2022/3/29, Tue.

 集団化を強いられた農民の生産意欲は乏しく、トラクターなどの機械や肥料が不足していたこともあって、集団化された大規模経営のメリットは必ずしも発揮されず、収穫は減少した。しかし、コルホーズでの労働を厳しく義務づけ、コルホーズにおける収穫の横領・窃盗には死刑さえ適用され得るよう厳罰化して収穫のほとんどを調達したことによって、コルホーズからの調達量は増えた。この結果、農民の手元には生き延びるに必要なだけの穀物も残らず、一九三二~一九三四年にはウクライナヴォルガ川流域など主要な穀倉地帯で大飢饉となり、五〇〇万人とも七〇〇万人とも言われる死者がでた。
 かろうじて生き延びることができても、農村での暮らしは極めて過酷であったため、農(end34)民は逃げ始めた。工業化によって労働力需要は大きく、農村を離れても生活する道はいくらでもあったからである。農民が大挙してコルホーズから逃げてしまえば穀物の生産と調達は激減してしまうから、一九三二年一二月には国内パスポート制度を導入する決定がなされ、パスポートなしでの移動と就労に制限が課せられた。そして、コルホーズ農民には原則としてパスポートが発給されず、移動が制限され、コルホーズに縛り付けられることになった。そのうえ不当なまでに安い価格で穀物を供出させられる農民はまさに収奪されていた存在であった(コルホーズ農民全体へのパスポート交付が決定されたのは実に一九七〇年代のことであった)。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、34~35)



  • きょうの寝起きはわるかった。混濁がつづき、一一時直前に離床。わるいと言っても、まあいつもどおりではある。天気は晴れ晴れしくなく、カーテンを閉ざしていると部屋は薄暗く、空は全面雲におおわれて、おそらく雨もやや混ざっているのかすこしかすんだ空気になっている。水場に行ってきてから瞑想。おりにふれて息をよく吐くようになり、寝るまえにもそうしているのでからだじたいはそこそこ充実してはいる。すわってからもしばらく息を吐いてから静止。よいかんじだった。やっぱり心身をまとめるには停まるのが大事で、いくら息を吐いていてもそれはまたべつものである。きのう風呂にはいっているあいだにそのあたりについての比喩をおもいついて、いぜんから瞑想は心身のチューニングだと、楽器の調律のようなものであって、調律がきちんとできていなければどんな巧者もよい演奏はできないのと同様、心身がまとまっていなければ生においてよいパフォーマンスは発揮できないと、そういうイメージをおりに書いていたわけだが、それにそくしていえば、呼吸法による養生というのはギターを弾いたあとに弦を拭いて汚れとか錆とかを落とすみたいなことかなとおもったのだった。
  • そろそろ切るかというこころが生まれたのを感知して目をあけると、一一時三四分だった。やはり三〇分ほど。上階へ。居間は無人。母親はきょう、(……)さんと(……)さんが墓参りに来るとかでいっしょに行っているはず。ジャージにきがえて屈伸し、髪を梳かして性懲りもなくハムエッグを焼く。卵があとひとつだったのであたらしいパックを開け、冷蔵庫の右側のスペースにいれておいた。ハムエッグを米に乗せるほか、きのうつくった味噌汁と、おなじく残り物の春雨のサラダ。新聞、『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー賞受賞と。アカデミー賞関連では、ウィル・スミスが授賞式でプレゼンターのなんとかいうコメディアンに平手打ちをくらわせたという一幕もあったらしい。なんでもこのコメディアンがウィル・スミスの妻の頭髪を揶揄するような発言をしたとかで、かのじょは女優であり脱毛症で治療しているということを公言しているらしく、ウィル・スミスはこの言動に激怒し、コメディアンのほうはジョークだったと弁明したものの、スミスはおまえはわたしの妻のなまえを口にするなとすら言ったらしい。その後おちついて謝罪したとのこと。この文脈だけきいたかぎりでは、ウィル・スミスが怒ってもしかたがないのでは、という印象を受けはする。ただ、だからといって平手打ちが良かったかというとそれは別問題だろう。公的な場だし、ことばであいてをいさめるやりかたもありえたはず。いずれにしても具体的にどういうジョークだったのかとか、もうすこし詳しい情報がないとたしかな判断はくだせない。
  • ロシアとウクライナは二九日にトルコ・イスタンブールで対面の停戦協議をおこなうみこみ。キエフ周辺にいたロシア軍のいちぶは一時ベラルーシまで撤退しているらしいが、それは来たるべき総攻撃の準備をしているということらしく、兵力をあつめるようすがうかがわれると。マリウポリの郊外は「完全に掌握した」とロシアが発表し、中心部でも激しい戦闘がつづいているという。チェルノブイリ付近に弾薬などをはこびこんだりもしているとか。ほか、ここで二次大戦中の米国日系人収容がはじまってからちょうど八〇年になるということで連載がはじまっていた。
  • 乾燥機をかたづけて食器を洗い、つかったフライパンに湯を沸かしておいて風呂洗いへ。出てくると沸騰しているみずをこぼし、キッチンペーパーでぬぐって、白湯を一杯コップにもって帰室。Notionを準備すると一二時半ごろ。きょうのことをここまで記述すればちょうど一時。きょうもきのうとおなじ時間からの勤務だが、きょうは電車で行こうかとおもっている。授業は一コマだけなので余裕があるし、その後はさいごまで事務ではあるのだが、あいだの一コマはあまりしごとがないとおもわれるし、さいごの一時限も新人研修だからそんなにつかれはしないだろう。まんなかのコマはむしろ休憩して職場の奥で瞑目していたいくらいだが。
  • おととい、二七日の記事を記した。さいごまで終えることができたのでよかった。その時点で一時二〇分くらいだったか。一時半かな。きのうの記事もほんのすこしだけ書いてから、ねころがってトーマス・マンの『魔の山』を読んだ。ハンス・カストルプがナフタと出会ったあと、その家を訪問しているあたり。二時前で書見を切るとストレッチ。きちんとストレッチをしたのはだいぶひさしぶりだとおもう。まいにちちょっとだけでもやるのが大事だとやるたびにおもい、そう書きつけるのだが、じっさいにはそうできていない。そのあと瞑想した。停止の安楽にひたる。
  • いま帰宅後、もう日付替わりもまぢかである。夕食をとりながら一年前の三月二九日(月曜日)の記事を読んだ。印象にのこったのは以下。

あとはサヘル地域についての記事。ここもイスラーム過激派が台頭してかなり政情不安らしい。マリでは人口二〇〇〇万人だかのうちの四五パーセントが貧困にあり、食料を得られない人間も相当いるようだ。昨年、政府に対する市民の不満が爆発して大規模な抗議運動が展開されたといい、それを受けて軍がクーデターを敢行し、八月に軍事色の強い新政府ができたらしいのだが、状況は変わっていないとの声が聞かれるようだ。イスラーム過激派も地域に浸透しており、彼らは特定の民族と結びついて共同体に入りこむことで積年の民族対立の再燃を引き起こしかねない。一部の地域では連中によってISISみたいな統治がおこなわれているらしく、つまり水を運んでいる女性がヴェールをかぶっていなかったからと暴力を振るう、みたいなことだ。ただマリ政府関係者によれば、実際のところ、誰が過激派で誰が市民なのかを見分けることは不可能だとのことで、事柄の軍事的な解決はもはや見えず、したがって武装組織側と和平交渉をして社会に統合するしかない、という感じになっているらしい。

     *

その他のことは忘れた。たしかこの日だったと思うのだが、労働からの帰路に元生徒の(……)さんに会った。徒歩で帰っていて、駅前を折れた裏通りを行き突き当たりを横に曲がったところで、こちらがこれから入る裏道の続きから出てきた二人があって、一見してギャルだった。彼女らはなんとか話しながら表の方向へ折れ、こちらは彼女らの後ろで裏通りを進もうとしたのだが、二人の一方がこちらに気づき、ひとがいると思っていなかったようで、うわ、とびっくりした声を発していた。それでちょっと決まりが悪かったのだろう、紛らすように笑って街道に向かおうとしたギャルは、しかし足を止め、あれ? と疑問の声を続けてこちらをじっと見ている。こちらも立ち止まって見返し、え、とつぶやくと、塾の先生ですよね? と質問が来たので、そうです、と答え、どなた? と訊いた。すると、(……)ですとあったので、(……)? と間髪入れず聞き返せば、それで正解だった。このとき即座にフルネームを、しかも正しく漢字表記で(珍しい字面なので印象に残っていたのだろうが)思い出したこちらの想起の迅速さには自分でも驚かされたが、聞けば彼女が通っていたのはちょうど一年くらい前までだというから、まだ近い時期の子だ。二〇二〇年初に高校受験をしたわけだから、通っていた期間としては主には二〇一九年中になる。たしかに(……)さんが教室長だった頃の生徒だからそうなのだろうが、まだそれしか経っていないのか、という感が強かった。もっと昔の生徒のように感じられたのだ。(……)さんは、金だか茶だかよくわからないが夜道でも目に立つあかるい色の髪になっており、いかにもギャルという感じの雰囲気だったが、中三のときもわりとそちら寄りではあった。それでちょっとその場で立ち話をしたのだが、高校はもう辞めて働き出すのだと言う。もう働くの? すごいね、と言わざるを得なかった。水商売系のキャッチだとか言っていて、よくわからないが高校はもともとあまり行っておらず、「こっちにもいなかったし」とか漏らしていたので、都心のほうにでも行って夜の世界に踏みこんでいたのだろうか? たかだか一六歳くらいでしかないのだろうに大したものだ。しかしそんなにはやく働かなければならないとは、やはり家庭に金がないとか、そういう事情なのだろうか。あるいは単純に、勉強についていけないとか、勉強したくないとかいうことかもしれない。中三のときも学業はからきしという感じだったし。ただ、祖母のことを話すことが多くて、ギャル風ではあるが心根の優しいような子だという印象を持っていた。いまは(……)の桜を撮ってこようと思って行ったら、暗くてめちゃくちゃ怖かったので引き返してきたところだと言う。室長が変わったことを告げると知ってると言い、この子に聞いたと連れ合いの黒髪マスクの少女を指したので、誰かと思えばこれが(……)さんだった。全然気づかなかった。マスクもしていたし、夜道で暗いし、こちらの目も悪いし、距離も多少あったので。(……)さんは今年度の生徒で、受験を終えてこのあいだの二月までで辞めた子である。

それでしばらく話して別れ、黙々と夜道を歩いたのだが、そのあいだ、なんだかはかないような、むなしいような気分が差していて、これはやはり時の過ぎざまが目に見えたからなのだろうなと思った。このあいだまで中三の生徒だった女子が、ギャルに育って、もう働くなどと言っているのを受けて、時間が一気に過ぎたような感覚になったのだろう。なんというか、当たり前のことだが、彼女もまた生きているんだなあ、という感じだ。今回ここで遭遇したのはまさしく奇遇というほかなく、職場での仕事の片づけ方がちょっと違って、この位置を通るのがあと二〇秒も遅ければたぶん彼女たちとこちらは邂逅することなく互いに気づかなかったと思う。偶然というものが面白いのは、自分の見えないところで確かに世界がまわっているということ、営みが営まれているということを実感させてくれることだ。それは他者の生に対する想像力であり、自分などというものはどこまで行っても所詮は自分でしかなく、自分がいまとまったく違う人間になったとしても、あるいはいまの自分ではなかったとしても、それもまたたかだか自分自身でしかない。つまり人間が持てるのは最終的にはこの自分としての、一人称の視点と意識でしかなく、ひとはそれを逃れられず、自分ではなく他者であるという自己消失は不可能だし、自分でありながら同時に他者であるという二重視点もまあ大方は無理だろう。それはごくごく当然の事実にすぎないのだけれど、まったくもって退屈なことであり、その退屈さと、他者の見ているものを見たいという情熱とが、文学とか物語とかをこの世に生み出すにいたった要因のすくなくともひとつではあるのだと思う。

  • (……)さんとの遭遇を読みながら、いや、おれの日記おもしろいな、とおもった。とくに、「徒歩で帰っていて、駅前を折れた裏通りを行き突き当たりを横に曲がったところで、こちらがこれから入る裏道の続きから出てきた二人があって、一見してギャルだった。彼女らはなんとか話しながら表の方向へ折れ、こちらは彼女らの後ろで裏通りを進もうとしたのだが、二人の一方がこちらに気づき、ひとがいると思っていなかったようで、うわ、とびっくりした声を発していた。それでちょっと決まりが悪かったのだろう、紛らすように笑って街道に向かおうとしたギャルは、しかし足を止め、あれ? と疑問の声を続けてこちらをじっと見ている」というあたり。つまり、遭遇したあとのやりとりの内容やそこから受けた感慨など、そのできごとの中心部分、そのできごとをできごとたらしめ、記録されるべきものにしたであろうとみなされるぶぶんではなく、遭遇までのながれをいちいち順を踏んで書いているのが、読んでいてなんだかおもしろかった。記録という観点、日記という形式の一般的なとらえかたからすれば、こんな経緯は書かなくてもよいはずなのだ。二段落目の述懐もいつもながらの内容ではあるがまあわるくはないし、つまらなくもないのだが、それよりもこの遭遇までの数段をえがいた文のほうがおもしろかった。おもしろかったというのは、なにかしらの感覚をあたえるものだったということで、それはやはりリアリティとか、具体性とかいうことになるのだろう。なるのだろうというか、どうしてもそういうことばでとらえてしまい、またこの感覚をいいあらわすにあたってそういうことばしかじぶんのなかにみつからないのだが、端的に言って、この記述のなかで(……)さんが生きているのはこのさいしょの数文しかないわけだ。それいこうはぜんぶ(……)さんではなくてじぶんじしんを書いているものにすぎず、それはやはり退屈なことではある。記録とは、死にゆくものを、それが死につつあると知りながら、まるで生きているかのように、あたかもそれがまだ生きられるのだとでもいわんばかりに、かろうじてとどめようとするおこないなのだから。
  • こういうところ、記録として重要だとおもわれ中心とみなされる部分だけでなく、どうでもよいようなこと、書かなくてもよいようなことまでふくめてそこにあったことをすべて、できるかぎりですべて書きたいというありかたが、やはり日記という形式におけるじぶんの文章の特異さなのだろうなとおもう(しかしそれはまた、おおかた日記という形式でしかできないだろう)。じぶんの過去の日記を読みかえすとき、そういうふうに傍流的なぶぶんまでこまかく書いてあるのをみると、こいつはとにかく書きたいのだなと、どうでもよいようなことまでぜんぶ書きたいのだなと、そういう欲望がまざまざとあらわれているようにみえることがあり、そこになにかみずみずしいようなものをおぼえてちょっとだけ感動することもある。やっぱりこの世は書くにあたいする。そうとしかおもえない。すばらしいか否かとはかかわりなく、端的に書くにあたいする。じぶんがずっと書きつづけているというのはそういうことでしかない。
  • この日の帰路はなかなかいいかんじで、最寄り駅で降りて坂をくだるあいだくらいまではべつにそうでもなくふつうだったが、坂道には同道者がふたりおり、どちらも煙草を吸っていた。駅を抜けて車の来ない隙に街道をわたったところでまえにふたり男性がいて、ひとりはのそのそとしたかんじのいつも片手にビニール袋を提げてくだっていく中年でよく帰りがいっしょになってみかけるが、もうひとりは知らないにんげんだったし曇天のもとで暗いので風采もよくみなかった。さいしょはふたりともこちらよりさきにいて、先頭をいくのはビニール袋のひとで、もうひとりがそれにつづいてときおり煙を吐いたりたちどまったりしており、マスクを顎までずらして露出した鼻に大気に混じった香りがまえからふれてきて、煙草のにおいというのはむかしはあまり好きではなかったがいまはそんなにわるくなくかんじる。母親などは煙のにおいと喫煙者を蛇蝎のごとく嫌っているが。煙草を吸うにんげんというのもちかごろだいぶすくなくなったというか、数としても減っているのだろうけれど、分煙がすすんで喫煙所いがいで吸う者がゆるされなくなったので、みかける機会が減ったのだろう。ふたりめはあゆみが比較的おそかったしときおりたちどまってもいたので、こちらでも抜かすことができた。
  • したのみちに出てビニール袋の男が公団へと去っていったあとただひとりの夜道となったわけだが、首をちょっと横にうごかしてその公営住宅の窓からもれるオレンジ色の明かりや、そこにうっすら映っているようにみえるひとかものかあいまいななにかの影や、月はおろか星もまったくなくて練ったように一面のっぺりと暗んでいる空などをみているうちに、解放的な気分がきざしてきて、おうじてからだのちからがぬけて歩調がゆるくなり、恍惚まではいかないがうすい快楽とここちよさをはらんだ自由の時間が現成した。仏教のいう諸縁を放下するというのはこういうことだとおもうのだが、いまこのときしかない時間というか、じっさいにはそうではなくて過去も未来も念頭には浮かぶし、あしたまた労働がひかえていることも理解しておりあたまにもよぎるのだけれど、ただその拘束的なみとおしがいまこのときの心身になんの影響もあたえてこない、そんな独立の安息で、心身がこういう感覚になるのはほぼ決まって夜道をひとりでゆっくりとあるいているあいだである。朝にあるいたとしてもたぶんならないだろうし、周囲にひとがいてひとりきりでない状態ではぜったいにならないと断言できる。これがにんげんの自由というものだ。あるきながら、おれたちは無償性のみをなんとかそうして夜はかがやきなんとかみたいな短歌をまえにつくったなとおもったのだが、正確な文言がおもいだせなかった。かえってきてからみてみると、「われわれは生きるのだ無償性のみを夜はそうしてかがやきとなり」だった。夜はそうしてかがやきとなり! 小説のタイトルにつかえる。
  • 一年前の日記を読んだあと、過去の日記をあたまからぜんぶ読みかえしたいとおもって、まあそんなことをもくろみながらきょうしかつづかないことはわかりきっているのだが、とはいえじっさい読みかえして固有名詞を検閲しなおさなければならないのもたしかではあるのだが、ともかくブログに載せてあるいちばんはじめの記事である二〇一四年一月五日をみてみると、いま現在、きょうとまったく同様に、ハムエッグを焼いて米に乗せるという一回目の食事を取っており、そこに八年前からずっとじぶんの生活が変わっていないことがかんぜんに集約されているようにかんじられて、この変わらなさはなかなかおそろしいことだぞとおもった。しかもこの八年まえの正月もまた英文を音読したりもしているし、「晴れてはいたが雲が多い空で、南西の山の上空には列島のように連なった雲が長く伸びていたし、北西の山の向こうからは煙めいた雲がもうもうと湧き出ていた。西陽は隠れがちだが雲を逃れるわずかなあいだには穏やかながらたしかな暖かさをもったひとすじの光が地上を染めた」という風景描写をみてみても、本質的にはいまと書き方が変わっていないようにおもえる。(……)に出ているのもおなじ。植え込みのまわりの段でまちあわせしているひとをみているのもおなじ。八年経っても、書き方も、書いている内容もだいたいおなじ。なかなかにおそろしいことだ。「ひどく久しぶりに」とはいいつつも、瞑想もやっている。ただし、「ベッドに置いたクッションの上に腰掛けて四十回深呼吸をした」と書いているから、このころはまだ呼吸式のもので、無動の境地をみいだしてはいない。外出時に音楽をきいているのもいまとはちがう。もはやそとで音楽をきくこと、耳をふさぐことはかんぜんになくなったし、携帯音楽プレイヤーももっていない。帰りの、「四時半に帰宅すると、陽も落ちて空気が灰色めいていた。雲は一面にのび広がっていたが、層は薄く、その下から水色が透けて見えていた。南東の市街の上空には紫に染まった雲がわずかにのぞいていた」という描写はじつに気が抜けていて、とうじはこれでわりと精一杯だったのだろう。あと、行き帰りの道中、電車内とかあるいているあいだとかのことがまったく書けておらず、段落が変わると一気に(……)に着いている、みたいになっているのがまあ雑魚ではある。
  • この日はあるかず、電車で出勤。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)一〇時すぎに退勤。帰路のことはうえに書いたし、帰宅後はとくだんのこともない。この日は瞑想をしているあいだに、またどこでもなくいつでもないような、ある種の自失感覚みたいなものをかんじたりそれについてかんがえたりしたり、また思考や意識やそこに生起する表象の散乱性、不連続性をあらためてまざまざとかんじとったりもしたのだけれど、それらについては機会がめぐってくればまた詳述する。