われわれ日本人に伝来の舞いの観念といかにも隔たりがあり、あるいは西洋舞踏としても、後世の《象徴主義》の心性にまだ染まっていなかった時代のことかとも思われるところだが、それは措いて、筆者は舞踏家のくりひろげるパラドックスに興味を覚えながら、機械的な人形に、人体におけるより多くの優美さがふくまれるという論に説得されきらずにいると、舞踏家はそれに答えて、人間はその点で人形にはとうてい及ばないとさらに断言する。神のみが、この分野で、物質(である人形)に匹敵する、と。ここに、世界の円(end24)環の両端(発端と末端)がひとつに結び合う一点がある、と。
それでもまだ異様な主張に困惑する筆者にたいして、モーゼの書の第三章、人間の失楽の章が引き合いに出される。このあらゆる人智の発祥の期を心得ぬ人間とは、この機微を語ることはできない、と。この言も機知の運びの内にある。それから一転して、気前よく読者を可笑しがらせる逸話をふたつ挟んだのち、舞踏家の結論はおおよそこうである。
有機の(生命ある)世界にあっては、省察がより暗いほどに、より弱いほどに、その度合いに従って、優美はより輝かしく、より圧倒的に、現われ出る。しかし、もしも認識が無限を踏破したならば、優美はふたたび見出される。かくして優美は、一抹の意識も持ち合わせぬか、でなければ、無限の意識を備えるか、その両極端の姿態において、もっとも純粋に現われる。すなわち、人形か神において。
となると、われわれはまた、知恵の果実を食べなくてはなりますまいな、無垢の状態へ逆戻りするために、と筆者はつぶやく。
もっとも、それは世界の歴史の最終章になりますが、と舞踏家は答える。
(古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、24~25; 「2 人形めぐり」; ハインリッヒ・フォン・クライスト「マリオネット劇場」について)
- この日は朝から通話だったので、八時のアラームで覚醒。しかし寝床にだらだらとどまって、起床したのは九時。瞑想もおこなった。それで食事をとればもう一〇時なので、風呂を洗う暇もなく下階にもどり、コンピューターをもって隣室へ。通話。(……)
- (……)
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- 通話が終わったのは一時半くらいだったか? きょうは三時には家を出なければならなかったので、余裕はない。出勤路の往復は省略するが、この日は両方とも徒歩で行った。行きの天気は文句なしの晴天。歩いているとその振動で下腹が刺激されてやはりトイレに行きたくなったのだけれど、ここにトイレあったんだっけかとみた(……)公園のトイレは改装中で(よく読まなかったが、どうも洋式につくり変えるみたいな貼り紙があった)、そうなるとあとは(……)くらいしか公共のトイレがないが、けっこうさきなのでそれを意識するととたんに尿意が高まってくる。ガタガタ騒ぐほどのことではないがとはいえ危ういなとおもって、(……)グラウンドに隣接した体育館で借りられるのではないか? とかんがえ、そちらにむかって裏にはいらず表を行っていると、とちゅうに(……)の公園があることに気がついた。公園などと言えないくらいのちいささだが、あそこにあるんじゃないか? と。それで行ってみるとそれらしき個室風の建物があるので、ひらいてみればやはりそうである。せまいなかに和式の開口部とタンクが設えられているだけで手を洗うスペースすらない貧弱ぶりだが、天井はひかりをたしょう透かすようになっているらしく、明かりのスイッチを入れても電灯のあかるさがよくわからなかった。放尿。手はそとに公園の水道があったのでそこで洗った。その後はすっきりしたので安心してゆるゆる進む。丁字路で信号を待つあいだに南の空に浮かぶ雲の、なんともいえず不定形で、洗われ、ひかりをはらんで凍らされたような、距離と低い位置のためにやや希薄化されて冷たいようなすがたをながめた。
- 夜も徒歩を取り、そろそろ歩いても寒気がどうということもない時季になってきたなとさいしょはおもっていたところが、やはり二〇分三〇分あるいていると肌が冷えてそこそこ消耗した。この日は徒歩で往復したので一時間いじょうはあるいたわけで、それだけ脚をうごかせばやはりからだはかなり疲れて、風呂のなかでは意識がどうにもならない具合だった。
- 勤務。(……)
- (……)
- 夜も疲労のためたいしたことはしなかった。