2022/3/8, Tue.

 アジア人局の役人は、特定の指導者を逮捕しないでおくかぎり、運動の勢いをくじくことはとてもできない、と思うようになった。それで、指導者格の幾人かに対し、一九〇七年のクリスマスの週に治安判事のもとに出頭せよ、という通告を発した。通告を受けた者は指定された日、つまり一九〇七年十二月二十八日の土曜日に出廷し、法律によって要請された登録出願を怠ったかどで、一定の期間トランスヴァールを退去すべし、との命令を受けた。しかし私たちはそれには従えない理由を陳述した。
 治安判事は、各人を別々に切り離して取り扱った。そして、ある被告に対しては四十八時間、他の被告には七日間、またある被告には十四日間、というふうにして、全員にトランスヴァールを離れているように命令した。この命令の効力は一九〇八年一月十日に切れた。そしてその日に、治安判事のところに呼び出されて、私たちは刑の宣告を受けることになった。私たちのうち、弁明を申し出た者は一人もいなかった。命令された期間中、トランスヴァールを退去しておるべし、との命令に服従しなかったかどで、全員で有罪を申し立てたのであった。
 わたしは、ちょっと考えを述べたい、と許可を求めた。それが認められたので、わたしの場合とわたしに指導された人々の場合とは、区別があってしかるべきだと思う、と述べた。わたしは、ちょうどプレトリアから、そこのある仲間が、三ヵ月の懲役に処せられたうえ重い罰金を科せられ、それが支払えないなら、その代わりとしてさらに三ヵ月の懲役を科せられるということを聞いたばかりであった。これらの人々が犯罪を犯したならば、わたしは(end270)さらに大きい犯罪を犯したわけである。したがってわたしは、治安判事に対して、最も重い刑罰を科するように要求した。しかし、治安判事はわたしの要求をいれてくれなかった。そしてわたしに二ヵ月の単なる禁固刑を宣告した。
 (マハトマ・ガンジー/蠟山芳郎訳『ガンジー自伝』(中公文庫、一九八三年/改版二〇〇四年)、270~271; 第六部; 「52 投獄」)



  • 一一時に覚醒。ちょっと呼吸し、一一時一三分に離床した。ベッドにこしかけてティッシュで鼻のなかを掃除し、水場へ。用を足してもどってくると、きょうは瞑想をサボり、れいによって脚をもんで血流をうながすためにあおむけになって書見した。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山(上巻)』(新潮文庫)。324くらいからだったはず。いまこの日の五時半だが、現時点で400をこえるところまですすんでおり、それなりのおもしろみをかんじるようになってきたというか、とくべつおもしろくはないのかもしれないが、しかしこの作品に乗れるようになってきたような感触があって、けっこうよくすすむ。
  • 正午まえに上階へ。父親は山梨に行ったらしい。しかしきょうじゅうにかえってくるといっていたとのこと。きょうの天気はまごうことなき白い曇天で、気温もややひくめでちょっとはだ寒い感。飯はなんかラザニア的なやつ。セブンイレブンあたりの冷凍食品だとおもう。新聞は一面を少々。ロシアが「人道回廊」を設置して四都市での攻撃を一時停止したものの、民間人の退避先としてロシア国内かベラルーシがいっぽうてきに指定されていたため、ウクライナが拒否したと。そりゃそうなるにきまっているだろう。阿呆ではないか? 戦争中に、市民をいまたたかっている当の敵国に逃がすわけがない。しかも今回はロシアのほうから侵略してきたわけだし。これもいちおう、こんかいの軍事行動は戦争や侵攻や侵略ではなくて「特別軍事作戦」であるというロシア側の名目とか、目的は政権を支配しているネオナチの排除であってウクライナの民間人に危害をくわえる気はないとかいういいぶん(そういいながらところが、ロシアは民間人居住区にもふつうに空爆をしているわけだけれど)に沿ったものではあり、それはもちろん詭弁というか犯罪的な強弁というか、端的に虚偽なわけだが、プーチンのようすとかロシアのこういう提案とかをみるに、かれらはこれがつじつまのあわないめちゃくちゃな理屈であることをもちろん知っていながらそれを目的のためにいわゆる確信犯的に無理やり押しとおしているのではなくて、ほんきでこれが理屈としてただしい、すじのとおったものであるとおもっているのではないか、といううたがいをもってしまう。ほんとうにそうなのかもしれない。プーチン認知症説なんかもでているようだ。
  • 食器や風呂をあらって帰室。Notionを用意したあとはウェブをみつつ、FISHMANS『Oh! Mountain』をながしてひさしぶりにちょっとうたを口ずさんだりした。うたをうたうことはきもちがよい。その後はからだがなまっていて活力がわかなかったのでまた書見。五時まえまで。とちゅう、四時八分から四〇分まで瞑想した。だいぶよい感触だった。かなりうまく停まった感があった。

 坐禅の実践のうえで思量・不思量・非思量の関係性を明確に、しかも具体的に提示された解説としてご紹介したいのは、橋本恵光老師の解説です。橋本老師は『普勧坐禅儀の話』(大樹寺山水経閣1977)において、『涅槃経』巻二十高貴徳王菩薩品の逸話を引かれて解説しました。非常に面白くしかも明確な解説なので、長くなりますが引用します。

 ある国の王が国政をゆだねることのできる智臣を得ようと思い、大勢の家来に向って、“都の端から端まで群衆の中を、油を一杯に満たした器をもって、ひとしずくもこぼさないように運ぶものはないか、いささか考うることがあるから自信のある者は名乗って出よ”と命を下したところ、事のむずかしさに、いずれも、しりごみして容易に受けようとせぬ。ようやく一人、応募者があり、さっそく行なうことになった。王は別人を付して抜刀をしたまま随わせ、ひとしずくでもこぼしたら直ちにその人を切り捨てることを厳命した。飛んだことになったとは思ったが、いまさら何とも仕方がない。それこそ命がけで群衆の中を縫うようにして、万全の気配りを怠らず、ついに目的地に達した。王は喜んで大臣にして国政をゆだねたという。(中略)
 この油を運ぶ心持ちで、思量・不思量・非思量の三角関係が極めて自然に、その融和状態を完全に確保しつつ活動を続けていることが味わわされる。うつわをささげ運ぶ命がけの心の働きは、無念無想などの心持ちとは全然、様子の違うことは誰でも見当がつく。これが坐禅のうえに適用されれば兀兀地の思量は、いわゆる念恵の保全、回光返照の退歩、了々として常に知ることだとハッキリ分る。かように心がギリギリ一杯働きながら何の余念も萌すべき隙は一点もなくして、心がギリギリ一杯働いていることすら心付かないで働いている様子は、思量がそのまま不思量になっている趣きだ。不思量ではあるが、身体中、どこに狂いが起っても直ちに気がついて立てなおすというよりも立てなおることができるのは、不思量の思量が全身にみちているからである。すると思量と不思量と世の中では全く正反対の心境として扱っているものが、何等の媒介的手段も仮り(マ)ない(マ)で思量は思量、不思量は不思量の特性はいささかもくらまさずして、しかも完全な妙融状態を呈して対立的なありさまは全然ない。この特殊性態と妙融状態とを極めて自然なことばでひとつかみに表現のできる名前が、どうしても入用だ。この要求に応じたものが非思量という名称である。
 思量・不思量・非思量の三角関係を理論のうえから参究を進めていこうとすると、むずかしそうに扱われることが、油を運ぶたとえで見当をつけてかかることにすると、まことに造作なく誰にも納得がいく(186~188頁)。

 橋本老師は思量・不思量・非思量を三角関係と見て、しかも坐禅においてこの三側面が融合し一体化しているものと解説します。しかも重要なのは、橋本老師はこれを平面的なものと考えておらず、「立体的な三角水晶形」の各側面であると解説しているという点です。第三項となる非思量は、思量・不思量を他の側面とする一つの立体の側面として、融合・一体化しつつ立体的・三次元的に立ち上がっているものと解釈しているのです(このことは詳しくは次回に触れます)。
 また、近代的な思考を経たわれわれは、ともすればこれを弁証法的に解釈してしまいがちです。しかしそれも問題であると橋本老師は注意を喚起します。つぎのようです。

 また始めは思量で修行をして次に不思量に進み、更に進一歩して、思量でもない不思量でもない非思量の境地に進むのだという、三つの段階を分けた説き方をするのも、たまたま耳にするところであるが、これも本当ではない。眼蔵坐禅箴の巻には、

 「思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり。」

という語がある。皮肉骨髄とは全身ということ、思量の方からいえば不思量のなかへ溶けこんで、思量の全身として扱われ、不思量を立場として扱えば思量は全部、不思量となって、不思量の全身あるのみという一体両様の趣きが、この文に現されている(188頁)。

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 道元禅師自身、「坐禅箴」巻撰述の時期に、そうした読み直しを試みていると思われます。「坐禅箴」巻は仁治三(1242)年三月の撰述ですが、同月には「恁麼」「仏向上事」の各巻が(「恁麼」も「仏向上事」も、事柄としては第三項の非思量とほぼ同義です)、翌月には祖師たちの行業を集めた「行持」巻が撰述されるからです。そこでわれわれも、薬山の逸話を『景徳伝灯録』巻十四に戻って見てみれば、薬山とある僧の問答の先駆を、師である石頭希遷と薬山自身との問答に見て取ることができるのです。それは次のような問答です。

一日、師、坐する次いで、石頭、之を覩て、問ふて曰く。汝、遮裏に在りて什麼をか作すと。曰く。一切、為さずと。石頭曰く。恁麼ならば即ち閑坐なりと。曰く。若し閑坐ならば即ち為すなりと。石頭曰く。汝は為さずと道ふ。且た箇の什麼か為さざると。曰く。千聖も亦識らずと(国訳一切経史伝部14 ただし歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに改める)。

 薬山の坐禅を見て石頭は「坐禅において何をしているのか」と問います。薬山は「一切なにもしていない」と答えます。ここまでならば、坐禅は凡俗の行いではなく、仏の行いであるという主張ととってよいでしょう。しかしそれでは、俗/聖の二分法を継承したままです。そこで石頭は、「それでは暇つぶしに坐っているだけか」と問いただします。もしここで薬山が、「そんな暇つぶしの坐禅ではない、しっかりした仏祖の坐禅をしているのだ」と色をなして怒れば、俗/聖の二分法を継承しているばかりか、「一切なにもしていない」といった前言とも矛盾することになります。石頭の狙いは、「一切なにもしていない」という言葉の強度を確かめることだといえます。これに対し薬山は「暇つぶしの坐禅なら、なにかをしていることになるではないか」と、石頭の問いをいなしてしまいます。石頭はそこでさらに「お前がいうなにもしていないという「なにも」とはなにか」と問うのです。そこに対して薬山は「どんな聖人賢者でもわからないところ」と答えたという問答です。

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 そこで、これを疑問文としてではなく「兀兀地の思量は什麼なり」という平叙文として読んでみよう。そうした方が、この後に書かれているこの公案についての道元のコメントとより整合的につながるはずだ。上の引用では一応、【】の中には文法通りに読んだ場合の読み下し文を記しているが、私の立場では「兀兀地、什麼をか思量せん」ではなく、「兀兀地の思量は什麼なり」と読まなければならなくなる。道元の文章に出て来る中国語の引用はしばしば、表層の意味と深層の意味という二重性の問題をはらんでいるので(それだけが唯一の理由ではないが)、『正法眼蔵』を他の言語に翻訳することは極めて困難な作業にならざるを得ない。表層の意味を取ってそれを訳せば、深層の意味がますますわからなくなるし、深層の意味を訳せば、原文に背くことになるからだ。
 中国語の俗語としては「什麼」は疑問詞のwhatを意味している。しかし、これを疑問詞としてではなく、平叙文の中の名詞、あるいは形容詞として読むならば、どういう意味になるのだろう。「坐禅中の思量は什麼(what)である」ということは何を言おうとしているのだろうか?
 「什麼」についてはいずれさらに詳しく論ずる機会が来るであろうから、ここでは什麼とは「非限定的な」ということだと結論だけを述べておく。つまり、概念によってかくかくしかじかのものであるとつかみ、限定できない、という意味である。そういう事情を疑問詞を形容詞に転用することによって表そうとしているのだ。坐禅中は、内外からの刺激に触発されてどこからともなく湧いて来る思いを追いかけるということをしない。もちろん、それを相手取ってなくそうともしない。古来、坐禅中の思いに対しては「追うな、払うな」というアドヴァイスが口伝として伝わっている。内山興正老師は「思いの手放し」状態とそれを表現した。思量が思量として決まっていない。思量というかっちりとした形を取らないで流れている。それが「兀兀地の思量は什麼なり」ということ。大事なことはそれが兀兀地とここでは言われている坐禅の中の風景だということだ。

 では、「考えが及ばない箇所を、どのように考えられるのか」という疑問文の問いを、できるかぎり鋭くしてみましょう。問われるべきなのは、まず、通常のわれわれの「考え(思量)」とは一体どういうものなのかということです。たとえば中沢新一氏は通常のわれわれの考えを「ロゴス的知性」と名付けて、その特徴を次のように述べました。

 ロゴスはギリシャ哲学でもっとも重視された概念であり、語源的には「自分の前に集められた事物を並べて整理する」を意味している。思考がこのロゴスを実行に移すには、言語によらなければならない。人類のあらゆる言語は統辞法にしたがうので、ロゴスによる事物の整理はとうぜん、時間軸にしたがって伸びていく「線形性」を、その本質とすることになる。
 ロゴス的知性は「自分の前に集められた事物を並べて整理する」。この整理は言語の統辞法に基づいておこなわれるが、この情報処理法は、神経組織でニューロンがおこなっている電気的化学的過程と同じプロセスにしたがっている。
 ニューロンは感覚受容器で一時的分類をほどこされた類似的要素をひとまとめにして縮減をおこない、次の処理過程に送り出す。この過程は、ホモサピエンスである人類の用いている言語の処理方法と、基本は同じである。それゆえに、ロゴス的知性は人類の脳組織の働きと、自然な形で適合する。中枢神経系と脳組織をもった人類の思考は、自然な形でロゴス的知性を生み出すと言ってもいい。(『レンマ学』14-16頁 講談社 2019)

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 この「線形性」を特徴とする思考は、非線形的なものはとらえにくいという逆の特徴ももっています。非線形的なことがらの代表は、たとえば仏教の根本の教えである「縁起」のありようです。縁起とは、世界のあらゆる事物が相互につながり影響を与え合って、動きあいながら全体的に変化していくことですが、この縁起のありようは、線形的に捉えることはできません。ですから縁起は通常のわれわれの思考では捉えられず、通常の知性とは別の、仏の知性、すなわち「悟り」を必要とするのです(中沢新一氏は縁起を把捉できる知性を「レンマ的知性」とよび、ロゴス的知性とは別のありようと位置づけました)。

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 ここで、「玲瓏」というのは非思量の働き方が「歴々として明らかで、無色透明なこと」の喩えです。われわれは朝から晩まで非思量をフルに使って生きているのですが、それがあまりにも身近で当たり前で、無碍自在なので、こちら側にはなんの手応えもないし、これといった実感もありません。それこそ「なんともない」のです。われわれは、非思量のこの「なんともなさ」の有難さ、ものすごさにもっと驚愕すべきです。釈尊が樹下で悟りを開いたときにも、この「当たり前さ」、「なんともなさ」への驚嘆を伴う洞察があったのではないかと私は愚考しています。
 釈尊が覚りを開いたときに思わずもらした「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとくみな、如来智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるを以ての故に証得せず」という言葉も、そういう平常無事、平凡さが秘めている「ありえなさ」、「ものすごさ」への驚きを伴った開眼として理解することができると思うのです。樹下の打坐を源流とする坐禅もそういう文脈において見ていく必要があります。

  • アイロン掛けや食事の支度。しかしなにをつくったのかはわすれた。夕食時、(……)の結婚式の引き出物にもらったギフトカタログを注文。いぜんいちどみたのだが、三つのカテゴリから一品ずつえらぶもので、決めるのがめんどうくさかったので両親にこれあげるわというかたちで先日丸投げし、母親が決めたようだった。砥石とか素麺とかだったか。そのさいアドレスを入力する必要があったので食後に自室から携帯をもってきて、タブレットで入力。(……)
  • (……)
  • この日は前日の日記をけっこうよく書いたのだが、通話中のことをのこして終わらず。この翌日も労働があったためにとちゅうまでしか書けず、きょう(一〇日)にしあげた。八日の火曜日にほか、やったことといえば、翌日に(……)くんの授業があったのでかれがつくった長文の和訳を添削したこと。これもいざやればけっこう時間がかかって、たぶん二時間くらいかかったのではないかとおもうのだけれど、それはただ訳文中に書きこむだけではなく、何箇所かピックアップしてべつのルーズリーフにこちらの訳を示し、こういうふうにかんがえるという解説も手書きで記しているということがおおきい。そこまでやらなくてもよいというか、これはとうぜん時間外労働なので、職場に知られればそういうのは困るといわれるはずだが、知ったことではないとおもっているし、とりあえずバレるまではつづけるつもり。とはいえけっこう労力はかかるので、あとまわしにせず余裕をもってやっておいたほうがよい。