登録をしなければならないらしいのだが、登録だけそのホステルにしておいて、実際には兄の家に滞在するという方式を取るということだった。おそらく法的にグレーなやり方なのだと思うが、どうも皆そういうことをしているらしい。それでじきに出発することに。もう一度靴を履いて、扉をくぐり、エレベーターに乗って下階へ。アパートの外に出て、通用口のような脇の扉を越えるとそこに兄がアプリで呼んだタクシーが来ていた。乗車。運転手は若い男性だった。発車。音楽は先の人の車と同じような感じで、まあ言ってしまえば大したセンスではない。半端なロックみたいなもの。ジャズなど掛けるタクシー運転手はいないのだろうか? 
 それで一五分かそこら走って、件のユースホステルに到着。なかに入り、兄が受付にチェックインがどうのこうのと告げると、別室に案内された。そこでパスポートを見せて登録をするのだということらしい。空港の入国審査の際と同じように、ガラスの張られた向こうにいる女性職員に入国カードの挟まったパスポートを差し出す。女性職員は常に怪訝そうな顔と言うか困ったような顔をしている人だった。それで兄と彼女が何とかやりとりを交わしていたのだが、どうも相手には渋っているような雰囲気があった。大丈夫なのだろうかと思っていたが、結局登録はやってもらえることになったらしい。渋っていたのは、以前も同じように登録だけ行って別のところに滞在していたケースがあったのだが、その際に当局から指導が入って金を払い戻したことがあるので、自分の一存では決められないとのことらしかった。それで女性は電話を取って上役のような人のもとに連絡を入れたのだが、無事許可が出たらしい。そうして、ソファに座って待っていてくださいとのことらしかったので、革張りの真っ黒なソファに就いて女性がキーボードをカタカタとやって何かデータを入力し終えるのを待った。女性の発言は勿論何一つわからないわけだが、「ダーク」だか「ダンク」というような発音の言葉をやり取りのなかで何回か漏らしていたのが耳に残った。あと、「ニェット」みたいな言葉も聞こえたが、これは多分Noの意味合いだろう。室内で女性が作業を終えるのを待っているあいだは、ホステルに泊まっているほかの客だろう、小さな子供連れの父親が室に入ってきたので、子供に向けて手を振ってやったが、見慣れぬ外国人を怪しいと思ったのか、芳しい反応はなかった。そのほか、明らかにヘヴィメタル愛好者であることがわかる格好の男も入ってきた。裸の上半身に黒い革のベストに禿頭という出で立ちで、ほとんどRob Halfordそのままの格好で、メタラーでなければハードゲイだとしか思われない。
 それで結構長い時間を待ったが、最終的にパスポートは返却された。翌日の一二時以降に登録書類か何かが出来るということだった。その際は我々三人の帯同は必要ではなく、兄だけが取りに来ることが出来るらしい。兄は翌日仕事なので、半日勤務したあと取りに行くかどうしようか、という感じのようだった。それで退出。ホステルから出ると、近くの車からまさしくヘヴィメタルが大きな音声で流れ出ていて、近くには、視力が悪いので定かに捉えられなかったが、メイクをして、悪魔的な雰囲気の長髪や長装をした男だか女だか遠目にはわからない人が立っていたので、あいつら絶対さっきの男の仲間だろ、となった。兄はアプリでふたたびタクシーを呼んだ。雨が降りはじめていた。冷たい雨粒に打たれながらちょっと待っていると黄色いタクシーがやって来て、今度の運転手は若い女性だった。乗り込む。音楽はやはり大したものではない。車内にはケースに飴が大量に入れられていて、これは多分サービスで自由に取って食っていいのだと思うが、頂かなかった。兄は途中で、女性に音楽の音量を下げるように頼んで、どこかに電話していた。仕事関係の通話のようだった。

  • あと、これはどうでもいい些細な想起なのだけれど、「1993年の記録的冷夏は、20世紀最大級ともいわれる1991年(平成3年)6月のフィリピン・ピナトゥボ山(ピナツボ山)の噴火が原因で発生したと考えられている。夏の気温は平年より2度から3度以上も下回った」というWikipediaからの引用を読んだときに、柴崎友香『ビリジアン』のなかで、このピナツボ山の噴火でどうのこうの、みたいな記述がすこしだけあったな、とおもいだした。たしか話者=主人公が学校でちょっといじめられて校庭に倒されたままとりのこされただったかなんだか、わすれたが校庭にいて砂とか夕陽かなにかをながめているような場面でほんとうにひとことだけそのなまえが出てきたような記憶がある。
  • 三時四〇分ごろ出発。ちょうどどこかに行ってきたらしい父親が帰ってきて玄関の扉のむこうにいたので、鍵が開けられ扉もひらかれるのを待ち、顔を合わせて行ってくると告げる。ちがう。それはこの日ではなかった。この日は出発前に上階にあがったところで帰ってきていたのだ。ウォーキングに行ってきたと言うのでどこまでかときけば、(……)まで行ったという。それじゃあけっこう行くじゃん、と受け、まだ咲いてなかったでしょと言って洗面所でうがい。そうして出発した。道に陽の色はもうなくて、川向こうもあまり照らされていないし、近間の家並みのあいだでも電線がほんのわずか暖色を帯びているように見えるのみ、しかしすすんで公団前まで来ると左手の下段にならぶその棟々のこちらをむいた正面がうっすらと色づいていた。太陽は右前方の空にあり、家屋で隠れがちだが(……)さんの家のあたりまで来ると坂の入り口のこずえのむこうに引っかかっているのが黒緑の葉叢をとおしてうかがえる。とはいえきょうは雲にもいくらか巻かれているようでひかりは弱く、むかいの樹々がまとっている若緑のあかるみもおだやかだった。坂道も壁に付される木漏れ日はほのかで、頭上、樹冠の間をただようひかりにふれられたこずえも、つやはすくなく化石的なあかるさにとどまっている。のぼるあいだ、ストレッチをよくやって血をまわしたのでからだが楽なのがあきらかにわかった。
  • 駅についてホームの先に出ると立ち止まって背後、ひかりのもとをふりむいたが、ちいさな丘の稜線にほぼ接しかかってひろがっているそのすがたの、やはり雲の白を混ぜられているらしくおだやかで、視界をびしゃっと浸して埋めつくすまばゆさも、目を一気につらぬくするどさもない。来た電車に乗り、席で瞑目のうちに待つ。着くと降りて空を見ながら職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 駅へ。乗車。席について休みつつ待ち、最寄りから帰路へ。寒い。往路の時点でも寒かった。ちょっとでも空気が動くとすぐさま頬にかたいつめたさがあらわれるのだ。帰路もそれはおなじで、夜気はさらに冷えたようで、腕やら膝やらに寒気が浸透してきた。月はまだおおきく白々しているが、右下をわずかに削がれたすがただった。
  • 帰り着くと手とマスクにスプレーをかけ、さらに洗面所で手を洗い、下階に下りて着替え。先日、風呂にはやめに入ってくれといわれたのであまり休まず、というか休むのではなくストレッチをしてから九時すぎには上階へ。(……)
  • 食後すぐに風呂に入り、一〇時二〇分くらいに出た。部屋にもどると書抜き。古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)。しかしおもったよりはかどらず、すぐに疲れて中断。それからも、ほんとうは日記を書いたりメールを書いたりしたかったのだけれど、からだがついていかずベッドで臥位のまま過ごし、きょうは駄目だなということで一時半にしぜんに眠る気になった。これはいいことでもある。早寝ができるならそうしたほうがよい。ストレッチをよくやって心身を整えたことでうまく疲れたというか、まだこれをやりたい、やらねばというこだわりもなくすんなり眠りにむかえたかんじ。血をよくめぐらせると、その反動というか順当な結果というか、それはそれでからだが疲れるのだろう、夜半ごろに眠気とか疲労感が高まる気がする。