――神を探す者は、啓示の先を駈ける。神が探す者は、啓示がその駈足を追い抜く。
(古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、13; 「1 ふたつの処刑詩」; フセイン・アル・ハラージ)
- 九時ごろに意識がはっきりともどった。そのまえにも何度か。きのうはかなりあたたかい日だった印象だが、きょうは布団のしたにはいっていても空気がつめたかった。呼吸しながら脚を伸ばしたり、あるいは足の裏を合わせた体勢で太もも周辺をやわらげたりして、九時四五分に離床。水場に行って顔を洗うとやはり水がつめたい。口もゆすぎづらいし、うがいもまだする気にならない。用を足してもどってくると瞑想。一〇時ちょうどくらいから。きのうは五〇分ちかくも座ったわけだが、そんなにながくやらなくてもよいだろうとゆるくかまえた。なにごともやりすぎはよくないし、あまり耽溺してからだの調子がくずれ、いわゆる禅病になっても困る。結果、このくらいかなと目をあけると一〇時三五分まで。きょうは瞑目のうちの意識があまり明晰でなかった。眠気が混ざるというほどではないが、うまくひらいていかず、狭くおさまってやや曇ったようなかんじ。
- 上階へ。母親は買い物かなにか出かけているらしく不在で、父親が台所に立って洗い物をしていた。仏間の箪笥からジャージを取ってきて着替える。フライパンにはカレーがつくられてあった。洗面所にはいって爆発していた髪に水と整髪スプレーをかけてたしょうおさえ、うがいをくりかえしした。それから食事。カレーときのうつくったタマネギとゴボウの味噌汁ののこりと、大根とニンジンをスライスしたサラダ。ケンタッキーは食わず。新聞、きのうの夕刊ですでに見ていたが、埼玉県ふじみ野市で男が人質を取って家にたてこもり、医師ひとりが死亡した事件の報。男は六六歳くらいだったか、しごとをせずに九二歳の母親の介護をずっとしていたらしく、医師は在宅医療法人みたいなものに属しており、母親の診療を担当していて、介護をめぐってなにかトラブルがあったもようと。この医師は母親の死亡にも立ち会った。当日は弔問におとずれていたという情報もあったが、きょうの新聞によれば、事件のまえにかれは男に呼び出されたらしく、ずいぶん多いが六人のスタッフを連れておとずれたところ、悶着が起こって散弾銃で撃たれたらしい。ほかのふたりも重軽傷。あと四人は避難し、そのさいに男が持っていた銃二本のうち一本をとりあげたという。立てこもっているあいだ警察は人質の解放など呼びかけたが、男は人質は大丈夫だとこたえるばかりでなにも要求をせず、状況がすすまないので救出のために突入に踏み切ったと。閃光弾的なものを投げこんで踏み入ったらしい。なかの寝床には母親の遺体があったと。
- ほか、これもきのうの新聞にも出ていたが、佐渡ヶ島の金山を世界文化遺産登録へ推薦するか否かという件。けっきょく岸田首相が推薦を決定。安倍晋三を筆頭にその周辺の人間、たとえばわるくいえば子飼いといえるだろう高市早苗など、自民党内の保守派が推薦するべきだと口々に主張しており、政権安定のためにその声を優先したかたちだと。安倍は二〇日および二七日と自派の会合でつづけてこの件を口にしたといい、いわく、議論を避けるかたちで推薦をしないのはまちがっているとか、韓国に「歴史戦」をしかけられている、戦うべきときは戦い、出るときは出るべきだ、みたいな主張をしたらしい。韓国が「歴史戦」をしかけているというのは、佐渡金山は韓国人(というか朝鮮人か)が強制労働させられたばしょだという、推薦への反対意見を指している。自民党内保守派は韓国の言い分には根拠がないとか、文化遺産としての価値の対象になっているのは江戸時代の金山のことで、韓国が言っている時代とは違う、などと反論している。この件はもともと外務省が推薦見送りにむけて動いていたらしい。というのも、ユネスコの審議会はいちおう参加国(たしか二一か国とあった)の三分の二いじょうの賛成で可決できるルールなのだが、じっさいには全会一致が原則となっているらしく、となると韓国が反対するのは事前にもう見えているから、推薦をしたところで登録にまではいたらない、という見通しだったと。しかし自民党内保守派にはそれが「弱腰」と映った。それで問題をぶち上げて圧力をかけ、ほんらい首相が最終決定をする問題ではなかったのを岸田にゆだねて決めさせたと。安倍晋三とその周辺としてはうまくはたらき満足の行く結果になった、というところだろう。党内にはしかし、もっとしずかに推薦すればよかったのだ、という声もあるらしい。こんなにおおごとにすることはなかった、ということだろう。その声の主は、外務省の党との調整不足がまねいた事態だとも批判していた。保守派と折衝し、推薦は出すがあまりおおっぴらな動きにしないという合意を取りつけるべきだった、ということだろう。
- 食器を洗い、風呂場へ。栓を抜いてのこった水がながれていくのを待つあいだ、窓をあけてそとをながめた。微風がながれており、林の最外縁の竹が薄緑の葉の群れを上下にやわらかくふわりふわりと、水中を舞う生物のように浮き沈みさせ、またなびかせている。きょうは空が曇っているので大気にこれといった色味はなく、白けたようなしずかな無色で、道路の端にはナッツをよく砕いてまぶしたような落ち葉のたまりが帯なしているが、それももう、さして厚くない。
- 出ると蕎麦茶を持って下階へ。コンピューターを用意。ゴルフボールをふみながら「読みかえし」を読む。きょうはFISHMANSの『Oh! Mountain』ではなくて、『Neo Yankee’s Holiday』をながした。一二時過ぎまで読むと、LINEに”(……)”の音源があがっていたのできくことに。デスクにコンピューターを乗せ、スピーカーアンプにつながっているケーブルをChromebookのほうから挿しかえ、スツール椅子に座って目を閉じて聞く。聞いていて気持ちのよい、きれいな音質になっているとおもった。ボーカルにこちらがこだわるほどのところはなく、伴奏に一点だけノイズが聞こえたので、その旨コメントしておき、ストレッチ。『New Yankee’s Holiday』の”Walkin’”はすごくいい曲だとおもう。よくできているとか巧みだとかいうより、たんに好きである。
- 「読みかえし」: 414 - 419
- それからここまできょうのことを記して二時をまわった。YOUR SONG IS GOODというバンドを知った。なかなかよさげ。インストバンドらしい。カクバリズム所属で、カクバリズムといえばceroが属しているレーベルだ。
- つづけてきのうの日記を進行。さいごまで綴り、しあげる。投稿するともう四時ちかくだったとおもう。からだがこごったのでベッドにたおれてコンピューターを持ち、ウェブをみた。三島の『金閣寺』もさっさとすすめたいがあまり意欲がむかないし、二月一三日に会合があって『ガンジー自伝』を読まなければならないし、いったん止めてガンジーのほうを優先するべきかもしれない。四時四〇分ごろまで足をつかって足を揉み、上階へ。アイロン掛け。そのまえに湯呑みを台所へ。母親は炬燵にはいっており、カレーしょっぱかったよね? といってくるので肯定する。炬燵テーブルの端に台をのせてエプロンにアイロンをあてながら、米炊く? あたらしく炊く? と三度くらいきいてみたが、イヤフォンをつけて音楽をながしている母親はすぐそばにいるのに声がきこえないらしく、手もとのタブレットに目を落としたままで反応がない。あきらめてアイロン掛けをつづけていると、五時前になって立ち上がり台所に行ったかのじょは、お米炊くようかな、とこちらとおなじことを漏らしており、カレーもあるしこれじゃあ炊くようだねという結論にいたっていた。正面の窓からみえる南の空は、なんどもなんどもこすられて色をけずられ抜かれたような淡青のうえに、断裂した潟のような雲がぐずぐず浮かんでいる。数分すぎるとその色に、ほのかな赤みがまざっていた。父親が帰宅。七時半からまたなにかの会合にでむくらしい。アイロン掛けを終えると台所に移り、手を洗って、炊飯器にのこった米を皿に。コーヒーを淹れた父親が冷凍されていた饅頭をあたためるためにそのへんを出入りする。米を磨ぐ準備として流しをかたづけないといけないので、まず乾燥器にはいっていた食器やパックのたぐいを移動させ、流しにあったものを洗ってそのあとに移し、炊飯器の釜も洗い、生ゴミをビニール袋に入れると洗い桶も洗剤できれいにする。そうして母親がザルにはかって持ってきた米を磨いだ。右手がつめたいが、しかし骨にひびいてジンジンするほどの痛みはなかった。釜に移し、水をそそいでセット。食事はカレーもあるしチキンもあるし、サラダものこっているしでやることはない。腹が減ったと言うとあまりの米をおにぎりにして食べればと言った母親が、鮭フレークをまぶしたおにぎりをつくってくれていたので、それをいただいてワイシャツとともに下階に帰り、もぐもぐ食べてからここまで書き足した。五時半。
- 書抜き。いま読んでいるとちゅうの、三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫、一九六〇年/改版二〇〇三年)。読んでいるさいちゅうからどんどん書き抜いてしまうのがほんとうはやはりいちばんよい。むかしはいつもそうしていたのだが。書抜き用メモノートに記しておいたページはすべて終えた。手帳にメモしてあったほうをわすれていてまだ。音楽はFISHMANSの”バックビートにのっかって”をループでながしたが、この曲はひじょうによい。最高である。「世田谷の空はとてもせまくて 弾けだすにはなにか足りない あの娘はいまも愛をはなって バックビートにゆられてく」とか、泣いてしまう。ひたすらループさせてそれにのったり、ときおり目を閉じてきいたりしながら打鍵していたが、さすがに満足したので変えようとさぐり、□□□の『マンパワー』をながした。□□□というのはいとうせいこうがラップをしているユニットだという認識しかなく、ヒップホップだろうとおもって、だからきいてみようとえらんだのだが、ぜんぜんそうではなかった。ポップスだった。二曲目の”合唱曲 スカイツリー”というやつがやたらながい一五分くらいの曲で、とちゅうで演劇的な多人数での会話があったりとか、合唱としての旋律のかさねかたとか、ぜんたいの構成とかもおもしろいのだけれど、いかんせん序盤の色調など、ちょっと感傷にながれすぎかな、とかんじてしまった。コードやメロディにしても、うたいかたにしても、音像にしても、そこまでストレートにやられるとのりきれないというか。そのつぎの”YOU & I”はかなりよくかんじた。そのつぎのベースのソロ曲もけっこうよかった。そのつぎはまた歌もので、ポップスとして定番の、ほとんどJ-POP的な進行を取り入れながらもそれをうまく崩すような展開をこころみているふうに聞こえたが、このユニット、もしくはこのアルバムは、ポップにするところは恥じらいも衒いもなく正面切ってひたすらポップにしよう、というやりかたを取っているのかな、とおもった。そしてその部分がじぶんにはかんぜんにはのりきれず、ほかの部分がいろいろ巧みで高度につくりこまれているのはわかるのだけれど、きいていて疲れてしまうような感覚をもった。音質にしてからがそうというか、録音とかミックスとかでなんかJ-POP的な音像、メジャーどころの音像というのはやはり一般的にあって、そういう音質と、いかにもなやりくちがむすびつくと、どうも重くきこえてしまう。三曲目の”YOU & I”はその点かなり色がちがう気がしたが。アメリカとかイギリスの、九〇年代か二〇〇〇年以降の新世代のバンドみたいな音、という印象をえた。まだ五曲目までしかきいていないし、こんどまたながしてみるつもり。
- 書抜きのあとはからだがこごったのでベッドに避難し、一年前の日記を読みかえした。日記の読みかえしと、過去記事の検閲もほんとうは着実にすすめていかなければならない。2021/1/29, Fri.はさいきんと言っていることがあまり変わっていない。「兄のメールは、まだきちんとは読んでいないのだけれど、八年も日々文を書いてきたのは大したものだし、やっぱり何か文章を書いて金を稼ぐ仕事ができたらいいんだが、みたいなことが記されてあった。それでタオルをたたみながらこちらも、やっぱりそれしかねえかなあ、とちょっと思った。大したものでなく、ちょっとした記事をつくる請負仕事みたいな感じでも、多少はやはり、文を売らないと生きていけないかなあと。それはそれで勉強になるだろうし。正直、ちっともやりたくはないが。やるとしても絶対に副業だ。「ライター」などという肩書は絶対に持ちたくない。しかし、最初から金にするための文と決めてつくれば、自分はそこそこ熱心に、良いものをつくろうとする気がする」などというのはこのあいだかんがえたこととおなじである。「「ライター」などという肩書は絶対に持ちたくない」という断言にはちょっと笑った。でもやはり、文を書いて金をえるしごとには興味わかないな、とおもう。(……)さんには先日やったほうがいいとすすめられたし、この一年前のメールでも兄はそう言っているようだが。それだったら塾講師いがいにもなにかバイトをするか、あるいはもうすこし条件のよいべつの職にうつってかつがつやっていくほうがいいな、とおもう。
- 「ともあれ、ひとつひとつの瞬間や行動に丁寧に意識をはらい、それにつくこと、あるいは寄り添うこと。それがすなわち、パウル・ツェランが述べていた「心づかい」ということではないのか? 行為を、ますます、小さくしていくこと」などとも言っているし、行動をしずかにしていくこと、とかも書きつけているが、これもいまのじぶんと親和的ではある。ただ、いまはもう、「ひとつひとつの瞬間や行動に丁寧に意識をはら」うという、マインドフルネスの徒が口にしそうなことをやろうなどとはおもっておらず(そういえばきのうの夜にGuardianのMeditationのカテゴリをのぞいて知ったのだが、ティク・ナット・ハンが死んだらしい)、とにかくちからを抜いて楽にやるというのが根本だとおもっている。瞑想というのもそういうことだと見極めた。文を書いたり、音楽をきいたり、風景を見たり、短歌をかんがえたりするのもそう。どれだけちからを抜けるかというところに尽きる。こちらの意思とか欲求とかにもとづいてあれこれいじりまわさず、みちびかれるうごきやかたむきをキャッチするというか。磯崎憲一郎みたいないいぶんになるが。しぜんとかあるがままというのはそういうことでしょう。しずかにやるというのもそういうこと。うごきをとめて目をとじればおのずと浮かんでくるものはあるし、なければそれはそれでよいわけで、そこにあらしめられたものを拾えばひとまずよい。思考をするにしても、それをあまりこちらでこねくりまわすのではなく、思考じたいの揺動にまかせ、そのうごきをさまたげずにじゆうにしてやる、というか。去来である。向井去来はいいなまえをつけたな、と毎度おもう。
- 気候にかんしては、「空気は相当に冷たく、寒いと言うほかない夕刻で、ものを食ったばかりだしまだ夜でもないのに身も震える。激しい、その苛烈さが鮮やかとすら言っても良いような、堂々とした正統的な冷気だった」という箇所の後文がすこしだけおもしろかった。あと、『ドキュメント72時間』について評言している。まあ、まあまあの書きぶりかな、という印象。
(……)この番組だと、ある一定の場所にそのとき偶然つどったひとびとがおのおの過去語りを提示して、人生の断片が集積されるのだけれど、それらのあいだにはむろん何の関係もなく、それが並べられることができるのはただそのときおなじ場所にいたという純然たる偶然性のゆえでしかない。提示される人生の断片は、不完全で、そっけなく、構成的に過不足ないかたちに収まらず、物語の切れ端にすぎないし、ひとびとが生を回顧するその言葉自体は表象力に富んだものではなく、カメラが映し続けるのは回想ではなくて、いままさにその回想を語っているひとびとの現在の姿である。そこからおのおのの時間の厚みと蓄積と、それらの集合の、抑制的な豊かさとでもいうようなものが香り立つのだけれど、こういうかたちで提示される生と、存在の感覚というものにこちらはめっぽう弱い。何かがそこにある、あった、という感覚がまざまざと立ちあらわれるとき、こちらはほぼ無条件に感動し、たびたび涙を催してしまうという性質を持っている。この番組はおりおりそういう感覚をもたらしてくれるもののひとつであり、「そこにある事物や人間や風景を、あまり演出を加えずに撮っているたぐいの番組が、テレビでは一番面白い」と上に書いたのも、そういう観点からの評価である。この番組みたいなことを小説でやるとなると、たぶん、ヴァージニア・ウルフが「キュー植物園」でやったことの発展というようなかたちになるのだと思う。そういうものを自分でもいつかやりたいような気はする。というか、『ダロウェイ夫人』がまさしくそういう作品なのではないかという気もする。テレビ番組と比較すると、あれは少々内面に立ち入りすぎではあるが。いわゆる「意識の流れ」、ひらたく言って内面性の描写ではなく、場所と事物と時間と風景を主人公にして、『ダロウェイ夫人』と似たようなことができないか。
- ここまで書いて八時一〇分。
- 夕食へ行った。カレーや野菜炒めなど。ケンタッキーのチキンはまた食わず。新聞、国際面。フランスとトルコがロシアとウクライナの仲立ちに熱心だという記事。フランスはもともとドイツとともにミンスク合意を主導していたし、マクロンがまえまえから米国にたよらない欧州独自の防衛安全保障をとなえており、ロシアのウクライナ侵攻をゆるすとヨーロッパにとってよろしくないだろうと。トルコはNATO加盟国だが、防衛製品の輸出入などでロシアともウクライナとも交流があるらしい。
- テレビは『モヤモヤさまぁ~ず』。千葉県の流山市。なにかの会社か事業所みたいなところをたずねて、職員が一〇〇キロくらいあるという馬鹿長いなにかの素材(木材?)をもちあげてはこぶのを見たり。その会社は阿波おどりの連をつくっているらしく、数人でのおどりが披露され、母親が、あれじゃあつかれるだろうねともらすのに、なかのひとり、扇をもった男性が腰をだいぶしずめてかまえながら軽快におどっていたので、あれだけ腰を落とせばそりゃつかれるわな、足腰がしっかりしてるね、とコメント。
- 食後はそのまま風呂にはいった。瞑想もしくは坐禅においては身体(性)が開示されること、その身体(性)をもってひとは現在と接していること、瞑想は差異を受け止めつづけるおこないだが、差異を取りこむことは傷つくことでもあるので、それによる生成変化を無条件に称揚するのは慎重でなければならないこと、瞑想はすくなくともブッダにおいては最終的に苦痛から逃れるための手段だったはずなので、そこで差異による傷がどのようにかんがえられていたのか疑問だし、じぶんの実体験としてもいまや苦は生じないということ、苦が差異による変容のあかしなのだとしたら瞑想によって主体は変容しないのかもしれないこと、もしくはそもそも本意として変容がめざされていないのかもしれないこと、そうだとしたらそれはもともと仏教では主体の本質などというものはないとかんがえられているからではないかということ、つまり無限に持続する生成変化(永久革命論に通ずる)とはその都度とりまとめられひとまず堅固に成り立っている状態を前提するが、仏教的にはそのような状態がそもそも成立せず、永久革命がある状態をべつの段階に革命していくそのうごきが追いつかず間に合わないようなありかたがかんがえられているのではないかということ、すなわち仏教においてはわれわれが差異を取りこんで生成変化するのではなく、われわれが差異そのものなのではないかということ、もしそうだとすればそこから利他的な倫理精神が生じているのではないかということ、それは実体的なじぶんの存在を前提とする自己犠牲とはちがうだろうということ、などを湯につかりながらおもいめぐらせた。おもいはけっこうめぐったが、詳述はめんどうくさいので避ける。今後またかんがえて書きたくなればそのとき書くだろう。
- 出ると九時すぎ。ちょうど父親が帰ってきていた。下階へ。デスクについて、三島由紀夫の『金閣寺』のうちわすれていた手帳のほうのメモページも写す。一年前の日記でもやっていると記されているが、ささやかだけれど気になった細部もとりあえず写すだけは写しておく、というのをまたやってもよいかもしれない。文を写すにあたってふたつの基準が生まれることになる。ひとつはまいにちの記事の冒頭に引用するほどの「書抜き」にあたるものであり、これは基本、よいな、とおもったり、勉強になるなとか、啓発的な記述だな、とかかんじた部分である。もうひとつはそこまでは行かないけれどことばの表現がちょっとよいとか、この単語ははじめて知ったがじぶんでもつかいたいというときとか、目新しさはないが特徴的におもわれる部分とか、そのくらいのもので、ようするに「書抜き」とまでは行かないが、と感じる箇所である。いまもすでにノートと手帳にわけてそれぞれのページをメモしている、というかしぜんとそうなった。一年前はその日読んだなかから気になった部分をその日の日記に写す習慣をこころみて、けっきょく負担がおおきすぎるのでつづかなかったが、ふつうに書抜きとおなじで、やろうとおもったときにささいなメモも写すようにすれば行ける気がする。
- その後、To The Lighthouseの翻訳。おとといの続き。翻訳ってマジで時間と労力がかかる。数文つくるのに一時間とか二時間とかふつうにかかる。まあ、それはVirginia WoolfでTo The Lighthouseだから、ということもおおきいだろうけれど。段落のとちゅうまでしか終わらず。
Every throb of this pulse seemed, as he walked away, to enclose her and her husband, and to give to each that solace which two different notes, one high, one low, struck together, seem to give each other as they combine. Yet as the resonance died, and she turned to the Fairy Tale again, Mrs. Ramsey felt not only exhausted in body (afterwards, not at the time, she always felt this) but also there tinged her physical fatigue some faintly disagreeable sensation with another origin. Not that, as she read aloud the story of the Fisherman's Wife, she knew precisely what it came from; nor did she let herself put into words her dissatisfaction when she realized, at the turn of the page when she stopped and heard dully, ominously, a wave fall, how it came from this:(……)
夫が立ち去っていくあいだ、この律動のひと打ちひと打ちが彼女と彼をつつみこむようにおもわれ、また、二つの異なった音色が、一方は高いほう、他方は低いほうから行きあたってむすばれたときに分かち合うあの安息をも、二人に恵んでいるようだった。だが、その共振がおとろえ、ふたたび童話に意識を向けたとき、ラムジー夫人はからだがくたくたになっているだけでなく(彼女はいつも、出来事の渦中ではなくて、それが終わったあとになって疲労をおぼえるのだった)、別のところから来るなにか不快な感覚が、かすかながら肉体の消耗感にかさなっているのを感じ取った。とはいえ、「漁師のおかみ」の物語を読み聞かせているあいだ、彼女はその出どころを確かに理解していたわけではない。その不満感を言葉にしてかんがえようとも思わなかったが、ただ、ページをめくるために声を止めるときなど、波の砕ける響きがぼんやりと、不穏にただよって耳に入り、ああ、こういうことかもしれない、と思い当たるのだった。
- 岩波の一文目は、「この鼓動は、夫が遠ざかっていくにつれて夫婦をゆっくり静かに包み込み、ちょうど高低異なる二つの音調が同時にかき鳴らされることで、微妙に溶け合い、たがいに与え合うような安らぎが、その時その場に醸し出されていた」(71)。「この鼓動は」とそっけないが、everyと言っているし、じゃあ「ひと打ちひと打ち」ではなかろうかと。さいしょは「ひと打ちごとに」とかんがえたのだけれど、ここはそういうふうに程度がたかまっていくイメージなのかあやしかったので、それはやめた。every throb seemed to encloseなので、たぶんeveryのひとつひとつは平等で、加算ではないとおもうのだが。
- two different notes, one high, one low, struck together, seem to give each other as they combineは、struck togetherに注目されたもので、strikeなわけだから、逐語的には衝突とかぶつかりあいである。で、ひとつは高い音、もうひとつは低い音と言っているので、それなら「~~から」、両側から、をつかうべきだろうと。衝突の意は打撃感をやや弱めて「行きあたる」にした。ここもさいしょ、「行き逢って」としていたのだが、それだとstrikeの打感が出ないし、イメージとしてもロマンティックで情緒的にすぎる。その要素はその後の「分かち合う」にたくすことにしたのだ。as they combineは結合の意なので、「むすばれたとき」。give each otherが「分かち合う」である。二つの音調がぶつかり合って結合したときにたがいにあたえるsolaceという直訳なので、一体になってひとつのあらたな状態を生み出すイメージと取った。giveはあたえる、each otherはたがいにということで、これをいいかえれば交換だろう。だから「交わし合う」の訳語もかんがえたが、そうすると、ある状態、もしくはsolaceが衝突いぜんに二音のそれぞれに持たれていて、結合のさいにすでに成立していたそれをたがいに送りあう、という含意になりうる。そうではなくて、むすばれたことでsolaceが生まれて、一体となった二音がそれにつつみこまれたというイメージで理解するので、となると「交わし合う」はつかえない。で、そのthat solaceをevery throbがgive to eachするわけだけれど、このeachは夫人とラムジーのことである。giveを尋常におさめてもよかったのだが、ここも「与える」から「恵む」というややニュアンスを帯びたことばが出てきたので、それを採用した。that solaceはふつうに「あの」をつかって問題ないとおもう。それがどういうものなのか読者に共有されていること、読者がすでに知っておりいわれたことを思い当たるであろうことを前提するこういう修辞法は日本語でもつかわれる。
- 二文目もわりと苦労して、意味を取るのは容易だが、それをベストな日本語にうつしかえようとするときわめて骨が折れる。前半はたいしたものでもなかったが、後半のbut also there tinged her physical fatigue some faintly disagreeable sensation with another originに時間がかかった。tingeのニュアンスをどういう語にするかも難点だったし、各所の要素を日本語としてどうならべるかがむずかしかった。結果、faintlyは原文ではdisagreeableに直接はかかっているのだが、だから「かすかに不快な感覚」が忠実といえばそうなのだが(岩波文庫もまさにそうしている)、これをずらして、「かすかながら肉体の消耗感にかさなっている」とtingeにつなげるかたちになった。しかし、いま気づいたが、「かすかながら」と留保的な逆接の「ながら」をもちいているので、そのまえの「不快な感覚が」とのつながりも充分にかんじとれる。で、問題のtingeは辞書を引くと、うっすらと色づけるとか、なにかの色合いや気味を帯びさせるみたいな動詞なので、肉体的疲労をべつの不快感が色づけている、うっすらとそのうえに塗られている、かさなっている、かな、と。岩波は「混じっている」にしていて、これもじゅうぶん成立するが、色づける、帯びる、という意から、じぶんはうすぎぬをまとったように淡く塗られて二重化しているイメージをもったので、「かさなっている」にした。
- あとむずかしかったのはさいごの、nor did she let herself put into words her dissatisfaction when she realized, at the turn of the page when she stopped and heard dully, ominously, a wave fall, how it came from this: で、このあとに、ラムジー夫人の独白的な調子が入ってくるのだが、そこにどうつなげるか? というのが厄介だった。岩波文庫の訳で文脈を確認しておくと、「ジェイムズに「漁師の妻」の話を読み聞かせてやりながら、夫人がその不快感の出所を正確に理解していたというわけではない。ページをめくる際など、岸辺を打つ鈍く不吉な波音を耳にしていると、ふと思いあたることもあったが、わざわざそれを言葉にしようとは思わずにいた。たとえば夫のこと。わたしは自分が夫より優れているなどとは一切思わないし、夫をなだめる時だって、本当のことしかしゃべっていないつもりだ。(……)」という感じで、岩波の訳は従属であるwhen節をさきに持ってくるという、日本における一般的な英語理解の原則にしたがった順序になっている。しかしこれだと、「わざわざそれを言葉にしようとは思わずにいた」のに、直後に独白がはいってきて、心中で言語化してるやん、という印象が生まれてしまう。そこでじぶんは、逆にした。不快感をおぼえていながらもそれをわざわざしっかりことばでかんがえて追及しようとはおもっていなかったが、波音に触発されてふと思い当たり、心中に浮かんでくることがあった、という理路である。これならそのつぎの独白にうまくながれる。岩波はまた、stopの意を盛りこんでいないが、これは読み聞かせている発語を、声を止めたということだろう。だからその空隙のなかに波の音がおのずと聞こえてくるわけである。したがって「声を止める」の一節は必要だし、heardを自発のニュアンスでとらえれば「耳に入り」が適切となる。wave fallとfallを言っているから「砕ける」の一語もあったほうがよいだろう。dullyとominouslyは直接にはheardにかかっている副詞だが、heardは能動性のつよい語ではないとおもうし、この副詞は夫人の心象を言っているはずなので、かのじょの心理を経由してwave fallのほうに転嫁できる。dullは鈍いの意だが、「ぼんやり」もあるのでそれにして、そうすると明瞭でない波の響きが声のとぎれた静寂の間にとおくからただよい入ってくる、というイメージで理解されたので、それに即して「ただよって」をくわえた。さいご、むずかしいのがhow it came from this: で、それがこのことからどういうふうにやってくるか、という直訳だが、itというのは夫人がいま身にかんじているdisagreeable sensationもしくはdissatisfactionのことだろう。thisはコロンがついているから、このつぎにつづく内容を指しているとかんがえられる。だから、不快感のよってきたる原因として、はっきりと考えようとはしていなかったけれど、あ、こういうことがあるんだ、このことからこういうふうにして来ているんだな、と思い当たる(realize)ことがあった、という感じだと理解した。そういうわけで、「その不満感を言葉にしてかんがえようとも思わなかったが、ただ、ページをめくるために声を止めるときなど、波の砕ける響きがぼんやりと、不穏にただよって耳に入り、ああ、こういうことかもしれない、と思い当たるのだった」とおさまった。
- Zaria Gorvett, “The forgotten medieval fruit with a vulgar name”(2021/3/25)(https://www.bbc.com/future/article/20210325-the-strange-medieval-fruit-the-world-forgot(https://www.bbc.com/future/article/20210325-the-strange-medieval-fruit-the-world-forgot))
- 作: 「大罪も降る雨ならば救われんたがいちがいのさだめの環から」
- 作: 「へその緒をむすびなおして君は死におれはガソリンよりもからっぽ」
- 夜半すぎくらいから詩をつくった。題して、「八月の光」。先日(……)くんに、月一の創作会みたいなものに誘われて、まあいちおうやってみるつもりでいるのだが、そういうはなしをされたところわりと意欲が湧いたというか、その直後から詩の断片が浮かぶようなあたまになって、そこにフォークナーの『八月の光』という小説名がむすびつき(全集版の一巻で持ってはいるが読んではいない)、内容もわりと出てきたのを日記にメモしてあったのを、ここでしあげたかたちになる。
去るものばかりがまばゆいわけではない
陽炎すらが水の音に似て
八月は風の疼きちりばめられた緑葉どもの
讃歌を 一息も意に介さず
季節はひたすら多幸に踊り
時間はふるえる 受肉のごとく炎天も影も艶をまぬがれない
ものたちはのこらず官能を知った
鳥のすがたが路上をすべる一瞬とはよろこびなのだ
夏はいま 水であり
昼が止んでも呼吸は止まず
波打つ夜の底にはもう朝が沁み
雲がやって来る 空を慕うため春花のうぶな繚乱の
なじんだなつかしさは厳に捨て置け
しるべとしるしを欠いた生でも
まぶしさのなかに連帯を知ろうだから 風よ
かがやきよ
在るものの在ることをあまねく許し
来るものの声をこばむな そして
去るものをひとしお まばゆく照らせ