2022/2/13, Sun.

 声がする。呼んでいる。聞け、私の心よ、かつて聖者たちが聞いた、せめてそのように。聖者たちは巨大な呼び声を耳にして地から跳ね起きた。しかしかの女人たちは、信じ難きあの者たちは、ひきつづき跪いたきり、耳にも留めずにいた。そのようにして、聞く者であったのだ。お前が神の、声に堪える、と言うのではない。到底堪えられるものではない。しかし、風と吹き寄せるもの、静まりから形造られる不断の音信を聞き取れ。かの若き死者たちからいまやさざめきがお前のもとまで伝わる。どこへ足を踏み入れようと、ローマの寺からもナポリの寺からも、彼女たちの運命が静かに語りかけはしなかったか。(end165)あるいは気高き墓碑銘が何かを託しはしなかったか。先頃には聖マリア・フォルモサの碑文が。あの女たちは何事を私にもとめているのか。霊の純粋な動きを時にすこしばかり妨げる、誤解の外観をひそかに拭い取ってほしいとの心に違いない。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、165~166; 「16 ドゥイノ・エレギー訳文 1」)



  • 「読みかえし」: 468 - 469
  • この日は二時から読書会で七時までながながと通話。その他は『ガンジー自伝』を読み終えたり(読書会までにかんぜんには読みきらず、本篇八ページほどと解説をのこしていた)、書抜きをしたり。日記をすすめたのかどうかはわすれた。たしょうすすめたのだとおもうが、この日のことはなにも書かなかった。松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)をこの日にもう読みはじめたのだったか、それもわすれた。つぎになにを読もうかなと積み本に視線をめぐらせているときに目にとまったのだったが、ロシアがウクライナに侵攻するそぶりを見せて世界の耳目をあつめている現状がその選択に影響したということもおそらくないとはいえない。
  • 通話はいちおう読書会名目で、『ガンジー自伝』が課題書に設定されていたのだが、実質おおくは雑談みたいなもので、関係のないはなしもするし、本についてはなしていてもどんどんそれていく。メンツはこちら、(……)くん、(……)さん、(……)さんの四人。(……)さんは就活でいそがしいので今回は欠席。(……)さんは急遽出勤しなければならなくなったとかで、職場からつないでおり、たまに生徒らしき声とのやりとりなどが漏れ聞こえてきた。さいしょのうちは雑談した。(……)くんがUber Eatsでひさびさにマックを食おうとおもったらマックのちかくに配達員がぜんぜんいなくて駄目だと言ったのを機に、ハンバーガーショップ談義。談義といってもべつにじぶんはそんなにバーガー屋に多種ふれてきたわけではない。(……)くんはたまにマクドナルドのジャンク感が恋しくなるらしく、それはわからないでもない。マックたのむとしたらなに食います? ときいてみると、いまだったらサムライなんとかというやつがあるらしくそれと、あとポテトとバーガーふたつくらいとコーラと返ったので、かんぜんにアメリカ人じゃないですかと笑った。(……)さんがそこに、フィレオフィッシュってたのむことある? とたずねると、否定が返り、こちらも、あんまり選ばないですよねとかさねる。ほぼ食ったことがないとおもう。(……)くんによればマックのフィレオフィッシュはぜんぜんうまくないらしかった。しかし、モスバーガーのそれはうまい、びっくりするほどうまいというので、こんどモスバーガーに行く機会があったら頼んでみようかとおもう。(……)さんはモスを食ったことがないような感じだったが知れない。こちらだってそう多くはない。かれはバーガーを食うといつもうまく食べられず、どうやったらそんなになるの? というくらいバラバラに崩壊してしまうらしく、それを(……)くんにからかわれていた。ぼくが食ったなかでいちばん高級なほうなのはたぶんフレッシュネスバーガー、というと、(……)くんはああー、ともらし、なかなか絶妙なところつきますねと評した。フレッシュネスは食ったと言ってももう一〇年いじょうまえなのであまり詳しく味をおぼえていないが、なんかだいぶうまかった記憶はある。(……)くんが説明するに、ジャンク感はうすく、がっつりという感じではなくて、オーガニック風のちょっと洒落た、おちついたバーガーショップという感じだといい、たしかにそんな調子だったおぼえはある。フレッシュネスだとチーズドッグがうまい、とわざわざ画面共有で画像を見せながらかれは言った。こちらがはいったフレッシュネスというのはもっぱら新宿の店で、街中にあるのもたまにはいった気がするが、だいたいは代々木駅に向かうとちゅうの線路沿いにあった店舗で、いまもまだあるのか知らないが、大学二年のときに参加していたバンドがふたつともいつも代々木のゲートウェイスタジオで練習していたので、そこに向かうときとか、練習を終えて新宿まであるくときとかに寄ったのだ。そういう記憶をはなすと、(……)くんもそこに店があったということをおもいだし、いぜんやっていたバンドでスケボー雑誌のインタビューを受けたときにはいったのがそこだったという。なんでもたのんでいいですよと言われたので、言いましたね? 経費で落ちるんですね? と念を押してから、一五〇〇円くらい好きに頼んで食べまくったらしい。
  • ガンジー自伝』にあわせて、いちど会が延期になったときの『ボヴァリー夫人』についてもたしょうはなそうということになっていた。それで雑談をしてからさきに『ボヴァリー夫人』について。みんなあんまりおもしろくなかったようす。まあこちらとしても、諸所で描写が良かったり、細部のことばづかいにすこしだけ気になるところがあるくらいで、すごくおもしろいというほどではない。こちらがいちばん印象にのこっているのはまだ序盤、シャルルがじぶんのエンマへの恋心(の芽生え)を自覚しないままにルオー爺さんの農場に頻々とかよっているあいだの一描写で、帰るシャルルをエンマが玄関のそとまで見送りに出てきて、雪解けの季節のことでかのじょのかぶったパラソルに軒からしたたるしずくがぽたぽた打って音を立て、陽射しが傘をすかしてエンマの白い肌をよりいっそう透き通るようにする、みたいな、そんな感じの場面。ちょっと記憶が正確でないのでパラソルにしずくは落ちていなかったような気もするが、ここがロマンティックでうつくしくはあるし、あと見送られているはずのシャルルのすがたがほぼ消え去ってエンマとそれを映す非人称の視線みたいになっているのもなんかよかった。典型的ではあろうけれど。映画風の描写といえばそうなのか? また、そのひとつ前の段落で、シャルルは~~が好きだった、~~が好きだった、~~も、~~も好きだった、と、ルオー爺さんの農場(地名がおもいだせない)やそこの家のなかにあるものやひとにたいする好意を羅列していき(もちろん無自覚な恋心がめばえているからそれで気分が浮き立っているわけだろう)、そのさいごに、エンマが履いている木靴の中敷きが、かのじょがあるくたびにぱたぱたと持ち上がって音を立てるのもここちがよかった、みたいな描写もあるのだけれど、そのなにとはなしの幸福感とないまぜになった細部への注目もけっこうよかった。
  • 過去にいちど読んだときにここは書き抜いていたはずとおもってEvernoteをさぐってみるとやはりあったので、したに引いておく。やはり細部はけっこううえの記述とはちがっている。中敷きじゃねえし。よくかんがえたらあるくたびに中敷きが持ち上がるってどういうことやねん。

 シャルルのほうでは、自分がなぜこうもいそいそとベルトー通いをするのか、考えてみようともしなかった。たとえ考えたにしても、おそらく彼は自分の熱心さを、なにしろ大怪我だからと思うか、さもなくば当てにしている礼金のせいにしたろう。だが農場への往診が、日ごろの味気ない仕事のなかで、ひときわ際立った楽しみとなっていたのは、はたしてそんな理由からだったろうか? ベルトー行きの日には朝早く起き、馬を最初からギャロップで駆けさせたうえにも拍車をかけ、馬から降りると草で靴をぬぐい、なかへはいる前に黒手袋をはめた。彼はこうして庭に着き、柵戸を肩で押しあけるときの気持が好きだった。塀の上で鳴く雄鶏も、迎えに出る下男たちも好きだった。穀物倉も廐も好きだった。「私の救い主」と彼のことを呼んで、てのひらを打ちつけるようにして握手を求めるルオー爺さんも好きだったし、台所のきれいに洗った石畳を踏むエンマ嬢の小さな木靴も好きだった。木靴の高い踵が彼女の背をすこし高く見せた。彼女が先に立って歩いて行くと、木の靴底がすっと上がって、なかにはいている半長靴の革にあたっては、乾いた音でかたかたと鳴った。
 彼女はいつも玄関前の階段のいちばん下の段まで彼を見送った。馬がまだまわされていないときには、彼女はそこに立って待った。別れの挨拶はすんでいるので、もう話すこともない。外気が彼女をつつんで、項のほつれ毛を乱したり、前掛けのひもを腰の上になぶって、吹き流しのようによじらせたりした。あるとき、ちょうど雪解け(end30)のころで、庭では木の皮が濡れそぼち、屋根の雪が溶けだしていた。彼女は玄関口にたたずんでいたが、パラソルを取って来て、それを開いた。鳩羽色の絹のパラソルに日の光が透いて、彼女の顔の白い肌をゆらめく照り映えで染めた。彼女は傘の下から淡い暖かさにほほえみかけた。ぴっちり張った木目模様の傘の絹地へ、ぽつりぽつりと落ちる雫の音が聞こえていた。
 (フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』(河出文庫、二〇〇九年)、30~31)

  • はなしがおもしろくなかったとか、登場人物みんなしょうもないですよね、とかいう声がきかれたが、それは題材の選択とフローベールの意図(と無防備に言ってしまうが)からしてある種必然的なことではあったのかもしれない。次作を書きあぐねていたフローベールに、マクシム・デュ・カンだったか、あるいはルイ・ブイエと言ったかなまえをわすれたがべつの友人が、「ドラマール事件」なる姦通事件(たしか殺人にまでいたっていたのでは?)のことにふれ、ああいうものを題材にしてみたら? みたいなアドバイスをして、それに触発されて『ボヴァリー夫人』が書かれたというのはたしかデュ・カンが証言していたはずで、文学史上のまことしやかな共通認識としてそう言われてもいるとおもうのだけれど、いっぽうでフローベールは書簡のなかで、ここに書いてあるのはすべてまったくのおはなし、つくりごとです、現実のことはこのなかにすこしもはいっていません、というようなことを述べてもいたはずで、「ドラマール事件」がどの程度『ボヴァリー夫人』のなかに反映されているのかはさだかでない。とはいえ、やはり書簡のなかでフローベールは、ブルジョア連中の俗悪さを描き取らなければならない、みたいなことも言っていたような記憶があり(工藤庸子編訳の『ボヴァリー夫人の手紙』のなかでそんなような文言を読んだ気がするのだが――とおもってまたEvernoteをさぐると、いちおうそれに該当するような書抜きがあったので、したに引いておく)、だから退屈で世俗的なことがらをあえてとりあげて小説にしたということだったはず。文学史のなかで『ボヴァリー夫人』がなぜ歴史にのこる古典とされているのか、こちらにもよくわからないのだけれど、ひとつには例の有名な、風俗を乱すようなことが書かれていてよくない、みたいな廉で裁判沙汰になった件があり、そのスキャンダルでひろく話題になり著名化したということがあるのだろう。逆にいえば、そのくらいしかこの小説の文学史的意味を知らないのだが、(……)さんが言っていたことには、自由間接話法のはしりというか、この小説でそれが本格的に成立したというはなしもあるらしい。また、フローベールには微視的な細部への着目という特徴があり、人間がふつう日常で目に留めないようなこまかな事物をひろいあげて描写のなかに組みこんでいることがおりおりみられるのだけれど(うえでふれた木靴の件もそれにあたる)、それはいっぽうでは繊細なリアリズム的志向といえなくもない。ただもういっぽうで、それが行き過ぎてむしろイメージしづらい記述になっていることがあるというのは(……)さんなんかも言っていたし、(……)くんも諸所にイメージのしづらさは感じたようだし、蓮實重彦が解説でふれていたのもそういう面で、それがきわめて顕著にあらわれたのが冒頭のシャルルの帽子の描写である。帽子を部分部分に分解してことばを尽くす描写が何行分かながくつづくのだけれど、それによって帽子としての全体的な形態がイメージ的に組み立てられず、したがって統合的に理解されず、ただなんかけったいなものだということしかわからない、という書き方になっているのだ。それを踏まえて、以下のように述べた。これもそのあたりきちんとものの本を読んだわけでないのでただしい理解なのか知らないのだが、フローベールというと、ゾラの先駆者というか、いわゆる写実主義とか自然主義のはしりみたいな理解が、標準的な文学史のなかではされているとおもう。ゾラは自然主義といって、それまであまりとりあげられてこなかった人間世界の醜悪な面を、見たままにというか、覆い隠さずに、真実として描こうとした、その前段階としてフローベールがいるという把握がある気がする。だからその文脈ではかれはリアリズムの作家であり、つまりは表象としての言語を追究してそれを確立したという認識になるのだけれど、いっぽうでいまみたように、『ボヴァリー夫人』のなかには表象秩序からみればあきらかに逸脱している、リアリズムにむしろ反するような過剰な描写がふくまれてもおり、蓮實重彦が注目しているのはそちらで、その路線の理解だと、小説というものの発展史上、フローベールにいたって表象に回収されないような言語のはたらきやうごきが(はじめて?)本格的に登場してきた、ということになるだろう、と。
  • 書簡の引用は以下。

 うんざり、がっかり、へとへと、おかげで頭がくらくらします! 四時間かけて、ただのひとつ[﹅6]の文章も出来なかった。今日は、一行も書いてない、いやむしろたっぷり百行書きなぐった! なんという苛酷な仕事! なんという倦怠! ああ、〈芸術〉よ! 〈芸術〉よ! 我々の心臓に食いつくこの狂った(end279)怪物[シメール]は、いったい何者だ、それにいったいなぜなのだ? こんなに苦労するなんて、気違いじみている! ああ、『ボヴァリー』よ! こいつは忘れられぬ想い出になるだろう! 今ぼくが感じているのは、爪のしたにナイフの刃をあてがったような感覚です、ぎりぎりと歯ぎしりをしたくなります。なんて馬鹿げた話なんだ! 文学という甘美なる気晴らしが、この泡立てたクリームが、行きつく先は要するに、こういうことなんです。ぼくがぶつかる障害は、平凡きわまる情況と陳腐な会話というやつです。凡庸なもの[﹅5]をよく書くこと、しかも同時に、その外観、句切り、語彙までが保たれるようにすること、これぞ至難の技なのです。そんな有難い作業を、これから先少なくとも三十ページほど、延々と続けてゆかねばなりません。まったく文体というものは高くつきますよ!
 (工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』(筑摩書房、一九八六年)、279~280; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年九月十二日〕月曜夕 午前零時半)

  • そういうはなしのついでに、『「ボヴァリー夫人」論』を読んだときのおぼろげな記憶から、蓮實重彦がこの作品について言っていたことをいくつか述べつつ、かれの批評のやりかたについてのこちらの理解を説明した。たとえば、「エンマ・ボヴァリー」という人名はこの作中にはいちどたりとも出てこない、したがって、いわゆる「テクスト的現実」に即せば、エンマは「エンマ」か「ボヴァリー夫人」でしかなく(ほかにもいくらかかのじょを指すいいかたはあったとおもうが)、「エンマ・ボヴァリー」なる人物は存在しない、という指摘である。もうひとつ、エンマの自死についても、この作中ではかのじょの自殺は自殺として受け取られていない、というはなしがある。エンマが薬剤師オメーの保管していた砒素をみずからむさぼったことは事実であり、したがってかのじょに自殺の意思があったことは否定できず、また目撃者もいる(薬剤師の徒弟もしくは小間使いである少年ジュスタンがそうである)。だからジュスタンとオメーはエンマが自殺したことを知っているのだが、逆に言えばその事実を知っているものはこのふたりしかおらず、オメーの手によって真実は隠蔽されてしまう(かれは「ルーアンの灯火」なる新聞の特派員としてたびたびその健筆をふるっているのだけれど、この事件の報告も、「ボヴァリー夫人ヴァニラ・クリームをつくろうとして砂糖と砒素をまちがえたのだ」という説明になっていたはずだ。ただこれは村人たちにそういう説明をしておちつかせた、という文脈で出てきた情報だったはずで、新聞紙上でそれとおなじ報告がなされたのだったかはおぼえていない。すくなくとも、姦通した人妻の自殺という社会的スキャンダルとしては報じられなかった、ということだ)。村の司祭ブールニジャン師も、エンマが死にそうになっている床の横にいつのまにか呼ばれてあらわれており、臨終の秘跡をさずけることになるわけだけれど、カトリックの教義では自殺は罪であり、自殺者に臨終の秘跡などさずけられるわけがないので、やはりエンマに自殺の意思がありそれを行動にうつしたことは知られていない。墓地にもつうじょうどおり埋葬されていたはず。だから、『ボヴァリー夫人』におけるエンマの自殺は、真実ではあるけれど、作中共有の事実としては認識されていないという屈折したありかたをそなえている。しかるに、この小説を論ずる批評家や、またこの小説をとりあげつつフィクション一般について論ずるフィクション論者の多数は、内容を要約するさいに、「エンマ・ボヴァリーは自殺した」などと無防備に書いてしまうのだが、それはこの作品をきちんと読んで観察される「テクスト的現実」に照らせばまったく誤った記述である、というのが蓮實重彦の所論で、要は「フィクション論者」が「フィクション」を論じていながら、その読みがあまりにも不正確だということを批判する、ひとつにはそのための武器として、うえのような指摘が活用されているわけである。
  • その都度いまそこにあることばそのものだけを読み、テクストに書かれてあることばの範囲に徹底して禁欲的にとどまるというのが蓮實重彦がとる基本的な立場だが(その都度のことばの現在にとどまる、というようないいかたなど、かれのやりかたはヴィパッサナー瞑想のかんがえかたとあきらかに親和的である)、そういう方法論的選択からくる必然的な限界として、かれの批評は思想や社会などの一般論については語れない、という事情がある。テクストそのものを厳密にとらえ、その範囲にとどまろうとするわけなので、とうぜんながら、そのテクストを活用してなにかべつのことがらについて語ることは基本的にはできない(ひるがえって、おおくの批評家とか思想家と呼ばれているひとびとがやっているのはまさしくそういうことである)。だからまあ、それはひとによって、おもしろさつまらなさそれぞれあるでしょうね、と述べた。(……)くんなどはこちらの説明を聞いたあと、だからなに? っておもっちゃうんですよね、と言っていたが、そういう気持ちはじぶんもわからないでもない。だからなに? とおもったら楽しめないのが蓮實重彦の批評だとおもう。だからなに? の先がないからだ。こちらじしんも、蓮實重彦的なやりかたはすごいとおもうし、まなぶべきことは多いだろうし、というか、最終的にどこまでしたがうかは措いても、テクストを読むとなったときにそういう姿勢やかんがえかたがひとまず前提として共有されていなければならないとすらおもうのだが、だからといって蓮實重彦の批評文を読んだときに、すごくおもしろく感じるかというと、意外とそこまでではないような気もする。なんだかんだ言って思想だのなんだのがわりと好きな人間ではあるので、テクストを用いつつこの世界のあれこれについて論ずるほうがおもしろく感じるのかもしれない(もちろんそれはそれでまたそちらのつまらなさもあるわけだが)。
  • こういうはなしはおそらく文学論において古来ずっと論争の的となってきたであろう形式と内容の対立というテーマとおおまかにはおなじことなのだろうし、またたしか七〇年代だかにフーコーが言っていたはずだが、記号学と解釈学は不倶戴天の敵同士であって決して両立はできない、というはなしでもあるのかもしれないが、そうはいっても、すぐれた批評とか文学研究というのは、やはり緻密で唯物論的な言語分析をベースにしながらもそこからうまくひらいていくものではないの? という気がされて、ひじょうにたんじゅんそぼくないいとこ取りの弁証法みたいになってしまうけれど、そういうものがやっぱりいちばんおもしろいんじゃないの? とおもう。ただ、具体的にどれがそういうものなのかというと、こちらはそんなに批評や研究を読んでいないのでわからないが。ただ、蓮實重彦の著作のなかでは、たぶん『凡庸な芸術家の肖像』がそのたぐいにあたるのではないかとおもっており、まだ読んでいないのでわからないが、たぶんあの本がいちばんおもしろいんではないかと目星をつけている。
  • あと、蓮實重彦の批評にかんしてはもうひとつ、描写みたいな感じだとおもうんですよね、という説明もした。風景を描写するのに近いというか、あるテクスト、ある物語の見え方を、その諸要素をひろいあげてつなぎなおすことで変形させてしまい、その様相を記述しなおす、というような理解をしていて、というかそれじたいはどんな批評文でもそういう感じなのだろうけれど、蓮實重彦のばあいはそこであくまで個別のテクストの見え方や様相にとどまるという点で、なんかこちらなどが風景を見て描写するときの感じにちかいような気がするのだ。書かれたものをひとつの風景のような対象として見て、それを組み換え、書き換える、と。まあ、風景は言語ではないのに対して、テクストはすでにいちど記述され言語化されたものだという違いはあるのだが。で、風景描写というのは基本的には、そこにあった具体的な風景や個物いがいにはかかわりを持たないもので、その記述が良いとかうつくしいとかおもしろいとか、こういううごきかたをしているとか、だいたいはそういう範疇のものだとおもう。もちろん、必然的に(あるいは不可避的に)たしょうのひろがりははらむだろうし、風景によってなにかを暗示する(通俗的にもちいられることがかなり多い)技法があったり、またその風景の見方から話者や人物の内面にはいっていったり、そこになんらかの思考や思想めいたものを見出したり、はたまたアラン・コルバンがやっているように精神史の変遷を探ったりすることも可能ではあるのだろうけれど、基本的には風景というのは象徴秩序に回収されきらない細部の価値としてあるというのがこちらの認識である。だからだいたいのところ、それは事物とうごきと見え方とニュアンスの問題なのだ。蓮實重彦の批評もそういう意味での風景の描写や記述に近いような気がするのだが。
  • そういうかんじで『ボヴァリー夫人』にまつわっては、この作品そのものというよりも蓮實重彦の批評について語る時間がおおくなってしまったのだが、これはほんとうはよくないというか、不幸なことで、蓮實重彦だってじしんの批評についてよりも、『ボヴァリー夫人』を読んだのだったら、『ボヴァリー夫人』そのものについて語るべきだとおもっているだろう。そういうおもいがあったので、まあ、どうでもよろしいことですけどねとつい韜晦してしまったのだが、しかし(……)くんは蓮實まわりの動向についても興味があるという。ただその興味というのは否定的な意味でのそれで、つまり、かれのかんがえでは、社会やひとびとが一般的に非政治化したことに、蓮實重彦的なテクスト主義や、八〇年代以降のいわゆるニューアカ的動向が影響したのではないか、ということなのだ。だからかれに言わせれば、そういう動向が、たとえば東浩紀のような、発信力のある立場でありながらTwitter駄言を散らかすだけの害悪に結実してしまった、ということになるだろう((……)くんは東浩紀を蛇蝎のごとく嫌っている)。そのへんこちらはよくわからんというか、べつにそこまでひろく深い影響はないのでは? と漠然とおもうのだが、そういう言説はわりとよくきかれるところではある。脱構築方面なんかもそうだけれど、テクスト論とか、いわゆるポストモダン思想といわれるような動向が、現実から遊離した言語ゲームみたいになってしまって、社会の実情に有効なインパクトをあたえることはできなかった、みたいなはなしで、まあじっさいたぶん、そういうふうに受容され、機能してしまった、ということはないではないのだろうとはおもう。ただ蓮實重彦にもどれば、かれはいちおう「ニューアカ」まわりのなまえとしてくくられてはいるとおもうけれど、そこに属しきらないというか、柄谷行人 - 浅田彰 - 東浩紀のラインとはポジションとしてもやり方としても別物だろう(東浩紀蓮實重彦を蛇蝎のごとく嫌っている)。それに、蓮實的やり方というのは社会にひろく行き渡っているどころか、すくなくともいまはむしろぜんぜんやられていないほうだとおもうし、それを徹底したり生産的に受け継いだ人間はあまりいないのではないか(とくに映画のほうでなのか、半端な「フォロワー」をたくさん生んだ、ということはあったように聞くが)。たしかに蓮實重彦は、基本的には作品をはなれたもろもろの「解釈」をいったん括弧にくくって、ということをずっとやってきたわけだけれど、ひるがえっていまの現実、ひとびとが読んだり見たりしたものを語るとき、実存的・政治的・社会的・心理的・歴史的・思想的な「解釈」がしまくりたおされているではないか。「解釈」ということばもいったいそれはどういうことなの? というのが曲者ではあるのだけれど、すくなくとも蓮實じしんは柄谷行人とのどれかの対談のどこかで、解釈をしては駄目だなんて言ったおぼえはないんですよ、ただ、テクストを読むことって、つねに絶え間ない意味の戦いじゃないですか、その戦いの場を通過したあとにはじめて解釈があるんであって、そこをきちんと精査せずにおざなりにしている批評がおおすぎるとおもうんですね、みたいなことを言っていたおぼえがある(たぶんけっこう文言が違っていて不正確だとおもうが)。で、かれがそういう、もろもろの「解釈」をいったん括弧に入れて、テクストにあることばじたいを注視したときにあらためてあたらしく見えてくるものをつかもうとする、という姿勢を取ったのは、もろもろの「解釈」のおおくがけっきょくのところ、既存の、ひろく行き渡っている言説(それがつまり「物語」であり、「神話」である)に回収されてしまうものにしかなっていない、作品の読みの可能性を結果的にはせばめることにしか貢献していないという状況があったから、というのがひとつの理由だとおもう(個人的な性分とかもあるのだろうが)。だから逆にかんがえれば、作品の可能性をよりひろげるような生産的な「解釈」で、なおかつテクストの精査分析や理路の構築など、手続き的にもしっかりしている読みができるならば、「解釈」おおいにけっこうなのではないか。蓮實重彦じしんがそうかんがえているかどうかはわからないが、そういうものがやはりおもしろいのではないかとおもう。ただ、手続き的な厳密さとそこからみちびきだされる意味の新鮮な魅力を両立させるのは至難の業で、前者がしっかりしているだけではただの手堅い学問研究になってしまうし、後者を重視しすぎれば恣意に堕する(し、恣意がけっきょくは「物語」や「神話」にやすやすと同化吸収されてしまうというのがまたもうひとつの難事である)。批評だけでなく文学研究だったり、その他学問研究をやる人間はだれもどんな分野でもそういう悩みには直面するのだとおもうが、うえの二要素を兼ね備えるいいとこ取りをするためには、手続き的な厳密さをひたすら徹底していったその果てで、やむにやまれぬ結果としての蛮勇とか飛躍が必要になるのではないかという気がする。
  • 蓮實重彦のやりかたはある意味実証主義的というか、ロラン・バルト以降に「旧批評」と呼ばれるようになったようなそれまでの研究動向が「講壇批評」といういいかたとともに実証主義とも言われていたような記憶があるのだが、それは要するに作品を作者やその周辺の伝記的事実に還元することで理解しようとする立場のことだったはずで、それとは違う意味での実証主義蓮實重彦はやっているとも言えるような気がする。それはある種ごくごくスタンダードな科学的精神でもあるのだろうし、学問研究の基盤的な態度をまじめにつきつめて徹底したようなやりかたでもあるのだろうが(ほんにんがじぶんの批評を「唯物論的な魂の擁護」などと呼んでいたのも、つまり「唯物論」ということばをつかっているのもそういうことだろう)、そろそろこの話題を終えたい。蓮實重彦的なやりかたはふつうにやればたしかにたんなる揚げ足取りとか、断片的な指摘とか、ただの細部偏愛とか、そういうことにしかならないのだろうけれど、そこをうまくつなげて継続的な論にしたてあげてしまう、ストーリーテラーとしての手腕も、観察力におとらず蓮實重彦の卓越した資質なのだろうとおもう。こういうはなしはどうでもよろしいといえばどうでもよろしいことではあって、批評についてかんがえるよりも作品についてかんがえるほうがよほど大事だろうともおもうのだが、いっぽうでじぶんのばあいなぜか、ことばというものをどのように読む(べきな)のか? という問いがずっと捨てきれずにあって(そもそもじぶんが文学に興味を持ったそのさいしょの関心のありかたも、文学と呼ばれてるようなもんはなんかよくわからないのだけれど、どういうふうに読めばいいのかな? どう読めばおもしろさがわかるのかな? という疑問だった)、それがいままでなんだかんだ言っても批評とか文学理論のたぐいにときおり手をのばすときの動機になっている。いっぽうで、どのように読むべきだろうがじっさいにどう読もうが、ともかくもじぶんは現実に日々ものを読んでしまっているわけで、ともかくも読んでしまうというその事実があればそれでよいし、ともかくも読んでしまうということをともかくもかさねていけばよいではないかという気もするが。文やことばをともかくも読んでしまう、読めてしまうというのはたしかに恥でもあるのかもしれないが、たほうでそれは救いのようなものでもあるのではないか。
  • ボヴァリー夫人』についてはあまりはなされなかったのだけれど、(……)くんの知り合いのもうけっこう年嵩らしい女性の感想がひとつ紹介された。われわれのあいだでは登場人物のだれにも共感できない、という声がきかれたのだが、その女性はむしろエンマにひじょうに共感したというか、かのじょのような境遇やありかたがとてもよくわかると。というのは、やはりかのじょが若かったころのような時代の女性は創造性を発揮しようとしてもあまりその場がもとめられず、だから恋愛にむかってそれをそそぐほかなかったのだと。『ボヴァリー夫人』が書かれた当時の時代状況はもっと束縛のつよいものだったはずだし、結婚という制度や家に閉じこめられてがんじがらめにされた女性が、じぶんのちからや情熱や意欲や想像力を昇華させる方法を見いだせず、恋愛にはしってそれを爆発させるというのはかなりわかる、ということで、それはたしかにそうだろうなあと納得された。
  • ガンジー自伝』に行くまえもそのあとも雑談がおおくつづいたのだけれど、どういうはなしだったかあまりおぼえていない。ひとつ明確に記憶しているのは、近藤勝彦キリスト教教義学 上』という新刊が紹介されたことで、これは佐藤優毎日新聞だかの書評で紹介していたのを(……)くんが見かけて興味をもったのだという。佐藤優という作家はじつにうさんくさいイメージで、なんかやたらいろいろ読んでいる印象だがぜったいそんなにきちんと読んでないだろとこちらは勝手に見くびっており、詐欺師だとおもってましたと言ったのだが、(……)くんいわく、詐欺師であることはまちがいないけれどガチのキリスト教徒ではあるので、キリスト教まわりにかんしては信用できるのではないか、ということだった。たしかに貼られた記事を画像を瞥見したかぎりではうえの本の書評もちゃんとしていたのだが、この著作というのがなかなかの代物で、一四三〇〇円で全一二一〇ページ、上巻だけで二九章をかぞえるという化け物なのだ。ぜひ教文館の紹介ページを見ていただきたいが(https://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/20019(https://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/20019))、もし下巻も上巻とおなじボリュームで出るなら全六〇章ちかくで二四〇〇ページという事態になるし、紹介文には「既刊の『キリスト教倫理学』『キリスト教弁証学』と合わせ、ここに著者の構想する「キリスト教組織神学」の全貌が明らかに!」などとあるから三部作なわけで、あたまがおかしい。どんなしごとぶりやねん。キリスト教神学という分野のおそろしさを垣間見るわ。こういう、世の中一般にはぜんぜん知られていないようなところで、こういうしごとをしている人間がたくさんいるんだなあとおもうと、マジで世界のひろさを感じますね、と素朴な感慨を漏らしてしまった。
  • ガンジーについてもじっさいそんなに詳細にはなされはしなかったというか、(……)さんに感想をきいてかれが語った点がだいたい(……)くんのいいたいこととおなじだったようだが、かれがあとで言っていたのは、ガンジーって聖人のイメージがつよいけれど自伝を読んでみるとそうでもないし、あと見た目もそこはかとなくうさんくささみたいなものがあって、ガンジーのあの表情とか風体でせまられるとなんか怖いというか、有無を言えずにしたがってしまいそうなかんじがある、ということだ。じっさいWikipediaの写真なんてかなりおもしろい表情をしているとおもう。こちらの印象は、よくもわるくもかなり極端な人間なのだなあ、ということ。おもいこんだら一直線みたいなところがあるのだが、いっぽうで自己相対化と反省もきちんとしながら突きすすんでいる感じで、原理主義や狂信にはおちいっていない(そういうかたむきがまったくないわけではないとおもうが)。思想をその都度具体的な行為や生活の領域に落としこんで実験し、自己を変容させていくその行動力はふつうにすごい。それでついには服を着ないところまで行ってしまうのだから、そういうところが極端で変なのだが。行動力はとにかくあるひとだったようで、いろいろな方面に知己をつくったり、農園を建てたり労働者を動員したりとさまざまなプロジェクトをこころみているが、ほんにんが序文で語っていることには、政治的な方面での「実験」はかれにとっては言わば二次的なもので、自己の完成にむけた精神的・宗教的な方面での「実験」のほうが価値を持っていたらしい。しかしこの自伝でかたられている政治的な活動のほうもこちらにとってはおもしろいもので、主には南アフリカにいるあいだのサッティヤーグラハ運動、非暴力的抵抗の実践なのだが、そのなかのひとつに五〇〇〇人ほどの炭鉱労働者を行進させるというものがあった。とうじは南アフリカが連邦化される直前で、トランスヴァールにインド人がはいると逮捕される状況だったのだが、ガンジーの仲間らはすでにそのまえから故意に州境を越えて逮捕されることで悪法の不当さをうったえる、という抗議活動をとっていた。そしてストライキをしていた五〇〇〇人の炭鉱労働者にもそのように場合によっては逮捕されることを同意させ、数日間つづく大行進をおこなったのだけれど、よくもまあ五〇〇〇人ものひとびとにそんなふうに逮捕収監されることをみとめさせることができたなと。ガンジーじしんはこの行進のあいだに三度逮捕されている。さいしょの二回は保釈金をはらって釈放され、すぐにまた行進の一団のところにもどっているのだが、おもしろいのは、かれを逮捕しにくる警察官などもガンジーにたいしてけっこう礼儀正しくふるまっている点だ。それだけすでに知名度が高く社会的立場もあったということでもあるのだろうが、ガンジーはとにかく公正さを重んじるところがあり、抗議をするにしてもまずかならず文書でもって役所や政府に意見を述べており、それがある程度受け入れられて役人などと面会ができればはなしあいに行っている。役人方面ともたしょう親しい関係をつくったりしており、かれらをあまり「敵」としてとらえていないような感じで、また、人種差別やかれの政治的活動に起因してなんどか暴力をふるわれる事件も起こるのだけれど、そのあいてを罪に問うことなくゆるしている(いちばんさいしょのころの差別体験においては激怒しているが)。いわば「敵」をもゆるすというこのふるまいは、キリスト教における隣人愛の思想とかさなりあうところだろう。公正さという点はまた、なにかの抗議活動をしたときに、裁判でわざわざ発言をもとめて、じぶんの指導にしたがって逮捕された人間とじぶんとではおのずから罪のおおきさがちがうはずだから、かれらとじぶんがおなじ刑罰なのはおかしい、より責任のあるじぶんのほうはもっと重い刑にするべきだと主張していることにもあらわれているだろう(この主張は裁判官にみとめられず、ガンジーはつうじょうどおりの刑になった)。以下の記述がその場面である。

 アジア人局の役人は、特定の指導者を逮捕しないでおくかぎり、運動の勢いをくじくことはとてもできない、と思うようになった。それで、指導者格の幾人かに対し、一九〇七年のクリスマスの週に治安判事のもとに出頭せよ、という通告を発した。通告を受けた者は指定された日、つまり一九〇七年十二月二十八日の土曜日に出廷し、法律によって要請された登録出願を怠ったかどで、一定の期間トランスヴァールを退去すべし、との命令を受けた。しかし私たちはそれには従えない理由を陳述した。
 治安判事は、各人を別々に切り離して取り扱った。そして、ある被告に対しては四十八時間、他の被告には七日間、またある被告には十四日間、というふうにして、全員にトランスヴァールを離れているように命令した。この命令の効力は一九〇八年一月十日に切れた。そしてその日に、治安判事のところに呼び出されて、私たちは刑の宣告を受けることになった。私たちのうち、弁明を申し出た者は一人もいなかった。命令された期間中、トランスヴァールを退去しておるべし、との命令に服従しなかったかどで、全員で有罪を申し立てたのであった。
 わたしは、ちょっと考えを述べたい、と許可を求めた。それが認められたので、わたしの場合とわたしに指導された人々の場合とは、区別があってしかるべきだと思う、と述べた。わたしは、ちょうどプレトリアから、そこのある仲間が、三ヵ月の懲役に処せられたうえ重い罰金を科せられ、それが支払えないなら、その代わりとしてさらに三ヵ月の懲役を科せられるということを聞いたばかりであった。これらの人々が犯罪を犯したならば、わたしは(end270)さらに大きい犯罪を犯したわけである。したがってわたしは、治安判事に対して、最も重い刑罰を科するように要求した。しかし、治安判事はわたしの要求をいれてくれなかった。そしてわたしに二ヵ月の単なる禁固刑を宣告した。
 (マハトマ・ガンジー/蠟山芳郎訳『ガンジー自伝』(中公文庫、一九八三年/改版二〇〇四年)、270~271; 第六部; 「52 投獄」)

  • こういう断固としたところはすげえなとおもう。極端さとかこだわりのつよさがあらわれているもうひとつの点は食事や養生面で、ガンジー菜食主義者であり、また自然療法をいろいろ信じてもいたようだ。そのあたり迷信的ともみえるのだけれど、かれにはそういう宗教的・迷信的な側面と近代的・理性的な側面とが両方あって、しかもそれらがうまく混ざり合って統合的に体系化されるのではなく、ガンジーのなかで取捨選択されてかれの吟味に耐えたことがらだけがとりあげられて共存しており、それによって独特な、特異な人間のありかたがかたちづくられている、というような印象。(……)さんは、奥さんめっちゃたいへんそうだなとおもいました、と言っていた。かれは一三歳だかそのくらいで結婚しているのだが、そういう過剰な早婚の文化は人間的ではない馬鹿げたものだとも言っていた。若いころのガンジーはやや押しつけがましいところがあるというか、妻のかんがえかたや行状をじぶんとおなじようなものに変えて良いほうにみちびこうなどという意図をもっていたり、また悪友とつきあうのもかれを善導するためだみたいなことを言ったりしているが、そういうところは良くなかったと反省してもいる。とはいえその後も妻カストゥルバとはおりに悶着があったり、また議論をたたかわせて詰めてしたがわせたりすることもあったのだろうとうかがえるところもあるから、わりと頑固親父的な感じだったのではないか。そうでありながらカストゥルバのほうもガンジーのさまざまな活動を助け、じしんでも積極的にコミットしていたようである。あと興味深いのはもちろんインド独立史で、『自伝』は一九二〇年代の前半くらいまでの記述で終わっており、二七年に上巻が出版されたとあったとおもうが、どうもガンジーインド国民会議により深くコミットし、本格的な政治闘争を展開するのは三〇年代以降のことらしいのだ。そのあたりのながれもとうぜんおもしろそう。また、接神論という神秘主義の動向があるらしく、ガンジーはイギリスに留学しているあいだにその方面のひとびとと知己を得ているのだけれど、この宗教的派閥がインド独立にもけっこうかかわっているらしいというのもおもしろい。とくにアニー・ベサントという婦人の存在がおおきかったようで、かのじょはインド国民会議にも参加して一時議長をつとめたりもしている。