一九一四年夏に始まった第一次世界大戦は、短期間で終わるとの当初の楽観的な期待に反して長期化し、物的人的資源のすべてを注ぎ込まねばならない総力戦となった。このため第一次世界大戦はヨーロッパの全交戦諸国にとってかつて経験したことのない厳しい試練となったが、主要な交戦国のなかでは相対的に後進国であったロシア帝国では、軍事的な危機に加えて、物資の輸送が麻痺に近い状態に陥って都市の食糧事情が悪化したことから、国民の間に厭戦気分が広がっていった。こうした状況で、一九一七年二月二三日(ユリウス暦。グレゴリウス暦では三月八日。ロシアではユリウス暦が一九一八年一月三一日まで使われており、本書でもこの日まではユリウス暦を用いる。一三日足すとグレゴリウス暦となる)の国際婦人デーに、首都ペトログラード(のちレニングラード、現サンクト・ペテルブルク)の女性労働者たちがパンを求めてストとデモを始め、数日のうちにストとデモは全市に広がった。皇帝ニコライ二世はデモを厳しく鎮圧することを命じ、デモ隊に多くの死者が出たが、まもなく鎮圧に当たる軍隊からデモ隊側につく部隊が出始め、事態は革命情勢となっていった。
ロシア帝国では一九〇五年の革命の結果、選挙制の国会が開設されてはいたが、政党政(end12)治が根付いていたとは言えない。それでも、自由主義的なオクチャブリスト(十月十七日同盟)、カデット(立憲民主党)、社会主義勢力のエスエル(社会主義者・革命家党)、左派エスエル、メンシェヴィキとボリシェヴィキ(社会民主労働党が政策や党組織論の対立から分裂した。「少数派」と「多数派」の意)などの政党が活動しており、カデットなどが事態収拾に動いて、一九一七年三月二日には臨時政府を組織した。革命の動きはすでにモスクワや他の地方へと広がっており、ニコライ二世が退位して、帝政は倒れた(二月革命)。
この過程で、一九〇五年革命時に設立されて重要な役割を果たしたソヴェト(「会議」という意味の普通名詞だが、革命運動の拠点と捉えられるようになっていた)が、労働者、兵士、農民の間で再び結成されていき、支持を広げていた。首都ペトログラードでは、労働者と兵士によって組織されたソヴェトと臨時政府との二重権力状態が生まれつつあったが、ソヴェトは条件付で臨時政府を承認した。しかし、国民にも兵士にも厭戦気分が強かったにもかかわらず臨時政府が戦争を継続したことから、一九一七年四月には臨時政府への不満が強まり、臨時政府は危機に直面した。
このため臨時政府は、無併合と民族自決による講和を目指すとの声明を連合国に伝えるなどのソヴェトの要求を受け入れるとともに、ソヴェトからの入閣を求めて危機をしのいだ。しかし、平和とパンを求める労働者の運動、平和とパンに加えて土地も求める農民の(end13)運動は激しさを増し、臨時政府の対応への不満から「すべての権力をソヴェトへ」との主張が勢いを増した。ソヴェト権力の樹立を求める動きの高まりとともに、指導者であるレーニンがソヴェト権力樹立を訴えていたボリシェヴィキに対する支持が都市の労働者の間に広がった。こうしてボリシェヴィキは、一九一七年七月には臨時政府によって弾圧されたにもかかわらず、同年後半には労働者ソヴェトで多数派の支持を受けるようになった。
この様子を見て、レーニンは、武装蜂起で臨時政府を倒して権力を掌握することを主張し始めた。この主張にはボリシェヴィキ内部でも異論があったが、一九一七年一〇月一二日にはペトログラードソヴェトに軍事革命委員会が設置され、ボリシェヴィキの指導下で軍への影響力を強めていった。一〇月二三日から二四日にかけての夜に、臨時政府が先手を打って軍事革命委員会指導者の逮捕やボリシェヴィキの印刷所の接収を命じたが、軍事革命委員会が反撃し、一九一七年一〇月二五日に軍事革命委員会は、臨時政府を打倒して権力を掌握したことを宣言した(十月革命)。
(松戸清裕『ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、12~14)
- 「英語」: 121 - 183
- 一一時四三分に覚醒した。それいぜんにめざめた記憶はないし、ながく寝てしまったという感触。雨降りで、布団から出た顔がひさしぶりにすこしつめたいような空気感。最高気温も五度とか新聞にあったような気がするが、とはいえそこまでさむいようにもかんじられない。冬にもどったというほどではない。
- きょうは起床が遅くなったし布団のしたにはあまりとどまらず、水場に行ってきてから瞑想。すわりながら、日記が満足に書けていないことにたいする怒りをかんじていた。とくに一五日の火曜日、つまりちょうど一週間前だが、この日は外出していろいろ見聞きし感覚したから書けること書きたいことはたくさんあっただろうに、ここまで時間がはなれるとそれらの記憶印象ももちろんうすれるし、そうするとあまり意欲もなくなって、書けたはずのことがうしなわれてしまったということにかなりの怒りをおぼえる。はげしいものではないが、しずかで重く、強力な怒り。書きたいことを書けないというのは、ほんとうにくだらないこと、つまらないことである。クソだ。とはいえ、やっぱり一定いじょう書きたいことをしぼってすくなく書かないとコンスタントにつづけるのは無理かな、とおもったのだが、そうかんがえてみるとこんどは、とくにこれは書きたいということがおもいあたらない。これだけはぜったいに書いておきたいということはないし、どれもこれもべつに書かなくても良いといえば良い。どのことがらも、そうしようとおもえばあきらめたり捨てたりすることは容易である。あたまに浮かぶものごとのどれも書きたいようでもあるし、そうでもないともおもえる。しょせんはその程度のいとなみなわけだし、その程度のものとして楽にやっていくほうがよいだろう。食事中もわりと怒りを秘めながらかんがえをめぐらせていたのだが、部屋にもどってきてウェブをみながら白湯を飲んでいるあたりでそのきもちは薄れ、心身がおちつき、けっきょくはじっさいに書くときのじぶんにまかせるといういままでどおりの方針に回帰した。たぶん飯を食って、空だった腹が満たされたことにもよるのだろう。
- きょうも「英語」ノートを音読。一時五〇分くらいまで。それから書見。レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)をすすめる。おもしろい。第九章、第一〇章とすすんだ。いま278で、もう第一〇章のほぼ終わり。すなわち第二部の終わりでもある。登山文化の歴史や、ウォーキング・クラブと通行権や山登りの権利獲得の歴史にかんして。
- 三時ごろまで読み、白湯をおかわりしにいって、きょうのことをここまで記すと三時四六分。手の爪が伸びてきていて鬱陶しいのでまずそれを切りたい。
- そういうわけでFISHMANSがながれるなかで手の爪を切った。それから瞑想。あたまのうちに眠気がこもっており、序盤は上体がしばしば左右にゆらいだが、たえられないほどのものではない。そういうふうに意識がややあいまいなときはとうぜんとしても、瞑想をしているあいだはたまにじぶんがいまどこにいたのかわすれることがけっこうあり、文学的なレトリックとしてよくつかわれるいかにもな表現だが、どこでもない場所、いつでもない時間にいる、というかんじがすることはときどきある。そのかんじはわるくない。ねむいときとか、ねむくなくとも思念にしばらくまきこまれたときとかは、時間はともかくとしてもそういうふうに場所をわすれて、じぶんがいまいる空間の周囲のようすや事物の配置がどうだったかというのを一瞬おもいだせないことが起こる。ふつうに自室でベッドのうえにいるわけだが、窓がどっちにあったかとか、どういう向きですわっていたのだったかとか、そういうことをつかみそこねる瞬間がある。時間にかんしては、いつでもない時間というよりは、ベルクソンの純粋持続でもないけれど、われわれが直接ではないにしてもともかくいまこのときに接し合っているのはたしかに現在だけであり、その現在がその都度の現在としてずっとつづいているのだなと、永遠の現在みたいな、これも哲学とか文学の方面でよくいわれそうなかんじが実質的な感触をもったものとしてわかるような気はする。なんにちかまえに風呂のなかで目を閉じてじっとしているときにそういうかんじがあった。とはいえその現在はもちろん純粋な、混じりけのないものではなく、過去がつねに織りこまれているし、ばあいによっては未来の仮想もそこに混ざってはくる。しかしともあれいまここにあるのは現在であってそれがひたすらにつづいているな、というかんじにはなる。
- 瞑想を切ると四時四〇分ごろ。五時まできょうのことを加筆して、上階へ。アイロン掛け。窓外にとうぜん陽のいろはなく、曇天の薄暗さだが、いろあいやかすみのなさからして雨はどうもやんだらしい。みなみの山の斜面のうち数年前にいちめん伐採されて木のすくない一画が、その最上部に白さをふされてあったので、たかいところでは雪にもなったのかなとおもった。予報でも雪のマークはみえていたし、さすがに冬に降ったものがいままでのこっていたわけではないだろう。しかしそうかんがえてみると、ここさいきんそこに白さがあったか否かなどまったくおぼえておらず、にんげんいかに関心のひかないことがらをふだんみていないかがわかる。台所では母親が食事の支度をはじめており、大根の葉かなにか炒めている音がたっていた。シャツやらズボンやらをたくさんアイロン処理すると、ヒーターの石油を確認。きのう出勤まえにいれたわけだがタンクをもちあげるともうややかるくなっていたので、また補充しておくことにした。片手に提げて玄関へ行き、サンダル履きでそとへ。空気の質感はたしかにつめたく、そとにいるうちにさむさがたまって肌にするどさをわずかかんじるくらいにはなってきて、ずっといたらだいぶ寒いだろうとおもわれて冬っぽい。勝手口のほうできのうと同様おおきいほうのポンプをつかってタンクに石油を補充し、もってもどった。手を洗うと台所にくわわる。母親は鶏肉を用意して揚げようとしていたが、それを手伝うのではなく、きょうは煮込みうどんを食べたい欲求があったのでその支度をはじめた。鍋に水を入れて三角形に配置されたコンロのまんなかのところに置き、タマネギとキャベツとニンジンを切って投入。母親がはなれたあいだは唐揚げの番もすこしだけ。麺をゆでるのはあととして麺つゆを鍋にそそいで弱火でじっくり煮るようにしておき、食器乾燥機をかたづけたり、シャツ類を自室にもっていったり。たまっている古新聞をしばっているあたりで下階からあがってきた父親が(……)だと言って出かける準備をはじめた。紙テープで新聞をまとめるとそれを小脇にかかえてふたたびそとへ。時刻は六時をまわっており、あたりの空気はさらに暗んで宵のまえのたそがれ、雨のあとで路面も林もあたりはなべて濡れており、ぽたぽたと打つしずくのおとがみちをあるくひとのあしおととききわけがつかない。駐車場の物置に新聞を置いてもどり、玄関のとびらをあけると父親がでかけるところだったのであいさつし、とおりすぎたあと戸口に出ながらもうやんだときくのにああとこたえて鍵を閉め、居間にもどった。うどんの鍋はそこそこ煮えていたのでショウガをすりおろしておいて火をとめ、いったん自室にもどってきてここまで記すと六時半。
- ウィリアム・アーキン(ジャーナリスト、元米陸軍情報分析官)「ロシア軍「衝撃の弱さ」と核使用の恐怖──戦略の練り直しを迫られるアメリカ(Shocking Lessons U.S. Military Leaders Learned by Watching Putin's Invasion)」(2022/3/3, Thu.)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/03/post-98211.php(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/03/post-98211.php))
他の軍事専門家からは、ロシア本土から完全な準備を整えて侵攻したロシア軍が、隣接する国でわずか数十キロしか進めなかったことに唖然としたという声もあがった。ある退役米陸軍大将は、本誌に電子メールでこう述べた。「ロシアの軍隊は動きが遅く、その兵力はなまくらだ。そんなことは知っていた。だが最小限の利益さえ達成する見込みがないのに、なぜ地球全体の反感を買う危険を冒すのか」。この陸軍大将は、ロシア政府が自国の戦力を過大評価していたという説明しかないと考えている。
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アメリカの軍事アナリストや専門家は、ロシアによるウクライナ侵攻のこれまでの展開を見ながら、いくつかの教訓を抽出した。2月24日の現地時間午前4時頃、ロシアは主に4方向から攻撃を仕掛けた。ウクライナの首都にして最大の都市(人口約250万人)のキエフを攻撃する部隊は二手に分かれ、70マイル(約113キロ)北にあるベラルーシ領とさらにその東側のロシア領から進軍した。
第2の部隊は、ロシア国境から20マイルも離れていないウクライナ第2の都市ハリコフ(人口140万人)を急襲した。そして、第3の部隊はロシアが占領したクリミアと南の黒海からウクライナに入り、ウクライナ第3の都市オデッサ(人口100万人)を東から狙った。第4部隊は東からルガンスクを西に突き進み、親ロシア派が支配するドンバス地域から攻め込んだ。
陸の侵攻と同時に、ロシアのミサイル160発が空、陸、海から標的を攻撃した。攻撃にはロシア爆撃機と戦闘機約80機が同行し、2度に渡る大攻勢をかけた。米情報筋や現地からの報告によると、最初の24時間で約400回の攻撃を行い、15の司令部、18の防空施設、11の飛行場、6つの軍事基地を攻撃したという。
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「2003年にイラクに侵攻した米軍が3時間でやってのけたことを、ロシア軍は3日掛けても達成できていない」と、米空軍の退役将校はやや大げさに話した。この退役将校によれば、侵攻開始後の3日間にロシアが狙いをつけた照準点の数は、イラク空爆開始時に米軍が狙いをつけた照準点(3200カ所余り)の4分の1にすぎない。米情報機関の初期分析では、ロシア軍は1万1000個の爆弾とミサイルを撃ち、うち照準点に命中したのは820個で、命中率は7%程度だった(2003年の米軍のイラク侵攻では80%を超えた)。
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ロシア軍の弱さが分かったことで、長期的には、アメリカは戦略と資源投入の優先順位、さらには世界における指導的地位の保持に至るまで、根本的な見直しを迫られる。ロシアを自国と「対等な軍事力」を持つ敵対国家と見なす米政界の強迫観念や、ロシアに軍備で勝ろうとして、防衛費を膨張させる風潮も再考を迫られることになる。
ロシアの軍事力の評価が変わることで、NATO、そして欧州のNATO加盟国も根本的な戦略の見直しを迫られる。ロシアが極端な行動、さらには無謀とも言うべき行動に走ることは、今回の出方でよく分かったし、それに対する警戒感も高まっているが、その一方で防衛費の拡大や欧州の地上部隊の強化は必要ではないことも明らかになった。
新たな課題は実は古い課題であり、いま求められているのは封じ込め、国家を弱体化させる経済戦争、核軍縮協議だといえるだろう。だが一方、ロシアの視点に立てば、軍隊の弱さが露呈したことで、核保有が自国の真の強みだという認識が強まったはずだ。国家を維持する、少なくとも現在ロシアを支配している政治体制を維持するためには、核の威力がかつてなく重要な意味を持つ。
- 六時半のあとは三月一五日火曜日の日記をいくらかつづった。七時で切って食事へ。上階に行き、フライパンでうどんを茹でる。冷蔵庫の二段目、野菜室的なところにはいっていたものを開封して、これは何分なのかときけば玄関のほうのひらきに箱があってそこに書いてあるというのでみにいくと、讃岐うどんだった。一二分が目安だとあった。それで沸騰した湯に一束いれたが、湯のなかにばらけた麺のボリュームがおもったよりもすくなかったのでもう一束を追加した。汁の鍋では野菜が水気を吸ってもうくたくたというかんじになっており、スープのいろあいも褐色を増したようでわるくない雰囲気だ。冷凍の安っぽい豚肉のこまぎれをたしょうくわえて加熱しつつ、箸でフライパンの麺をかきまぜながら茹でた。いっぽうで天麩羅やチャーハンなどを皿に盛りわけて電子レンジであたためたり、はこべるものをさきに自室にはこんでしまったりした。そうして麺がよいぐあいになるとザルにあけて流水で洗い、そのまま鍋に投入。たしょう煮て丼へ。ぜんぶはいりきらなかったし、母親がちょっとくれと言っていたのですこしのこしておいた。そうして自室へ。(……)さんのブログおよびうえのニューズウィークの記事を読む。ところどころ日本語が、おかしいとまではいかないが、なんかちょっとなんか、みたいなときがあり、わざわざ原題で検索して元記事とところどころみくらべながら読んだ。意味合いとしてまちがってはいないのだけれど、日本語の文章として読むとなんだかあまりこなれていないかんじがうーん? みたいな。ジャーナリズム方面の文というのはいがいとそういうときがある。最大手である読売新聞を読んでいても、ふつうに、ここは主語を足したほうがよくない? とか、文構造としてちょっとへんじゃない? とか、読点の位置変えたほうが誤解がなくていいのに、とかいうことはある。
- 食後は皿を洗い、うえの記事をさいごまで読み、そのあと一五日の日記。終了させることができた。その時点で九時ごろだったはず。父親が八時半だかそのくらいにかえってきて風呂にはいっていた。からだというか腰のあたりなどがつかれたのでねころがって休んでいると風呂を出たようだったので、はいってしまおうとおきあがって階をあがり、入浴。髭を剃った。だいぶ剃っていなくてうっとうしかったし人相もあまりよくなかったので(そとではつねにマスクをつけるという世界になってしまったので素顔をみられることはないが)。人相はともかく、髭を伸ばしたままにしているとやはりなにかうっとうしいし、毛に脂がたまるということなのか、顔や肌の感触もなんかすっきりしないのでひんぱんにあたったほうがよいのだけれど、サボってしまう。電気髭剃りをつかう気はない。入浴時にT字剃刀で顔ぜんたいを剃るのが好きなので。
- 一〇時に風呂を出てくると茶をつくり、自室にかえってきて一五日の記事をブログに投稿。なぜかアクセスがきょうだけ七四とかで急に増えていたのだが、こういう日はたまにある。どこかにさらされたりしていたらいやだなあとおもってURLで検索したが、たぶんそういうことはないようだ。ぜったいにゆうめいになりたくない。もしまちがえてゆうめいになってしまったり炎上したりしたら、すぐにブログを閉じてやめるか非公開にする。
- その後、この日のことをここまで書き足して一一時すぎ。きょうじゅうにあと一六日はせめてしあげたいがいけるかどうか。一七日の木曜日分はたしかもう書いてあった気がする。一八日いこうは書いておらず、一九日は職場で会議があったから記すことはそこそこおおいし、二〇日の日曜日はほぼいちにち出かけていたからこれも書くことはおおい。きのうはきのうで労働があって職場でできごとはいろいろあったしやはりそこそこ書くことはある。しかしいまのところきょう起きたころのような怒りや苛立ちはまったくなくなっており、指も軽快に、力みなくよくうごいている。やはり瞑想の時間をたしかにとって心身をしっかりチューニングできるかどうかにいろいろかかっている気がするな。心身がまとまればやるべきことやりたいことなど心身が勝手にやってくれる。
- さいきん目がひりつくことがおおくて、それは花粉の作用ということもあるのかもしれないし、たんじゅんに連日読んで書いてと紙にせよモニターにせよ文字をみてばかりだからがたが来ているのでもあるだろう。それでさいきんはまたこめかみや眼窩を揉んでひとみをいたわっているのだが、まぶたを閉ざした状態で眼球を各方向にうごかしたりまわしたりしてマッサージすることもある。きょうそれをやっていて気づいたのだけれど、眼球をまわすとき、後頭部や耳のあたりの筋肉が連動してうごいている。感触からしてそれはあきらかで、うごきにおうじてときどきパチッというおとがきこえるほどで、視神経だかすじだかあたまのなかで伸びたりうごいたりしてそうなるらしい。それで、こめかみなど目にちかいほうを揉むのもよいが、後頭部の筋肉をほぐすのも効果があるのではとおもって風呂などでよく揉んでみたところ、じっさい有効そう。
- その後にたいした特筆事はない。日記は目標どおり、一六日分までなんとか終わらせることができた。