2022/1/26, Wed.

 ――認識とは事物を見ることだ。しかしまた、すべての事物が絶対の中へ沈むさまを見ることだ。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、11; 「1 ふたつの処刑詩」; フセイン・アル・ハラージ)



  • 一〇時ごろに正式な目覚め。それいぜんにも覚めた記憶はある。天気は曇りらしく、カーテンが白けた色になっている。布団にはいったまま深呼吸をしたり腹を揉んだりして、一〇時半に起床。からだのかんじはよかった。あまりこごりがない。水場に行ってきてから瞑想。一〇時三七分から一一時一九分までだから四〇分強。だいぶのながさになった。さいしょの五分くらいは深呼吸して、その後静止した。起き抜けだからさすがに脚とか腰とか固いのだけれど、ずっと座っているとからだの各所にピリピリと、筋肉がゆるんで伸びるような泡の破裂感が生じるとともに、それもやわらいでくる。このまま習慣的につづけていれば、ふつうに一時間ずっと座っていられるようになるな、という印象。あらかじめ脚をほぐしておかないとさすがにきついが。
  • きのう読んだ藤田一照の記事では、坐禅をやると心身がリフレッシュするなどの効果はたしかにあるが、それはあくまで副産物、副次的なものにすぎず、それが坐禅であるわけではない、その程度のものではなくてもっと深いものだ、と述べられていたが、じぶんなどはしょせん俗物なのでこの心身が高度にまとまるという効果のためにやっているようなものである(それに、坐禅とおもってやっているわけではないが)。藤田一照によれば、坐禅はやはりさまざまな苦しみとか迷妄のもとである「我」からはなれる実践で、仏教の縁起思想は、すべてのものはべつのものとのかかわりやつながり、すなわち諸条件によってなりたっているものだとかんがえるから、「我」も実体として永遠不変のものではなく、それが成立する条件とはべつの条件を用意すれば、変容させたり組み替えたりできるということになる。その条件を整備するのが坐禅であると。じぶんはべつに悟りをひらこうだの我執を捨てようだのめざしていないが、人間、存在していればそれだけでかなり疲れるものなので、その疲労感をたしょうなりとも減らしたいという欲はある。自我からはなれ、その重荷から解放されるというときに、やはり身体性がそこに介在するのが順路であるような気がする。たとえば歩くこともそうだろうし、ひとによってはダンスが存在の自由の実現だったりするだろう。音楽の演奏もそうだし、さまざまな武道やスポーツのうちにそれをかんじる人間も多い。これらは動くこと、からだの動きのうちにおのれを溶けこませ、存在をそこに拡散することでつかの間であっても自由の感覚を生むわけだが、坐禅がそれとくらべてユニークなのは、まったく動かないという正反対の状態のうちでそれを実現しようとすることではないか。いずれにしても、(現代?)生活のうちで忘却されている身体性の回復、という言い分にはなるのだとおもう。
  • 上階へ行き、母親にあいさつしてジャージにきがえる。このころにはうすいけれど陽の色が窓の外にみえていた。川向こうの樹々や山は淡いあかるみに前を降られてほんのわずかかすみやわらいでおり、室内、身のまわりではあかるさにきわだつではないが埃の粒がとおくちかく舞い、微小さのなかにも差異をしめしてみじかい空間の奥行きをあらわす。服をきがえる手足のうごきで埃は瞬時、はげしく旋回した。
  • 洗面所で髪を梳かし、うがい。食事はかなり水っぽい、ほとんど汁になっているおじやと細麺の煮込みうどん、あと冷凍してあった天麩羅。父親は山梨に行っているらしい。天麩羅をレンジに入れ、うどんの麺を鍋に入れて加熱しているあいだに便意がもたげたのでいちど火を切ってトイレに行った。腹を軽くしてから食事を椀に盛り、卓について食べる。新聞を見ると一面に共通テストで問題の流出があったという記事が載っていた。試験時間中に世界史Bの問題が流出したと。東大の男子学生ふたりが画像を受け取り、その場で解いて解答を送信者におくりかえしたというが、かれらはその時点では共通テストの問題だとはおもわず、あとで不審におもって届け出たらしい。送信者というのは高校二年生の女子を名乗る人間で、一二月に家庭教師募集のサイトに登録しており、うえの東大生ふたりが申し出ていたところ、教師としての実力を測るといって一月一五日にくだんの問題がおくられてきたという。ほか、国際面で、シリアのISISの人間を収容している施設がISISの残党により襲撃されたという報を読んだ。ぜんぜん知らなかったのだが、もう六日目で、二〇〇人規模の襲撃があったという。収容所には三五〇〇人くらいの戦闘員がとらえられていたようだ。だいたいもう鎮圧されたようだが、いちぶ戦闘員や収容者が人質を取ったりもして抗戦をつづけているらしい。ISISの勢力がいまだちからをうしないきってはいないことを示すものだと。
  • 母親のぶんもいっしょに皿を洗い、風呂も。風呂場の窓からは青い空がのぞき、空気のながれもたしょうあるようだった。出ると白湯を持って下階に帰り、Notionを用意して「ことば」と「読みかえし」を音読。一時まで。それからきのうの記事をわずかに書き足して仕上げ、きょうのこともここまで綴った。一時四〇分。
  • 「読みかえし」: 382 - 384
  • 脚をほぐしたかったのでベッドにころがって三島由紀夫金閣寺』(新潮文庫、一九六〇年)をすこし読んだ。金閣が空襲で焼かれあしたにもこの世から消えてしまうかもしれないという可能性に気づいたことで、それは「いわば現象界のはかなさの象徴」(58)と化し、「悲劇的な美しさ」(54)をいや増した、というとらえかたが語られている。また、その美をもとめるあまりということなのか、「京都全市が火に包まれることが、私のひそかな夢になった」(60)とか、「私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなものを夢みていた」(61)などということばもみられる。こういう観念は、滅びの美学というのか、じぶんもいったいどこで知ったのかわからないが、三島由紀夫にかんして流通している通念的なイメージと一致しているようにみえる。ある種の破滅願望とむすびついたものと読んでしまってよいのか、それじたいにはじぶんはぜんぜん惹かれないというか、つきあってられんわというかんじではあるけれど、それでも記述としてはそこそこ書けているようにおもえたので、まあ書き抜こうという気にはなったし、こういうかんがえかたが、戦時下とかこの小説が発表された当時に生きていたある種の(文学的な)人間にとってはリアリティを持っていたのではないか、というのはなんとなくかんじられるような気がする。話者じしんも、この夢想を「暗黒の思想」(61)と呼び、「美ということだけを思いつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである」(62)などと説明しているが。
  • 二時をまわったところまで読み、それからストレッチ。二時半までからだをほぐして上階へ。洗濯物を入れる。タオル類を畳み、おじやのあまりを火にかけ、四個入りのちいさなくるみパンがあったので二個もらってレンジでちょっとあたためた。室に持ち帰って手早く食べ、またのぼって食器などを片すとあたらしく米を磨いでおき、そうして歯磨き。電車で行くと余裕がすくないし、自由の時間を確保する意味でもほんとうはあるいていくべきなのだが、出かけるまえにもういちど瞑想もしたかったし、電車を取ることに。きのうの夜のうちに(……)くんの授業であつかう英語長文を読んでおいてよかったなとおもった。やはり余裕があるうちにやるべきこと、やらなければならないことを片づけておくのが吉だ。スーツにきがえると枕のうえに座った。三時八分くらいからはじめて二八分まで。座っているあいだ窓外では子どもたちが数人あつまって遊びまわっている声がにぎにぎしく聞こえていたのだが、とちゅうまでその声はほぼ認識されておらず、耳にはいっていてもあたまは意味をとらえておらず、とおくから飛行機の気配が空をつたわってくるのが聞こえたときに、そこからつながってようやくはっきりと焦点化されたのだが、そうして聞いてみると意味をもった声というよりも風の音とか動物の鳴き声みたいな環境音のいちぶのようだな、とおもった。鬼ごっこをやっているらしく、沸騰した鍋のなかをおどる泡のように行き交い走りまわっているさまがいきおい目に浮かぶ、さんざめく笑い声のかがやかしさだったが、じっさい、つぎは誰が鬼だのなんだのことばをかけあっているあいまあいまで高らかに伸び上がる笑い声の音調ゆれ方しなり方といったら、ほんとうにある種の鳥声とききわけられない、ほとんど物質的な耳触りだった。
  • 切りにして姿勢を解くとベストすがたのうえに羽織っていたダウンジャケットを脱ぎ、ジャケットを着て荷物を用意し、出発へ。居間にあがると靴下を履き用を足して手を洗い、うがいをちょっとするとともにカーテンを閉めてコートをまとった。マフラーもつけて玄関に行き、そこに置いてある紙箱からマスクを一枚取ると黒々と光沢をはなつ革靴を履き、余裕があるのでスポンジで少々こすってもおいて(はやくも靴先にほんのわずか疵があるのだが、これはじぶんに側溝のうえをあるきがちな傾向があって、そのとき蓋のすきまに足先をちょっと引っかけてしまうことがあったのだとおもう)、眼鏡をいったんはずすと鏡にむかってマスクをつけた。そうしてそとへ。道に風がながれていたが寒さはない。沿道の家並みのかなたにのぞく南の山や川向こうの景色はあかるみをかけられ穏和に煙ったようになっており、あたりに暖色はみられるものの電柱の碍子などにあたって跳ね返るほどのつやはなく、ひかりのもとがおそらく雲にふれられているらしいとみながら行けば、北西の空につかの間あらわれる太陽のまわりは真っ白で、雲混ざりか否かも判じられないが、ひだりてに東から南へおおきくひろがる反転海のごとき空には崩れもみられず、ただ水色ばかり充溢している。太陽はまもなく、こずえのなかに編み取られた。(……)さんが車庫で台かなにかに乗りながら車の屋根を掃除していたのであいさつ。行ってらっしゃい、と返す声のたしょう息切れ気味だった。坂道に折れてのぼっていくとのり面の壁にあらわれている木漏れ日も淡い。カーブのまえではみぎての木立のなかにも陽がすこしとおっているのが観察されて、ここにも入るんだな、とめずらしく見た。
  • 最寄り駅の階段を行くと左方から陽射しがそそいでくるが、ちょっと温む程度の淡さにすぎず、目をやれば林の上端に接しかかった太陽は純白よりも白いまばゆさにみずみずとふくらんでいるけれど、ひとみを射抜くほどのつよさもそこになく、晩秋頃まで日によってときにのこっていた肌に染み入る液状の熱が慕われるようだった。ホームの奥に立てばきょうは風があってレールの周囲のわびしい草も揺らされている。まっすぐひだりからひかりが送られあたりは弱い琥珀色に封じられたいろどり、正面の丘に間近な若緑の樹がその色のなかで風におとなしくうねっていた。
  • 電車に乗り、着席。目を閉じて待つ。瞑目のあいだ、なんか長野県とか新潟岐阜あたりにでもありそうな、まったき雪景色のやまあいで深い谷のうえを無重力のごとくながくわたる鉄道橋のイメージが脳裏に浮かび、そこを行く列車を舞台にした小説の書き出しがうずきかかったが、むすぶことはなかった。列車のなかというのはけっこう舞台になる気がして、そこからはじまる小説もたぶんおおくあるのだろう。代表的なのはもちろん川端の『雪国』か。あまりよくおぼえていないが、そとの風景とガラスに映る車内のようすとがオーバーラップしたような描写が冒頭近くにあったのが『雪国』ではなかったか? 書き出しでないとしても列車内がとちゅうに描かれる小説となればこれはめちゃくちゃたくさんあるはずで、だいたいそこで登場人物はそとをながめて物思いにふけったりする。ムージルの「愛の完成」が、それをもっとも過剰に、畸形じみて先鋭的にやった例だ。
  • (……)に着くと降りて階段をいつもより早足に軽くくだっていく。駅を抜けると職場に急ぎ、裏から鍵開け。そうして勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)八時一五分ごろ退勤。(……)そうして職場を出て、駅へ。ホームに出て乗車。席について瞑目し、待つ。最寄りで降りると軽い足取りでゆっくり駅を抜け、坂道へ。帰路にたいした記憶はない。(……)くんの授業のことなどかんがえていて、あまりまわりを見なかった。寒いので脚もはやまったもよう。帰り着くと手を洗い、帰室。服をきがえてからちょっとベッドで休み、その後瞑想。BGMにOrquestra Afrosinfonica『Orín, a Língua dos Anjos』。ビッグバンドもおもしろい。このオーケストラはブラジルのバイーアサルヴァドールのもので、南米の音楽らしくリズムが切れている。パーカッションの音がよい。女性コーラスだけではなく、曲によってはボーカルも入っており、五曲目などやたら朗々としていて、へんなはなし演歌みたいな手触りがあり、いっぽう曲調はあかるくポピュラーなものでチャートに乗っていてもおかしくなさそうだなとおもった。音楽性はもちろんぜんぜん違うのだけれど、色調として、Brian Mayがソロアルバムでやっているようないちぶの曲をおもいだした。とくに”Too Much Love Will Kill You”。六曲目のとちゅうまでで切り。
  • 食事へ。煮込みうどんの残りやチキンソテーなど。夕刊で追悼抄を読んだ。ヴァージル・アブローとコリン・パウエル。アブローは四一歳だかで若く亡くなったが、心臓がんだったらしい。パウエルは軍のトップまでつとめながらもベトナム戦争の経験から軍事力行使には慎重で、戦いに参加しない人間は殺さないことを信条としており、ひとを殺さない軍人みたいに言われていて、ブッシュ政権イラクに攻撃しようとしたときも反対していたのだが、押し切られて会見で大量破壊兵器保有の疑いがあるという口実を表明せざるをえなくなり、のちには生涯で最大の汚点だと悔やむことばをなんどもなんども口にしていたという。あのあたりの経緯とか歴史とかもきちんと勉強しておかなければならない。
  • 母親がテレビを見たりして風呂にはいらずにいたので食後は帰室し、Abigail Beall, “The mystery of how big our Universe really is”(2021/3/29)(https://www.bbc.com/future/article/20210326-the-mystery-of-our-expanding-universe(https://www.bbc.com/future/article/20210326-the-mystery-of-our-expanding-universe))を読んだ。入浴は零時前。湯のなかでも静止。瞑想というか静止しているとなぜなのかわからないがマジでからだの各所細部がしぜんとやわらいできて、なんか筋肉がこまかく剝がれてスペースがひろがるみたいな感覚が生じるのだけれど、背面の端とか、ここの筋肉っていままでほぼ動かしたことないのでは? みたいな場所までときにうごめく。やっぱり血流がスムーズになって、ということなのか? 生理的なしくみがまるでわからん。出るとこの日の日記をすすめたが、一時台でちからつきたはず。その後はだらだら過ごして寝るのは四時四〇分と遅くなった。