2022/2/19, Sat.

 求めであっては、もはや求めであってはならない、年長 [た] けて飛び立つ声よ、お前の叫びの自然は。それでもお前は鳥のように純粋に叫ぶのだろう。季節が、上昇する季節が鳥を揚げ、それがひよわな鳥であることも、ただひとつの心ばかりを晴朗な大気へ、穏和な天へ投げ上げたのではないことも、ほとんど忘れているその時に。鳥に変わらず、鳥に劣らず、お前はやはり求めることになるのか。そしてどこかで、姿はまだ見えず、未来の恋人(end203)が、寡黙な女人がお前を聞き取り、その胸の内にひとつの答えがおもむろに目覚め、耳を傾けながら答えは温もり、やがてお前の思いきり高まった感情を、女人の熱した感情が迎える、と期待して。

 そして春もまた聞き取るだろう。告げる声を受けてまた先へ伝えぬ所はひとつとしてないのだ。まず初めに小声の物問いの叫びは、つれて深まるあたりの静まりの中で、すべてを肯定する清新な朝がこれをはるばると沈黙につつんで運ぶ。さらに階梯を、叫びの階梯を踏んで昇り、夢に見た未来の神殿にまで至ろうとして、そこで顫声 [トリル] に変わり、たえず先を約束する動きの中で上昇の極まる前にすでに落ちかかる噴水の、その声にひとしく顫える。すると目の前に、夏がある。

 昼へ移りつつ一日の始まりに輝く夏の朝という朝。さらには、花のまわりにはやさしく、壮健な樹冠のまわりでは強く烈しく照る白昼。さらには、これら繰りひろげられた力の敬虔な黙想、夕の道に夕の野、遅い夕立の後で安堵の息を吐いて澄み渡る大気。近づく眠りと、今宵はとふくらむ予感。そればかりか、夜々もある。高く晴れあがった夏の夜々。そして星、地から挙げられた星々。ああ、いつか死者となり、すべての星々の心を(end204)限りなく知りたいものだ。どうして、どうして星たちのことを忘れられるだろうか。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、203~205; 「22 ドゥイノ・エレギー訳文 7」)



  • 「読みかえし」: 487 - 489
  • 一〇時三七分に覚醒。きょうはそれまでにめざめた記憶はない。いつもどおり布団のしたにとどまったまましばらく息を吐いたり胃のあたりを揉んだりして、一一時すぎに起き上がった。部屋を出て洗面所にむかうと階段下の室に母親がいたのであいさつ。電気もついていないところで歯磨きをしていたので、どこか出かけるのかときくと、いまではないが午後に行くかもとのこと。トイレにはいって用を足し、もどると瞑想。一一時二〇分から四三分くらいまで座った。
  • 上階へ。ジャージにきがえて、台所へ。チャーハンなど電子レンジに入れてあたためつつ、洗面所で髪を梳かす。温麺も煮込まれてあったが汁を吸ってほとんどつゆがなくなっていたので、水と麺つゆをすこしだけ足した。それらで食事。新聞からはウクライナ情勢をみる。一面には昨夜の夕刊と同様、米側がしめした書面での回答にたいするロシアの返答がつたえられており、NATO不拡大などの要求に米国が満足におうじなければ、「軍事技術的な措置」をとらざるをえない、と表明しているらしい。テレビのニュースでもちょうどおなじ件がつたえられ、そこではバイデンがホワイトハウスで演説し、この一週間か数日以内にロシアがウクライナに侵攻する可能性がおおいにある、首都キエフを目標にしているとおもわれる、と述べていた。そして記者の、侵攻が確実だと判断する材料はなにかあるのかという質問にたいし、プーチン大統領がすでに決断をくだしたことはたしかだと確信している、とバイデンは返答していた。たぶん米国のスパイなどがロシアにもはいっているのだろうし、諜報機関からえている情報がいろいろあるのだろう。とはいえ外交的な解決がまだできないわけではないともバイデンは言い、またブリンケン国務長官も、ロシアの回答を受けて外相による協議をロシア側に申し入れ、ラブロフは来週の後半に開催することを提案した。ふつうにかんがえればすくなくともその協議がおこなわれてなんらかの結果が出るまで侵攻はないはずなのだが、そう断言もできないだろう。ブリンケンはまた国連安全保障理事会の会合でもバイデンと同様の趣旨を述べ、ロシア側がとうぜん反発するのにたいし、情報は正確であると強調し、もしまちがっていれば批判はよろこんで受け入れると語ったと。それは二〇〇三年にコリン・パウエルが(かれじしんは戦争に反対していたというが)、その後見つからなかった大量破壊兵器の存在をしめす情報機関の誤った情報を発表し、それにもとづいて米国がイラク戦争に突き進んだ件を踏まえているのだろう、とのこと。
  • ものを食べ終えて新聞も閉じると、すこしのあいだ椅子にとどまったまま窓のそとをながめた。空には浅瀬のように雲がうすくながれてあいまにのぞく水色も弱められており、宙にひかりの色味はあきらかでないがかんぜんな曇りに落ちこんでいるわけでもなく、茫洋とそこはかとないあかるみが、ながれるのではなくぜんたいにうっすらまぶされて、大気を底からささえるように馴染みひそんでいる。川沿いの樹々のうちのひとところが緩慢な馬の尻毛のように、風にくねってたわんでいた。
  • テレビはニュースののち、有吉弘行の正直さんぽとかいう街歩き番組をうつしており、麻布十番にあるタベルナなんとかというギリシャ料理の店が紹介されていた。タベルナというのは英語でいうところのtavernということだろうが、「タベルナ」とカタカナで表記すると、飯を食う場所なのに食べることを禁止しているかのようで変だなとおもった。ピタパンという焼いたパン的なもののたぐいや、ラザニアの原型だというもの、春巻き的なカニのパイなどがうつされた。
  • 食器を洗い、風呂も洗うと白湯を一杯持って部屋に帰った。その時点で一二時半くらいだったはず。コンピューターを用意。どうもさいきんだんだん動作が遅くなってきていて、Notionがすこし重いようなときがある。たんじゅんに電源からはずしてバッテリーだけでつかっているのがよくないのかもしれないが、それで設定をたしょう見直してから「読みかえし」。FISHMANS『Oh! Mountain』。一時くらいまででみじかく切って、それからきょうのことをここまで記述すると一時四七分。きょうは六時に職場にでむく。一三日の日記はきのうの深夜にしあげたので、のこりの数日、一六日まではもうめんどうくさいし記憶も薄いから現状のままで書き足さずに投稿してしまい、きのうの分からまた本格的に書けばよいのではとおもっている。職場に行くまえに、きょうつくる書類のおおまかな内容、各部についてなにを書けばよいかのメモ書きなんかもできたらつくっておきたい。
  • ひとまずベッドにあおむいて「胎児のポーズ」をとっていると、そこからしぜんにそのほかのストレッチもやる気になってからだをほぐした。その後、部屋に持ってきていた一六日の新聞を読む。リトアニア外相のインタビューや、アフガニスタンから米国に避難した米政府への協力者のその後についてや、タイの連立与党内部で内紛が起こっているというはなしや、前首相の菅義偉が存在感をつよめているとか、立憲民主党共産党を除外した野党定期協議の場をもうけようとしつつ批判を受けて失敗し、国会対策が迷走しているとか、そういったもろもろの記事。リトアニアは台湾との窓口である代表処の開設をみとめるとともに「台湾」という呼称の使用もゆるしたということで(だいたいの国は中国に配慮して都市名の「台北」をもちいるという)、とうぜん中国から反発を受け、報復として貿易制限をされているらしい。リトアニア産の牛肉や牛乳、ビールなどが中国市場に届かなくなったと。ランズベルギス外相は、欧州のロシアへのエネルギー依存もあわせて、権威主義国家である中露への経済依存から脱却していくべきだと主張し、民主主義国家での連携や、日本やオーストラリアなどインド太平洋地域の国との関係強化をとなえたと。タイではプラユット・チャンオーチャーが首相としてもう八年をつとめ、連立与党内部に不満がつのっているという。現与党は「国民国家の力党」といって、軍事クーデターのあと軍部主導の政権をささえるために元軍人らがつくった政党が最大勢力で、第二党の「タイの誇り党」やその他とあわせて下院五〇〇議席のうち連立与党で二六七をもっている。野党のほうは最大なのが「タイ貢献党」という政党でこれは議席数としては第一党で一三一を占め(国民国家の力党は九七議席)、野党全体は二〇七議席(あわせて定数五〇〇に満たないが、現時点での議員数は四七四らしい)。「タイの誇り党」はいままでずっとチャンオーチャーにしたがってきたのだが、さいきんこの党の閣僚七人が閣議をボイコットするという事件があったり、また昨年九月の不信任決議案をめぐって副農業相が暗躍していたりと、チャンオーチャーの求心力が低下してきているという。タイではクーデター以後、若い世代を中心に、民主派や反軍派のような批判勢力が抗議をつづけてきたわけだが、しかし弾圧を受けてかれらのうごきは鈍く、与党の動揺という好機を活かせていないらしい。
  • その後松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)をいくらか読みすすめて、ここまで書き足すと四時前。そろそろ猶予がない。
  • いま唐突におもいだしたのだけれど、きょうの朝、たぶん酒を飲んでいる夢をみたとおもう。日本酒だった。ちびちびやっていて、わりとおいしく感じていたとおもう。それいがいの周辺情報はまったくなにものこっていないが。
  • 帰宅後、夕食を取るまえの夜、LINEをのぞくと(……)が”(……)”のノイズ処理を終えたと言っており、それを受けて(……)もあたらしいミックスをあげていたのでダウンロードしつつ、おつかれのことばを投稿したのだが、そこでなぜかむかし2ちゃんねるでやられていたような、ふつうの日常的なことばを歴史上の偉人のなまえのようにしたてるというあそびをおもいだし(2ちゃんねるではさらにそれにアスキーアートがくっついていたはず)、「オ・ツーカレー・イサマデス(1231 - 1295): 東ローマ帝国皇帝(在位: 1273 - 1294)」という冗談をこしらえた。(……)がすぐにギリシャ文字でたのむとかえしてきたが無理である。そのかわりではないがなぜかさらに設定をかんがえようというあそびごころがはたらいて、しばらく文を打って以下の偽史を捏造し、これもくだらないギャグとして投稿したあと、無駄なあそびに時間をつかってしまったとじぶんで皮肉った。

オ・ツーカレー・イサマデス(1231 - 1295): 東ローマ帝国皇帝(在位: 1273 - 1294)

 帝家の末弟として育ち、継承順位は低く、帝位あらそいから距離を置いて過ごしていたが、父王亡きあと兄たちが謀略と暗殺に共倒れとなったり、また疫病によって突如としてこの世を去ったりした結果、四〇歳を越えてから皇帝としてかつぎあげられることになった。幼少時より性情穏和、また多感で線の細い少年だったと言われ、成人後は首都の空気が肌に合わず、エーゲ海沿岸の風光明媚な別荘地にて、学芸と音楽に耽溺する日々を送った。とりわけ好んだのは標本採集による蝶類の研究であり、また楽器はリュートを深くたしなみ、旅の吟遊詩人を自邸にまねいては歓待しつつ演奏を披露させ、みずからもそれをまねて弦をつまびきながら哀愁あふれる旋律を歌うわざを身につけたという。政治は柄ではないと公言して中央の騒乱を避けていたが、生来の学問にたいする関心や、地方で身分にとらわれずさまざまな人々と交流を持ったことにより、ひとの性質や能力を見抜く力に長けていたらしく、即位後は徹底したリアリストである宰相ドゥモド・ウモの献策を柔軟に受け入れつつ、兄である前帝オ・セワニナ・リ・マシタが導入した重い人頭税を「帝国史上最大の愚策」と評して即座に撤回し、市民の歓呼にむかえられた。二一年の在位期間において文化振興策を次々と打ち出し、教会とは一定の距離をたもちながらも聖職者を多数登用して大学の整備につとめ、文治政治を旨とした善帝として知られている。また諸外国との貿易も積極的に開拓したものの、中世期ヨーロッパを頻繁に悩ませた疫病の発生や、イスラーム圏との関係深化に危惧をいだいた帝国主義者らにより世情が荒れ、強大な力をもった断固たるリーダーが求められるなか、軍閥とむすんだ甥のア・リーガトーゴ・ザイマスの引き起こしたクーデターにより廃位を強いられ、一年後、失意のうちに病で世を去った。享年六四歳。辞世のことばは、「わが魂もまた一羽の蝶として、とこしえなる天の花園をさまよいゆくのだ」。

  • 四時にもどると、そのあと出勤まえのエネルギー補給として温麺ののこり(それほど腹が減っていなかったので丼にはんぶんくらいとして、まだすこし鍋にのこしておいた)と炒めもののあまりをあたため、自室で食事。ウェブをみながら食って、食器を上階でかたづけて白湯をもちかえると、きのうの日記をつづった。最寄り駅のホームに立っているあいだのとちゅうまで。郵便屋のバイクのことを書くそのまえまでである。四時四〇分かたぶんそのくらいで中断したのではないか。できれば往路帰路、せめて往路のことまで終えたかったのだが、五時三五分には家を出たかったし、(……)のメモ書きをつくっておきたくてそこまでとした。先日となりの兄の部屋に追いやったルーズリーフをいちまい取ってきて、デスクについてメモ。ぜんたいをとおしての注意点、授業のながれ、それから詳細、という構成。さらに宿題の出しかたを補足としてさいごにつける案としたが、この日の勤務ではそこまで行かず、本篇もかんぜんとまでは行かず、今後の更新が必要となる。時間に追われていそぎつつもふつうにかたちにはなったし、その程度でじゅうぶんとおさめてももちろんよいのだけれど、よりかんぜんにちかい、充実した文書にしたいという欲がやはりある。完璧主義傾向ともいえるし、じぶんのあたまのなかにある構想やかんがえを満足に表出したいという意味では、自己実現欲求ともいえるのかもしれない。ところで自室で紙に書き物をするとなるとふだんパソコンを置いてある高めのデスクに寄るしかないのだが、スツール椅子はながくすわっているとケツが疲れるのであまり気楽ではなく、家にいると手書きの書き物がしづらい。
  • その後歯磨きや身支度をすませて五時三五分ごろに出発。西方面は雲がまだのこっており厚くはなくかたちもなさないがさらさらとしたシートのありようで空に混ざり、陽の色のなごりもみえず、ただ東は混ぜものからのがれて青さがひろく露出していた。坂をのぼって駅へ。余裕があり、ついても数分あまっていたのでベンチにこしかけて待つ。よわい雨がはじまっていた。家を出て直後から顔にふれるかすかな感触に気づいていたが、それがよわいながらすこし増さって、ホームの屋根のしたにはいるとパラパラパチパチとうすい音響膜をつくるくらいにはなっていた。西空の青さをながめたり濡れつつある街灯柱のつやをみたり、目を閉じて車のおとをきいたりしながらしばらく待って、来た電車に乗り、移動した。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)一〇時半ごろ退勤。駅に行くまえにゴミ捨て。マンションにはいってロビーを抜け、ゴミ捨て場にふくらんだビニール袋を置いておく。それから駅へ。雨がまた降りだしていた。電車に乗って帰り、帰路はこまかな雨に降られたが、そのわりにぜんぜん寒くない夜道だった。帰り着くと休みつつ、上述したようにオ・ツーカレー・イサマデスを創造し、その後食事、そして風呂。部屋にもどるとだらだらしたのだったか? たしか二時半くらいからちょっとだけきのうの記事やきょうの記事を書いたが、おおかたなまけて、ひさしぶりに六時などという朝方まで起きていた。