2022/3/25, Fri.

 ソヴェト政権は、社会主義経済体制の前提となると考えられた生産手段の国有化を実現(end22)するため、一九一七~一九一八年に当初は個別に、ついで部門別に工業企業を国有化し、銀行の国有化も進めたが、資本家や職員らの強い反発を招き、経済と生産は混乱に陥った。農業の危機は一層深刻だった。シベリアやヴォルガ川流域、ウクライナなどでは、反革命勢力が敗退したのち、ソヴェト政権による軍隊への動員、馬や穀物の徴発、教会の抑圧などへの反発から、農民たちの抵抗運動が時には一〇万人規模で起こった。しかもそこに干ばつが重なって、飢餓が発生した。一九二一年の飢餓では一〇〇万人以上が死んだとも言われる。食糧危機は当然都市にも及んだ。このためソヴェト政権にとっては、食糧を確保しつつ農民の抵抗を和らげることが急務であるとの主張が強まった。そのための具体的な政策が、レーニンが強く主張し、党内の異論を押し切って一九二一年三月に始めた「新経済政策(ロシア語の略語でネップ)」であった。
 「新経済政策」とは言うものの、ネップは制約を残しつつ市場の要素を復活させるもので、農民との関係では現物税(のちに食糧税として金納化)の導入が重要であった。収穫に対して定率の税を課し、税を納めた残りの収穫物は、市場での売買も含めて農民が自由に処分することを認めたもので、収穫が多ければ多いほど豊かになる可能性が農民に与えられ、生産増への物質的刺激となったのである。国営企業にも独立採算制が導入されて、市場的な関係が復活した。(end23)
 ネップは国内の緊張緩和と経済復興に一定の成果を挙げたが、旧資本家の一部が国営企業の経営専門家として復活し、技術人員も高い賃金で雇われた一方で、独立採算を求められた国営企業が合理化を進めた結果、労働者が解雇されて失業が発生した。農村では富農が経済力を強め、農村共同体内での影響力を強めた。私的な商業活動も認められたことから、都市と農村を結ぶ「かつぎ屋」や「ネップマン」と呼ばれる商人や企業家が多数出現した。彼らは、商品流通に少なからぬ役割を果たしたが、不当な利益を得ているとして怨嗟の的ともなった。
 第一次大戦は国民の包括的な動員を強いる総力戦となったため、経済・社会生活のあらゆる分野への国家の介入が増大し、それに伴い国家機構が肥大していった。これは交戦諸国にほぼ共通して見られた傾向であったが、ロシアは第一次大戦に引き続いて内戦と干渉戦争を経験したためその程度が大きく、軍事的勝利を優先した集権的な体制作りが進められていた。そこに、ネップによって経済面では一定の自由化策が採られた一方で、政治的には、激しい論争を度々おこなっていた共産党内の分派が禁止されて、ボリシェヴィキ(一九一八年にロシア共産党、一九二五年に全連邦共産党、一九五二年にソ連共産党と改称)の集権的な一党支配体制が成立した(他の政党は、一九一八年六月にメンシェヴィキエスエルが非合法化されるなどして、すでに一党制が成立していた)。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、22~24)



  • 一〇時ごろ覚醒。それいぜんにもいちどさめたような記憶がある。きょうはよく晴れてあたたかい大気の感触で、カーテンをひらいて陽光を顔にあびながら布団のしたで深呼吸した。眼窩なども揉む。おきあがったのは一〇時四二分。水場に行き、アレグラFXを一錠服用。いちにち二錠の薬だが、いまのところ起床時に一錠飲むだけでいちにちの終わりまでどうにかなっている。用を足してかえってくるときょうはすぐに瞑想にはいらず、ねころがって本を読みながらしばらく脚をほぐした。レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス』はあいかわらずおもしろく、いまは都市について語る第三部の第一二章、パリの章にはいっている。とうぜん、ベンヤミンボードレールなどのはなしが出てくる。
  • 一一時二〇分すぎから枕のうえにこしかけて瞑想した。風のおとなのか川のひびきなのかそのさきの町をはしる車のおとなのか、窓外のとおくにはなんらかのうなるようなうごめきがかんじられる。ちかくでは風はめだってあるわけではなく、家をゆらしたり窓を鳴らしたりというほどではない。ちょうど三〇分ほどすわって上階へ。居間は無人。ジャージにきがえながら南窓をみやると、このときにはすでに陽射しはいくらかうすくなっており、あかるみはあるものの瓦屋根のうえに艶はなく、すこし粉っぽいようなかわいた白さが空間にただよいひろがっていた。食事はれいによって卵を焼く。ハムがなくなっていたので冷凍のこまぎれ肉。ほか、さくばんのワカメなどがはいったスープののこり少量。新聞一面には北朝鮮が新型のICBMらしきミサイルを撃ったという報。飛行時間はいままで最長の七一分にわたり、最高高度も最大の六〇〇〇メートル、日本の排他的経済水域内に落ちたが、射程としては米本土全域をねらえる能力があると。ウクライナ情勢ではキエフの東側でウクライナ軍がロシア軍を押し戻しているという記事があった。首都から二〇~三〇キロメートルあたりにとまっていたのを、五五キロ地点まで後退させたという。北側のロシア軍は一五キロメートル付近で塹壕を掘っているとか。米国防総省だったかの発表によれば、ロシア軍はこれまでで七〇〇〇人から一万五〇〇〇人くらいは犠牲になったと推計されているらしく、これはソ連アフガニスタンに侵攻してたたかった一〇年間の犠牲者に匹敵する数だという。
  • 食器を洗っているあいだに卵を焼くのにつかったフライパンに水をそそいで火にかけておく。そうすれば風呂を洗っているあいだに沸いて汚れをぬぐいやすくなる寸法だ。浴槽をこすり、床もすこしだけこすって、泡をながして出てくるとフライパンの湯を捨ててキッチンペーパーできれいに拭き取った。白湯をもって自室へ。電気ポットが復活したので薬缶で沸かして魔法瓶にためておく必要がなくなった。帰室すると一二時半ごろだった。きょうあした労働で猶予もないし、きょうは音読をせずすぐに日記を書こうとおもっていたところが、キーボードのエンターキーとかその右のテンキーにいちぶ感触のおかしいものがある。利きは問題ないのだが、打ったときのてごたえがうすくてきもちがわるい。これはきのうだったか夕食時に鶏肉の炒めものの汁をこぼしてしまったからで、どうもきもちがわるいのでNotionを用意するまえに掃除をすることにした。キーのカバーをはずしてティッシュで裏側や部品や機構を拭くだけのことだが、それにけっこう手間がかかって、一二時四五分か五〇分でようやくNotionを支度することができた。そのままここまでつづって一時二〇分。きょうは三時すぎに出る。あしたも同様。出発までにきのうのことと先週の金曜日のことを書いておきたいのだけれど、どうも無理そうな気がする。せいぜいきのうの往路をしあげられるくらいか。
  • あおむけになって書見。踵で太ももを揉むととてもよい。二時でいったんあがって洗濯物をいれ、タオル類だけたたんで洗面所へ。三時すぎまで一時間しかないわけだが、瞑想してほんのすこしだけものを食って身支度して出発だなとみとおしを立て、部屋にもどると枕のうえにすわった。二時八分からはじめて四二分まで静止したとおもう。二回瞑想をすれば心身はかなりなめらかになる。そのころにはちょうど父親が帰ってきていた。上階にあがっていくときょうはしごとかと問うので肯定し、冷蔵庫にあったちいさくて丸い胡桃のパンをビニール袋のまま電子レンジにいれてあたためつつもうそろそろ行くようだと言っておき、下階にもどる。(……)さんのブログを読みながら袋に二つあまっていたパンを食い、その後歯磨きもすぐにした。ブログはこのときには読みきらなかったので帰宅後にまた読んだ。スーツにきがえて荷物をととのえて階上へ。きょうはあたたかめだしコートはいらんだろうとジャケットにベストのみ。時刻は三時五分だった。まだギリギリ行けるから肌着などだけたたんでおこうとハンガーからはずしてパンツやら靴下やらをソファの背のうえに整理し、そうして出発へ。道路に出ると林縁の土地に父親がいてこちらをみたので、行ってくると告げて東へあるきだした。一時くもった印象だったが、いまは雲がかんぜんに洗い去られたわけではないものの空に青さが復活しており、地には日なたがひらかれてあかるみが背をつつむ。坂道にはいれば風が生じてあたりの樹木を一様にさわがせ、右手の下り斜面のむこうに立った一、二本は、かたむけ垂らされた長髪のような葉叢を風にすくわれてざわざわ横に揺らしつつ、背景のみずいろをちらちらこまかく分割している。すすんで左側の上り斜面でも風はつづいて木立や茂みが揺動するのがべつの草のみどりのうえに影となってふるえあそんでいた。出口てまえまで来るとまた右手に眺望がひらき、一段したのみちがあらわれるとともにかなたの市街や川や山までさえぎるものがなくなるが、したのみちやその奥にはモクレンらしき木が二本あって、人家に接してちかいほうの一本は紫とピンクを混ぜてあでなよそおい、しかしまだたいしてひらかず翅を閉じてやすんだ蝶のねむりに憩い、そのむこうにかさなりながらのぞくハクモクレンはもう白さをそろえてそこそこ厚くしていた。
  • この日の徒歩はつねに陽射しの背後からながれてくる街道を行った。(……)を横切る横断歩道にあたったところで、対岸の歩道を坂のうえのほうから、茶髪と金髪のあいだくらいの髪色の外国人女性と、黒髪でおそらくは日本人とみえる女性のふたりづれがにこやかに笑いながらおりてきた。ハイキング的な、丘のほうなどを遊歩してきたのだろうというかんじの格好。その後こちらは通りをわたってかのじょらのうしろをあるいたり、立ち止まったその横を抜かしていったりしたが、ふたりはときおり足をとめてあたりの建物に目をむけてなんとかはなしたり、スマートフォンをのぞきこんで地図かなにかみたりしていた。しぜんのなかをあるきつつ、小観光というところか。駅前の横断歩道でたしかうしろからやってきてまたとなりになったような記憶があるが、黒髪のほうの女性のはなす英語はあまり流暢な発音ではなかった。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路のことや帰宅後のことはわすれた。たいしたことがらはないだろう。