この反乱は、一般に「シポイの反乱」または「第一次反英独立戦争」といわれる。この反乱を機として、イギリスのインド支配は固まったが、一方、インド人の民族的自覚、独立意識が生まれ、今日の新インドの出現に道を開いた、インド近代史上の画期的な事件。また、中国の太平天国の乱、日本の明治維新とともに、アジア近代史上の三大事件の一つでもある。反乱は、一八五七年五月、北インドのミーラット兵営で、イギリスの東インド会社に雇われたインド兵(シポイ)が、シポイの宗教的風習を無視したイギリス軍当局に反乱を起こしたのが始まりで、デリー、ラクナウの各兵営に広がり、さらに大反乱となって各地に波及した。それで、シポイの反乱といわれるわけだが、反乱の根は深かった。というのは、兵士の反乱は五七年の夏からはしだいに下火になったものの、農民反乱がそれに代わって、兵士の反乱より広い地域に広がり、東はカルカッタから西はボンベイに達する北インド一帯が反乱の舞台になったからである。しかし反乱の指導勢力は、旧ムガール帝国の残党、イギリスにいためつけられたヒンドゥ教徒の封建領主であった。このようにインドの二大教徒が反乱に参加し、イギリス反対の熱情に燃えてはいたが、相互の団結を欠いていた。そのため、本国から増派されたイギリス軍のために各個に撃破され、五八年三月には、苛烈な弾圧によって大部分が鎮圧された。反乱が終息したのは、一八五九年に入ってのことであった。反乱の歴史的意義については、カール・マルクス(end465)の書いた有名な論文がある。
(マハトマ・ガンジー/蠟山芳郎訳『ガンジー自伝』(中公文庫、一九八三年/改版二〇〇四年)、465~466; 訳註第二部15)
- 「読みかえし」: 535 - 545
- 一〇時すぎにさめて、呼吸をくりかえしながらまどろみ、一〇時四五分に離床した。やはり寝るまえと起きたあとに息をかるくながらながく吐いてからだをあたためるのが大切だ。深呼吸も瞑想もともにからだがほぐれることはまちがいないけれど、そのふたつのほぐれかたには種のちがいがあり、そのべつをいいあらわす説明をうまくおもいつけずにいたのだが、きょう、呼吸のばあいは伸びるようなほぐれかたであり、瞑想のばあいはゆるむようなほぐれかただという表現にあたってしっくりきた。
- おきあがってさっそくアレグラFXを一錠飲み、ティッシュで鼻のなかを掃除。さくばん寝るまえにはかなりくしゃみに苦しめられたが、明ければそこまででもない。水場に行ってきてから瞑想。さいしょにまた息をしばらく吐いて、それから静止した。右の穴から鼻水がすこしずつじわじわと垂れてきてくすぐったいし、縁を越えれば拭かなければならないのでやりづらい。静止しづらい時季になってしまった。それですわるのは二〇分少々になったはず。風の音がけっこうきこえていた。
- ゴミ箱や急須湯呑みなど持って上階へ。母親にあいさつしてゴミを始末し、きがえ。空には雲がなじんでいてまったくの晴れではないが、あかるくあたたかな日和である。食事はきのうの天麩羅ののこりなど。食べながら新聞でウクライナの情報を追う。ロシア軍のキエフへの接近は停滞しているか停まっているらしく、とおくからミサイルで攻撃するのを主としていると。高層住宅が攻撃されて人死にが出ている。ロシア側は南部ヘルソン州全域を「制圧」したと発表しており、クリミアに接した地域だからその孤立化を解消することができるわけで、東部親露派のように「ヘルソン人民共和国」の樹立をもくろんでいるのではないかという。また、東部ドネツクにむけてウクライナからミサイル攻撃があり民間人二〇人が死亡したとも発表されたらしく、プーチンは「野蛮な攻撃だ」として非難したというのだが、いったいどの口がそんなことを言うのかというはなしで、ロシアも同様の、民間人居住地域をねらった「野蛮な」ミサイル攻撃や空爆をウクライナよりもはるかにおおくおこなっているのだから、それを非難するならみずからの側でもいますぐやめなければならない。ウクライナ側はこの攻撃を否定しており、真偽は不明。
- 食事を終えると皿を洗って風呂もこすり、白湯をもって帰室。Notionを用意。ブラウザ版だとなぜか設定をおしてもひらかなくなっていたのだが、アドブロックの問題じゃないかとおもっていたところ、やはりAdblock Plusを解除すると解決した。きょうの記事を用意し、LINEをみると、二〇日のあつまりはスタジオにはいらないかと(……)が提案していたので了承。さくねんにもちょっとだけやった”(……)”という曲のアレンジをあわせながらかんがえたいという。それからウェブをちょっとみて「読みかえし」。いままで読みかえしは一項目二回ずつで読んでいたのだが、項目がどんどん増えていくいっぽうである現状、最前線に追いついてさいしょにもどるということがぜんぜんできない。それに対して前線をすすめていくいっぽうでさいしょから、きちんとあたまにいれたいようなことがらについてはおおめに読んでいく、という方策を開発していたのだが、やはりそれもめんどうにおもわれてきたし、一項目一回ずつでどんどん読みすすめてなるべくひろく見かえせるようにする、というやりかたに転換することにした。一回だろうが二回だろうが何回だろうがどうせちょっと読んだだけではたいしてあたまにはいるわけでもないのだし、習得はかんがえないでこういうことがらもあったなというのをあらためて見ておもいだすくらいでよいだろうと。そのいっぽうで、ほんとうになんかいも読んであたまにいれたいようなもの、気に入りの詩とかはべつのカテゴリにいれてまいにち読めばよい。そういうわけで五三五番から一回ずつで読んでいき、五四五までで切った。まあこのやりかたでも前線に追いつけるかややあやしいが。
- それからここまで記して一時すぎ。
- いまもう深夜二十四時をまわったところ。さきほど風呂にはいっていたら地震があった。浴槽のなかで脚を交差させながら伸ばして目をとじながら湯につかっていたところ、からだのしたに揺れがつたわってくるのが感知されて地震だなと気づき、しかもその揺れのじわじわとしたかんじからこれはなかなかおおきいものだとわかったのだが、はだかだし逃げるひまも場所もないしどうしようもない。さいわいあたまのうえからなにか落ちてくるような場所ではないので(もっとも、もっとおおきな地震だったら窓が割れて破片が飛んでくることはあったかもしれないが、そうしたら服を着ていないから容易に怪我をしただろう)、すぎるのを待つしかないと、うごかず姿勢もかえず余裕ぶった冷静さで天井をみあげたり目を閉じたりしてまちかまえたところ、だんだん盛りあがってきた揺れがとりわけおおきくひびいたときがあって、そのさいにはからだにちょっと不安がはしった。比較的はやいうちにとなりの洗面所でなにかものが倒れた気配もあったし、時間もながくつづいて、このへんでこれくらいということは震源ではかなりおおきかったんではないかとはかっているうちに揺れはおさまっていき、尻のしたでわずかにもたげる感触もかんぜんに絶えてから立ちあがってシャワーをつかった。母親が来て地震だったよというので、だいじょうぶだった? ときき、震度もたずねると四だという。しかしそれはこのあたりの数字とおもわれた。ともあれあたまやからだを洗って出ると、テレビのニュースが速報をつたえており、目がわるいのでこまかいところはよくみえなかったが東北地方で震度六とか五とかだったらしく、津波のおそれもいわれ福島原発に異常がないか調べられているともつたえられ、東日本大震災でやられた地域がまたこうむることになったのだった。とうぜんながら、二〇一一年三月一一日からおおよそちょうど一一年でまたということをおもった。緑茶をつくって部屋にもどってからいまYahoo!の地震情報をみたが、発生は二三時三六分ごろ、震源は福島県沖(牡鹿半島の南南東60km付近)、最大震度六強、マグニチュード七. 三とある。
- 風呂のなかではひさしぶりに短歌をつくるあたまになってふたつこしらえた。
おれたちは発煙筒にもなれなくて二十三区にゃほとけが足りん
白霧ややさしいひとは夕暮れにかくれたがりのだいだいいろさ
- 夕食時には(……)さんのブログを読んだ。そのあと(……)の「読書日記」。その後もあわせて三月六日分まで読了。
- いま三月二三日の午前一時。この当日には一年前の日記もどこかのタイミングで読んだらしく、以下の二箇所がメモされてあった。
ジョゼフ・チャプスキはプルースト自身と作中の「私」がほぼ同一であるという前提で語っている。つまり、『失われた時を求めて』の話者はほとんどプルースト本人であるという姿勢を基本としている。それに留保はいると思うが、さまざまな類似性があるのはたしかだし、ここではそれは大した問題ではない。作品の最後で、話者が、いわゆる文学的回心というか、舗石を媒介にしてヴェネツィアのことを想起したり、糊の強いナプキンの感触を媒介にバルベックのことを思い出したりする有名なシーンがある。その前で主人公は、自分には文学的芸術的才能がないと自覚しており、もう文学の夢を追うのはやめようとあきらめているのだが、そういういわゆる無意志的記憶の勃発によって反転的に書くべきもの、おのれの仕事を見出すにいたる。それで何年ぶりかでゲルマント家のサロンを訪れた主人公は、「自分の人生に関わった多くの知人友人たちが、時の作用によって変貌し、年老い、膨れ上がり、あるいはかさかさに乾いてしまったのを目撃することになります。台頭してくる若い世代が、彼の年老いた、または死んでしまった友人たちとそっくりな希望を抱いていることに、胸を衝かれるような衝撃を覚えます。しかし、彼はこうしたすべてを、明晰で、距離を置いた、自分とは切り離された新しい眼で眺め、ついになぜ自分が生きてきたかを悟ります。彼だけが、この人々の群れのなかで、今はいない人々を再び生き返らせることができるのです。その確信はあまりに強く、死について無関心になってしまうほどでした [﹅20] 」(45)とチャプスキは解説している。ここはやはりちょっと感動した。特に、「彼だけが、この人々の群れのなかで、今はいない人々を再び生き返らせることができるのです。その確信はあまりに強く、死について無関心になってしまうほどでした [﹅20]」の部分、それも、「死について無関心になってしまうほど」の一節。結局これなんだよなあと思った。自分が毎日しこしこ記録をつけることの理由がもし何かあるとしたら、やはりこれになるんだよなあと。何かものを書くというのは、本源的にそういうことなんではないか? とも思う。言語を用いて何かを記録したり、証言したり、描写したり、記述したり、つくりだしたりするというのは。それは、死んだものをよみがえらせるというおこないなのではないか。つまり、書くこととは蘇生術である。そのなかでも文学というものは、場合によっては、もとのない蘇生なのではないか。よみがえらせるべき死者や死物を直接的には持っておらず、参照先がわからない、もしくはないけれど、そこでたしかに死んだものが蘇生している、というようなもの。すぐれた文学や文章には、そういう要素が含まれているのではないか。どこから来たのかわからないものを蘇生させ、起源不明でつながりの先が見えず、ことによると断たれているようなものを想起させるもの(プラトンがソクラテスに語らせた想起説を連想する)。こちらの日々の書き物に照らして言えば、瞬間は瞬間ごとに消えていき、つねにすでに死んでいるわけで(それを「死」として語ることの修辞性にも多少の留保を置きたい気持ちがないではないが)、その時点でそれはもう書くにあたいするものなのだ。瞬間ごとに死んでいく瞬間を瞬間ごとに絶えずよみがえらせるための無限の努力が記憶と記録なのだということ。そして、つねにすでに死んでいる世界のことごとのなかで書くにあたいしないことなど原理的にはなにひとつ存在しないというのがいまも変わらずこちらの信仰であって、それがまだ棄却されていないことを今日再認した。とはいってもそれは原理的な話にすぎず、実際のおこないとしては怠けがちだから、最近の記事もまだいくつも仕上げられておらず、忘れることを忘れるがままにまかせてしまっているのが現実だが。ただ、そういう、消えていくものを書かねばならないという倫理感のようなものがおりにふれて自分のなかによみがえるということは確かにある。
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(……)空気は非常にやわらかく、あたたかく、風も軽く、におやかなようで、家は北向きで玄関のそばはもう日向でないが、すこし行ったほうではまだ淡い陽射しが降りておだやかにひろがっており、その温もりが大気に染みこみつたわってこちらの肌まで届いているような感じ。林縁の区画に行ってあたりをながめる。足もとには落ち葉が集められて小山のように盛り上がっている。かすかな音が耳にとどくのは土地の脇に沢とも言えないような水路が流れているからで、その水音が散発的に、泡のように浮かぶのだけれど、水の音というより小鳥の息遣いとでも言ったほうが良いようなかそけさで、水路に寄ってみると小堀のようになっているなかは葉っぱがいっぱいに詰まっていて水などあまり見えないくらいに埋め尽くされているし、落ち葉だけでなく草も色々生えていて満員という感じで、水流も一見して流れているとも見えず、葉や草の隙間に窮屈に押しこめられて小さくしぼんだ水のおもてが空の色を希釈して映しながらただその場でつつましくふるえているだけのようにしか見えないのだが、確かに流れているらしい。(……)
- うえの描写はいまあらためて読んでみると、べつに表現としてたいした記述ではないし、書かれているものももちろんたいしたものではないのだけれど、とにかく書きたいのだなと、見聞きしたものを書きたいのだなという気配がリズムのなかにどこかかんじられて、よくただの地味な沢をこうも書くなと、おまえのその執着のようなものはいったいなんなのかと過去のじぶんにたいしてすこしおもう。
- この日は徒歩で出勤し、街道をずっと陽をあびながら行ったのだとおもうが、道中のことはむろんもうわすれた。職場(……)
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- (……)