2022/3/10, Thu.

 婦人の投獄は、ニューキャッスル近郊の鉱山に働いていた労働者に、魔法のように作用した。彼らは道具を捨てて、つぎつぎと集団をなして町に入っていった。その知らせを受け取(end293)るとまもなく、わたしはフェニックスを出発して、ニューキャッスルに向かった。
 これらの労働者は、彼ら自身の住家というものを持っていなかった。鉱山主が彼らのために宿舎を建て、道路に照明をつけ、そして水を供給する。その結果として、労働者は全くの依存状態に立ちいたっている。トゥルシダスもいうように、他人によりかかる者は、夢にだに幸福を望むことはできない。
 ストライキ中の労働者は、わたしのところに苦情を非常にたくさん持ち込んで来た。幾人かの者は、鉱山主らが彼らの電燈と水道を止めてしまったと言った。他の者は、彼らがストライキ労働者の家財道具を宿舎から投げ出してしまったと言ってきた。わたしは労働者としてとるべき道はただ一つ、主人の宿舎団地を立ちのくこと、それこそ巡礼のように立ち去ることだと言った。
 その労働者の数は十の単位ではなく、百の単位で数えられた。しかも彼らの数は簡単に数千にも膨張するかもしれなかった。わたしは、これらの絶え間なくふえてゆく人たちに住む家を与え、食物を与えるのに、どのようにしたらよかったのか。大きい人間の群れであった。それは絶えずあとからあとから加わっていく。彼らが失業している間、彼らを一ヵ所に集めて面倒をみることは、不可能な仕事ではないにしても、危険な仕事であった。
 わたしは、直面した問題の解決策をいろいろ思案しぬいたすえ、一つの案を作った。この「軍勢」をトランスヴァールに連れて行き、フェニックス部隊のように、彼らを無事収監されるようにすることであった。「軍勢」は約五千に達していた。これほどおおぜいの人間に(end294)汽車賃を出すだけのお金は、わたしのところにはなかったので、トランスヴァールまで、彼らを汽車で連れて行くわけにいかなかった。しかも彼らを汽車で連れて行ったならば、わたしには、彼らの士気に気を配る方法がなくなろう。
 トランスヴァールの州境までは、ニューキャッスルから三十六マイルある。ナタルトランスヴァールの州境の村落は、それぞれチャールスタウンとフォルクスラストであった。わたしはついに、徒歩行進をやることを決意した。わたしは、妻や子供をいっしょに連れている労働者に相談してみた。そして、彼らのうち幾人かは、わたしの案に賛成をしぶった。わたしには、心を鬼にするよりほかに方法は残されていなかった。そこで、鉱山に帰りたい人は自由に帰ってよい、と宣言した。
 ところがだれひとり、この自由を行使しようとする者はいなかった。私たちは、脚の不自由な者は鉄道で送ることを決定した。そして、からだの健全な者は全部、歩いてチャールスタウンまで行こう、と決意を表明した。
 (マハトマ・ガンジー/蠟山芳郎訳『ガンジー自伝』(中公文庫、一九八三年/改版二〇〇四年)、293~295; 第六部; 「57 労働者の流れ」)



  • はやい時間からなんどもめざめたのだが、チャンスを活かせずに一一時をまわるころまで寝床にとどまった。とはいえ滞在はちょうど七時間ほどなので適正ではある。おきあがり、鼻を掃除して、「アレグラFX」を一粒歯のあいだにくわえて洗面所へ行き服用する。顔を洗って用を足すともどり、寝転がってすこしだけ書見してから瞑想。一一時四〇分からはじめ、二〇分強でおさめた。
  • 上階へ。居間は無人。あたたかくなるようなことをきいたおぼえがあったが、おもったよりも晴れておらず、空は白さにつつまれており、そのわりにあかるめで陽のてざわりがかすかもれてみえなくもないが、まったくの曇天であることはちがいない。ジャージにきがえて洗面所で髪を梳かし、うがい。れいによってベーコンエッグをこしらえることに。フライパンにベーコンと卵を落として焼き、丼に盛った米のうえにのせる。台所にいるあいだカウンターをとおしてソファの安っぽい生地に南窓の白い色がすこし反映し混ざっているのを目にし、またテーブル上にはもっとはっきりと、まったき空の白さが水を撒かれたようにうつりこんでいたが、丼をもって卓のほうに来てすわると、とうぜんながらそのテーブルはさきほどみた純白の水たまりをうしなってくすんだ木肌風の褐色に尋常化しており、そのことがなにか不思議にかんじられた。いましがたみていたようすとぜんぜんちがうじゃないか、と。それをいえばそもそも、目にみえているテーブルのかたちひろがりだって、台所から距離をおいてみたときと椅子についてすぐ目のまえにみたときとではまったくちがう。そのものとの角度や位置関係や、接する関係のありかたによって、数瞬前とはちがった像があらわれて、それはまたこちらがうごけば応じて刻一刻と変容していき、だから一瞬前のものといまみているものはまったくべつの存在だと言ってもほんらい良いのだろうが、それを統合してつなぎあわせひとつの事物にまとめあげて提示する、ひとの意識の観念化と統一性のはたらきの、その不可思議さがたまさか不意にあらわになったものらしい。
  • 新聞一面をみながらみじかい食事。ロシア軍がキエフを三方から総攻撃する態勢をととのえているもようと。総攻撃がはじまれば、一〇日から二週間ほどでキエフは絶望的な状況にいたるだろうと米当局のにんげんは予測しているらしい。九日はいわゆる人道回廊が各地にもうけられたようだが、ウクライナ側はロシアとの合意にいたったと強調したものの、ロシアが提示した案と出発地がおなじなのは二箇所だけだったと。ロシア側は避難実施にあたっての一時停戦を明言していない。ほか、韓国大統領選も投票がはじまって、李在明と尹錫悦が伯仲していると。ともにスキャンダルをかかえた身なので非難合戦の泥仕合となり、どれだけあいてのイメージを落として不人気にできるかという、大統領選として異例の展開になったとのこと。
  • 食器を洗って風呂へ。父親がなかにはいってくるとほぼ同時に電話が鳴った。取って、知人らしくなんとかはなしており、その間こちらは風呂桶をよくこすって洗剤の泡で覆い尽くす。電話を終えた父親が台所に来てあいさつをかけてきたので返し、飯は食ったかというのに肯定して、泡をながすと室を出て白湯を一杯部屋にもちかえった。パソコンをデスクからはずしてNotionを準備し、きょうは音読もせずウェブもほとんどみないままさっそくこの日のことを書き出して、ここまでしるせば一時をまわったころあいである。指がかるく、ちからをこめずにすばやくうごく。
  • その後、三月七日月曜日の記事ものこっていた通話中のことを記して、しあげて投稿するとちょうど二時ごろだった。いったん上階に行って洗濯物をとりこむ。ベランダ上に薄い日なたは生まれていたものの、吊るされたものをなかにいれながら手指で感触をさぐってみると、やはりあまりよく乾いてはいない。それなのでたたまずにひとまずそのままにしておき、自室にかえって書見した。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山(上)』。そこそこおもしろくなってきたような気がする。すくなくとも、さいしょのような停滞感にみちあふれた退屈さはかんじなくなった。二時四〇分くらいからストレッチして、三時でうえへ。
  • 勝手口のそとに出ていたゴミ箱や生ゴミ用のバケツをなかに入れておく。食事には豆腐を電子レンジで加熱し、鰹節や麺つゆをかけるとともに山葵と生姜を乗せ、ほか、即席のシジミスープを用意した。合間に食器乾燥機のなかのものもとりだしてかたづけておき、さきほどベーコンエッグを焼くのにつかったフライパンも水をそそいで火にかけ、沸騰したのをあけたあとにキッチンペーパーで汚れをぬぐう。豆腐と汁物をもちかえって食事。そのあとそのまま八日の記事を書いてしあげて投稿、さらにここまできょうのことを書き足して四時一〇分。出かけるまえに味噌汁くらいはつくっておきたい。きょうは帰宅後にたぶん、前日のことをしあげることができるのではないか。しかし無理はせず、夜は休むことを優先したほうがよい。もうすこしはやく寝てはやく起きなくては。
  • 上階へ。タマネギとジャガイモの味噌汁をつくることに。まず、ハンガーにとめられたタオルや靴下や肌着などをとってファンヒーターのまえに置き、スイッチをいれておいた。それから階段の最上段付近の脇に置かれてあるタマネギとジャガイモから前者をひとつ、後者をひとつ取り、台所へ。さきに食器をあらってかたづけ、さくばんいちおう掃除したフライパンも、白菜などのクリーム煮がつくられたものでクリームの滓がとれきっていなかったので、あらためてあらうことにしてひとまず洗剤の泡に漬けておいた。それから鍋に水をくんで火にかけるとともにタマネギを切り、はやくも沸きかかっていたのでもう投入してしまい、ジャガイモも皮を剝いて櫛形にほそく切って追加する。あとは煮て、ころあいで味噌を入れるだけである。ながしの洗い物をかたづけると、この間をつかってもう歯をみがいてしまおうと階段を下り、歯ブラシを口につっこんでガシガシやりながらもどると、つま先立ちをして脚の裏の筋肉をちょっと伸ばしながら鍋のまえで火の番をした。そろそろよさそうだというところでまた階段をおりて口をゆすぎ、もどってくると冷蔵庫から伊予の麦味噌をとりだして木べらでお玉へ、そうして汁物に溶かす。完成。また洗うべきものを洗って乾燥機に入れておくと、ひとがいなくなるのでヒーターを切って自室へ。瞑想をした。四時四三分から。けっきょくやはり瞑想というのは、なにもしないこと、ちからをぬくことをきわめるおこないではないかというかんがえにいたっている。ちからをぬき、捨てるのはむずかしい。にんげんの心身やそのありかたもしくは存在性は、基本的にはつねにちからをいれ、発揮し、こわばる方向にみちづけられているというのがこちらの実感である。とはいえやっていることとしてはまえまえから書いているとおり、ただすわってじっとしているだけでよく、それに尽きるのだとおもうが。このときは豆腐などを食ってから一時間ほどだったから、内臓が消化をすすめているようで胃や腸のほうでこまかなうごめきと気体が発生しては移動したりつぶれたりしているような音がほとんど絶え間なく頻繁に生じ、ときどきゲップまではいかないけれど体内の空気が口のほうにまであがってきて拡散するのもかんじられる。とちゅうでとおくに鐘が鳴り、え、五時だろうか、これが五時だったとしたらまだ一七分しかすわっていないことになるが、とてもそんなふうにはかんじられない、もっとながく、三〇分くらいはすわったようにおもっていた、とおもい、こたえが知りたくなって首を横向け、薄目を開けてしまったが、これは五時ではなくて五時一〇分にどこかで鳴ったものだった。それからもどってあとすこしだけすわっていたので、五時一四分まで。ちょうど三〇分ほど。
  • FISHMANSの『Oh! Mountain』の”感謝(驚)”をながしてそのなかでスーツにきがえ、ここまできょうのことを書き足すと五時三五分になった。もう出発する。
  • コートとマフラーとバッグをもって階上へ。タンスから靴下(黄土色や茶色などいろいろないろがまだらにまざりつつぜんたいとしてねずみ色っぽい基調におちついている印象のもの)を出して履き、居間のカーテンを閉める。ながしで手をあらっていると父親がなかにはいってきて、これから行くのかというので肯定し、うがい。コートとマフラーを身につけて出発へ。マスクをいちまい取って顔に装着し、玄関をぬけると、それまでそんな気はぜんぜんなかったしかんがえていなかったのだが、きょうはべつの方角から行くかというこころになって、道にでるといつもとは逆に右側へ折れた。すすみながら来たほうをちょっとふりかえると、坂をくだって一段ひくいところにある家並みを背景にした空中に白い靄状の、輪郭が不定で複雑な図形がかかり浮かんでおり、それは近所の一軒の煙突から湧き出した煙だとすぐにわかったのだが、あるきながらなんどかふりむいて見るに、その白濁した気体は空中で凝固し貼りついたかのように固定的で、数秒をみればたしかに位置を変えてはいるし、かたちもすこしずつほころんで変容しつつはあるのだけれど、そのうごきはまことにゆっくりなので停止感覚のほうがつよく、大気中に無法則なかたちの薄布がとつじょ発生しさしこまれ、闖入したかのようだった。
  • 林のあいだをぬける坂道へ。道の脇にさしのべられた枝に浮かんでいる葉っぱたちはピーマンの緑をもうすこし青く深めたようなすずしさで、もう暮れがたで陽もとおく木蓋のしたのみちだが光沢をやや帯びて、皺がみえても金属質に目にかたい。息をちょっとみだして太ももを熱くしながら急坂をのぼり、街道に出ると中学生か子どもがふたり帰るところで、ひとりがキルア! と言ったようにきこえたが、これはたぶん、~~するわ、とか、~~だわ、ということばだったのだろう。車の隙をみて北側にわたると時間に余裕があるからぶらぶらした足取りで気ままにあたりをみやりながら駅へとむかう。もはや三月も十日すぎて五時四〇分でもたそがれは来ず、正面、みちの果ての西空は下端を白くなごった去り陽に洗わせて、そのうえから直上まではただ水色があけっぴろげにぽかんといろをさらしだしており、昼は曇っていたのがいまになって晴れたのかとおもったところが首を曲げてみあげたかなたに赤ん坊の指のあとのような華奢に細いちいさ月をみとめるとともに、水色のひろがりのなかにも淡い霊気めいた雲がぜんたいに混ざって溶けあっているのがみてとられた。
  • 最寄りについてホームのさきへ出ると数分間を立ったまま待つ。あたりに目をむけて視線がとまるのは北西にのぞいた空にとおくうつっている山影であり、ちょうどいま読んでいるトーマス・マンの『魔の山』で、女性の目のいろを形容するのにとおくの山のような青灰色とかいういいかたがでてきたが、それを読んだときにおもいだしたのが、夕時に目にするこの山のいろだった。それはちょうど二本の電線のあいだにすっぽりとはいりこんでかこまれたように低いすがたで、左右はそれぞれ斜めにもちあがる屋根の輪郭線に行き当たるから谷から生えた風情、接する空は陽の逃げていったほうなのでまぶしさを抜かれつつも真っ白に微光して、山影はいまは青の気も灰の気もよわく黒っぽさにながれており、そのすぐ右からはじまる間近の丘の端の木などはもうかんぜんにシルエットと化してギザギザとしたこずえの輪郭を裏から迫る白さにきわだたせ、空にあまったひかりをわけられてそれじたいどこかつやめくようだった。右手、東のほうに目をうつせば、暗みはじめた空気のなかで林の外縁あたりになにかあいまいなものがあるとまずみえたのだが、数秒おけばそれはピンク色の梅の花らしく、宵のちかまりと視力の問題で和菓子めいた薄紅のいろもさだかではないが、ほとんどふれあう至近に街灯がともっているので夜が来ればそれに照らされてむしろいろがはっきりうつるのだろうとおもった。風はない。眼下、線路脇に生えたぎこちないかたちの雑草はゆれず、電車がやってきて横からひかりをかけられてもまだゆれず、鼻先がそのまえをすぎてみえなくなるまでゆれるすがたをみられなかった。
  • いま帰宅後、夕食をとりながら(……)さんのブログを読んだところで、昼飯をともに食いに行った学生らについて、「東院三年生の男子は悪友感があってすごくいい、以前も感じたことであるが、彼らはきっと卒業後もたびたび学生時代をなつかしく思い出すんではないだろうか」とあるのを読みつつ、たのしそうでいいなあとこちらもおもい、どうじにじぶんはこんな悪友的なつきあいなかったわともおもい、さらにしかし、渦中にいるときはじぶんでそうかんじなかっただけで、高校のとうじなどはそとからみるとそんなふうにうつっていたのかもしれない、とおもいがつづいたさきに、べつに悪友というわけでもないが高校時代にクラスメイトと近所の公園にぬけだしてだらだらしたことがあったなとおもいだした。そのうちのひとりは(……)で、これはいまでもつきあいがある。もうひとり、(……)とふたりでいたときのほうがおおくて、三人ですごしたことはそんなになんどもなかったはずだが、(……)というやつがいて、やつとこちらはけっきょく三年間おなじクラスだったのだよな? (……)といっしょにいたということはそのはずだ。(……)とはじめて会ったのは高校一年のいちばんさいしょであり、あれは入学式だったのか、体育館にあつまったということはそのはずだが、クラスにいちどあつまったあとに体育館に行くという日があって、入学式ではなくてその翌日とか翌々日のなにかしらの集会だったかもしれないが、ともかく名前順の座席で(……)はこちらのひだりとなりの席、教室のいちばん窓際のうしろから二、三番目くらいにいて、集会に行くとなったときに、体育館履きわすれちゃったんだけど、とこちらにはなしかけてきたのがファースト・コンタクトである。とうじのじぶんは中学二年時に中二病を罹患したその余波からまだまだぬけだしておらず、世の中クソつまらんわという気分が濃かったし、とうぜんながら社交性もかなりひくいほうだったので、そんなどうでもよいことをいわれてもどうかえせばいいのかわからず、いや知らねえし、とおもったことをおぼえている(口には出さなかった)。しかしこの(……)のはなしはわりとながくなる気がするし、けっこうおもしろい馬鹿ではあるのだけれど書くのがめんどうくさくなってきたので、また機会があったらそのときに記すことにする。過去にもなんかいかは書いているはずだが。
  • 勤務。(……)
  • 帰宅後の記憶はとくにのこっていない。