2022/2/5, Sat.

 現在の住居の近間にも雑木林がある。これは保全された林であり、囲い込まれてから六十年にはなる。雑木林の楢や櫟は本来、適時に間伐され薪炭の用に供される。つまり順々に燃やされるべきもので、斧が入らなくなると、ひょろりと長く伸びる。それが冬枯れの時節にはあきらかに自然の限界を超えて育ってしまった姿を露呈させ、風に吹きつけられ(end117)ると、それぞれ幹の中程からゆさりゆさりと揺れる。無論一斉にだが、よく見れば一樹ごとに振れ方が違って、わずかずつ時差もあるようだ。さらに眺めれば、ちりちりと炸裂したふうな、癇性らしい枝の張り方にもおのずと周辺にたいする、配慮がありげに見える。ああして、枝や幹が擦れて火を発するのを、防いでいるのか、と感心させられる。しかしまた、じつは炎上を求めながら、互いに間合いがはずれ、忿懣と忿懣とがすれ違って、悶えているのではないか、と眺めやる日が、ないでもない。
 樹木は真直ぐに伸びているようでも幹がわずかずつ幾重にも屈曲しているものだが、楢や櫟ではその屈曲はまず根元に近いところに出るようだ。おそらくまだ柔軟な若木のうちではなくて、ようやく喬木らしくなりかかる頃に、すでに重い図体となった幹がくりかえし枝から風の力を受けて撓い、そのひずみが根元近くに溜まるのだろう。それぞれ異った変形を蒙りながら、風の来る方向へひとしく苦渋の面相を根元から剝いている、と見てわずかに行くうちに、そのあたりではどれも、さっきとは違った方向へ、顔をしかめている。
 わずかな偶然の差なのに、置かれた場所の苦を唯一無二の、永遠の相のように露わしている。これを眺めるのは、その日の気分によっては、なかなか憂鬱なものである。入院中に長年の身体の「瘤」を感じさせられ、そこから振り返って、ほかの病人たちの身体をつ(end118)くづく見渡す時の気分にも似ている。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、117~119; 「12 風立ちぬ」)



  • 「読みかえし」: 448 - 450
  • この日は二時から七時までながながと(……)くんと通話して、そのほかの時間はだいたい怠けたので、通話中のことだけ書いておけばよい。はなしたことも、こちらの発言はだいたいのところとくに目新しいものではなかったようで、じぶんが言ったことはあまり記憶に残っていない。さいしょのうちはなぜか、さいきんもう国際情勢がやばいよね、という話題がつづいた。もちろんロシアがウクライナに攻めこむのではないかという件、そして中国が台湾侵攻を狙っているといわれている、という件である。とうぜんながらひじょうに粗雑な素人談義の域を超えないが、ニュースで得た情報を共有したりする。あと、反ワクチン主義者とか陰謀論者と実存的要素のむすびつきみたいな、いぜんこれもニュースにふれて日記にたびたび書いたことがらもはなした。そういうながれで一般性とおのれの特有性の区別みたいな文脈にはいって、そこで精神分析理論を説明しようとしたのだけれど、細部の理路が思い出せず、粗雑といういじょうにおそらく誤った説明になってしまった。やはり(……)さんのブログで断片的にかじった程度の知識では駄目だ。きちんとものの本を読んでいないと。前半はそんなかんじで、後半は(……)くんのさいきんの書き物とか、その題材になっている過去の会社のことなど。いぜんからなんども詳しくはなしを聞いているけれど、会社のことがやはりおもしろかった。(……)くんはいままで三作だか四作だかもう書いていて、前回たぶん九月くらいに通話したときに、一一月が締め切りの賞があってそれに出すやつをいま書いていると言っており、それは見事完成してギリギリで送ったのだが駄目だったと。カルタゴの建国神話を下敷きにして紀元前の地中海を舞台にした長篇だったという。こちらとしては、よくそんなもん書けるな、といわざるをえない。とはいえ、神話がベースになっているから物語のかたちとしてはやりやすかったようだし、歴史物はいっぽうで資料の調査がたいへんだけれど、紀元前の地中海などそもそも資料がたいしてないから、ある程度自由に想像でおぎなえる面もあったと。で、その後はいったん読むほうにシフトして、司馬遼太郎の『燃えよ剣』を再読したりとか、各文学賞の傾向をさぐる意味でその賞を取った作品を読んだりしていたという。ちなみに先般直木賞を取った今村翔吾の寄稿を新聞で読んだ、講演やほかの仕事がある日は除いて、朝七時に起きて夜中の二時三時までとにかく書きつづけるということを数年前から毎日つづけていると言っていてすげえなとおもった、まあ嘘だとおもうけどね、さすがに他人の本を読んだりとか、遊んだりとか、休憩したりとか、たまには飲み会行ったりとか、そういう時間もあるとおもうけどね、ということもはなしたが、(……)くんはかれの本をいぜんに一冊読んだという。酒呑童子を主人公にしたものだと言っていた。きれいでスタンダードなエンタメ、という感じだったようだ。戦闘シーンの臨場感など、北方謙三に近いところがある、と言っていたか。文体や文章じたいはめちゃくちゃうまいなという印象ではなく、これだったら文体のみとしては、じぶんでも手の届かないレベルではないかもしれない、とおもったらしい。直木賞方面はそうだろう。あちらはむしろ文体に癖をつけてはいけない、あまり個性的な文体にしてはいけない、という作法の業界のはず。それはたしか、いぜん図書館の新着棚でほんのすこしだけ立ち読みしたのだが、西尾維新が対談本のなかで、堀江敏幸との対談のなかで言っていたような気がする。しかしかんがえてみれば西尾維新なんて文体的に癖ありまくりみたいな感じだったはずで、情報源がほんとうにそこだったか自信がない。それで読みのフェイズを経て、いまはまたあたらしいものを書いており、それが辞めた会社での体験をもとにしたものだと。これは三月締め切りの新潮におくるつもりでいるらしい。つまり純文学方面のもので、会社を辞めてからそろそろ一年になるので、あそこでじぶんが経験したことを相対化し、客観視して整理することがだんだんできてきたといい、それを小説としてかたちにしてみたいという欲求が出てきたという。かれのいた会社はまあじっさいやばいというか、まあある意味で「働き方改革」の最先端みたいなかんじなのだとおもうが、全体主義というかある種中国みたいなところがあって、うまく書ければたしかにおもしろいものになる気がするし、社会的な問題提起にもなりそうで、つまり話題性を生むような気もする。この会社のシステムはなんでも理詰めで、こまかいところまで理屈で固めてあるのだが、その論理がたしかにそれじたいの筋道はとおるのだけれど、実態とあっていなかったりうまく機能しなかったりまたべつの問題が生じたりすることがままあり、だから一歩一歩踏んでいけばそういうことにはなるのだがなんか騙されたような、釈然としない感じがどこかに残る、という感じのものだったらしい。会社の風土としてもとにかく論理的に明晰なしゃべりかたをするように要求され、それが満たせていないと激しく叱られると。論理性へのこだわりが一周まわってただの馬鹿になっているという上司のエピソードについては過去にも書いたが、いまは割愛する。しかし、ちょっとあいまいだったりあやふやだったりするしゃべりかたをしただけで激昂されるとか、ふつうにパワハラじゃない? とおもうのだけれど、それはまあ(……)くんの上司個人の問題でもあったのかもしれない。社員が時間外労働をしないように労務管理の仕組みが整備されているという名目なのだが、その仕組みというのはたとえばテレワークでもZOOMにつねにつないでおいてほんとうにそこにいるかどうか確認できるようにしておかなければならないとか、業務中に自由にトイレに行くことができずその時間すらさだめられているとか、まあそういうかんじで、規則でガチガチに固めた監視社会といった具合だ。移動中の時間も社員個人の時間ではなく会社の時間だから、業務に関係ないことをしてはならない、というルールもあったという。つまり、取引先に行くときなど、電車内で寝ていたり趣味の本を読んだり携帯をいじったりしていてはならず、なにかしら業務につながるようなことをやっていなければならないと。「会社の時間」といういいかたにあらわれているように、社員個々人の自律性よりも会社としての主体性のほうが重きを置かれる。そのことが端的にあきらかなのが、会社にたいしての貢献や利益を金銭的に数値化して社員の評価をする仕組みで、いまあなたはこれだけの利益をあげてきて、会社はあなたにこれだけの給料をあげたりその他もろもろの経費を提供しているので、差し引きしてこれだけの黒字です赤字ですというのが瞭然となるようになっていると。まさしく資本主義の最先端という感じだが、だから「赤字社員」「黒字社員」というレッテル的な区分けが生まれて、赤字社員はとうぜんながら可及的速やかに黒字社員になるよう努力することを求められる。ひじょうに合理的で効率的ではあるのだけれど、もちろんそこでは人間的意味が希薄化して、個々人の自尊心や自己肯定感をそこなうことになるわけで、それが明確にあらわれでたエピソードをこの日(……)くんはひとつはなしてくれた。上司がかれと同僚をさそって飯をおごってくれたとき、同僚のひとりが、上司はおおくの利益をあげててとうぜん黒字社員だし、会社にたくさん貢献してるのに、赤字社員のじぶんたちがそのひとの貴重な時間とお金をわけてもらって、しかも食事までおごってもらえるなんて、ほんとうはおこがましいよね、ほんらいだったらこっちが上司にお金を払わなきゃいけない立場だよね、と言ったのだという。それで(……)くんはそこそこ衝撃を受けて、え、洗脳されてるじゃん、とおもったらしい。そんな調子で数値に還元された弱肉強食の支配する世界だから、まあ黒字社員は誇らかにやっていけるとしても、そこからあぶれた社員の自己承認はボロボロに壊されるわけで、じじつ毎年辞めていく社員は多かったという。そして、辞めていくのはだいたい、中途入社のひとだったらしい。ほかの会社のやりかたを知っているので、それとくらべるとここはおかしいな、あまりにも行き過ぎているなと判断して離れるわけだろうが、いっぽうで新卒でこの会社にはいったひとはけっこう残っていると。そういう環境に適応して、いわば生え抜きの新自由主義エリートとしてたくましく邁進していくのだろう。じぶんがそんなところで生きていかなければならないとしたら精神を病んで自殺する自信があるが、この企業の仕組みの巧妙なところは、社員じしんが同意し、納得してそういうはたらきかたをしている、という外面的な体裁をととのえるようにできている、という点である。入社のさいにもこういうやりかただということは説明されるし、またひとつひとつ理屈を積んでいって、この会社の仕組みが理にかなっているという結論にいたるよう誘導される。また、一月にいちどだったか、社員の勤務実態が調査され、ひとびとは、時間外労働をしていますかとか、労働量に不満はありますかとか、あまりにも精神的に負担になっていないかとか、そういうアンケート的質問にこたえるようになっている。そこで時間外労働をしていると解答するとおおきな騒ぎというか、厄介なことになるらしく、またとにかくいそがしくてしごとを止めるわけにはいかないから、時間外労働はしていないとこたえざるをえない。しかしじっさいには、とても業務時間内では終わらないような量のしごとを課せられている。だからけっきょくかくれて自宅に持ち帰ってすすめたりせざるをえないと。ほんらいだったらそこで、この量だとじぶんには無理ですというのを相談して、給料を減らすかわりに仕事量も減らしてほしいというのを要望できる仕組みにもなっているとおもうのだが、たぶん上司もとにかくいそがしくてそういう相談をするようなタイミングとか、厄介事をもちこめるような雰囲気がないのだろう。会社側としては、そういうふうに社員に毎月聞き取りをしており、その解答で問題がないとなっていたのだ、問題があるのだったらなぜそのときにそう答えなかったのか? というふうに自己責任論にたよっておのれを弁護し、免責することができる。こういうやりくちはやや知的なヤクザとかマフィアをおもわせるものだが、形式的には、建前としては、制度や構造がきちんときれいに整っているが、実態がそれにともなっておらず、つまり仕組みが望ましく機能していないのに、外面が確保されていればそれでいいとばかりに形式にこだわりつづけ、本質的な中身のエラーはただ排除するだけ、というありかたが、中国をおもわせる気もする。(……)さんのブログで読んだあちらの社会の形式主義というのは、むしろ「外面が確保されていればそれでいいとばかりに形式にこだわり」つつも、じっさいには市民が制度の裏をかいたり抜け道をさがしたり細部を毀損したりして、そのなかでたくましく生きているという事例が多かった印象だが、この会社は建前を守るため、そのちからを隅々まで行き渡らせるために個々人が犠牲にされ、なにがなんでも形式の全体主義に還元され、押しつぶされてしまう、という感じ。(……)くんじしんも、まさしく全体主義、ほんとにそう、ともらしていた。合理と効率を旨とする「働き方改革」としては、ある意味最高の仕組みで、もっとも称賛されるべきかたちと言える。ただ、合理化と効率化というのはすなわち、不要なもの、余計なもの、いらないもの、ノイズをできる限り排除するという原理のことである。それを突き詰めていったさきにあるのはけっきょくナチスじゃないのか、というのが過去にも記したこちらの懸念であり、それがこういう趨勢に違和感をおぼえる根本的な理由だとはなした。資本主義と人種差別は、効率化という原理を媒介にして、ひじょうに相性良くむすびつく余地がある。われわれの社会に必要のない余計な人間種を排除し、社会的なノイズを減らしてスムーズにやろうというのが、ナショナリズム的観念とむすびついた人種差別主義だからである。そこで追求され加速されているのは純化の論理だが、不純なものをかんぜんに排斥して単一の人間種からなる純粋な国民国家というものは、歴史上どこにも存在したことのない虚構だろうとおもう(だからこそ追求されるのかもしれないが)。
  • 終盤で(……)さんも画面にすがたをあらわし、(……)くんはイヤフォンを取ってこちらの音声が聞こえるようにして、それでちょっとはなした。そのとき上記の会社のはなしがなされていたのだが、かのじょは、そのいろいろな点について、おかしいよ、やばいよ、と批判していた。(……)くんがつとめていたときから、おかしいからはやく辞めたほうがいい、とおもっていたのだとおもう。かのじょのほうはいまはしごとはほぼテレワークになっているからだいたい家にいるらしい。勤務形態はかなり柔軟なほうで、べつにいつからいつまでかならずやらなければならない、という規定はなく、ある程度自由な配分でこなせるという。それで(……)くんといっしょにひとのすくない昼間のうちにスーパーに行ったりもすると。出社などで電車に乗るときも、ひとのすくない時間帯を選んでいるという。(客が多いときの)電車は乗れない、と警戒や不安をもらしていたが、(……)あたりだと大都市だからそりゃそうだろうなとおもう。
  • あと(……)くんは、これまで賞に出したものはぜんぶ落ちているわけだけれど、じぶんの実力がじっさいどれくらいなのかなというのがわからないので、プロの作家が読んで講評してくれるサービスを探し、それで(……)というひとの小説塾に原稿を送ってみたという。ぜんぜん知らないなまえだったが、その場でWikipediaを見てみると、筒井康隆とか佐藤亜紀とともに発起人になってJAPAN LITERATURE netとかいうものを創設したとあったので、そのへんとつながるひとなんだ、とおもった。著作はたくさん出している。で、その添削がこの通話のあいだにちょうど返ってきた。それでその場で(……)くんは開封し、コメントを見てみたのだが、けっこう丁寧なやりかたで、元原稿に番号で注を振って、別紙にそのぶぶんについて思ったことや検討や考察や助言などを記してある、というかたちだった。コメントをたしょう読んでくれたが、なんかいい具合に砕けた調子もややありながら、しかしてきとうではなくきちんとしており、いいしごと、いい講座なのでは? とおもった。まあ金をもらってやっているのでとうぜんだが。代金は六万だという。この一回で終わりなのか、それとも何回かつづけて六万円なのかわからないが、大した金額だ。プロフェッショナルの作家ともなれば、作品を読んでこまかく感想や評言をつけるだけで六万円ももらえてしまうのだ。それが権威や肩書きというもののちからか。おれもやりたい。
  • 七時になったところで、ずいぶんながくはなしてしまったし、たぶん(……)さんもそろそろ終えてほしいとおもっているようなようすだったので、もう七時になっちゃったし、そろそろ終わりにしようかと口にして、礼を言って別れた。