2022/2/28, Mon.

 若い死者たちだけが、もはや時を知らぬ虚心とこの世の習いからの離脱という、死の始めの境にあって、少女の後を慕う。娘たちとは、少女は待ち受けて友達になる。身につけたものを娘たちにそっと教える。これら苦悩の真珠、この細糸で織りなしたのは忍従のヴェールと。少年とは、黙って歩みを進める。

 しかし少女たちの住まう谷に入ると、歎きの一家の、少女の姉たちの一人が出迎え、夭折の青年を引き取ってその問いに答える。わたしたちは栄えた一族でした、昔はそうでした、わたしたち歎きは、と話す。祖先たちはあそこの広大な山地の中で鉱山を営んでいました、今でも人の家にあなたは時折、磨かれた原・苦悩の一片か、あるいは往古の火山から噴き出して溶岩となって固まった忿怒を見つけることがあるでしょう、あれはほかでもなくここから出たものなのです、わたしたちは豊かでした、と。

 そして姉は青年を導いて歎きの邦の広い領地を足早に進み、往年の神殿の柱や、かつて(end230)歎きの王たちがそこに拠って領内を賢く治めた城郭の遺跡を見せた。さらには、生者の眼には穏かな繁りとしか映らないが、涙の大樹と憂愁の花咲く野を、草を食む哀しみの獣たちの群れを見せた。そして時折、一羽の鳥がいきなり静寂を破り、見あげる二人の視野を低く横切って、天涯に孤りあがる叫びの、読解へ誘う象形を遥かに曳いて飛び去る。日の暮れに姉は青年を、歎きの一族の古人たち、古代の巫女たちと警世の預言者たちの、墓所へ案内する。しかし夜が近づくにつれて二人の歩みはさらにひそやかになり、やがて月が昇るように宙に掛かるのは、すべてを見守る墓碑、かのナイル河岸に臥す者と兄弟になる崇高なスフィンクス。隠された墓室の、あらわれた顔。
 そして二人は感嘆して王冠のごとき頭 [かしら] を見あげる。物言わず人間の面 [おもて] を星々の天秤へ永遠に掛けたその頭を。

 青年の眼はまだ死者になったばかりの眩みに苦しんで、その頭を摑みかねている。しかし姉の眺めるその眼が、王者の頭巾の蔭から、棲みついた梟を追い出すと、梟はゆっくりとした筆の運びで頬の、あのいかにも豊満なふくらみに沿って舞い降り、改まった死者の聴覚の中へ、その二重に開かれた真っ白な頁を掠めて、言うに言われぬ絶妙な輪郭を柔らかな羽音で描き込む。(end231)

 そしてその上空には星、新しい星たち。苦悩の国の星。それらの名を歎きの姉はゆっくりと教える。あれが、御覧なさい、騎手座、あれが杖座。そしてもっと豊かな星座を指差して、あれが果実の冠。それからさらに遠く、極のほうを指して、あれが揺籃、あれが道、あれが灼熱の書、そして人形、そして窓。とりわけ南の空に、祝福された掌につつまれたように清純な、くっきりと輝くMの字は、母親たちを表わす。

 しかし死者はさらに先へ往かなくてはならない。歎きの姉は黙って青年を谷の狭まるところまで導くと、そこに、月の光に照らされて水が白くけぶる。これが歓びの泉、と畏敬の心をこめて姉はその名を明かし、そして教える。人間たちのもとではここの水が支えの流れとなるのです、と。
 山の麓まで来て二人は立ち停まる。そこで姉は青年を、泣きながら、抱擁する。
 一人になり青年は原・苦悩の山中に入って往く。足音ひとつ、運命の無言 [しじま] の中から立たない。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、230~232; 「25 ドゥイノ・エレギー訳文 10」)



  • 藤田一照「坐禅の割り稽古 試論」(https://haruaki.shunjusha.co.jp/categories/956(https://haruaki.shunjusha.co.jp/categories/956))を読んだ。げんざい公開されている三記事すべて。あらためて、瞑想(坐禅)ってのはちからを抜く、もしくはちからを手ばなし捨てることを追求するわざだなとおもった。さいきんはそれがきちんとできていなかったなとおもいいたり、この日の夜、風呂にはいっていたくらいからそちらのほうをまたこころみだした。
  • ちからを抜くというのはもちろんべつにだらだらするということではないのだけれど、しかしこの日はわりとだらだらしてしまい、ウクライナ情勢を追う欲求もおとろえ、あまり記事も読まず。Guardianのわかっている事実を簡潔にまとめた記事と、以下のふたつと、あとひとつ、英国外相のLiz Trussの発言にロシアがいちゃもんをつけて、核戦力をhigh alertにした、という記事を読んだのだけれど、きょう(三月一日)の昼間にGuardianのその記事をさがしたところがみつからなかった。たぶんタイトルが変わってしまったのだとおもう。
  • Steven Rosenberg, “Ukraine invasion: Would Putin press the nuclear button?”(2022/2/28)(https://www.bbc.com/news/world-europe-60551140(https://www.bbc.com/news/world-europe-60551140))。このひとはBBCのモスクワ特派員。いままで、かれのようなプロのジャーナリストでも、いくらなんでもそんなことはしないだろう、とおもうことをプーチンはことごとくやってきたと。記事中、すさまじいとしかいえないプーチンの過去の発言が引かれている(二〇一八年のドキュメンタリー中のコメントだという)。"…if someone decides to annihilate Russia, we have the legal right to respond. Yes, it will be a catastrophe for humanity and for the world. But I'm a citizen of Russia and its head of state. Why do we need a world without Russia in it?”である。「……もし何者かがロシアを壊滅させると決断したときには、われわれにはそれに応ずる合法的な権利がある。もちろん、それは人類や世界にとって破滅的な大惨事となるだろう。だが、わたしはロシアの市民であり、さらには国家の長である。ロシアが存在しない世界など、必要あるだろうか?」というかんじだ。さくねんのノーベル平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフも、「かれは何度もこう言ってきた。もしロシアがそこにないなら、地球など必要だろうか? と」と述べている。

"Putin's words sound like a direct threat of nuclear war," believes Nobel Peace Prize laureate Dmitry Muratov, chief editor of the Novaya Gazeta newspaper.

"In that TV address, Putin wasn't acting like the master of the Kremlin, but the master of the planet; in the same way the owner of a flash car shows off by twirling his keyring round his finger, Putin was twirling the nuclear button. He's said many times: if there is no Russia, why do we need the planet? No one paid any attention. But this is a threat that if Russia isn't treated as he wants, then everything will be destroyed."

In a 2018 documentary, President Putin commented that "…if someone decides to annihilate Russia, we have the legal right to respond. Yes, it will be a catastrophe for humanity and for the world. But I'm a citizen of Russia and its head of state. Why do we need a world without Russia in it?”

  • Moscow-based defence analystのPavel Felgenhauerによれば、ロシアの経済が崩壊すればプーチンにのこされた選択肢はすくなく、ひとつはヨーロッパへの天然ガス供給を停めること、もうひとつがイギリスとデンマークのあいだの北海あたりで核兵器を爆発させ、どうなるかみることだという。

"One option for him is to cut gas supplies to Europe, hoping that will make the Europeans climb down. Another option is to explode a nuclear weapon somewhere over the North Sea between Britain and Denmark and see what happens.”

  • もしプーチンがマジで核兵器をもちいると決めたとしても、それをとめるにんげんはまわりにいないだろうといわれている。

If Vladimir Putin did choose a nuclear option, would anyone in his close circle try to dissuade him? Or stop him?

"Russia's political elites are never with the people," says Nobel laureate Dmitry Muratov. "They always take the side of the ruler."

And in Vladimir Putin's Russia the ruler is all-powerful. This is a country with few checks and balances; it's the Kremlin that calls the shots.

"No one is ready to stand up to Putin," says Pavel Felgenhauer. "We're in a dangerous spot."

  • Yuval Noah Harari, “Why Vladimir Putin has already lost this war”(2022/2/28; 06:00 GMT)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/feb/28/vladimir-putin-war-russia-ukraine(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/feb/28/vladimir-putin-war-russia-ukraine))も読んだ。これはしょうじきそんなになんかなあという内容だった。プーチンは戦闘に勝ってウクライナを征服することはできるだろうが、戦争には負ける、つまりロシア帝国を再興するというかれのゆめを達成することはできないだろうと。なぜなら、そのゆめはつねにかわらず、ウクライナという国家は実質的には存在せず、ウクライナ人というひとびとも存在しないという謬言にもとづいているからだと。ところが今次の戦争でウクライナのひとびとはこれいじょうなくウクライナ人であることを示し、プーチンの虚言を反証した。ロシアにたいする憎しみはウクライナにおいて世代を経てつたえられていくだろうし、また、民族というものは物語にもとづいて形成されるものだが、今後何十年も語りつたえられるような物語がすでにたくさん生まれている(ゼレンスキーがWe need ammunition, not a rideといってアメリカの避難提案をしりぞけたことや、ロシア軍に降伏を勧告されながら”go fuck yourself”といいはなって死んでいったSnake Islandの兵士たちや(ちなみに、この兵士たちは戦死したとおもわれていたのだが、その後どうも生きていることが判明した、という報道もあった)、ロシア軍の戦車列に生身でむかっていって止めようとした男性のおこないなど)。したがってウクライナ民族は今後、ロシアへの反抗という要素においてみずからのアイデンティティを定義することになるだろうし、そのかぎりにおいてプーチン=ロシアはかれらを征服することはできても、hold(掌握する、くらいに訳せばいいのか? 人民にみずからの支配権をみとめさせてその領域を名実ともに所有する、というかんじだとおもうが)することは決してできないと。言っていることはそのとおりだとはおもう。
  • ほか、この日のできごととしては午前一〇時からの通話。しかしもう時間も経ってしまったし、たいした記憶ものこっていないので、今回は省略しよう。ウクライナ情勢のはなしをちょっとしたくらい。