2022/3/31, Thu.

 一九三六年に新たなソ連憲法が制定される過程では、ソヴェト型民主主義への期待も高まった。この憲法の草案は一九三六年六月に新聞紙上に公表され、一二月までの約五カ月半にわたって全国各地で全人民討議がおこなわれた。こうした討議への参加者は、延べで四二〇〇万人を超えたとされる。集会への参加は動員によるところが多かったかもしれないが、そのことは自発性の存在を必ずしも否定するわけではない。新聞雑誌にも多数の意見や要望が寄せられていた。
 そして、こうして示された意見を踏まえて、三八か条に修正が加えられたうえで一九三六年一二月に憲法が制定されたのであり、こうした単なる国民投票以上に直接民主主義的とも言える手続きを経て憲法が制定されたこと、憲法規定も、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、国民の自由権社会権を相当に保障したものであったことから、ソヴェト型の民主主義こそが、議会制民主主義よりも民主的で、ファシズムに対抗できる「新しい民主主義」であるというイメージが広まったのである。
 ちなみに、この全人民討議がおこなわれていた時期には、スペインの反ファシズム人民(end39)戦線政府に対する内乱が起こり、ファシズムのイタリアとナチズムのドイツが反乱軍を支援したため、ソ連は人民戦線政府との連帯を表明してこれを支援しており、新憲法をもってファシズムに対抗する旗印とする意識がソヴェト政権には強く見られた。
 このように世界恐慌により資本主義・市場経済への信頼が、ファシズムの伸張により自由主義と議会主義への信頼が失われていったこともあって、列強諸国においてさえも社会主義とソヴェト体制が一定の魅力と影響力を持つ状況が生まれていたのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、39~40)



  • 一一時に離床。一〇時くらいには覚醒して、カーテンをあけて陽を浴びていた。さいしょのうちは空に青さがあったような気がするのだが、じきにうすれてぜんたいに白っぽくなり、しかしくもりながらも陽射しはのこっていた。水場に行ってきてから臥位にもどってすこしだけ『魔の山』を読み、そうして瞑想。きょうも深呼吸をしばらくしてから静止。一一時五〇分くらいまで。
  • 上階へ。母親は布団の打ち直しをたのみに行ったようで不在。ジャージにきがえて洗面所の鏡のまえで髪を梳かす。白髪が何本か、もさもさとした黒髪のなかにふくまれている。ハムがなかったのできょうは卵だけ焼いた。その他菜っ葉のはいった味噌汁。食卓について新聞の一面を読みながら食事を取った。三〇日の停戦協議でウクライナは米英、ポーランドや中国などもまじえた安全保証の枠組みを提案し、ロシアはそれを評価してキエフやチェルニヒウ周辺での軍事行動を縮小すると表明していたのだが、どちらの地域でもまだ攻撃はつづいていると。チェルニヒウでは一晩中空爆がおこなわれていたらしい。まだまだ状況のさきはながいようす。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によればウクライナ難民は四〇〇万人に達し、当初の予想をかなり上回るペースと数で増加していると。主要な受け入れ国としてはポーランドが二三四万人、次いでルーマニアが六一万人、ハンガリーが三〇万人くらいだったか。モルドヴァは人口の一割ほどにあたる数の難民が流入したといい、外務大臣だったかが、受け入れる余力はあと三万人程度もない、二一世紀の欧州で氷点下に難民キャンプをつくらなければならないという事態にはなってほしくない、と言明したらしい。
  • 食器を洗うあたりで母親が帰宅。皿を洗ったのち、買ってこられたものを冷蔵庫におさめる。ものがけっこうおおくてスペースがなく、雑多なものものの配置を替えてなんとかいれるのに手間がかかった。その後風呂洗い。そしてきょうはアイロン掛けをした。きょうあしたの労働のためにワイシャツを用意しておかなければならなかったので。ほかにもいろいろ溜まってはいるのだが、とりあえずじぶんのワイシャツ三枚と母親のエプロンのみ処理した。そうして白湯とともに帰室。ここまで記して一時一五分。きょうはなかなか暑い。部屋内にいても空気がぬるいのがかんじられ、そこに白湯など飲めばとうぜん汗が出る。
  • 勤務時のことに飛ぶ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 翌日の労働が朝からで六時には起きたかったにもかかわらず帰宅は一一時、ちょっとだけ休んで飯を食い、風呂にはいって出てくればもう零時半を過ぎていたはずで、睡眠をかんがえるとさっさと寝なければまずいのだけれど、四時間確保できればどうにかなると二時前の就床となった。あいだ、なにをやっていたのかはおぼえていないが、たぶん書見だったか? 疲労はけっこう大きかったとおもうので、書き物はできなかった気がするのだが。