2022/2/3, Thu.

 眼の内から悪意の光さえ差さなければ善男善女の喜捨の雨を降らせそうな相貌、か。胆汁に漬けられたような瞳、氷雨の冷たさをよけいにきつくさせるその目つき、か。雪の泥道に難渋するその足取りは、まるで地下の死者たちを古靴で踏みつけにするようで、世界にたいする無関心よりも、敵意を思わせる、か。
 境遇のことは、この際、敢えて置く。綺羅も襤褸も所詮変らぬとする。年が寄れば、おのずと、悪意も煮詰まる。生涯の悔も恨も怨も、ほかの情念の衰えるにつれて、肥大する。年が寄るとは、悪意の寄ることでもある。浮世の果ては皆小町なり、とは芭蕉翁の名句であるが、これをもじって、浮世の果ては皆悪尉 [あくじょう] なり、とこれもなかなか上出来でないか、とそのように、七人の老人を眺めておのれの先行きをひそかに憫れむのはしかし、まだ盛んな壮年の内のことである。
 あのように悪意に満ちた姿形に見えるには、何も黒々とした悪意を抱くこともない、老い果てるだけで充分なのだ、悪意も無用、善意に満ちていても同じこと、と思うようになれば、いよいよ老境に入りかけたしるしである。
 ひとつ老人になって見るがよい。直角ほどに折れた腰に、低い杖を衝いて、雪の降っては融け、融けては降る泥濘に立往生もせず行く時に、天へ向けて地へ向けて人へ向けて罵詈雑言、冒瀆 [ブラスフェム] のつぶやきはのべつ口から洩れることだろうが、悪意が主役となって割り込む余地はあるだろうか。悪意どころか、歩行そのものが、真剣のきわみにあるのだ。(end78)またそうでなければ老体は、進退谷まるか、あるいはたちまち泥の中に倒れる。ところが、道理にも情熱にも伴われぬ、喜怒哀楽にも見捨てられた、もっぱら必然に刻々追い立てられるところの、剝き出しの真剣さこそ、人が端から見れば、これほど悪相に見えるものはないのだ。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、77~79; 「7 莫迦な」; ボードレール「七人の老人」について)



  • 一〇時過ぎに意識をとりもどした。かなり夜ふかししたのだが、そのわりにからだのこごりはすくなかった。天気は快晴。布団のしたで腹を揉んだり、足の裏を合わせた姿勢で太ももを揉んだりして、一〇時五〇分に離床。水場に行き、用を足してきてから瞑想。三〇分ほど座った。よろしい。座っているあいだはいろいろな思念がおとずれるが、きょうは過去の記憶が断片的にちいさく蘇ってきて、しかもそのなかにいくつか、たいしたことではないけれどあまりうまくない言動をしてしまったときのことが混じっており、あれはよくなかったなとあらためてちょっと反省した。
  • 上階へ。ジャージにきがえる。窓外の空気はひかりに満ちてほの青く洗われたような風情になっている。食事は五目ご飯とうどん。うどんはとなりの(……)さんの息子である(……)さんにもらったものらしい。うどん屋をやっているので。(……)さんもいよいよ施設に入ることになり、きのう、家のかたづけに来ていたのだ。つゆも付属のものを椀にそそぎ、ワサビや生姜、ネギを混ぜて食ったが、麺はけっこう歯ごたえがあってなかなか美味かった。新聞からは文化面。読売文学賞を取った平松洋子についての記事と、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の総裁へのインタビュー。昨年九月から再開しているという。コロナウイルスによって一時閉鎖し、存続も危ぶまれたが、劇場をつづけるためにできることはすべてやり、感染対策もかなり厳格に規定して、出演者の代役も豊富に用意し、いまのところおおきな穴はなくつづけられていると。映像配信のサービスも活発化させているらしい。「METライブビューイング」というやつだ。だから映像配信というか、対応の映画館に行って見るかたちのもの。で、たしか二〇〇六年から就任しているというこの総裁は、古典だけでなく現代を映すあたらしい作品も積極的に演目に取り入れているといい、Fire Shut Up In My Bonesだったか、そんなような題の、黒人コラムニストの自叙伝的作品をもとにしたオペラをいまはやっているらしいのだが、これがテレンス・ブランチャードが音楽をつくったという。それで、テレンス・ブランチャードってそんなにでかいしごとやってんの? すげえな、とおもった。
  • 皿洗いと風呂洗い。ひさしぶりに緑茶をつくって帰室。一服。のち、FISHMANS『Oh! Mountain』をながして「読みかえし」を読みはじめたところで、母親が呼びに来た。(……)さんが来たからバイクを押すのを手伝ってくれという。母親の原付を処分するために(……)の自転車屋に数日前に連絡していたのだが、それがきょう来たらしい。それで音楽をとめて上がっていき、マスクをつけてサンダル履きでそとへ。家の横をおりていくとおじさんがバイクに寄っていたのであいさつ。鍵を挿しこんでもうまく回らず苦戦していたが、けっきょく挿しこみが足りなかったのだとわかり、解決。そうしてオートバイをふたりで押して短い坂をのぼらせ、家のまえへ。おたがいにサンダル履きである。おじさんが梯子みたいな細い経路を軽トラの荷台から地面にかけ、そこをまた押してのぼらせた。その後、自転車も。母親は当初、自転車はまだ取っておこうとおもっていたようだが、土埃にまみれ各所がかんぜんに錆びつき、サドルの尻当てすらひび割れている惨状を目にして、やっぱりこれも駄目だねと意をひるがえしていた。自転車はたいして重くないのでひとりではこんでいき、こんどは横からふたりでもちあげて荷台に載せる。そのチャリの鍵が見つかるまでにややかかった。母親が持ってくる鍵がどれもこれも違うやつだったのだ。最終的に冷蔵庫の横に自転車の鍵としっかり表示されたうえで貼られていたのが発見され、無事解錠された。両方処分するように頼み、荷台に乗ったすがたを見つつ、ながくはたらいてくれたから手でも合わせておくかとたしょう拝んでおいた。チャリはまだそこまでながくはなかったはずだが、バイクのほうは今年の九月で一九年になるらしかった。あさましいほどのあけっぴろげな晴れ空で、雲のまったくゆるされていない青の地帯から旺盛にふくらんだ太陽がひかりを捨てつづけ大気をあまねく充たしているので、おくるにはいい日である。母親が廃車同意書みたいなものに記入をしになかにはいったあいだ、ちょっと立ち話。父親についてきかれるのでてきとうにこたえていると、どこに勤めてんのよと来るので、もう定年で、とかえした。つれあいが職をひけたまままだ勤めに行っていないということを母親は知られたくないらしく、たびたび恥の感情を漏らしているが、嘘をつく義理もない。でもまだ嘱託みたいなのがあんでしょ? 何年か、と来るのには、まあまた行くとおもうんですけど、さいきんは山梨に、実家のほうに行ったり、とこたえ、山梨が実家なの? というところでいったん切れたので、いちおうこれいじょう深堀りされないようにしておくかと考慮し、どうですか景気は、とお決まりの問いで話題を転じた。ひどいという。コロナウイルスまえからひどかったのに、コロナでひとも出なくなったし、とてもじゃないと笑っていたが、むかしからあるローカルでちいさな自転車屋なんてもうこの地域でいまの時代で生き残りようがないだろう。おじさんはあたまに野球ファンのようなつばつきの帽子をかぶり、薄茶色のチェック柄のシャツのうえにダウンジャケットのたぐいを羽織ったかっこうで、ひらいたまえの裏にさらにもう一枚、ダウンベストのような羽織りを着込んでいるようだった。したはふつうのズボンで足もとはすっぽり覆うかたちの黒いサンダル。はなしぶりははやく、はなしているあいだよくからだをすこしかたむけて荷台にもたせかけていたが、バイクをはこんだりした余波でかすこしはあはあいっていたようでもあったし、そうしないとからだが疲れるのかもしれない。なにしろもう八〇は超えているだろう。あまりじっとしているタイプの人間ではなく、はなしながらこまかく動いており、説明をするときの動き方や手の振り方なども小気味よく、芝居がかっているというわけではないが、舞台上の役者の身振りをみているようなおもむきがちょっとあった。記入を終えてもどってきた母親が、それで、いくらくらいになりそう? ときいても、すぐさまぱきっと具体的な金額をよこさず、荷台のバイクを指しながらここが高くてどうの、とか言っており、煙に巻こうとしているのか、はっきりした数字をいわずにすませようとおもっているのか、とちょっと疑っていたが、最終的に、廃車の費用は無料でやってくれるということになった。そのうちに廃車証明書が届くという。母親はその後、あれでまたじぶんのところで売るかもね、あれだけでもけっこう金になるよ、部品とか、と言っていたが、それならそれでべつによかろう。景気がひどいのだからおおからずとも稼いでもらえばよい。
  • それにしてもすさまじい好天だった。部屋にもどって「読みかえし」を読み、二時。その後きょうのことをここまで書いて三時。一月三一日以降の日記をきょうでできればすべてかたづけたいのだが、果たしてそこまでできるかどうか。
  • 「読みかえし」: 435 - 442
  • それから一月三一日のことを綴った。四時まで。だいたい終了。脚を揉みたかったのでベッドに寝そべり、蠟山芳郎訳『ガンジー自伝』(中公文庫)を読む。南アフリカに行って人種差別に直面し、暴行を受ける事件のあたりまで。この暴行者のような人間はマジでほんとうにクソ野郎だなとおもう。しかし、いまこの現在の世界にもそういうクソ野郎みたいな人間はたくさん存在しているのだろう。幸か不幸かじぶんの身のまわりではいまのところそういうできごとは起こらない。じぶんが身近く属している共同体や時間や人間関係は、まだ人種差別的なできごとが起こるほどの多人種多文化状況にはいたっていない。しかしそういうばしょに行けばふつうに目にするのだろうし、メディアをとおした間接的な情報としてはいくらでもはいってくる。
  • 五時で上階に行き、アイロン掛け。座布団のカバーが一〇枚くらいあってたいへんだった。だんだんと面倒臭さがつのっていき、シャツに移って処理しているころにはぜんぶやらずに後日にゆだねたい気持ちが湧いていたが、しごとを投げ出すほどのおおきさにはいたらなかったので、面倒くせえなとおもいながらも手をうごかし、すべて始末した。六時をまわっていた。合間、台所のラジカセからは母親が図書館で借りてきた井上陽水のトリビュートアルバムがながれでていて、その七曲目がなかなかよかったので、これはだれがうたっているなんという曲なのかと確認しに行くと、ORIGINAL LOVE田島貴男が担当した”クレイジーラブ”だった。ああ、ORIGINAL LOVEか、とおもった。よく知らないしきちんと聞いたこともないのだが、なんか洒落ている方面の音楽としてちょっとだけ耳にした記憶がある。八分の一二拍子のややブルージーなかんじの曲で、八分の一二という拍子はそれじたいの魅力がやはりある。ちなみにほかにはKing Gnuとか椎名林檎とか宇多田ヒカルとか細野忠臣とかが参加していたようだ。アイロン掛けを終えるとシャツを階段のとちゅうに持っていったが、上部がひらいた照明カバーにかけられた衣服が多くなって、けっこう幅を取っていて通るのにやや邪魔だったので、階段下の脇に置かれてある衝立に移したのだけれど、これでいいと離れかけたところに重みで衝立がたおれてきたので瞬間的に苛立ち、さらに両親の衣装部屋のほうに移動させておいた。じぶんのワイシャツも持ってきて廊下に。白湯を飲みつつ一月三一日の記事をすすめて投稿、そのまま二月一日も投稿。
  • 時刻は七時。すこし休んでから瞑想した。BGMにBill Evans Trioの『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』をながした。だから瞑想というより、どちらかといえば音楽をきいているのだが。しかしこちらのいう瞑想って静止のことなので、そこに音楽があるかないかしか変わらない。先日も冒頭から”All of You (take 1)”まで四曲きいたのだが、きょうもおなじルートをたどった。はじめの”Gloria’s Step (take 1; interrupted)”は注記されているとおりとちゅうで音がとぎれて空白がすこしはさまるのだけれど、それが明けたときのLaFaroの、浮かびあがって円蓋を描くようなうごきかたはやっぱりなにやってんねんこいつとおもうし、そのつぎのコーラス冒頭もアルペジオですか? みたいな上下運動を太い音でくりかえしていて、こんなことやらないしゆるされないでしょふつう、と困惑する。かれはまたソロのとちゅうによく三連符でおなじ単位のフレーズを突発的に連打することがあって、それはかんぜんに衝動的とも言い切れないニュアンスなのだけれど、そこをきくと執拗さとか過剰さをおぼえる。LaFaroはあきらかに過剰な演者だが、Evansに過剰さは微塵もない。すべてがあるべきところにおさまっている。その整然とした秩序のととのいぶりが総体としてある意味LaFaroよりも過剰であり、異様さの域にいたっている。”Alice In Wonderland (take 1)”はこのあいだきいたときにもかんぜんに並行的なありかただなとおもったが、きょうもその感は変わらず、ピアノとベースの分離独立をさらにつよく感じた。困惑するとともに、感動する。いや、あなたたちはここでほとんどまったく関係していないですよね? もしかして、コード進行と拍子が偶然おなじなだけのべつの曲を演奏しているんじゃないですか? という印象。こいつらマジでおたがいの音ぜんぜん聞いていないだろうし、じぶんのやりたいことをひとりで好き勝手やってるだけだろ、と。このベースは、ほとんどもうソロだとおもう。LaFaroはここではバッキングという役目をほぼ捨てて(ほかの曲でもけっこう捨てているが)、Motianだけにそれをまかせているようにきこえる。それでいて、ピアノソロのさいごだけは、それまでたがいにあゆみよるようすなどまったく見せていなかったのに、LaFaroが瞬間グリスであがっていき、Evansの呼吸とあわせて終わってそのままベースソロにはいっていく。びっくりするわ。だから相互連関というか、調和的インタープレイという意味ではそういう様相はピアノソロのさいごからはじまって、ベースソロの序盤にEvansがバッキングをつけているそのあいだのほうがよほど濃い。ピアノソロの大部分は、かれらはまったくかかわりあっていないように聞こえる。それでも統合や統一が成り立つのはもちろん”Alice In Wonderland”という曲の枠組みとリズムがあるからなのだけれど、そのなかでこういうことをやるのは、フリーインプロヴィゼーションをやるよりむずかしいんじゃないかという気が漠然とする。フリー的な即興だと、ほんとうにたがいに好き勝手やってそれがかさなったときに偶然生まれる効果に賭けるか、あるいはたがいの音をきいてそれこそひじょうな密度で対話し、精密なコミュニケーションをおこなわないと成り立たない気がするのだけれど、ここでのLaFaroとEvansは、楽曲という共通の土台があるがゆえに、双方を考慮せずにただそれだけにむかっていればよく、それぞれひとりで勝手にじぶんと曲とのあいだの関係を追究している、というありかたをしているように聞こえる。そしてふつう、このようなレベルで「双方を考慮せずに」、「ひとりで勝手に」、なんていうことはできないものだとおもう。どうあがいたって調和したり衝突したり関係したりしてしまうものではないかと。ここにおそらくジャズがある。それはきわめて純化されたかたちでの音楽的自由のことだ。
  • “My Foolish Heart”の起伏をつかさどっているのはMotianだろう。”All of You (take 1)”はやはりすごいし、イントロが終わって本格的にリズムをともなったテーマにはいったその直後から、六一年というこの時代のベースとピアノにあるまじき対峙のしかたをしているな、とおもった。尋常な曲と演奏の形式で、こんな受け方をするベースは、さすがにまだほぼいなかっただろうと。このトリオはほんとうに、スタンダードなどではまったくなく、突然変異的な畸形種だったとおもうし、二〇二二年のいまきいてもその畸形ぶりはうしなわれていないとおもう。
  • 八時で夕食へ。混ぜご飯や、ナスとひき肉の炒めものなど。テレビはCD屋でほんものの歌手の音声と他人が物真似した音声をきいてほんものがわかればCD一枚さしあげます、という企画。さいしょは菅田将暉の音源で、三〇代くらいのカップルがあたり、女性のほうがファンらしく、ぜったいこっちじゃない、入りとさいごがちがうし、さいごはもっとすーって抜けていくかんじだとおもいます、などと断言しており、そんなにこまかくわかるのか、すごいな、ガチだな、とおもっていたところが、女性がそう言っていた音源のほうがほんものの菅田将暉だった。罰ゲームとして、このあと洒落たレストランで食事でもと言っていたところを、寒風の吹くなか公園ですき家を食べるという。
  • その後は入浴をはさみつつきのうの日記を進行し、しあげて投稿することができた。『ガンジー自伝』もそこそこ読む。160ページまでだから五〇ページ少々すすんだ。書き抜きも深夜に。BGMとして空気公団の『空気公団作品集』をながした。”旅をしませんか”のスタジオライブ音源がはいっていたりしておもしろかったが、ひさしぶりに耳にして、こういうメロウというかアンニュイというか、そういう種類のポップスにしても、ここまで行けるのはすごいな、この雰囲気を出せるのはすごいな、とおもった。ちゃんときいてみたほうがよい。じぶんでも音楽つくるとしたらひとつにはこういうのやりたいな、とおもった。
  • 三時二〇分に就寝。三時一〇分に消灯して一〇分だけ瞑想した。寝るまえにもその元気があれば座ったほうがよさそう。むかしもそういう習慣だったが。