2022/2/6, Sun.

 エウ・フェーミアーという言葉が古代ギリシャ語にある。吉 [よ] き前兆を告げること、吉兆の告知、というほどの意味になる。ところがこの言葉が沈黙という意味にも使われる。畏れ慎んで黙ること、敬虔の沈黙である。
 告知と沈黙と。予言者になるか占者になるか解卜者になるか、神官になるか巫女になるか、とにかく兆を告げる者と、それを待ち受ける衆、という光景は見える。告知の前の沈黙は両者にある。神々のお告げはもとより畏れ慎んで待ち受けなくてはならない。あるいは、吉兆は敬虔なる沈黙によって招来される、というこころもあったことか。
 アイスキュロスの悲劇オレステイア三部作の、最終部「恵みの女神たち」の大団円は、復讐の女神 [エリーニュース] たちがその忿怒をアテーナー女神にようやく宥められ、今後アテネの都市にと(end126)って恵みの女神 [エウメニデス] になることを約束し、市内の祭祀の中心地にある地下の洞窟に移り住む。それをアテネの市民たちが老若男女、歌い舞いながら送る。その祝祭の行進の場面になる。先導の者たちが女神たちに出発を促す。


 ――さて、お越しを、荒ぶる女神がた、夜より産まれた産まずの御子たち、賑わい競う楽の音に送られて、どうかお立ちを。喜んでお伴をつとめましょう。
 静粛にされよ、国びとら。
 ――地の下の聖なる奥処にあって、礼拝と供物を手厚く享けられることになりましょう。
 静粛にされよ、市 [まち] びとあまねく。


 《静粛にされよ》と訳した箇所が、動詞のエウ・フェーメオーの、命令形になる。畏れ慎んで沈黙せよ、とも訳せる。エウ・フェーメオーはまず、吉兆の言葉を語るの意、ついで、神聖な、あるいは敬虔な沈黙をまもるという意になる。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、126~127; 「13 吉き口」)



  • 目を覚まして携帯をみると一〇時四九分だった。布団のしたで深呼吸をくりかえしてからだをあたためる。喉や腹やこめかみなども揉んでおく。そうして一一時半に離床。遅くなった。水場に行ってくると瞑想をして、三〇分ほど座った。起きてすぐに深呼吸をしっかりやっておくとやはり違う。
  • ゴミ箱や新聞を持って上階へ行き、それぞれ始末したあと着替え。きょうはすきまの見えない曇り空で屋内の空気もだいぶ冷たく、皿洗いのときなど水が素手にかなり冷えた。ジャージに着替えると洗面所で髪を梳かしたりうがいをしたり。その後カレーで食事。新聞に西村賢太の訃報が載っていた。五四歳。このあいだ石原慎太郎の追悼文載せてたばっかじゃん、とおもったが、四日にタクシーに乗っていたときに具合がわるくなり、病院にはこばれたときにはすでに心臓が停まって亡くなっていたという。その原稿をたのんだ記者がコメントを寄せており、無頼派だが、書くことにかんしては真面目で信頼できるひとだったと言っていた。当日三時に一二〇〇字を五時半までにとたのんだところ、五時半に連絡が来て、一五分だけ待ってくれと言われ、一分もおくれずにファックスで原稿がおくられてきたと。動揺もあって汚くなってしまってすみません、と表紙に書かれてあったという。その他国際面で、英仏がロシアとウクライナの仲介に意欲的にはたらいているという記事。ボリス・ジョンソンは他国に先駆けてキエフにはいり、ゼレンスキー大統領と会談し、苦しいときに駆けつけてくれる真の友人と感謝されたと。フランスも一月二八日以降でマクロンは三回プーチンと電話会談している。トルコやハンガリーも仲介に意欲を見せているとあった。ハンガリーといえば、きのうの新聞で北京五輪の開会式に首脳を派遣した国のリストが載っていたが、そのなかになくて、オルバーン・ヴィクトール政権は人権とかあまり気にしない強権体制だとおもっていたのだけれど、外交的ボイコットしたんだなとおもった(同様に東欧でナショナリズムをつよめているポーランドは派遣していた)。派遣していたのはだいたい中央アジアの国や南米(アルゼンチンの名があったはず)や、あと韓国。
  • 皿を洗い、風呂も。蓋をのけて栓を抜き、洗いはじめるまえに窓をあけてちょっとそとを見たが、曇天の大気に風はなく、しずかななかにときおり鳥の声が散らばるのみで林の竹にもうごきは見えず、空気のながれをかんじなかったが、それでも窓があいていれば冷たさがわずか身にちかづいてくる。風呂を洗うと緑茶を持って部屋にもどり、Notionを準備した。一服しつつウェブを見てから「読みかえし」。音読を終えるともう二時過ぎだった。デスクにコンピューターをもどして座り、ここ数日で(……)がつくった音源(”(……)”)をきく。いちおう最新版だけでなく三日からの三種類をおのおのきき、気になった細部もくりかえしきき、コメント。そうするともう三時で、ここまで記して三時半にいたりかけている。
  • 「読みかえし」: 451 - 456
  • 手の爪が鬱陶しかったので切った。その後、ストレッチ。FISHMANSの『Oh! Mountain』が終わると”バックビートに乗っかって”をループ再生にして、そのなかでおこなった。ポーズ取ってただ息吐いてりゃからだはほぐれるという真理にたちもどる。あまり無理はせず、ちからをこめすぎずに吐けるところまで吐くのをくりかえす。そうして五時。上階へ行き、アイロン掛け。母親はこちらが台を置いたこたつテーブルの、こちらから見て右辺についてからだをなかに入れている。日が伸びたねというのに顔をあげて窓を見れば、南の山の上空からは雲がほとんど追い払われて淡いなぎさの水色があらわれており、暮れを待って仏頂面じみた大気のうちでひかりのうすさに変わりはないが、かえって昼よりほのかにあかるいような印象を受ける。山際の雲がコンクリートじみて褪せた乳白のなかに気のせいくらいの茜を混ぜて、数分経てばそれが紫にうつっていた。母親はUCCのコーヒーのパッケージについているポイント部分を切り抜き、一枚一枚数字を口に出しながらかぞえていた。七〇の台にはいると「しちじゅう」なになにとさいしょは言っていたが、全部で七七枚あるとかぞえきって止まると、「ななじゅうなな」と発音を変えていた。七七〇ポイントになるらしい。応じて景品がもらえるらしいが、メルカリで売ろうかなとも母親は言っており、サイトをみながら、一二〇〇ポイントが一八〇〇円で売れてる、とか、四〇〇ポイントが七〇〇円、とかつぎつぎに報告し、けっこう買ってるひとがいるともらしていた。アイロン掛けを終えたあとは台所へ。カレーがのこっているしセブンイレブンの鶏肉も買ってこられたので(両親は二時過ぎくらいから墓参りに出かけていたのだ)、あとは野菜をなんとかすればよかろうとモヤシを茹で、食器乾燥器や洗い桶をかたづけながらキャベツ・ニンジン・大根をスライスした。それで部屋にもどり、四日の記事をしあげて投稿したあと、きょうのことをここまで加筆。
  • 「北欧、コロナ規制ほぼ解除へ ワクチン接種で死者増えず」(2022/2/6)(https://www.jiji.com/jc/article?k=2022020500399(https://www.jiji.com/jc/article?k=2022020500399))。「スウェーデンは9日からほぼ全ての規制を段階的に解除する」、「ワクチン接種の勧告は続くほか、感染者に自宅隔離を求めることも維持する。ただ、コロナ禍で導入されたマスク着用義務や集会の人数制限などの大半の規制は撤廃される」、「既にデンマークが2月1日からコロナ規制の大半を解除。ノルウェーも同様だ。規制がなお残るフィンランドも来月にはほぼ全面的な解除を示唆している」、「北欧諸国では「新型コロナを社会にとって危険とは分類しない」(デンマークのホイニケ保健・高齢者相)と見なす声も上がっている」とのこと。
  • 北京オリンピックがはじまり、父親はスポーツやオリンピックをみて感動するのが好きなので、おそらく毎晩視聴している。この夜も、たしか風呂を出たときだったとおもうが、母親が、炬燵テーブルのうえにあるマヨネーズや醤油やわさびをしまっておいてと言うのでちかづくと、炬燵テーブルにタブレットを置いて放送をみている父親が(そのいっぽう、テレビはテレビで点いていて、このときはこちらもなんらかのオリンピックの映像がながれていたか、それかなにかのドラマだったはずだ)、選手のプレイに感動したらしくぐちゃぐちゃに泣きながら、ううん、ううんというような感じ入ったうなりをやや高めの音調でもらし、偉い! とおおきな声で叫んでいた。マヨネーズなどを取ってもとの場所に置いたり冷蔵庫に入れたりするあいだ、もうひとつ、高校生だよ、と感心の声をあげていた。そんな若いのにがんばっていてほんとうにすごい、えらい、という感動だろう。
  • To The Lighthouse翻訳。夕食後から入浴をはさんでしあげ、いま一一時一八分。先週つくった分とあわせて示しておく。原文もいちおう、二段落目のさいしょから引いておく。今回やったのはshe did not like以降。

 するとたちまちラムジー夫人は、自身をたたみこみはじめるように見えた。ひとつの花びらがべつの一枚に閉じ合わされるように彼女はたたまれていき、そしてついには、全身がのしかかる疲労感にくずおれかかり、かろうじて残ったのは指を動かすほどの力でしかなかったが、それでもたおやかなすがたで消耗感に身をゆだねながら、グリム童話のページに指を走らせ撫でてみせた。それと同時に、彼女のなかを隅まで響き渡っていたのだ、これ以上ないいきおいまで押しひろがったあと、おだやかにしずまる泉の拍動にも似て、あるべきものを生み出せたのだというよろこびの脈動が。
 夫が立ち去っていくあいだ、この律動のひと打ちひと打ちが彼女と彼をつつみこむようにおもわれ、また、二つの異なった音色が、一方は高いほう、他方は低いほうから行きあたってむすばれたときに分かち合うあの安息をも、二人に恵んでいるようだった。だが、その共振がおとろえ、ふたたび童話に意識を向けたとき、ラムジー夫人はからだがくたくたになっているだけでなく(彼女はいつも、出来事の渦中ではなくて、それが終わったあとになって疲労をおぼえるのだった)、別のところから来るなにか不快な感覚が、かすかながら肉体の消耗感にかさなっているのを感じ取った。とはいえ、「漁師のおかみ」の物語を読み聞かせているあいだ、彼女はその出どころを確かに理解していたわけではない。その不満感を言葉にしてかんがえようとも思わなかったが、ただ、ページをめくるために声を止めるときなど、波の砕ける響きがぼんやりと、不穏にただよって耳に入り、ああ、こういうことかもしれない、と思い当たるのだった。自分が夫よりも優れているなんて、一瞬だってそんなふうに思い上がったりはしないし、それに、夫にことばをかけるときも、本当かどうかあやふやなことを言うのは自分でゆるせない。いろんな大学やたくさんの人々があのひとのことを必要としているし、講義も、書いた本も、ものすごく重要な価値をもっている――それを疑ったことはすこしもないわ。けれど、夫との関係なのよね、困ってしまうのは。あんなふうにおおっぴらに来られると、誰かに見られるかもしれないのに。そうしたら、皆さんきっと言うでしょう、あいつ、奥さんに頼りきりだなあ、なんて。でも、あきらかに、わたしよりも夫のほうが、はかり知れないほど重要なひとなのだし、わたしだって世の中になにか貢献しているとしても、あのひとのやっていることに比べれば、塵みたいなものなのに。だけどそれだけじゃなくて、もうひとつ気がかりなのは――本当のことを言えないのよね、気後れしちゃって。たとえば温室の屋根も壊れているし、修理するってなれば、たぶん五〇ポンドはかかるでしょう。あと、本についても、ちょっと思うところがあって、あの人がうすうす感づいていそうで怖いのだけれど、最新の本はこれまでのなかで最高とはいえないんじゃないかしら(ウィリアム・バンクスさんの口ぶりでは、そんな気がするのだけれど)。ささいな日常の隠し事もいろいろあるし、子どもたちはそれを知っているけれど、隠すのがちょっと重荷になっているみたい――こうしたことごとが欠けるところのないよろこびを、相和する二つの音色が奏で出す純粋なよろこびを減退させ、そしてついには鬱々とした平板さをのこしながら、彼女の耳から音を絶やしてしまった。


Every throb of this pulse seemed, as he walked away, to enclose her and her husband, and to give to each that solace which two different notes, one high, one low, struck together, seem to give each other as they combine. Yet as the resonance died, and she turned to the Fairy Tale again, Mrs. Ramsey felt not only exhausted in body (afterwards, not at the time, she always felt this) but also there tinged her physical fatigue some faintly disagreeable sensation with another origin. Not that, as she read aloud the story of the Fisherman's Wife, she knew precisely what it came from; nor did she let herself put into words her dissatisfaction when she realized, at the turn of the page when she stopped and heard dully, ominously, a wave fall, how it came from this: she did not like, even for a second, to feel finer than her husband; and further, could not bear not being entirely sure, when she spoke to him, of the truth of what she said. Universities and people wanting him, lectures and books and their being of the highest importance—all that she did not doubt for a moment; but it was their relation, and his coming to her like that, openly, so that anyone could see, that discomposed her; for then people said he depended on her, when they must know that of the two he was infinitely the more important, and what she gave the world, in comparison with what he gave, negligible. But then again, it was the other thing too—not being able to tell him the truth, being afraid, for instance, about the greenhouse roof and the expense it would be, fifty pounds perhaps, to mend it; and then about his books, to be afraid that he might guess, what she a little suspected, that his last book was not quite his best book (she gathered that from William Bankes); and then to hide small daily things, and the children seeing it, and the burden it laid on them—all this diminished the entire joy, the pure joy, of the two notes sounding together, and let the sound die on her ear now with a dismal flatness.

  • こまかい註釈は面倒なのでやらないが、独白調にしたこともあって、今回はけっこう意訳気味になった(いつもわりとそうなのかもしれないが)。この女性の独白調というのも、これでいいのかなあというか、海外文学のお約束的なかんじがあって、はまっているのか疑念もある。「夫との関係なのよね」の「なのよね」とか、いかにもな感。そのまえの、「それを疑ったことはすこしもないわ」の「わ」も。ここは「すこしもない」で切ってもかまわないのだけれど、なぜか「わ」のついた口調が浮かんでしまった。なんというか、それが成功しているのかどうかわからないが、さいしょから「わたし」という一人称をつかってかんぜんに夫人の独白にするのではなく(「自分が夫よりも優れているなんて」の「自分」を「わたし」にすることもじゅうぶん可能である)、だんだんとそちらに移行していくようなやりかたを取っていて(それをもとから意図していたわけではなく、なんかそうなった)、「わ」はそのうちの一段を担ってはいる。つまり、「自分」ではじまったのが「あのひと」でやや人格性を帯び、「すこしもないわ」の「わ」でほぼ決定しつつ、「夫との関係なのよね」でかんぜんに独白の台詞調になると。
  • こういう台詞調がこれでいいのかわからないが、と言って一人称と三人称のあいだくらいでやっても、それはそれでうーん、というところ。岩波文庫はそうしていて、訳文だけで読むとながれているとおもうけれど、原文と見比べたときに、やっぱりもうすこしこなしたいなあ、と。ところでいまうえに引いた英文を読みなおしていて気づいたが、not being able to tell him the truth, being afraid, for instance, about the greenhouse roof and the expense it would be, fifty pounds perhaps, to mend itのぶぶんは、being afraid about the greenhouse roofの接続なのかもしれない。本当のことを言えないことと温室の屋根について気を揉んでいることが同格もしくは並列になっているのかもしれない。うえの訳では、not being able to tell him the truth about the greenhouse roofでかんがえてしまった。このばあい、being afraidのひとことは、to tell him the truthにうしろから付け足された副詞句という理解になる。いずれにしても直すのが面倒なのでもういじらない。それに、afraidは基本afraid ofのはずだ。また、温室の屋根のあとにはand then about his booksが出てくる。ここのaboutはあきらかにabout the greenhouse roofとの並列だが、ここもbeing afraidからつながっているとすると、being afraid about his books, to be afraid that he might guessということになって、afraidがかさなるから変になる。まあ自由間接話法らしき箇所なので、文法的にかっちりとしたスタンダードな文にはなっていないし、前置詞とか句だけでどんどん足していく向きもあるが、たぶんこちらの理解でいいのではないか。
  • このあいだはexquisiteを「たおやかな」としたのが、まあこれしかねえだろうというかんじで自分としてはファインプレーだったのだけれど(とはいえ、あのあと岩波のように、消耗感へ身をゆだねるなかでどこか恍惚としたものを感じている、みたいな理解でも成り立つな、とおもいなおしはしたが)、今回はここをやってやったぜ、というほどの箇所はない。意訳の度合いがいちばんおおきいのは、たぶんnegligibleを「塵みたいなもの」としたことだろう。あとむずかしかったのは(あいかわらず全体的にむずかしいが)、”could not bear not being entirely sure, when she spoke to him, of the truth of what she said”や、”and then about his books, to be afraid that he might guess, what she a little suspected, that his last book was not quite his best book (she gathered that from William Bankes)”や、さいごの”all this diminished the entire joy, the pure joy, of the two notes sounding together, and let the sound die on her ear now with a dismal flatness”あたり。

 16年5月に台湾に民進党蔡英文政権が誕生して後、これら企業オーナーを含めて、中国で失踪した台湾人は149人に上り、101人が拘留中などで所在が確認されたが、48人はいまだ消息不明だ。非人道的な扱いを受けている可能性が高い。

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 現在、世界中で台湾人が消えている。スペインの人権団体「セーフガード・ディフェンダーズ」は、16年から19年の間に、海外で逮捕された台湾人600人以上が中国に強制送還されたと報告した。
 台湾人を中国に引き渡した国は、最多のスペインが219人、カンボジア117人、フィリピン79人、アルメニア78人、マレーシア53人、ケニア45人と続く。