2022/3/3, Thu.

 「ドゥイノの悲歌」は第一歌と第二歌とが一九一二年の一、二月に書かれ、引き続きその春にドゥイノの館で、第三歌やその他のエレギーの部分が書きはじめられた。十篇の完成は、第一次世界大戦を挟み、むろんドゥイノからも離れ、じつに一九二二年のことであったという。改行を施しながら、気になってきたことを少し書いておきたい。この詩が書きはじめられる少し前のこと、一九一〇年八月三十日付の、館の主であるタクシス侯爵夫人に宛てた手紙は、大いなる格闘であった小説『マルテの手記』擱筆から『悲歌』へ至る途(end248)上の「分水嶺」を告げるものとして言及されることが多い。
 そこにリルケの次のようなことばが見える。芸術とは、このうえなく情熱的な世界の反転 Inversion であり、無限なるものからの帰路である。その道では、すべての誠実な事物が芸術家を迎えてくれる。事物の顔が近づいてきて、独自の動きを見せる。事物の全容が見えるのはそのときである、と。すでに多く論及されている箇所である。と同時に、この「反転」については、ひとりリルケに限らず古今の芸術の原理としての普遍性が確かめられる。芭蕉の「行きて帰る心」はそのひとつである。反面、その用語も多様にありうる。ここでは、リルケが Inversion を使用したことに留意する。もちろん、日本語においての「反転」の使用も一案にすぎない。数ある類語の中から Inversion であったことに注意するのは、「反転」の一語でよいのか、という問と隣り合せでもある。
 あるいは「反転」と「翻訳」は、そして「改行」は、じつは本質的に通いあっていることではないか。そのとき、これは普遍的という一語で済ませることのできない、詩と散文の布置を変える二十世紀文学における最初の大きな転換を指すことに気づかされる。
 リルケに即していえば、非常な言語的展開を経験した時期にあたる。抒情詩人であったリルケは、ロダンの彫刻、さらにはセザンヌの絵画と出会うことによって「事物」として存在する芸術のありかたに覚醒する。一方で、パリという大都市の中で一九一〇年、小説形式の『マルテの手記』を書き上げることで、内部からの語り手ではなく、外部からの破(end249)壊的経験の受取り手となり、遭難者のように徹底的な絶望状態に打ち捨てられた。この深甚な散文的遭難は書くことの不可能性、死の不可能性の認識を通じて、やがて彼を「世界内部空間」(すべての存在を貫いて広がる一つの空間)という場へ連れ出していく。そこでは内部と外部、時間と空間、生と死が絶えず交わり、また入れ替わる。『詩への小路』の古井由吉はここに関わり、しかも世界文学の小説家として、リルケの置かれている反対斜面を眺めている。古井由吉が「改行」を施さずに「悲歌」翻訳を試みるのは、こう見れば、散文的破壊からの蘇生を常に我がこととしているからだといえなくもない。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、248~250; 平出隆「解説 詩学入門書として」)



  • この日はなぜかまったくやる気が起こらず、マジでひたすらだらだらした。いちおう三月一日火曜日のことをいくらか書き足し、トーマス・マン魔の山』も読みはしたけれど、基本的にベッドにころがりながらだらだらしていた。ニュースも新聞でちょっと読んだだけで、Guardianなどウェブはみていない。