2022/4/7, Thu.

 (……)国民の最低限の生活を支えるうえで重要な役割を果たしたと考えられるのが、コルホーズからの穀物調達であり、これを基に一九四一年七月半ばから導入されていった配給制度であった。
 とはいえ、軍への食糧供給が最優先されたため、都市の住民に対しては最低限のパンの配給がなされたものの、配給だけで生きていけたわけではない。このため都市住民の生活は、都市部で急遽作られた菜園での自前の生産、企業の副業での農業生産、そしてコルホーズ市場に依存することになった。特にコルホーズ市場は、主として物々交換によって都市住民が食糧を確保する重要な場となった。農産物の市場での価格が高騰して都市住民は現金では払えなくなり、他方で農民も、お金があっても買うものがないので現金より現物(end63)を受け取ることを好んだのである。しかし、一九四三年半ばには、衣類が品薄となって取引されなくなったとも言われるように、都市住民が交換する品にも限りがあり、人々は飢えに苦しんで、食糧と血液を交換したり(行政によって組織されていた)、犯罪に手を染めたりした。このような状況で、配給で得たパンが交換に役立った。配給されたパンを市場で交換することは禁じられていたが、家財を手放した都市住民にとって配給のパンは交換のための貴重な品となり、食糧事情が悪くなるにつれてパンとその他の食料品との物々交換が中心となっていった。
 都市住民の生活も苦しかったが、食料供給を支えた農民たちの負担も極めて大きかった。コルホーズの農民たちは、コルホーズでの収穫を自ら消費することは許されず(コルホーズの収穫は国家によって調達されて配給に用いられた)、しかも配給の対象とはされなかったから、生き延びるには付属地に依存するしかなかった。農民は付属地で作ったジャガイモを主食とし、朝食に、昼食に、お茶にジャガイモを食べ、「農民にとってジャガイモは、都市労働者にとってのパンと同じ」となって、農民一人当たりのジャガイモ消費量は二倍以上に増えたという。このため農民は、コルホーズ市場での交換によって都市住民からパンを得ようとしたのである。
 自分たちの生活の支えとなったことに加えて、付属地での生産物は市場で高く売ること(end64)ができたという点でも、農民にとって付属地で働く誘因は大きかったが、それにもかかわらず、大部分の農民がコルホーズで働き続け、コルホーズでの生産物を調達することで政権は配給を続けることができた。コルホーズでの作業日ノルマが一九四二年に引き上げられ、未達成に対する罰則も定められていたが、多くの農民がノルマをかなり上回る労働をコルホーズでおこなっていたことは無視できない。機械も家畜も不足する条件下で、農民たちは自らの労働力を大量に投入することでコルホーズでの生産を支えた。集団化以来コルホーズは農民にとって異質なものであり続けたと言われるにもかかわらず、である。そして、男性は軍隊と軍需工場へ駆り出されていたから、この重労働をおこなったのは主として女性たちであった。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、63~65)



  • 「英語」: 423 - 437
  • 一一時まえにめざめて布団のしたでしばらくすごし、一一時二〇分に寝床をはなれた。きのうはなぜかあさがたまでだらだらと夜更かし、というか徹夜をしてしまったので、睡眠はみじかい。天気は曇り、一面雲におおわれた白い空だった。水場に行ってアレグラFXを飲んだりトイレで放尿したりしてくると臥位にもどって書見した。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』の下巻。あいもかわらずナフタとセテムブリーニが論争していたり、あとヨーアヒムが死んだ。喉頭結核が発覚して、わりとあっけなく、淡々と死んでいった。正午をまわってから瞑想したが、すわっているうちに便意がもたげてきたので二〇分で切ることになった。
  • 上階へ行き、ジャージにきがえてからトイレに行って排便。母親はきょうは友人の(……)ちゃんと会いに行っている。うどんを煮込むように用意してくれてあった。それで麺を鍋のスープに投入ししばらく加熱。きのうのあまりである里芋の煮物も少量あたためて卓へ。新聞をみるとロシア軍の残虐行為についての続報がつたえられている。きのうの新聞でみた情報では、ウクライナはロシア側の通信を大量に傍受しており、市民の殺害がロシア政府の指示だったことを立証しようとしている。また、New York Timesが調べたらしいが、ブチャではロシア軍撤退前の三月ちゅうから路上に遺体があったことが衛星写真の分析をとおして判明したと。その遺体はその後三月下旬になっても変わらずにずっとそこにあったので、ロシア側の、遺体はわれわれの撤退後にウクライナがでっちあげたものだという主張の正当性はうしなわれる。きょうの新聞にいわく、米国のブリンケン国務長官は民間人殺害などの残虐行為はロシアによる意図的な行動だという認識を表明したという。また、ゼレンスキーは国連安全保障理事会の会合にオンラインで参加し、ロシアがもっている拒否権によって安保理は世界の平和と安全をまもるための有効な機能を果たせていない、早急に改革をおこなうべきだ、それができないならばロシアを追放するか、それとも国連がみずから解体するべきだと主張したとのこと。またこれはきのうの新聞ですでにみたが、国営メディアの「ロシア通信」が、「ロシアがウクライナにするべきこと」みたいなタイトルの論説を載せ、そのなかで反露的なウクライナ人を「浄化」する必要性を主張したという。戦争中の悲劇は反露的な行動の抑止に役立つ、と述べ、「浄化」やエリート層の「除去」をとなえているらしい。「浄化」は即座に民族浄化(ethnic cleansing)という語をあたまに呼び起こすものだが、この語の意味からして、反露的ウクライナ人はロシアからみると一種の汚れ、あるべき状態を汚染している不純物だということになる。またぞろ純粋性のレトリックである。プーチンは開戦時の演説で「特殊軍事作戦」の目的としてウクライナの「非ナチ化」をあげ、またブチャで市民を弾圧したロシア軍兵士が「ナチス」はどこだと探していたとの報告もあり、くわえて捕虜となったあるロシア兵も「ウクライナにはナチスがいるとおもっていた」と証言しているらしいが、純粋性のイデオロギーはそれじたいがまさしくナチスドイツのものである。思想的にもじっさいの行為の面からしても、「ナチス」であるのはウクライナではなく、ロシアのほうである。ところがそのあからさまに「ナチス」的な政府の長や高官らが、ユダヤ人としての出自をもつゼレンスキーの政府や市民を「ナチス」と指弾し、国連の場でたしかな証拠をもって残虐行為を非難されても、代表大使はおおまじめな顔で、遺体や映像はロシアをおとしいれるための欧米の捏造だとそればかりをくりかえしてやまない。この現実を記憶し、記録しておかなければならない。ロシア軍によって殺された市民の遺体はおそらく今後各地でさらに出てくるだろうし、マリウポリや、ロシアが占拠している東南部の町々では、いまも現にひとびとが殺されたり、暴行を受けたり、強姦されたりしているだろう。ロシアがウクライナ人数万人をロシア国内の収容所に連れ去ったというたしかな情報がある、ともこの日の新聞には載っていた。
  • 食事を終えるといつもどおりのルーティンをこなして帰室。「英語」ノートをしばらく読んだ。あと、洗濯物は、天気が真っ白でこれでは出していてもしょうがないだろうとおもったので、うどんを煮込んでいるあいだにもうしまってしまった。音読後はうえの英文記事をとちゅうまで読んだ。「英語」ノートの音読を再開したので、またぱっと意味がわからなかった単語をふくむ文をうつして項目を増やしている。臥位ではそれがやりづらいし、やるなら座位で読む必要があり、作業としてもわりとめんどうくさいが、しかしまたどんどん増やして語彙を習得していくつもりである。
  • 三時ごろだったかに瞑想したりストレッチをしたり。睡眠がみじかかったのでやはりどうも気力が湧かず、からだはほぐれてもあたまや意識が文を書こうというほうにむかっていかないので、活力が湧くのを待ってねころがって書見することにした。四時まえから五時まで。布団をからだにかけて息を吐きながら読んでいたが、ねむけも生じてとちゅうでいくらか目をつぶって休む時間もあった。『魔の山』下巻はいま420くらいまで来ており、ちょうど800くらいで終わりなのでのこりはんぶんというところ。つきあってみるとけっこうおもしろい小説ではある。山のうえの国際サナトリウムとその近辺というせまい範囲の舞台で、ハンス・カストルプはずーっとそこにいて生活もたいして変わりはしないのに、にんげんもようや形而上学的なことやユーモアや病や死など、いろいろもりこんであってなかなかのものだなとおもった。もろもろできごとや変化や発展はあるにしても、そこの生活や生やにんげんたちが本質的には「たいして変わりはしない」ということ、「低地」から隔絶されたとくべつな場でありある種の異界であるのかもしれないアルプス高山の、そこに停滞し沈殿し永遠につづくかのような、出口のみえずまっさらにひろがる回帰的な時間のありかたをえがいている小説なのだろう、とそんな感触。終章である第七章の冒頭では「時間そのものを純粋に時間として物語ることができるであろうか」(401)という問いがなげかけられ、404では、「実のところ、私たちが時間は物語ることができるかどうかという問題を提出したのも、私たちが現に進行中のこの物語によって、事実上これを企てているということを白状したかったからにほかならない」と述べられている。話者が物語ることをこころざすその「時間」とはどういう時間なのかはよくわからないが、この小説を読んでいるときの印象としては永劫のてざわりがつよい。ただいっぽうで、この作品は「ドイツ教養小説の最高傑作」(上巻カバー裏のあらすじより)と目されているらしい。教養小説とはいっぱんに主人公がさまざまな経験をえてにんげんとして成長していくさまを物語るジャンルとされている。成長とは変化変容のことだから、それは「永遠につづく」かのような「停滞」や「沈殿」の相とは一見して対立するはずである。じっさい、ハンス・カストルプも国際サナトリウム「ベルクホーフ」での滞在をとおして、主には思想的形成や知的興味の面であきらかに発展していることがみてとれる。しかしそれじたいが、この山のうえの無時間的な時間につつみこまれ、そのなかで、あるいはそのうえで、それを必要不可欠な条件として起こっている、という印象をあたえるものだ。読者はハンス・カストルプの成長や存在をとおして、アルプスの高所に鎮座しているこの永劫的な時間にこそむしろふれることになる。だから、ありがちないいかたをすれば、この作品の主人公はハンス・カストルプ青年(だけ)ではなく、この場所に存在しつづける時間そのものだということも可能だろうし、うえで表明されている話者の企図にはそういう意味がふくまれているだろう。ありていにいって、このままずっとつづくんだろうな、という感覚を読むものにあたえる作品で、それはもしかしたらすぐれた長篇小説のあかしなのかもしれない。ヨーアヒム・ツィームセンは蛮勇によっていちどはこの牢獄的な時間を脱走したものの、けっきょくまいもどってきてしまい、出口をみいだせぬまま、時間のいっぺんとして吸収され溶けこむかのようにあっけなく死んでいった。永遠に停滞しつづける時間の、ひとびとをひきよせ、とらえ、とりこんでいくその牢獄的な同化吸収作用こそが、「魔の山」の魔力だというのがもっとも標準的な理解となるだろう(ちなみにこちらが気づいたかぎりでは、この土地について直接「魔」という語をもちいて形容した箇所は、たしか上巻の中盤あたりにあったみじかい一箇所のみなのだが、メモをとっておくのをわすれたようでいまその文を同定できない)。物語としてハンス・カストルプがついに出口をみいだすにいたるのか、下界に帰還することになるのか、それはいまだわからない。
  • さいきん(……)くんがブログを再開したのでときどきのぞいているのだが、この日みるとヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』からだという以下の引用がのせられていた。

ある人たちは––––私たちが希望的に観測しているよりもその人たちの数がはるかに多いかもしれないのだが––––戦争というものをこの世の苦悩や苦役に対する願ってもない中断とまでは考えないにしても、胸がわくわくするものと思っている。死と隣り合わせだということが、味わいを増し、平素は鈍い脳細胞の働きを早める。しかし、他方にはこの男のように、無法な殺人に反逆し、個人の力をもってしては殺し合いを終わらせようがないという辛い自覚をもち、現実社会から逃避することを選び、もっと先の都合のよい時に、もう一度この世に生まれてくる機会を与えられるとしたって、もうそれはご免こうむると思っている人間がいるのだ。人間とは、一切関係をもちたくないと思っているし、新しい試みも芽のうちに摘み取ってみたがる。そしてもちろん、戦争を失くすという努力と同様、このことに関しても無力なのである。しかし、彼らは魅力ある類いの人間だし、最終的には人類にとって貴重な存在である。それがたとえ、人類が破滅に向かってまっしぐらに進んでいるようにみえる、この暗黒の時代に信号機として振舞ってくれているだけのこととしてもだ。配電盤を操作する者はいつも見えないところにいて、そして私たちはその男に信頼を置くのであるが、しかし、線路を走ってゆくかぎり、明滅する信号機はつかの間ながら慰めを与えてくれる。私たちは機関士が安全に目的地につれて行ってくれることを望んでいる。腕を組んで座り、自分の安全を他人にまかせてしまう。ところが、もっとも優秀な機関士でさえ、地図に示されたコースにしか私たちを連れて行けない。私たちの冒険は地図にない領域においてであって、その道案内には勇気と知性と信条だけが必要だ。私たちに義務があるとすれば、それは自分の力を信頼することである。自分の運命をその手に委せることができるほど、偉大な人間とか賢明な人間はいないものだ。誰にしろ、私たちを導くことのできる唯一の方法は、私たち自身の定った方向が間違っていないという信条を取り戻させることである。偉大な人間は、この考えが常に正しいものだと示してきた。私たちを幻惑させ、道を踏み迷わせるのは、心底から守れそうもないことを、約束する連中である––––すなわち、安全、安定、平和等。そしてもっとも忌まわしいことに、こういった連中は、絵空事の目標に到達するという名目で、人間同士の殺し合いを私たちに命令する。

ヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』から

  • 夜だったかどこかのタイミングで、Keith Jarrett Trio『Tribute』をまたきいた。”All of You”からはじめて”Ballad of The Sad Young Men”、”All The Things You Are”、”It’s Easy To Remember”。”All The Things You Are”がききたかったのだが、ひさしぶりにきいてみるときもちがよかった。むかしよりおとが追えるようになっているので、イントロのJarrettのごつごつしたコードプレイによるテーマがどういうことになっているのかというのもまえよりはみえる。本篇もスリリングな演奏で、Gary PeacockとJack DeJohnetteがここでは強力であり、派手なことはやらないが、ふつふつとしたはげしさをうちにこめつつ強靭きわまりない土台をかたちづくっており、そのうえにのるJarrettもそんなに息がながくないけれど、ベストなしかけかたをねらう集中力の気配をうかがわせながらリズムとわたりあうように駆けていて、きいているほうもすこし緊張する。Gary Peacockがベースソロでウォーキングをえらんだのは正解だとおもった(テンポ的にそれいがいやりづらいということもありそうだが)。ただ、ベースソロ後半からおちついてきて、DeJohnetteのソロもそんなにあばれないままテーマにもどって終わるので、爆発感が足りないような気はした。三者一体でもりあがるピークが一箇所あったほうがよかったのではないかと。ピアノソロも駆けまわってはいるのだがある種淡々と、あまりたかまらず一定の起伏におさまっていたし。ピアノソロの後半でもっともりあげる可能性もあったはずだが、そういうながれにならなかったのだろう。ところでこのライブ盤はスローバラードは三曲、”Little Girl Blue”と”Ballad of The Sad Young Men”と”It’s Easy To Remember”がはいっているのだが、どれも透明に美麗で質はたかい気がする。”Ballad of The Sad Young Men”がいちばん好みか。