2022/2/16, Wed.

 愛する者たちは、それだけの聡さがあるならば、夜気の渡る中であやしみあうことだろう。というのも、すべての物はわれわれにわれわれの実相を隠している様子に見える。見るがよい。樹木たちは存在する。われわれの住まう家々もなお存続する。われわれひとりがすべての物を掠めて風に吹き抜けられ、内と外とを絶えず交換させるように、通り過ぎていく。そしてすべての物は意を一にして、そんなわれわれを見ながら口をつぐむ。なかばはおそらく恥として、またなかばは、言葉には表わせぬ希望と見て。

 愛しあう者たちよ、お互いの間に自足する者たちよ、君らにわたしはわれわれの存否 [ありなし] を尋ねたい。君らはお互いを摑んでいる。証拠のあることだろうか。見たまえ、わたしの両手がお互いをしかと感じ取り、わたしのすりきれかけた顔がその中に逃れてしばし安堵する、ということはわたしにもある。そこにいささかの自己感覚も生じる。しかし、それだから自分は在る、と思い切れる者はあるだろうか。それにひきかえ君ら、君らは恋人 [あいて] の恍惚の中で存在を増して、そのあまり圧倒された恋人が、これ以上は堪えられないので、と懇願するまでになる。お互いの掌の下で、葡萄の年々のように、いよいよ豊醇になる。時折は消えかかるのも、恋人の存在が完全にまさるという、その理由しか知らぬ。その君らにわたしはわれわれの存否を尋ねたい。わたしは知っている。君らはお互いに触れ合って(end172)至福の心でいる。愛撫は保持するので。君らの、繊細な者たちよ、覆い重ねているその箇処 [ところ] は、消え去ることがないので。君らはそこに、純粋な持続を感じるので。それで君らは抱擁の、ほとんど永遠を約束し合うまでになる。しかし、初めの幾度かの見つめあいに堪えて、窓辺の人恋いにも堪えて、初めての一緒の散歩、庭を通ってその一度も越える時、それはなお君らだろうか。さらに君らが、お互いがお互いを、口もとに運び、口もとに押しつけ、美酒が美酒を傾けるようにするその時、何と奇異にも、飲む者が、飲むという行為から失せるではないか。

 アッティカの昔の墓碑の立像に見られる、人間の分を弁えた男女の手つきの心づかいは、君らを感嘆させないか。愛情と別離の手が、われわれの時代とは異った素材に成る衣の軽さで、肩に掛けられているではないか。その手が、胴体のほうには力がこもっているのに、すこしの重みを感じさせずに落着く、その様子を思うがよい。この自制の人たちはその手つきで以って、知っていたのだ。この限りがわれわれなのだ、このように触れ合うのが、これがわれわれの分なのだ、と。神々はもっと強くわれわれに迫る、しかし、それは神の事柄なのだ、と。(end173)

 われわれもまた、澄明な、慎ましい、細く狭い、人間に相応な境域を、河川と岩山の間にわずかにひとすじわれわれに余された肥沃の地を、見出せればよいものを、そう願う自身の心がなおかつ、岩水の奔流に劣らず、溢れてわれわれを押し流す。その荒ぶる心がやがて立像の中へ受け止められてそこで宥められるその姿をも、さらには神々にも似た肉体を取り、おのれを治めてより大きな存在となるその姿をも、済んで眺めることは、われわれにはもはや叶えられない。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、172~174; 「17 ドゥイノ・エレギー訳文 2」)



  • はやい時間から目覚めつつ、正式な覚醒は一〇時ごろ。布団のしたで深呼吸をしたりストレッチをしたりして、一〇時四〇分に起床した。からだの感覚は比較的かるい。レースのカーテンのむこうに太陽のシルエットがいちおう見えはするけれど、かんぜんな晴れというあかるさではないようだった。水場に行って小便をしてきてから瞑想。座っている時間は三〇分に満たなかったが、感覚としてはわりとよい。
  • 上階へ行き、ジャージにきがえて屈伸。洗面所で顔を洗ったりうがいをしたり髪を梳かしたりしてから食事。きのうのカレーのあまりをつかった汁気のすくないカレーうどん。新聞はひきつづきウクライナ情勢をおおくつたえており、ニュースでもながれた。アメリカのメディアでは一六日にもロシアが侵攻をはじめるのではないかと言われていたらしいが、プーチンはわれわれが戦争をしたいかといわれればもちろんしたくはないと述べて、協議継続と緊張緩和へのとりくみを表明したもよう。ドイツのショルツ首相と会談をしたようだ。新聞には文化面に西谷公明 [ともあき] というひとの言が載っていた。キエフ日本大使館につとめたり、ロシアトヨタの社長をつとめたり、あちらの社会や経済の事情にくわしいエコノミストだという。かれもやはり、ウクライナはロシアのルーツにあたる土地で、両国は歴史的一体性を有しているというかんがえがロシアにはあると述べていた。そこを欧米に侵食されたり取りこまれたりするのは我慢ならないのだろう。とはいえウクライナ内には、ロシアとのむすびつきを重視する東部と、ポーランドオーストリアハンガリーの一部だった歴史がありロシアからの独立をもとめる西部のナショナリストとのあいだで対立がずっとあり、選挙のたびに議論が起こってどちらかにおおきく振れるみたいなことがつづいているのだと。ソ連崩壊後はまず親欧米政権ができたらしいが、経済面でみて現実的にはソ連時代からのサプライチェーンを維持することが不可欠だった、しかし政権は親露派のそうした懸念にじゅうぶんに対応せず、対立が深まった。二〇一四年がもうひとつの画期で、親露派政権がたおされたことに危機感をおぼえたロシアはクリミアを併合したわけだが、それによって親欧米親露問わず国民のあいだに反ロシア感情がひろまり、だからロシアはクリミアを得たものの(友好国としての)ウクライナをうしなった、というのがこのひとの見方だという。今回の危機を乗り越えられたとしても、ウクライナでは今後しばらくのあいだは対露強硬姿勢がつづくだろうと。いっぽうたとえば筆者の友人であるロシアのひとはその点理解しており、ウクライナはいつかロシアにかえってくる、しかしそれはいますぐではなく、今後何十年かあとのはなしだ、と言っているらしい。ロシアのやりかたはもちろんまったくゆるされるものではないが、ただエコノミストとしてはウクライナの発展にとってロシア経済とのむすびつきは不可欠だといわざるをえない、両国が不幸を回避できるような現実的な判断をすることをのぞむ、ということばで記事はしめくくられていた。
  • 皿を洗う。カウンター越しに視線が居間を抜けて南窓のそとを見やれば、陽射しが出てきておりいくらかの艶が空中に混ざってはいるのだけれど、そのひかりはやはりやや褪せたような、散文的なにおいのしてくるあかるさで、太陽のまえにたしょうなり置かれているらしい雲の色がひかりの色にも反映されている。風呂も洗ってから白湯を持って帰室。コンピューターを用意。ウェブを見たあと、「読みかえし」。そののちここまで記して一時半。
  • 「読みかえし」: 480 - 481