2022/2/23, Wed.

 確かな天性に導かれて、われわれとは異った向きを取りわれわれに近づく動物に、もしも人間と同じ質の意識があるとすれば――。通り過ぎるその歩みによって、われわれをは(end215)っと振り向かせはした。しかし動物にあってはその存在は無限であり、摑めぬものであり、おのれの状態を顧る眼を持たず、純粋なること、そのまなざしにひとしい。われわれが未来を見るところで、動物は万有を見る、万有の内におのれを見る、そして永劫に救われている。

 それでも、鋭敏な温血の動物の内には深い憂愁の、重荷と不安がある。温血の動物にも、われわれをとかく押しひしぐところの、記憶が絶えずまつわりつく。心の求めて止まぬものがじつはすでにひとたび、より近くにあって、より親しく、自身も限りなく濃やかに寄り添っていたかのように。ここではすべてが距離であるのにひきかえ、かしこではすべてが呼吸であった。初めの故郷を見た後の心には、次の故郷は半端で空虚に思われる。
 自然の母胎の内に、懐胎された時のままにひきつづき留まる、微小の生き物こそさいわいだ。合歓の日に及んでも、なお内部で躍る羽虫こそめでたい。母胎は万有なのだ。これにくらべて鳥の、その素性からして毛物と羽虫の双方の心を知る、中途の安心を見ればよい。あたかも古代エトルリアの墳墓の、すでに万有に受け取られながら、生前の安息の姿を棺の蓋に留める死者から、飛び立った魂のようではないか。(end216)

 一体の母胎に帰属する者が、飛び立たなくてはならぬそのありさまは周章に似る。われとわが飛行に驚愕させられたように、宙を裂いて翔ける。茶碗を罅が走るように。同様に蝙蝠のひらめく跡も、夕暮の掛ける釉薬の肌に亀裂を縦横に引く。

 ましてわれわれは脇から眺める者であり、つねに、至るところで、あらゆるものに眼を向けながら、突き抜けて見ることがない。見た物は溢れるばかりに内に満ちる。われわれはそれを束 [つか] ねる。それは崩れ落ちる。また束ねなおす。すると自身が崩れ落ちる。

 それでは初めに誰がわれわれをうしろへ向かせたので、以来、立ち去る客の、あの習いがわれわれの身に付いたのか。古里を去る者は、親んだ谷を最後にいま一度残りなく見渡す丘の上まで来ると振り返り、足を停めてしばし佇む。まさにそのようにわれわれは生きて、絶えず別離を繰り返す。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、215~217; 「23 ドゥイノ・エレギー訳文 8」)



  • 「読みかえし」: 1, 507 - 508
  • いちど九時だったかそのくらいにさめたおぼえがあるが、チャンスをつかめず、正式な覚醒は一〇時ごろに。あかるい日。布団のしたで息を吐き、腹を揉む。あたまがどうも硬かったので頭蓋やこめかみのあたりも揉んでおいた。とくに額から前頭部にかけてがかなり凝り固まっている。「胎児のポーズ」も布団のなかにいるうちにもう一回やっておいた。そうして一〇時四七分に起床し、水場に行ってきてから瞑想。まあわるくはない。二五分ほどだった。
  • 上階へあがって着替え、洗面所で髪を梳かすと例によってハムエッグを焼いた。豚汁のたぐいもはやくもつくられてあったのでいただく。食卓にものをはこんで食事。きのうの夕刊にすでに出ていたが、プーチンウクライナ東部の親露派勢力を独立国として承認するとともに、「平和維持」の名目で派兵を指示したと。外相会談(あした、二四日の予定)もバイデンとの再交渉もむかえないうちに踏み切ってしまった。
  • 食事を終えると皿を洗い、風呂もこすった。出てくると白湯を持って帰室といつもどおりの行為の連鎖。コンピューターとNotionを用意。さいきんパソコンが重くて、Notionの動作がわるかったり、ZOOMちゅうにネットをみるだけでかなり動作が遅くなるし、きのうも夜にGoogle Chromeがなんども落ちることがあってわずらわしいのだが、DNSサーバーを変更することにした。DNSサーバーというものがいったいなんなのかちっとも理解していないのだが、これを変えることで回線の速度や安定性が向上されることがあるらしい。いままではCloudflareをつかっていて、きのうだかおとといだかにそのまえに設定していたGoogleのものにもどして、まあそんな悪くないなとおもっていたのだがやはり細部で重かったり、上記したようにChromeが落ちたりしたのでまた変えてみることに。検索するかぎり速度はCloudflareかChromeがいちばんはやいクラスだという情報ばかりなのだけれど、環境によって合う合わないや安定性もちがうだろうしとおもって、OpenDNSというものをえらんでみた。するといまのところ、これがけっこうよい気がする。
  • 「読みかえし」。五〇〇番台まで来ているが、日々項目は増えるばかりなので最前線に追いついてさいしょにもどるということができない。それなので前線をすすめるとともに、いちばんはじめからおぼえておきたい項目をひろってふつうよりたくさん読むということもやろうかなと。いま記事を五〇項目ずつでくぎっているので、その単位で二周しながらすすめるというやりかたもかんがえたが、なんかそれもめんどうくさいし、前線進行はとりあえず読むだけ読んでいって、たしかにあたまにいれたいということがらにかんしては時間をかけてとりこむという二段構えがいいかなとひとまずおちついた。
  • その後、書見。さくばんに読みはじめた井上輝夫『聖シメオンの木菟』(新版)。(……)でなんとなくよさそうだとおもって入手した本だったはずだが、著者は詩人で、主に慶應義塾大学ボードレールなど研究していたようす。在学中に吉増剛造と詩誌を出していたとか。二〇一五年死去。この本は一九七五年にもともと国書刊行会から出たのが、ミッドナイト・プレスという出版社から再刊されたもよう。シリア・レバノン紀行なのだが、冒頭には砂漠とそこに棲んでいる「非人」との遭遇を題材にしたみじかい物語が付されている。はなしの内容や結構としてはめだって特筆するものは感じ取れなかったが、文章はたしかにフランスや海外の詩をやっていそうな、詩人っぽいなという感触がはしばしにふくまれていて、一文一文がしっかり書かれているなという感をおぼえる。書抜きまではいかないとしても、ちょっとメモしておきたい比喩なども散見された。その後、一人称「私」で語る紀行のパートにうつるのだが、ここのはじまりかたなんかもけっこうよいかんじ。物語篇のはじまりも、「いつとも知れず、遠く西暦前のある日のことのように思われる。どことも定かではないある荒涼とした地方が髣髴と浮び上ってくる」(9)となっていて、(……)さんの『亜人』をおもいだした。「思われる」「浮び上ってくる」という文末になっているのが、なぜかすこしよかった。理由はよくわからないが。「思われる」ということは、話者もこの物語の舞台となった時間をさだかに知らないわけで、しかも「遠く西暦前」のこととされているから、そのあいまいさのなかに神話的な距離の感覚が捏造されるのかもしれない。さらにそこに「浮び上ってくる」と自発の動詞がつづくから、読んでいるこちらもそれに同調し、さそわれ巻きこまれるように、イメージの喚起がうながされたのかもしれず、それがよかったのかもしれない。「ある荒涼とした地方」の像が「髣髴と浮び上ってくる」のは、直接的には話者においてのはずであり、だからこのみじかい物語は話者の想念を語っているということが明示されているのだが(その「話者」はこの本の主題(シリア・レバノン紀行)からして著者とひとまず同一とみなされ、そのことは物語篇の題が「序にかえて――「獅子の首」の野の花」とつけられていることからもあきらかなのだが、いっぽうでここではまだ話者のステータスに著者井上輝夫の個人性はほとんどみうけられない)、同時に、自発動詞が提示され受けとられることで、想起の場として「われわれ」(話者+読者)が想定されることとなり、その「想念」は単独の話者を越えた共同性をそなえ、はらむ。ことばのこうした機能がときにもつ侵入的・収奪的な作用については、コロナウイルスのワクチンをいちどめに接種したときのスタッフの言動と、祖母の葬式での演出にまつわって感じたこととして過去にしるした。
  • 労働にでむくまえ、部屋にもってきていた日曜日の新聞を読んだ。きのうもちょっとだけ読んだのだが、そのつづき。国際面。ウクライナの件で、キエフなどから西部リビウに避難するひとや企業が増えているらしい。隣国のポーランドにはいるひともおり、ポーランド側でも受け入れの準備をはじめていると。一〇〇万人ほどが流入すると予測されているらしい。バイデンは二月一九日で二次大戦中に日系人の強制収容をもたらした大統領令の署名から八〇年となるのを機に声明を発表し、「我が国の最も恥ずべき歴史の一つだ」と表明したと。
  • 一時五〇分くらいから二〇分ほど瞑想をした。あたまのかたさがつづいていたのだけれど、これでわりとやわらぎながれた。出勤まえは煮込み蕎麦ののこりを食ったり。出たのは三時半ごろ。ふだんだとこの時間は電車がはやすぎるかやや余裕がないかであるくことがおおいのだが、きょうは祝日(天皇誕生日)のためちょうどいい時間のものがあったのでそれに乗ることに。風が林をさらさらゆらしていた。空が雲混じりだったかどうかおぼえていないが、晴れの範疇ではあり、陽射しもたしょうあった。しかし公営住宅まえまで来るとその日なたがおもったよりも道の端に寄っていて、北側の家から伸びる蔭が噛むようにしてひろく寄せていたので、こんなもんだったかなとおもった。この時間はもっと日なたがひろかったような記憶があるのだが。十字路の角にある自販機でなにか買っていた老人があるきだし、道のさき、家のまえに設置したバスケットゴール付近でダムダムやっている一家になにかはなしかけていた。例の外国のひとの家で、夫がアメリカだかどこだかわからないが白人、妻が日本人で子どもは男の子である。老人はどこかに行く道すじや、目的地のばしょをきいていたようだったが、奥さんはわからなかったようだ。
  • 坂道にはいると陽射しが樹林のうちにながれておりみぎての壁はまだひろくそれにふれられて、木立のうしろにひろがる空の水色もあかるい。そこの法面はもうよほど古くて、おおざっぱに四角くくぎられたくぼみがところどころくずれているが、そのさらにちいさいくぼみのひとつにリポビタンDの空き瓶が、まるでそなえもののように置かれてあった。最寄り駅につくとちょうど電車が来たので、先頭のほうに行って乗車。座席で瞑目して待つ。
  • 降りて職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 夜だったか昼だったか、一年前の日記をひさびさに読みかえした。去年はかなりの暖冬というか春の接近がはやかったらしく、この前日の最高気温は「二一度とか言って、五月初旬の陽気だということだった」とふれられている。花粉にもてひどくやられているのだが、今年はまだ花粉の影響をすこしも感じない。またこのころは腰をいためていたらしく、花粉によって頻発するくしゃみの衝撃が腰にひびいて難儀している。
  • つぎの評し方はちょっとおもしろいなとおもった。じっさいにはべつにおもしろくはなく、細部のニュアンスがなんらかの具体性やリアリティを帯びて、編集された物語の構造に拮抗する、というだけのはなしなのだろうが。じぶんの感性はけっきょくのところずっとこれで、これに尽き、ここから出られないような気がする。「テレビは三鷹にあった中華料理屋「味の彩華」が閉店する最後の日々に密着、みたいな感じで、七〇代の祖父母が数十年続けてきた店の幕引きを家族総出で支える、という、非常にわかりやすく良い話。かたちとしては紋切型そのもので、いかにも平和な世界という感じなのだけれど、店主の男性の様子が良かったというか、口にする言葉自体は良い話の枠組みに典型的にはまりきったものばかりではあるものの、それに無理も衒いも大仰さもなく、かといって卑下や皮肉や萎縮もなく、堂々と地に足ついた声音でもってニュートラルに振る舞っており、そういうさまを見ると、要約すればありがちな物語になる話とその提示ぶりではあるけれど、実際にその物語をいままで何十年か生きてきた人間の実質のようなものが感じられるなと思った」
  • (……)さんのブログも読んだ。さいきんは夏目漱石『坑夫』からの引用が掲げられているが、『坑夫』はじぶんも過去に読んだことがあって、抜かれた箇所にもおぼえがある。けっこうおもしろかった印象(もっていた岩波文庫は売ってしまったが)。主人公=話者がおっさんに連れられていく鉱山行きのとちゅうで、「赤毛布」と書いて「赤ゲット」と読ませる、防災頭巾みたいなものをかぶった少年(というのも、岩波文庫版『坑夫』にはたしか挿絵がはいっていて、そこにそんなかっこうで描かれていた気がするのだが)が急に仲間になって同行し、しばらくするといつのまにかいなくなっていてその後まったく出てこず、それいじょう本筋になにもかかわらずに消失してしまう、ということがあったように記憶している。(……)さんのブログの二二日の引用は以下のもの。

 その山は距離から云うとだいぶんあるように思われた。高さもけっして低くはない。色は真蒼で、横から日の差す所だけが光るせいか、陰の方は蒼い底が黒ずんで見えた。もっともこれは日の加減と云うよりも杉檜の多いためかも知れない。ともかくも蓊欝として、奥深い様子であった。自分は傾きかけた太陽から、眼を移してこの蒼い山を眺めた時、あの山は一本立だろうか、または続きが奥の方にあるんだろうかと考えた。長蔵さんと並んで、だんだん山の方へ歩いて行くと、どうあっても、向うに見える山の奥のまたその奥が果しもなく続いていて、そうしてその山々はことごとく北へ北へと連なっているとしか思われなかった。これは自分達が山の方へ歩いて行くけれど、ただ行くだけでなかなか麓へ足が届かないから、山の方で奥へ奥へと引き込んでいくような気がする結果とも云われるし。日がだんだん傾いて陰の方は蒼い山の上皮と、蒼い空の下層とが、双方で本分を忘れて、好い加減に他の領分を犯し合ってるんで、眺める自分の眼にも、山と空の区劃が判然しないものだから、山から空へ眼が移る時、つい山を離れたと云う意識を忘却して、やはり山の続きとして空を見るからだとも云われる。そうしてその空は大変広い。そうして際限なく北へ延びている。そうして自分と長蔵さんは北へ行くんである。
 (夏目漱石『坑夫』)

  • ここはたいして印象にはのこっておらず、こんな記述もあったなくらいの記憶だったのだが、あらためて読んでみて、「これは自分達が山の方へ歩いて行くけれど、ただ行くだけでなかなか麓へ足が届かないから、山の方で奥へ奥へと引き込んでいくような気がする結果とも云われるし。日がだんだん傾いて陰の方は蒼い山の上皮と、蒼い空の下層とが、双方で本分を忘れて、好い加減に他の領分を犯し合ってるんで、眺める自分の眼にも、山と空の区劃が判然しないものだから、山から空へ眼が移る時、つい山を離れたと云う意識を忘却して、やはり山の続きとして空を見るからだとも云われる」のぶぶんがちょっとおもしろくおもわれた。「向うに見える山の奥のまたその奥が果しもなく続いていて、そうしてその山々はことごとく北へ北へと連なっているとしか思われなかった」という、直前に述べられたみずからの印象の原因を分析的に説明している箇所だけれど、なんかこういうふうに、じぶんのかんじたことをすぐさまとりあげて考察してみせるふるまいが夏目漱石っぽいような気がしたのだ。とはいっても、そういうふるまいかたじたいはべつに夏目漱石に特有だったり特徴的だったりするわけではなく、おおくの書き手が一般的にやることのはずである。この箇所に夏目漱石らしさを感じるのが正当な印象だとするならば、その因はやはり文体との結合にあるのかもしれない。夏目漱石の文体には基本的に軽妙さがふくまれているとおもう。この『坑夫』の主人公も、女に裏切られただったかいやなことがあって都を飛び出してきて、自殺しようかというようなこころもちでずっとあるいているという設定だったとおもうのだが、そのわりに鬱々とした調子は稀薄というかほぼ皆無で、ずいぶん飄々とした、さめた乾燥ぶりで終始かたりつづけていた記憶がある。小気味がよいようなリズムのそのトーンのなかに、とつぜん分析癖が顔をみせるので、独特の感触で印象付けられるのかもしれない。上記の箇所も、そこだけ急に文がながくなってくわしい説明をしているうえ、「好い加減に他の領分を犯し合ってるんで」なんていうやや軽妙じみた口調がふくまれている。