2022/3/4, Fri.

 いささか時間を隔てるが、一九六六年に書かれた「実体のない影――或る数学入門書を読んで」というエッセイから、珍らしく詩人の役目について語られた次の箇所を引き、『詩への小路』と重ねて読みたいと思う。

 語りがたいものを語るのが、詩人の役目である。しかしこの役目をすぐさま《創造》と結びつけることには、大きな思いあがりがある。おそらくこのような自負が生まれたのはヨーロッパ近代のはじめ、世界の宗教性の傾きを見て取ったすぐれた個人の中で、宗教的な情熱が強い自意識とあいまって孤独に燃え上がったその時だろう。これらの詩人たちはおのれの営みを《創造》と呼んだ時、さぞかし神の《創造》に対する自負、罪悪感、屈従のいり混ったきわめて宗教的な感情を抱いたに違いない。だが、やがて時代(end250)がすすみ、宗教的情熱が衰えると、詩人たちはおのれの《創造》を支えるために、かずかずの詩論をものさなくてはならなくなる。
 もしも世界に対する任務というものが詩人にあるとしたら、それは《創造》ではなくて、むしろ《翻訳》ではあるまいか。過去の文化の翻訳、偉大な異文化の翻訳、そして何よりもかによりも、世界に現に存在し、現に力をふるっておりながら、依然として符号以外には言葉を受けつけぬものを、生きた言葉に翻訳すること、これこそ詩人の任務ではあるまいか。(中略)
 しかしここで翻訳といっても、あらゆる意味で逐語訳は不可能である。ここではテキストの明確さと、それを受けるべき言葉の明確さが、ほとんど常に質を異にする。それゆえ翻訳者はテキストをいちど自分の中に沈めてしまい、それからテキストによらず自分の口で語らなくてはならない。だがその時、かれはかならずしも生きた言葉で語るわけでない。生きた言葉だけに頼るかぎり、かれが克服できる領域はあまりにせまい。まだ生きてはいないが、やがて生きるやも知れぬ言葉で、かれは語るよりほかにない。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、250~251; 平出隆「解説 詩学入門書として」)



  • 九時四五分ごろにたしかな覚醒。カーテンをあけて顔にひかりを浴びながら息をゆっくり吐いてからだをやわらげる。空には雲が希薄ながらもこもこと湧きかえって青味もあまりあらわでないのだが、そのわりに陽射しはつよく、冬をかんぜんに抜けた厚さで頬に寄せ、ひさしくかんじることのなかったじりじりという質感をやどす。しかし一〇時半ごろおきあがって布団を出ると、部屋内の空気はおもったよりも冷たかった。のちに皿を洗ったときの水のつめたさも手にすこしつよかった。
  • 水場に行ってきて瞑想。しばらく息を吐いて各所のすじをのばしてから静止。なかなかよい感触だった。一一時すぎに上階へ。ジャージにきがえ、髪を梳かしたりうがいをしたりして食事。きのうののこりものである。新聞をみてウクライナ情勢を追う。ヘルソンが落ちたらしい。市庁舎にロシア軍が押し入って、軍事駐留するみこみと。ヘルソンはドニエプル川に面しており、クリミア方面に水を供給するための枢要地らしい。ロシアは海に面した南部を取ってウクライナ内陸国化したいのだろうという。またハリコフなどでも市街地への砲撃がつづけられており、東南部マリウポリから北方のハリコフへ支配域をつなぎたいという意図もみえると。ロシアとウクライナの二度目の停戦協議がおこなわれたわけだが、テレビのニュースでちょうどながれたところではおおきな成果はない。北京パラリンピックがきょう開催するおり、IPC(国債パラリンピック委員会)はロシアとベラルーシの選手について個人資格での参加を容認していたところ、選手や関係者から多数の抗議反対が出て方針を一転し、参加をみとめないことにしたという。反対が噴出してロシア選手が参加するなら参加をとりやめるという声もあり、開催じたいがあやぶまれたこと、また選手村の様相も悪化しており安全が確保できないということを考慮したと。
  • 三面には国連総会緊急会合での非難決議がとりあげられていた。きのうすでにつたえられていたが、賛成は一四一、反対五、棄権三五。意外と棄権がおおいなという印象だが、二〇一四年クリミアのときには賛成一〇〇で棄権は五八だったかそのくらいだったから、主導提案国にとっては予想外に賛成が増えた結果で、ロシアの孤立をきわだたせることができたと。中国、インドとも棄権にまわっており(中国はそうしながらも、決議はこの件の歴史的事情の複雑さを考慮していないというロシア寄りの声明を出した)、反対したのはロシア、ベラルーシ北朝鮮エリトリア、シリア。エリトリアってぜんぜん知らなくて、エチオピアらへんの国だったか? というおぼろげな記憶しかなかったのだが、Wikipediaをみてみると共産主義一党独裁国家だという。「1960年から1991年までの30年間エチオピアからの独立戦争を経て、エリトリア解放戦線から一部左派が1970年に分派結成したエリトリア人民解放戦線(EPLF、1994年以降に民主正義人民戦線に改組)を率いたイサイアス・アフェウェルキが大統領に就任し、マルクス主義共産主義的政策に基づく政治を行っている[4]。2001年に政府要人の半分が逮捕された際、2017年時点でも所在すら分かっていない[5]。2021年時点でもマルクス主義の影響を受けて、一党独裁を維持している共産主義社会主義国の一つである[4]。大学(唯一の大学であった国立アスマラ大学は閉鎖後に軍傘下教育機関らへ改組。軍管轄のカレッジらは設立)・野党、独立した報道機関が存在しない一党独裁国家であり、一般国民は18歳になると政府支配下の農民か兵士を含む低賃金又は無賃労働の奴隷的公務員となることが55歳(2019年時点平均寿命66.32歳[6])まで義務付けられている」、「国連や国際NGOなどから深刻な人権侵害・圧政ぶりから「アフリカの北朝鮮」と例えられる」とのこと。
  • 国際面には韓国大統領選(九日に投票)で野党候補のふたり、尹錫悦 [ユン・ソクヨル] と安哲秀 [アン・チョルス] が合流して統一候補を立てることで合意したと。もともとそういううごきは出ながらもみのらずいたわけだが、投票直前のここでようやく決まった。直近の世論調査で李在明の支持率がたかく、これじゃあやばいとなったらしい。さいしょに安哲秀の側が尹側に提案したのを蹴っていたところ、尹錫悦は支持者から統一するようおおきな圧力をかけられて、再度交渉して合意にいたるチャンスをうかがっていたらしい。安の側も支持率は一〇パーセント程度でしかなく、大統領選をさいごまでたたかい抜いても当選する確率はまずないし、それだったら統一して党も合同し、尹が勝ったあとにポストをもらうという線をもとめたほうがのちの政治キャリアにとってもよい、という判断があるようだ。
  • 母親はしごとに行ったのでかのじょの分も食器を洗う。風呂はふたりしかはいっていないし残り湯もおおいしいいだろうと洗わず、ポンプだけ取っておいた。白湯をもって帰室。Notionを用意。Notionは数日前からデスクトップアプリをつかわずブラウザでひらくようにしたが、こちらのほうが格段にスピードがはやくて快適である。タブをいくつかひらいてURLをコピペすれば複数記事も問題ない。きょうのことをここまでしるすともう一時。
  • ベッドにころがり、書見。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(新潮文庫、一九六九年)上巻である。六九年の訳なのでとうぜんだが、やはりはしばしに古いことばの感覚はある。「ちんば」(100)ということばが出てきたのには、この語をみるのがひさしぶりすぎてかえって新鮮な感すらあった。いまだったら「びっこ」というだろうし、いまだったらというかこちらがこどものころとかは「びっこ」といっていたのだけれど(母親がときどき口にしていたおぼえがある)、「びっこ」ももうたぶんふつうに差別語になっているのだろうから、いまはどちらもつかわれないのだろう。あとこれはきのう読んだ範囲だが、ハンス・カストルプはべつに肺をわるくしているわけではなく(そもそも葉巻や煙草が大好きで施設についてからも吸っていた)、いとこのヨーアヒム・ツィームセンを見舞うという名目でアルプスにやってきたのだった。その点はいちばんはじめの段落から、「三週間の予定で人を訪ねようというのである」(12)と明言されていた。だからほんにんはじぶんはこのサナトリウムに長期滞在するべき患者だとはおもっていない。ただ、エンジニアの試験に合格して造船所の実習生としてはたらきはじめようというところで、それまでの努力のために「疲労しすぎているような様子」(78)となり、医者から転地療養をすすめられたおり、ちょうどいとこがサナトリウムで退屈しているから見舞いと保養をかねてそこにいくのがいいだろう、ということの次第だった。とはいえハンス・カストルプじしんもこの施設にやってきてからやたらと顔が火照るということをうったえ、異常なことに(かれはマリア・マンツィーニという葉巻がお気に入りでそれをまいにち吸わなければ気がすまないくらいの愛好家であり、この旅にも「二百本鞄に入れて持ってきた」(30)というのだが)葉巻もうまくない、味がしないといっており、あきらかにふだんとはちがった体調になっていることがみうけられるので、これからじっさいに病人になっていくのかもしれないが。
  • テレビのニュースでみた情報をひとつおもいだしたが、ウクライナ内にある(たしか東南部といっていたか?)なんとかいう欧州最大級の原発が攻撃されたらしい。現状安全性は心配ない、安定しているという発表がいちおうはあったもよう。
  • 一時四五分くらいで切ってストレッチ。労働がある日はよりからだをととのえておきたいのでやる気になるが、休日はだらだらできてしまうのでなかなかストレッチにとりかからない。よくないことだ。ゆるくてきとうでいいのでまいにちやることがやはり大事だ。終えて二時ごろ、携帯をみると(……)さんからメールがはいっていた。きょう休みをもらったという。もろもろの手続きなどは(……)さんが来てかわりにやってくれるらしい。かれと会うのはひさしぶりなのでちょっとうれしい。(……)
  • いま帰宅後で、自室で夕食を食べ終わったところの一一時。(……)さんのブログを読みながら食っていたが、さいしんの三月三日の記事中に、一年前から古井由吉(『山躁賦』)の文章についての分析があっておもしろかった。とくに現在相での風景描写につかわれる単純過去について述べたつぎのくだり。

通常であれば単純過去を使用しない箇所を単純過去で押し切る場面はかなり目立つ。これもまたマークの抹消であり、記述群のたやすい階層づけを拒み、フラットな自失を呼び寄せるための罠であるのだろうが、たとえば、作中の現在にあたる相で、語り手の目の前にある風景が描写されているくだり、そのなかであきらかに現在形を使うべき一文に過去形があてがわれているようなことがたびたびある。具体例を挙げると、以下のくだり。夜、ホテルの食堂の窓から「燈が集まってい」る山をながめている現在の相にあたる場面。

 高山なら天狗のお庭とか踊り場とか呼ばれる、台状の地形らしいところに、整然と五列ほどに並んで、揺らぎもしなければ顫えもせず、人工のものには違いないが、しかしどこか人離れした、闇からじかに生まれた表情で光り、さらに西のほう、湖岸とは反対側へ、枝尾根らしいのを伝って、ようやく列を乱してずり落ち、くだるにつれ数を増すかと思えば逆にまばらになり、やがて転々と散って谷陰に溺れた。そのむこうのまた一面闇のはるか遠く、霧のこめた宙へ目を凝らすと、地の底から鈍く昇る赤い発光のように、平かな、燈のひろがりが浮んだ。

長い一文目の最後が「溺れた」と過去形になっているのはおかしい。通常であれば「溺れている」と現在形にするだろう。たとえばこのくだりが、燈の移動を長時間にわたって観察している場面として描かれているのであれば、「溺れた」となっていても不自然ではない。しかしこのくだりはあくまでも語り手が窓越しに夜の山をながめた、決して長くはない時間、というよりほとんど無時間的な空間の静物的描写として置かれている。そうであれば、「溺れた」という過去形を使用しているのはおかしいし、もっといえば「ようやく」はまだレトリックの範疇として理解できるものの「やがて」もかなりあやしいということになる。しかし古井由吉はそこをあえて単純過去「溺れた」で押し切る。これによってもともと静物的な風景描写に使用するには特徴的な「溺れた」「浮かんだ」という動詞が、その動詞性をさらにきわだたせることになる(「動き」の発生)。動詞的に処理された描写は、過去と現在が交錯し現実と幻視が交錯する文章のフラットな羅列のなかに置かれると、単なるレトリックであることをやめて、(制度的静物的)描写であることから逸脱し、それ自体がある匿名的な経験——権利上「幻視」や「引用」に等しいもの——として浮遊しはじめる。

  • それにしても(……)さんもよくもまあこんなこまかいところにひっかかるなというか、これはかんぜんに読むにんげんのひっかかりかたではなくて文を書くにんげんのそれだよなとおもうのだけれど、動感がでるというのはそのとおりで、古井由吉のこのやりかたが、じぶんはけっこう感覚としてわかるような気がする。じぶんもたまにこういうことをやっているんじゃないかと。ありていにいえば、こういう「やがて」を、じぶんはつかいそうだなとおもったし、じっさい過去につかったことがあったような気もする(そのとき文を単純過去で締めたかどうかはわからないが)。というか(……)さんのこのはなしを読んではじめて気づいたのだが、じぶんは「やがて」を空間性の描写にもちいることにいままで違和感をもっていなかった。しかしいわれてみれば、たしかにそれはほんらい時間的経過にもちいる語なのだ。この引用部を読んだかぎりでは、ここでは空間配置がそのまま時間化されている、時間に変換されているという印象をおぼえる。じぶんもみた風景や事物の配置をながながとしるすときに、それはあたまのなかで記憶をおもいうかべ、ひとつひとつとりあげて分節しそれを整序しながら言語化して文のかたちにしたてていくわけだけれど、じぶんの視線や感覚のうごきを再構成的になぞったり、仮構的(加工的)に秩序化しているうちに、あたまのなかで構想されるそのうごきのなかに時間が発生してしまうようなことがあるのではないかとおもう。視線を推移させていったその推移がそのまま時間になるというか。こちらが古井由吉のうえの文を読んだときに喚起されたのは、じぶんが文を書いているときのそういう感覚だった。だから、描写とはおしなべてそうではあるのだろうけれど、とりわけうえの文は、風景をえがいているというよりは、風景をみているそのうごきをえがいているという感触をえた。表象としては静物なのだろうが、みているものを言語という形式でえがいているうちにその微分的なうごきのなかに時間が捏造的にしのびこんでしまい、空間的推移と時間的経過が等質化するとともに空間性と時間性が渾然一体となり、二重化されたそのうごきの感覚を果てにおいてきっちりおさめる終結符として単純過去が要請されるというような。そこには最終的な風景としての総合された時間性というよりは、この文とことばのつらなりそのものならびに表象の連鎖において発生しはらまれた時間性が表現されているような気がされ、そちらのほうが優勢になっているのかもしれない。だから、「浮んだ」のほうはわからないが、この一文目で「(やがて)溺れた」をつかえるのは、たんじゅんなはなし、この一文が比較的ながいもので、したがってそこで生じる表象の継起もながく幅のあるものだという事情もたしょうあずかっているのではないか。あえて「溺れた」をもちいることで動感を保証しながら閉じるということでもあるだろうし、逆からみれば、ことばや表象のうごきが生産=捏造する時間性において単純過去「溺れた」が担保されているという気もされ、それは表裏一体の様相なのだとおもう。よりこまかく文をみてみれば、一文目において動感が顕著になるのはあきらかに「さらに西のほう」以降だとおもわれる(これいぜんは仮構された視線のありかたとしてはうごきの感覚にとぼしいのだが、だからといってじぶんはその前半部が「ことばや表象のうごきが生産=捏造する時間性」からかんぜんに排除されているとはおもっていない。したがって、「視線」という比喩的な、もしくは観念的な語はこれらの説明にもっとも適したものではないのだけれど、ほかによいいいかたがおもいつかないので便宜上そういっておく)。ここで「さらに」とともに方向が指示されることで視線がそのむかうさきを転じているからだが、それによって準備された転移がつぎの動詞「伝って」で現実化するとともに、ここから「燈」の配置的なありかたが視線の動態とほぼ一体化する調子になって、「(ようやく)ずり落ち」、「くだる」、「(やがて)散って」「溺れた」とつづいて終わる。こうしてみてくるとやはり、じつにこまごまと分節的に移動や運動をあらわす一連の動詞群を導入したことによって、そのつらなりのさだかな終着点として過去形が必要になったようにもみえるが、そのなかでおもしろいのは「ずり落ち」の語で、この動詞だけ匿名的(でおそらく無属性的な、ほぼ純然たる)視線のうごきとしてよりも、対象のほうにより適合したいいかたにかんじられるからだ。ほかの語はどれも対象である「燈」の配置にも、視線のうごきかたにもほぼ等分に意味をわけあえることばだとおもうのだが、「ずり落ち」の「ずり」がもっている摩擦のニュアンスだけは、物質や物体としては存在しない視線にはそぐわないようにかんじられるのだ。この風景をみているものはとうぜんながらこの山からは遠い場所におり、したがって視線はあいだにおおきな距離をはさんで山と密着しておらず、それもまた接触しているとはいえるとしても、摩擦感をかもせるほどに山とほどちかくふれあっているのはあきらかに「燈」のほうだからである。
  • 二時よりあとは飯を食ったのだったか、出勤路にでるまでのことはよくおぼえていない。洗濯物をとりこんでたたみはした。ほかはたしょう日記を書くなどしたのだったか? いずれにしても三時四〇分ごろに出発。きょうは鍵開けではないので電車で行くことにしたのだ。みちに風があって林がさわさわとにぎやかに鳴らされていた。道中の印象はのこっていない。(……)との面談を課せられたので、どういったことを言おうかなとちょっとおもいをめぐらせていたのだ。最寄り駅につくとホームのさきのほうに出て、しばらく立ちつくして待った。来た電車に乗って着席。移動して職場へ。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • そうして八時四〇分くらいに退勤。駅へ行き、ホームに出てベンチにつくとまもなく電車が来たので乗って着席。目を閉じて休息しながら待つ。一〇分程度でも瞑目してじっとしていれば、服のうちで肌はかなりゆるんで、そのことが皮膚の感触としてあきらかにわかり、けっこうからだを休めることになる。最寄り駅で降車。階段通路をゆっくり行き、のぼったところで横をむいて東へはろばろとひらいている夜空を目にしたが、水平空間はひかりもかたちも色の偏差もない一様な黒さにつつまれているばかり、それが液体質の濃い闇にひたされた晴れなのか、雲が占領した乾燥帯なのか一見してわからず、駅舎を抜けてまだ街道にいるあたりでもみあげれば街灯がさまたげるので判然としなかったが、昼間は曇っていたはずだとおもいながら木の間の坂に踏み入ると星もなく灰色じみているのがよくわかり、曇天はしかしおもいのほかにあかるくこずえとの色味のちがいも境も明瞭で、樹冠のしたを行っているあいだも木立の間を埋める背景が粘土風としても浮かぶように薄く、月はなくともあきらかな夜だった。
  • 帰宅後、休息。うえに書いたとおり夕食は部屋でブログを読みつつ取り、その後そこの文を書きはじめたのだが、一一時ごろでさきに食器をかたづけ風呂へ。比較的はやく出た。そのあと古井由吉の文章を読んだ感想を書いていると容易に一時くらいに達していたはず。かかりすぎじゃない? それからは書見などして三時四五分ごろ就床。