2022/1/25, Tue.

 ヤコブソンの「二項主義」の考え方を推し進めると、記号というものを抽象化していくと、最終的には徴があるかないか、「0」か「1」か、によって記述できるといわれます。つまり、記号を純化していくと0か1かというようなバイナリーな純粋な差異のシステムにまで還元できるということです。
 他方、文化の記号ロジックを考えると、「有徴/無徴」の区別といいますけれども、ゼロのマーク、つまりマークがついていない「無徴」状態は、「マジョリティ」の状態、「普通」の自明視されている状態を表しています。それに対して、「有徴」の状態、つまりマークがつけられている状態は、「特殊」である、「マイノリティ」の状態を表しているということになります。
 「人」は男でも女でも区別なく人間であるので、もっとも一般的な概念としてあらゆる人間を指しうる価値でなければならないはずです。しかし、男性支配の原理が働いている社会においては、多くの場合、「人」=「男」という原則が機能していることはよく知られています。それは、社会において「男」が「マジョリティ」であって、「無徴化」しており、(end330)人間という「一般概念」を占有しているからです。これに対して、「女」は「マイノリティ」として「有徴」の「特殊概念」の位置におかれています。たとえば、「大臣」といえば人が思いうかべるのは男であり、女であるときにはわざわざ「女性大臣」という「徴」を付けて呼ばれたり、「女性医師」、「弁護士」、「教師」というように、そのような例には事欠きません。
 (石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、330~331)



  • 一〇時に覚醒。やや長い。しばらく寝床にとどまって腹を揉むなど。カーテンをあけてレースにすると、きょうも空は雲がちなようで青味がみえず、透けてくるひかりの色が薄い。一〇時二五分くらいで離床。水場に行ってきてから枕のうえに座って音楽をながしつつ呼吸した。Bill Evans Trioの六一年のライブのディスク3。”Waltz For Debby (take 2)”からはじめてさいごの”Jade Visions (take 2)”まで。しかしその最終曲のとちゅうでAmazon Musicが落ちたらしく中断された。Amazon Musicのアプリは重いのか、Chromebookではけっこう動作が悪いし、再生中にとつぜんまえの画面にもどったりアプリじたいが落ちたりすることがわりとある。Spotifyのほうはもっと軽いのだけれど、無料版だと広告がはいるからそれはそれで鬱陶しい。もうすこし金を出してふつうに代替として使えるようなパソコンを買っておけばよかった。音楽はきょうも”All of You (take 3)”にやはりすごいなとおもった。ベースソロにいたるまでのピアノソロぶぶんは流動性がやばくて、よくこんなうごきかた組み合いかたできるなとおもうし、完璧だとしかおもえない。おそらくはEvansのながれにあわせてLaFaroとMotianも感応し、着実にあつまってだんだんと音量を高めて盛り上げている。前半はおのおのがうねって複雑に入り乱れるみたいなかんじなのだけれど、スティックでのフォービートがはじまって以降は一体感がつよく、内部がうごめくおおきな気体のかたまりみたいになっている。離散と集合のこまかな切り替わりのすばやさがとんでもない、ということなのだとおもう。”Jade Visions”はLaFaroの作曲で、タイトル通りつめたいかんじのしずやかな曲であり、構成も三拍×三を一単位とするAB構成で、B部分は四拍 + 五拍みたいに取れるようになってはいるが、わりとたんじゅんで地味な曲ではある。簡素としずけさの美みたいなかんじで、”Gloria’s Step”とこの曲をきくかぎりでは、LaFaroが生きていたらECMからアルバムを出していたとしてもおかしくはなさそうとおもう。”All of You (take 3)”が終わったあと、録音空間のやや左側でひとりの男性が、たぶんDo it again!と言っているとおもうのだが(そしてこちらもその気持ちを共有するものだが)、それにはこたえずこの”Jade Visions”がはじまり、みじかく淡々と終わったとおもうとLaFaroがまだいくらか単音を奏でつづけ、なぜかもういちど、しかもさらにゆったりとしたテンポでもういちどくりかえされることになる。
  • アプリが落ちて音が聞こえなくなったところでちょうど一一時くらいだった。上階へ。洗面所で髪を梳かすなどして、例によってハムエッグを焼く。ほか、キャベツやニンジンのこまかいスライスが具となったスープ。きのうの生サラダもハムを足してマヨネーズなどで和えたものになっていた。新聞を確認しながらそれらを食す。直木賞を取った今村翔吾が感慨みたいな文を寄せていた。三〇歳までダンスインストラクターをやっていたという。小説家の夢を叶えようとダンスのしごとを辞めるさい、教え子たちが応援してくれて、直木賞を取ってくれと言われてそれを目標とし、デビューまもないころのインタビューでも口にしてしまい、内心編集者なども無謀なと馬鹿にしていたところはあったとおもう、しかしじぶんはとにかくがむしゃらに書いたので次第に周囲も応援してくれるようになり、いぜん直木賞候補になりつつも逃したときには担当編集者などまわりをはばからず悔しさに号泣していたくらいだ、誰もがある種の青春らしき感情をおぼえていたとおもう、贅沢な言い分ながらその日々がこれで終わってしまったのは率直に言って寂しいが、じぶんは強欲なのでまたあらたなつぎの夢をもうみつけている、というようなはなしだった。がむしゃらにがんばったというのは具体的には、朝の七時ごろに起きてそのすぐあとから夜中の二時三時までとにかく書くという生活をつづけたということで、講演などほかのしごとが入っているときは除いて、それを二〇一八年の正月から一日も欠かさずやっているという。ずっと書くと言ってもちろん休憩とか遊びの時間とか他人の本を読む時間とかもあるとおもうが、それでもたぶん毎日何時間も書いているはずで、それはすごい。その時間こそが具体的で価値のある現実的なものなのであって、それにくらべれば文学賞などというのはどうでもよろしいただのフィクションだ。
  • 食器乾燥機のなかをかたづけて皿を洗い、風呂も。白湯を用意してもどり、Notionを準備してウェブをちょっと見ると「読みかえし」。ひさしぶりに「ことば」のほうも。一時を過ぎて切りとし、きょうのことをここまで綴って二時すぎ。手の爪が伸びてきており固い感触が鬱陶しいので切りたい。
  • 「読みかえし」: 378 - 382
  • 爪を切った。さらにストレッチも。そうすると三時くらい。ストレッチのあいだ、Sunny Day Serviceの『DANCE TO YOU』をながしていた。これはさきほどFISHMANSの『Oh! Mountain』が終わったあとに似たような音楽の自動ランダム再生でかかったのがなかなか渋いやつで(小沢健二のファーストをちょっと連想させた)、見ればこのアルバムの二曲目である”冒険”という曲だったのでアルバム全部をながしてみたのだ。しかしほかはわりとポップだったりさわやかだったりする色が基調。メロウさがつねにどこかに混じっていて、ぜんぜん悪くないしむしろ良いのだけれど、どこか物足りないような感をおぼえてしまった。Sunny Day Serviceは『MUGEN』だけ知っており、このアルバムは鬱様態で死んでいた二〇一八年のあいだよくながしていたのだけれど、なぜかこの音楽だけ、かけていても苦痛にならなかったのだ。だからといって良いとも感じなかったのだが、ベッドに倒れてながしていればとりあえず気はまぎれる、というかんじだった。
  • 腹が減ったので食パンでも焼いて食うかというわけで上階へ。冷凍庫を見るとふつうの食パンはなかったものの、ちいさめのやつが二枚あったのでそれをトースターに入れ、豆腐も電子レンジで温める。焼けたものにはバターを乗せ、豆腐には鰹節と麺つゆ、そしてそのうえから大根をおろした。持ち帰って食し、そのあときのうの日記をすすめた。もう終わり間近というところまで行ったのだが背がこごってつづけられず、ベッドに避難。ではなくて、このときはたしか五時前まで書きつづけて、両親が帰宅したのを機にあがったのだったか。どちらでもよいが、五時にいたるまえに階をあがってアイロン掛けをした。食事はあまりものがいろいろあって、母親が大根を焼いたりしたほかつくるものもなさそうだったので、台所をはなれて居間の片隅、ベランダに出るガラス戸の脇で籠にためてある新聞をしばった。ビニール紐のながさが絶妙にギリギリで手間取ったが、しばるとそれを持ってそとへ。たそがれてうす青いようになった外気のなかに出てそのつめたさを顔の肌にかんじると、やはり散歩に出たいという気持ちがにじんだが、そうおもうだけでじっさいにはなかなか行動に移さない。駐車場の端にある物置きに新聞を入れておき、なかにもどって自室へ。きのうの日記をすすめ、背のこごりに耐えられず倒れ、(……)さんのブログや(……)さんのブログを読んだ。あと、ひさしぶりに一年前のじぶんの日記も読みかえした。たいしておもしろくねえなとおもいながら読んでいたのだが、出勤のためにそとをあるいているあいだの記述はやはりおもしろく、べつに大した文ではないのだけれどなぜかそれなりの満足感がある。起床時の瞑想は二四分やっており、からだの感覚をよく観察しているようだ。たぶんこのころはまだ二四分だとながいほうだったとおもうが、いまなら余裕である。日記はいまと同様、まいにち現在時に追いつけることができず苦慮しているようすで、そのくせ読んだ本からの、書抜きではなくこまかなメモもがんばっており、この日の記事の最下部にもツェランポール・ド・マンの文をいちいち記録しているが、読み返すのがめんどうくさい。とはいえやはり、些細な箇所でも写しておくというのはそれだけでも価値あることだとはおもう。いまはもうまいにちの日記に記録しておこうとはおもわないが。すこしだけ良いとおもったことばづかいなどそのくらいのものでも書抜きとおなじくくりにしてしまって、写して「読みかえし」に送りくりかえし触れるようにすればよいのではないか。
  • いま零時前。古井由吉『詩への小路』の書抜きをしている。『Becca Stevens & The Secret Trio』をBGMにしながらやっていたところ、終わって例の自動再生でややフリーっぽいジャズがながれて、なにかと見ればSam GendelとSam Wilkesだった。『Music for Saxofone & Bass Guitar More Songs』というやつ。それでこれはあたまから聞こうとながしてみれば、めっちゃいいじゃん、という音源だった。これはひとにすすめられる。乗れるぞ! 曲ごとにけっこうタイプが違っているがどれもかっこうよい。二曲目の”Welcome Vibe”というのは要はColtraneの”Welcome”なのだが、この曲はこういうアンビエント的なやりかたがはまるのだなあ、とおもった。Sam Wilkesの『Wilkes』の冒頭できいたときにはそうかんじなかったのだが。このアルバムはもともと『Music for Saxofone & Bass Guitar』という音源があって話題になったものの追加続編らしく、トラックごとの長さはけっこう短くて、たしょうセッション、というと違うだろうけれど、ふたりでいろいろやった曲のネタをおさめたみたいな雰囲気だが、どれもよい。
  • 入浴前にOrquestra Afrosinfonica『Orín, a Língua dos Anjos』をながしつつ瞑想というか静止。その後、風呂のなかでも湯に浸かりながらけっこう停まって、いいかんじにからだがほぐれた。やはりちからを抜いてなにもせず、存在を軽くすることだな。夜半すぎにひさしぶりにカップラーメンを食ってしまったが、胃腸に問題はなし。四時まで夜ふかししてしまった。