2022/2/1, Tue.

 なおもふたつの光の粒のきらめくのを魂は眺める、ふたつの小さな星が見えるように、(end34)と。やがて光は揺らいで、消えかかる、あたかも一羽の蝶の翅のさやぎのように、と。
 詩の結びはしかし老境の最果ての、その手前あたりに留まる。人は夕日の中を逍遙している。
 とはいえわたしはまだ、夕べの野を歩んでいる、沈みかかる日輪ばかりを道づれとして、おお、眼よ、睫の捉えたその分なりとも、飲みつくすがよい、世界のこの黄金に燃える余剰のうちから、と。
 夕映えの豊穣から、せめて睫に掛かる分を、というこころになるだろう。睫の一言に、老いた眼精の、残照をわずかに仰ぐ姿が見える。
 ゴットフリート・ケラーの一八八三年の詩「夕べの歌」である。ケラーは一八一九年生の、九〇年没であるから、当時六十四歳、死の七年前の作になる。老年の感覚の機微はうかがえる。睫から眺める、とは絶妙な表現と思われる。ただし、病いを得た高年の読者は、しばし息苦しさにうなされるかもしれない。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、34~35; 「3 晩年の詩」)



  • 九時に覚めた。布団のしたで呼吸しつつ脚を伸ばしたり揉んだり。たしか夢をみていて、寝床にいるうちはすこしおぼえていたはずだがもうわすれた。天気は晴れで、臥位からみえる空は雲なしのひろい青さで、太陽もあったが九時だとまだだいぶ低く、窓枠にちかかった。何時に起きたかみていなかったが、たぶん九時五〇分ごろだったとおもう。水場に行ってきてからきょうは瞑想というより音楽をききながら呼吸するかと気が向いた。それでBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』のさいしょから。”Gloria’s Step (take 1; interrupted)”, “Alice In Wonderland (take 1)”, “My Foolish Heart”, “All of You (take 1)”まで。先日きいたときに対話的な感覚をおぼえた”Alice In Wonderland”はたしかテイク2のほうだったとおもうが、きょうきいたこのテイク1はかんぜんに併行的な、並立のありかただなとおもった。明瞭な分離感で左右にはなしてふられたベースとピアノの位置取りがなおさらその感をつよめるのだろう。”Alice In Wonderland (take 1)”はむかしからベースソロをきいていると一拍見失うポイントがあって、Motianの刻みを追っていると一拍だけベースのながれと合わなくなって把握がずれてしまう謎の瞬間がおとずれるのだが、きょうはLaFaroのフレーズを追っていたところ、そのポイントに気づかないくらいに問題なくながれた。あれはどうなっているのか不思議だ。”All of You”のEvansはやっぱりマジですごいなとおもった。どうなってんの? とおもう。”All of You”は三つあるどのテイクも、いつきいてもすごい。LaFaroのベースソロもよく歌っていた。
  • 上階へ。ジャージにきがえる。一〇時半ちかくの窓外は近所の屋根が白さを貼って大気は平穏にあかるんでおり、そばの家にかくれてわずかしかみえないが、すこしさきのべつの家のまえでススキのたぐいが群れたその脇にひかりがちいさく溜まってふるえていた。よくみえなかったが、なにか車でも停まっているのかとおもっていると、すっきりと淡い水色の空に鳥が一羽、黒いすがたであらわれて、それがしかしくだって樹々や山を背景におくと、はばたきがひかりをはねかえすためなのか、白い翼に転じ、網戸をかけられておだやかにかすんだ地帯にはいってそのまま横にながれていった。と、つぎに視界の左側でうごきが生まれて目をふれば、さきほどのちらちらふるえる光点のばしょで、伸ばしたクレーンのさきに乗って電線に寄っている作業員があり、それであのひかりはクレーン車のボディだったのかと理解された。クレーンはたぶんずっと伸びており、作業員もそこにいたとおもうのだが、まったく目にはいっていなかった。
  • 米がもうないしうどんをゆでると。こちらは洗面所で髪をとかしたりうがいをしたり。その後、風呂洗いもさきにすませた。きょうは浴槽だけでなく、そとの床も全面こすっておいた。水道の土台のきわにわずかにたまった汚れも小型のブラシで掻いておく。そうして出ると食器乾燥器をかたづけるか洗い物をするかした。母親がフライパンにうどんの麺を入れたところで、ところがそのまま放置しているので、すぐかきまぜないとくっついちゃうでしょと箸を取って混ぜると、じゃあやってと母親は居間にうつったので、しごとをとちゅうで放っていくんじゃねえよとちょっと苛立ちながらフライパンと鍋の世話をした。つゆは鍋で煮込まれていたので灰汁をとりつつ麺つゆと味醂を投入。洗い桶も用意されていないので、ここで洗い物をし、桶も洗剤でこすったのだ。それで茹で上がった麺を流水でしめ、鍋にうつした。ちょっと煮てから丼に盛って食事へ。新聞には読売文学賞の発表があった。読売文学賞は部門もおおいし、けっこうおもしろくみている。あとで部屋で記事をぜんぶ読んだので受賞作をメモしておくと、小説賞が川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』(河出書房新社)、随筆・紀行部門が小澤實『芭蕉の風景』上下(ウェッジ)と平松洋子『父のビスコ』(小学館)、評論・伝記賞が山本一生『百間、まだ死なざるや』(中央公論新社)、詩歌俳句賞が須永紀子『時の錘り。』、研究・翻訳がくぼたのぞみ『J・M・クッツェーと真実』(白水社)。なまえをみたことがあるのは小澤實(先日、書評欄でこの本がとりあげられていた)とくぼたのぞみ(クッツェーの訳者としてふつうに書店でみかける)くらい。平松洋子というひとはBunkamuraドゥマゴ文学賞を過去にとっているらしく、ドゥマゴもやや特殊な賞という印象だからすこし気になる(ちなみにいまWikipediaをみると、かのじょの『買えない味』をえらんだのは山田詠美だった)。松浦寿輝が、「派手な意匠を競い合い、けたたましい言論ばかりが幅をきかせる今日の殺伐とした出版界で、かつて幸田文が書いていたような上品な文章を読む機会はめっきり減った」が、「平松洋子幸田文の品位、誠実、洒落っ気を真っ直ぐに受け継ぐ名文家だと思う」と評している。そういわれればけっこう気になる。
  • ほか、ミャンマーのクーデターから一年を期した連載記事。冒頭は東南部、タイと接するカヤ州のある民兵について。二六歳だったかで、ヤンゴン理学療法士としてはたらいていたが、クーデター後から抗議デモに積極的に参加し、少数民族武装勢力から支援を受けて兵になった。とはいえかれじしんは医療兵みたいな役回りらしいが、しかし前線に物資をはこんだりもするし、空爆は日常茶飯で、すぐちかくでふつうに仲間が死んでいくと。NUG(国民統一政府)は国軍への抵抗を呼びかけ、各地で自発的な勢力がたたかってはいるが、NUGは亡命者から成っており基盤をもたない「オンライン政府」なので、支援の手はとどけづらく、うえの民兵はぜんぜん援助してくれないと不満をもらしていた。NUGのひとりは、とにかく市民が犠牲にならないことが肝要だということで、そのへんの規定をまとめあげ、国連をとおして国際社会のたすけを借りて国軍にみとめさせようと動いているらしいが、そのひとがいうには、NUGが把握していない勢力もあるし、しょうじき現場のすべてに支援をとどけることはできない、われわれにも限界がある、しかしできることからやっているつもりだ、ということだった。
  • 帰室すると「読みかえし」。その後三〇日の日記を書いた。ここでもうしあげたのだったか? わすれたが、なんかけっこうからだが疲れていて、きのう行き帰りともあるいたのでその疲労がのこっていたのかもしれないが、ベッドで『ガンジー自伝』を読んだりコンピューターを持ってだらだらしたりする時間もその後わりと多かった。あと、一時まえに携帯をみて(……)さんから着信とメールが来ていることに気づき、みればきょうの夜急遽出勤してくれないかという打診だったのだが、疲労感のせいでかなり億劫に感じられたので、きょうは勘弁してくださいとことわった。
  • 「読みかえし」: 423 - 427
  • 四時四〇分ごろから瞑想したが、やはり疲れていたのか眠気が混ざって上体をまっすぐ保てず。

藤田:
 スピリチュアルというのは部分じゃなくて態度じゃないですかね。私の場合は、すべてのことがスピリチュアルだと思っています。たとえば、免疫系でT細胞が異物を食べてしまうとか、自己複製する遺伝子の働きとか、ビッグバンとか、科学で探求されている自然の振る舞いやあり方それ自体が私にはスピリチュアルに感じられます。私にとってスピリチュアルというのは、この世界の「深淵さ」の感覚と言えばいいでしょうか。宗教心から見られるものは、日常茶飯のことですら宗教的な深さを帯びてくるわけです。だからスピリチュアルでないものがなくなる。

     *

佐宗:
 最近Googleが導入していることで有名なマインドフルネスの考え方は、自分が今どんなことを感じているのかということに意識を向けることで「メタ認知力」をつけていくことだと感じているのですが、それとはまた異なるんですか。

藤田:
 世俗的な文脈でのマインドフルネスは「“この世界の中(世間)で”自分がうまくやっていくためのスキル」として考えられているでしょう。自分が点としてあって他の点との関係をうまく調整しようとするわけですね。いわば点の「適応」路線ですね。でも、仏教のマインドフルネスは、パーリ語でサティと言うんですが、そもそも「自分が点である」という自己認識の解体のための装置なんです。だから方向性がだいぶ違うわけです。前者は点としての自分の改善・向上、後者は自分の解体・本当の自己の発見、を目指していますから。

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藤田:
 現在話題になっているマインドフルネスは、「今起きている経験に価値判断を挟まず、ありのままに気づくこと」ということですよね。でも、それを点のレベルで適用するのと、上司とのトラブルを“縁”としてシステムのレベルで見つめ直すというマインドフルネスとでは射程が違ってきますよね。個々のトラブルを縁としてシステム全体のあり方を深く広く観て、それとの関係性においてローカルに着手するのがマインドフルネスなのです。

藤田:
 真の意味のマインドフルネスは、既にあるつながりの世界に深く気づき、それを静かに聞き取り、繊細に感じ取っていく「受信モードの状態」と言えます。自分のほうからつながりを作っていく能動的なものではないんです。それでは単なる押しつけになってしまうことが多い。自我的なものはどうしても行き過ぎになりがちですから。これって、「武術」にすごく近い感覚なんですよね。

入山(早稲田大学ビジネススクール准教授):
 えっ、武術ですか??

藤田:
 そう、武術ではとっさの判断が怪我や死につながることがあります。でも、「勝とう」という気持ちが先走っては実際には勝てない。そもそも日本の武術では、勝敗というレベルを超えたその先のレベルが考えられている。自分を殺しにきた人を友人にしてしまうというような。そもそもの勝ち負け自体が解消するような、メタなレベルの勝ち方を“格上”とする考え方があります。勝ち負けという場そのものを変えてしまう技みたいな……。

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藤田:
 一般に言う西洋的なマインドフルネスは、意識的に「マインドフルであろう」とするあまり、結果的に自我でいっぱいになって、しんどさが残るんですよ。真のマインドフルネスは、りきむことがなくあるがままでマインドフルなんです。つまり、「無我」的マインドフルネス。いわば、われわれの普段の「Doing(する 有為)」モードに対して、「Un Doing(やめる)」で一度リリースして、そして「Non Doing(しない 無為)」を通して「Being」モードに至る。そこで現れるのが無我的マインドフルネス。

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佐宗:
 U理論でも、新たなものが降りてくる時は、人のつながりに自分を委ねた時、固定観念が捨て去れ、新たな世界が降りてくる、といわれています。人は何かを捨て去るのに恐怖感がありますが、日本には、「縁起」と呼ばれる周囲とのつながりの中に自分を寄りかからせるという知恵がありますが、こういう考え方は一つのヒントになるのかなと思ったのですが。

藤田:
 「寄りかからせる」ということもしなくていいんですよ。それがもともとの事実なんですから。自我とは大脳皮質が生み出した妄想、前野隆司先生の「受動意識仮説」が言うように脳の活動の副産物なんです。錯覚で、そういうものがあるかのように見えているだけなんです。私は心を持っている”I have a mind”というのが一般の認識ですが、「心の働きが私という錯覚を作り出している」という意味で”Mind has I”というのが仏教の立場なんです。

入山:
 「我考えるゆえに我あり」ということなんですね。まさに天動説から地動説になるというか。「心」が主体なんですね。

藤田:
 そう、寝ているときは自我が休んでいますが、からだは働き続けていますよね。自我が存在する昼の私と存在しない夜の私が交流する、それが瞑想なんです。体が寝ているときのように深くリラックスして働いている様子を、心が目覚めて繊細に味わっている。自分としては何も働きかけを行わないけど心臓は動き、呼吸が起こり、考えが浮かんだり消えたりたりし、世界が刻々に変化している。「棺桶に入って世の中を見る」みたいな感じです(笑)。心が受動的になればなるほど、体や世界が能動的になっていくように思えますね。

  • うえの引用の二番目はじぶんの瞑想の実感と照らしてよくわかる。基本的に人間はなにかをしていないという時間がなく、つねになんらかの行為や行動に追われているので、瞑想で座るようになってもすぐには「しない」の段階にいたることができない。まずそのまえに、「しないようにする」「非能動になろうとする」という段階がある。じぶんのばあいはあった。しかしそれだとけっきょくなにかをしてしまっているじゃないか、能動性にとどまっているじゃないかというパラドクス的状況に困りながらもともかくつづけていった結果、いつか「しないようにする」ではなくて、たんに「しない」ができるようになっていた(というのはおもいこみかもしれず、ほんとうにできるようになっているのかわからないが)。そうすればあとはただその「しない」のままでいればいいだけ。ようするにただ座ってじっとしていればいいだけ。できるようになれば「しない」というのはかんたんなはなしで、「しない」に向かっていこうとするのではなくて、たんに「する」的な要素を発生させなければいいだけ。もし発生してしまってもそのうち停まるのでべつによいし、気づいたときに停止させてもまあわるくはない。停止させる一瞬だけは能動性がはたらくだろうが、それだけだし、座っているあいだほんとうにつねに「する」がまったく起こらないということは無理なので、それがたしょう瞬間的に混ざってもぜんたいをとおして「しない」時間が大半ならいい、くらいのゆるいかんじでやったほうがよい。只管打坐ってそういうことじゃないの? とおもっているのだが。「只管」は「ただひたすらに」という意味らしいが、「ひたすらに」じゃなくて「ただ」のほう、つまりonlyのほうが重要なんじゃないかと。「座っている」、しかそこにない、ということ。「ひたすらに」というとマッチョなニュアンスがふくまれるので、こちらの実感とはあまり適合しない。
  • その他印象にのこっている記憶は特にない。やはりきのうの歩行の疲労がなごっていたのか、心身がどうもしゃきっとせず、過ごしづらかったし、書き物などもあまりできなかった。