2022/3/14, Mon.

 ヒンドゥ教徒の聖典としては、まず『ヴェーダ』があげられる。これは讃歌、祈禱、犠牲の祭式、呪法、壮麗な自然詩の寄せ集めで、「知る」という意味の Vid から出た『ヴェーダ』は、古代に存在したいろいろの人間知識の結集である。その最古のものは、紀元前一五〇〇年ごろにできたといわれる『リグ・ヴェーダ』で、おそらく人類の持つ最も古い書物であろう。それに続いて『アタルヴァ』『ヤジュル』『サーマ』の各ヴェーダが成立した。第二の聖典としては、紀元前五〇〇年ごろ成立したとみられる『ウパニシャッド』である。真実への依存、追求がこの聖典の特質で、「真実はつねに勝つ。虚妄は然らず。真実によって神への道は鋪装されている」と、光明と知識の追求が説かれている。第三の聖典は、インド古代の二大叙事詩といわれる『ラーマヤナ』と『マハーバラタ』である。数百年かかって形成されたもので、仏教以前のものといわれるが、その後追加された部分もある。『マハーバラタ』の一部の『バガヴァッド・ギーター』のごときがそれである。それでも紀元一世紀には成立をみている。この二大叙事詩聖典ほど、後世のインド人の倫理生活に影響を及ぼしたものはない。
 (マハトマ・ガンジー/蠟山芳郎訳『ガンジー自伝』(中公文庫、一九八三年/改版二〇〇四年)、458; 訳註第一部21)



  • 「読みかえし」: 532 - 534
  • 一一時ごろ覚め、一一時一〇分に離床。いつもどおりだし、滞在も七時間二五分とながめではあるが、さくばんは夜食も食わなかったし、脚もよく揉んだので、からだのかんじはよい。マッサージとかストレッチとか瞑想とかをやるようになって、からだのこごりがそうとうにましになったというか、端的にいって肉体的にべつものなので、それは習慣化できてよかったなとおもう。むしろむかしはよくそういうメンテナンスをせずにがんばれていたなとおもうが、それも歳をとったということなのだろう。水場に行ってきてから瞑想をした。二五分くらいだったはず。
  • 上階へ。母親が、きょうは暑くて二四度になるらしいといったが、たしかに空気はひじょうにあたたかく、晴れてもいて、ジャージのうえになにも着る必要がない。食事はきのうのカレーをつかったカレーうどん。くわえてお好み焼きを焼いたというのはあとで出勤まえにいただくことにした。きょうは新聞が休みなので、窓外をみやったり、テレビに目をむけたりしながらものを食べた。ニュースではウクライナのもようがつたえられ、キエフの地下鉄に避難している女性(たしょう日本語をしゃべれる)がNHKのインタビューにおうじて証言したり避難者たちのようすを撮った動画を提供したり、空爆をうけて破壊された建物や一面瓦礫が敷きつめられた空間がうつされたりした。ものを食べ終えるとながしに放置されていたものや母親のぶんもまとめて食器を洗い、風呂も洗う。父親がそのあたりで室内にはいってきた。出ると白湯をもって帰室。
  • Notionを用意し、ウェブをちょっと見てからFISHMANSとともに「読みかえし」。まったくもっていつもどおりのながれである。書抜きをいろいろ音読すると一時半まえで、ベッドにあおむいて書見。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)をすすめる。もう六二〇ページくらいで、上巻の終わりちかくである。ハンス・カストルプがなににかられたのか、同宿の、もうまもなく死ぬというくらいの重病人たちを見舞ってまわるという活動をはじめている。その動機はキリスト教的慈善心というよりもむしろややエゴイズム的なものではないか? ということもおもうのだが、そのあたりは書けたらおいおい。二時まで読み、階をあがって洗濯物をいれ、タオルだけたたんで洗面所にはこんでおき、白湯をおかわりして帰室。ここまでしるせば二時半まえである。
  • 出勤までの時間にあとなにをやろうかなあとおもいつつなかなか気分の方向性がさだまらず、かんがえながらとりあえずかるくストレッチをおこなった。洗濯物をかたづけて、飯は一品でもつくっておきたい。汁物はもうあるようなので、白菜とハムでも炒めるつもり。それだけだとおかずがさびしいからジャガイモもソテーしてもよいかもしれない。きのうはながく通話して、しかもはなしがかなり充実しておもしろい内容がおおかったのだが、そうするともちろん書くことがたくさんあるわけで、その量が書くまえからあたまのなかでぼんやりと望見されることによってなかなかとりかかる気になれない。いちおう、さきほど簡潔なメモだけはすこしとっておいたが。
  • 部屋にもってきていたきのうの新聞を読んだので、記録しておく。

読売新聞2022年(令和4年)3月13日(日曜日)

【ワールドビュー: チェコの連帯 再び アジア総局長 田原徳容】(7面)

 チェコは、ミャンマー民主化を積極的に支援する国の一つで、政治亡命者らに永住権を認めていると知った。昨年2月に軍事クーデターを強行した国軍を強く非難し、抵抗する民主派が発足させた「国民統一政府」(NUG)の海外代表事務所も設置されている。

 1960年代、チェコスロバキア(93年にチェコスロバキアに分離)とミャンマーはいずれも社会主義体制で、留学生の受け入れなどで交流を深めた。80年代後半には共に民主化の動きが広がる。チェコスロバキアは「ビロード革命」で平和裏に民主化を実現したが、ミャンマーは国軍に阻まれ、民主化運動を率いたアウン・サン・スー・チー氏が軟禁された。
 そのスー・チー氏を支えたのが、チェコの初代大統領、バツラフ・ハベル氏だ。スー・チー氏をノーベル平和賞候補に推し、91年の受賞に導くなど、ミャンマーが世界の注目を集めるよう努めた。

     *

【中国、民族同化強める 改正法施行「中華民族の意識強固に」 小数の尊重後退】(7面; 上海=南部さやか)
 中国で地方政府などが行使できる権限を定めた「改正地方組織法」が12日、施行された。国内の全56の民族同士による融和や交流を促進し、「中華民族の共同体意識を強固にする」との文言が盛り込まれた。(……)
 (……)主な変更点は、①少数民族の風習習慣を「尊重する」→「維持または改革する自由を保障する」 ②「少数民族の権利を保障」→「少数民族の合法的な権利と利益を保障」――など。いずれも少数民族の独自性を尊重してきた表現が薄まり、地方政府が改正法に基づいて各民族の風習・習慣を変えられる規定となった。

  • ほぼ三時になったしとりあえず飯を食うことにして上階に行った。トイレにはいって放尿し、お好み焼きを電子レンジで加熱、いっぽうで油揚げのはいった味噌汁も鍋であたためる。そのあいだは横に開脚して上体を左右にひねることをくりかえしていた。自室にもってかえって食べながら(……)さんのブログを読む。中国での花粉症にまつわって記事が引かれており、「アレルゲンとなるのは風媒の花粉で、それは風に乗って数キロ先、ひいては十数キロ先まで飛散する」という医者の解説があったが、花粉が何キロもさきまで飛んでいくというのを、さいしょに観察的にしらべたひとはどうやったんだろうなとおもった。いまだったらもうそういうもんとして知られているだろうし、それを前提にしてさまざまな文献も書かれているわけだろうが、ある植物の花粉が風に乗ってずーっとさきまで飛んでいってそこで受粉する、というのを、ほんとうに科学的に観察的に調査するというのはむずかしくない? と。たとえばある土地に固有の植物が、はなれた地にもそだっていればそのあいだで伝播があるというのはわかるだろうけれど、そこで受粉した花粉がどこの地点の植物から来たものなのかとか、正確なところまでわかるものだろうか。いまだったらDNAなんかでこのばしょのこの花の花粉がこっちのばしょのここまで来ている、というのがわかるのかもしれないが、むかしのにんげんはそういうのをどうやってかんがえてしらべたんだろうとおもった。
  • 上階に行って食器を洗い、飯の支度。冷蔵庫をのぞくと大根の葉らしき菜っ葉があったので、それと白菜とハムを炒めることに。まず食器乾燥機のなかの皿などを戸棚や所定のばしょに移動させ、菜っ葉や白菜を洗って切る。白菜はもうだいぶ皮を剝がれて、緑色の段階はすぎてたいはんが白い身のなかに黄色がいくらかはいりこんでいるほそいすがたになっており、そのうち縦のはんぶんをちょっと越えたあたりまでで切って、いちおうたしょうのこしておいた。ハムもりんごジュースのパックのうえでこまかく切り分けて調理へ。フライパンに油を引いてチューブのニンニク・ショウガを加熱すると、材料をそれぞれ入れてフライパンを振りながら木べらでかきまぜる。醤油と酒で味つけ。それからこんどはジャガイモ。ふたつしかないのでたいした量にはならないが、皮を剝き、包丁で芽を取って千切りに。包丁とまな板がとてもべたべたする。さきほどとおなじようにもうひとつのフライパンを支度すると、ジャガイモを投入し、こんどはソテーというよりも蓋をして弱めの火でじっくり蒸し焼きみたいにやった。焼いているあいだに居間のほうに出て洗濯物をちょっとかたづけ、炙る音の加減をききながらてきとうにもどってはかきまぜてまた蓋をする、ということをくりかえす。それである程度焦げ目もついていいかんじになったところで塩胡椒を振り、またしばらく熱してからさいごにスライスチーズを二枚乗せて溶かして終了した。洗い物はあいまにすませておいた。洗濯物を整理して仏間に置いておき、白湯をもって下階へ。四時一〇分くらいだった。FISHMANSをききながら歯磨き。それから白湯をのみつつここまで加筆。いまは四時半直前。”チャンス”がながれている。
  • いま帰宅し、夕食もとって、もろもろ台所のかたづけなど終えたあとの一一時。ひさしぶりに緑茶をつくって飲んでいる。茶を飲むのは一週間ぶりくらいではないか? さいきんはもうおおかた白湯か、それかあたたかくなってきたので炭酸ジュースをかえりに買って飲むもので、茶をほとんど飲まなくなった。ひさしぶりに飲めばうまいが、胃腸にはあまりよくない。平凡社のウェブサイトで連載していた川上弘美「東京日記」を読んだ。食事中から読んでいた。川上弘美は評判がよい印象だがまだ一作も読んだことがないし、とうぜんファンでもないし、べつにわざわざ読まなくてもよいようなものではあるが、さかのぼれるバックナンバーの範囲でぜんぶ読んだ。陸上投擲競技の選手のうごきにうっとりとして順位も国籍もわすれてじーっと見入ってしまう、とか、「ナマハゲ」ということば(まさしく「ことば」と書いてあることが重要である)によって気分をもちなおすとか、そのあたりの感性をみるに、まあ作品を読んでみてもよさそうだなとはおもう。

As a clinical psychologist, [Joanne] Davis treats trauma survivors, who might include veterans, active service personnel, children or people with conditions like bipolar disorder, using exposure, relaxation, and rescription therapy (ERRT). In ERRT, the patient writes out their nightmare exactly as they recall it (exposure – which works particularly well with people who have anxiety, she says) or writes out their nightmare with a new ending (rescription).

With rescription, the patient doesn't necessarily start to incorporate their new ending into their dream, instead "what tends to happen is that they just don't have the nightmare or they still have it but it’s not as powerful, or fuzzier. Then it just decreases in frequency and goes away. It's almost like by working through the issue in the day it resolves the need to relive it over and over at night," she says.

  • 帰宅後の休息中にこの日はほか、じぶんの日記の一年前の記事や、すさまじくひさびさのことだが(……)の「読書日記」も読んだ。(……)の読書日記は有料でメルマガ配信されており、じぶんとおなじようにまいにちけっこうな分量の日記を書いているということで勝手に同族とみなし、支援したいとおもって購読しているのだが、ある時期からなかなか読めなくなってしまったのだ。購読して金をはらっていればとりあえず支援にはなるのでよいのだけれど、せっかく受け取っておきながら読まないというのもなんかなあということはずっとかんじていた。なぜかいぜんのようにひとのブログとか書籍ではないインターネットの定期記事をコンスタントに読むということができなくなっている。
  • 四時半まで日記を書き足したのち、瞑想をおこなった。しかしなぜかあまりすわっていられず、一〇分程度で切った。あれだ、尿意だか便意だかがあったのだ。しかたないのでそれで切って用を足し、出発するまえにBill Evans Trioの”All of You (take 1)”一曲のみをきいた。ヘッドフォンをつけて立ったままきいた。きのうの通話で(……)くんが、スタンディングデスク買ったんですけどめっちゃいいっすわー、というはなしをしていて、そういやおれもまえはヘミングウェイが立位で書いていたとかきいておれもまねしようとおもって立ったまま文を書いたり、あるいは書抜きしたりしていたけど、やっぱり脚がつかれるからやらなくなっちゃったな、とおもい、立った状態で文を書くのがつづかなかったのはやはりなんとなく腰が据わっていないと集中できなくてやりづらいという事情もあったのだけれど、書抜きはべつにそんなに集中する必要ないし、椅子についていると背がつかれるからまたやってみようかなとおもっていたところ、ここで、音楽もヘッドフォンつけてベッドにいって瞑想的にじっと座ってきこうとするとやっぱり意外と敷居がたかくてなかなか気軽にふれられないし、パソコンを置いてあるデスクにつかまりながら立ったままきけばよいのでは? とおもいついたのだった。それで一曲だけ聴取。やはりすわったほうがききやすい気はするが。”All of You (take 1)”はとにかくやばいとずっといいつづけているわけだけれど、やはりすごく、あまりに複雑ななにか、ほとんど混沌めいたものがなにかしら起こっているようにしかきこえない。ふつうにきけばというか、表面上は、きわめてうつくしい、きれいな、明晰な音楽である。これがうつくしい音楽だということをともあれ承認しないにんげんはまずいないとおもわれる。しかしそのうつくしさ、きれいさ、きわめつきの明晰さとまったく矛盾しない資格で、混沌じみたものがあきらかにうごめいているのをかんじる。その二重性というか同居というか、混沌と明晰がおなじものとしてあらわれている様相は、ほかのピアノトリオにもほかの音楽にもかんじないものだ。Bill Evansひとりだけだったらひたすら明晰でしかないのだろうが(そしてその明晰さは、それはそれでまた異様なのだが)、LaFaroとMotianがくわわることでとたんに度外れの複雑さがうねりはじめることになる。
  • 夜は書抜き。立位で。Pasquale Grasso『Pasquale Plays Duke』という作品をながした。ジャズギターの新鋭らしく、音楽性は古き良き五〇年代のストレートアヘッドなバップをそのままいまにもってきた、みたいなかんじで、音づかいとしても奇妙なところはまずなかったとおもうのだけれど、テクニックはたしかにすごくて、はやく弾くときはやたらとはやい。一曲目の”It Don’t Mean A Thing”ではそれがしょうしょう衒いにきこえるところもあって、Bireli Lagreneをおもいだしたが(かれの速弾きも過剰というか、やたらひけらかすようでちょっと鼻につく気がしてなんかなあ、とむかしはおもっていたのだが、いまきいたらまた変わるかもしれない)、二曲目はすこし耳をかたむけたところではそういうかんじもなかったし、まあすごいギターであることはまちがいない。ただむしろ、四曲目の”Solitude”に参加しているSamara Joyというボーカルのほうが印象にのこった。声がずいぶんとふくよかでゆたかなひびきの歌い手だったので。さいきん知られているらしく、なんかなまえはきいたことがある気はする。あと、「チャーリー・パーカーが絶賛した」というような謳い文句でかならず紹介されるSheila Jordanも一曲参加していて、もう九〇歳を越えているが(一九二八年生まれ)いまだに現役でうたっているらしい。
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