2022/4/10, Sun.

 一九五六年二月に開かれた、スターリンの死後初めての大会となる第二〇回党大会は、新指導部の下での変化をはっきりと示した。大会では、政治と社会全般の民主化、勤労者の参加の拡大、西側との平和共存の可能性(スターリンが主張し続けた戦争不可避論の事実上の否定)が謳われ、社会主義への平和的移行の可能性も認められた。そして、大会最終日、一九五六年二月二五日の非公開会議では、フルシチョフによるスターリン批判(いわゆる秘密報告)がなされた。スターリンの下での犯罪的な行為を暴露し、それはスターリン個人のせい、スターリンに対する個人崇拝のせいで生じたと批判したのである。
 スターリンへの賛辞は、死後次第に控えられるようになってきていた。また、当時は公表されなかったが、一九五三年七月の党中央委員会総会においてスターリンの個人崇拝が批判されていた。この総会で報告を担当したマレンコフは、スターリンレーニンの偉大(end98)な継承者としながらも、スターリンの個人崇拝は常軌を逸した形態と規模になっていた、そのような歪んだ個人崇拝が党と国家の指導に深刻な損失をもたらすようになっていたことを隠す権利をわれわれは持っていないと述べて、いくつかの具体的な誤りを指摘し、総会でスターリンを讃える発言をした中央委員を批判したのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、98~99)



  • 九時半のアラームで無事起床。そのまえにもいちどさめたような記憶があるが。さらにひさしぶりにゆめの記憶がのこっていた。といって書いているいまにはもうあまりないが、兄とともにどこかの町をあるいているもの。駅前のひろい広場みたいなところにいたり、そこでなにかしらのことがあった気がするのだけれど、わすれた。水場に行ってアレグラFXを飲んだり膀胱から黄色い小便を捨てたりしてくると書見。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(新潮文庫、一九六九年)下巻のつづき。500すぎくらいまで。あいもかわらずメインヘール・ペーペルコルンのはなし。ハンス・カストルプからするとショーシャ夫人もしくはクラウディアの旅の伴侶であるこの男(もう六〇歳かそのくらいのようだが)は恋敵になるはずなのだが、しかしハンス・カストルプは、さいしょのうちはいらだたしさもみせていたものの、かれにさそわれて宴会にあそんだ一夜のあとはむしろそのもとにたびたびおとずれはなしをするという友好的なふるまいをみせ、いあわせるショーシャ夫人はかれらの会話を「監視」しつつ、謝肉祭の一夜にあれほど度を失ってじぶんをかきくどいてきたこの青年がそんな調子でおちつきはらって男同士の敬愛をしめしているのでかえっていらだつ。しかしカストルプじしんはじっさいにこの老人がたいしたにんげんだとおもっているらしく、みずからすすんで「この人物の人柄の影響を受けようとした」(478)。なんについてもひとまず「傾聴に値する」とかんじていろいろなひととつきあう「愛想のよさ」は、かれ特有の性質であり、それがハンス・カストルプのまわりにひとをあつめ、たがいに敵対心や冷淡さをいだいているあいだのにんげんでさえも媒介的にむすびつけることになった、という点は488に述べられている。交際仲間一団の散歩にはすでに「ベルクホーフ」を出て婦人服仕立師の家に間借りしているセテムブリーニと、おなじ家の一階下に住んでいる同宿人レオ・ナフタもくわわり、論敵であるこれら啓蒙的自由主義者のイタリア人と、共産主義ユートピア神の国を同一視するテロリスト的イエズス会士とはあいもかわらずあるきながら高尚な議論をたたかわせ、王者メインヘール・ペーペルコルンもさすがにそれに口出しなどできず、「ただ額の皺を深めて驚いて見せたり、曖昧で嘲笑的な切れぎれの言葉をさしはさんだりするだけであった」が(502~503)、この「人物」のふしぎなおおきさや威厳によって議論の高尚さや重要性は格下げされ、「こういってはたいへん気の毒だが――結局こういう議論はどうだっていいのだという印象をみなに与えて」しまうのだった(503)。哲学者ふたりは根っから教育家的な性分であり、ハンス・カストルプへの思想的影響力をあいあらそっているのだが、そのふたりともメインヘール・ペーペルコルンのまえにあってはちっぽけな存在とうつってしまい、セテムブリーニはしかしそのことが理解できずにあんなのはたかだか「ばかな老人」(493)じゃないですかと青年に苦言を呈している。ところがハンス・カストルプがいまやみつけたのは、馬鹿とか利口とかにかかわりのないなんらかの優越性があるということなのだ。セテムブリーニはまた、カストルプがショーシャ夫人よりもじぶんの恋敵であるこの男にむしろ関心をもっているという点にも違和をとなえているが、カストルプはそれをじぶんが「男性的」(500)ではないということ、またペーペルコルンが「大人物」(501)でとてもかなわないということによって説明している。もうひとつ、ペーペルコルンはジャヴァでコーヒー農園を経営しているオランダ人であり、太平洋の島々などで原住民が利用する薬物や毒物についてかたってみせるのだが、それにおもしろみをおぼえるハンス・カストルプにセテムブリーニは、「そうでしょうとも、あなたがとかくアジア的なものにしてやられるのはよく存じています。いや実際、そういう珍しいお話は私などにはしてあげられませんからね」(499)といやみっぽいことばをむけ、あいもかわらぬアジア蔑視とヨーロッパ中心主義をあらわにしている(キルギス人のような切れ長の眼をしたロシア婦人クラウディア・ショーシャも、この「アジア」や「蒙古」に属する存在である)。
  • 一〇時一七分から瞑想。きょうはかなり暑く、のちに新聞の天気欄にみたところでは最高気温は二五度だという。寝床にいるあいだもひらいたカーテンのあいだで青海と化した空にたゆたうおおきな太陽がひかりをぞんぶんに顔におくりつけ、肌をじりじりとあたためてからだに汗を帯びさせていた。四〇分くらいまで二〇分少々じっとすわり、上階へ。両親は買い物に出かけているところだった。きのうの残り物で食事。新聞の一面からウクライナの情報を読んだ。ロシア軍がミサイルを撃ちこんだドネツククラマトルスク駅での死者は五二人に達したと。東部では住宅地や民間施設への攻撃が激化しているもよう。キーウ近郊ではブチャいがいにも銃殺された遺体がたくさん発見されているようだ。ロシアはいままで孤児をふくむ一二万人ほどを国内につれさったという情報もあった。プーチン生物兵器化学兵器、はては核を使用する決断をしないかという、そのことがいちばん気がかりである。香港の行政長官選挙で、前政務官であり林鄭月娥のもとでのナンバー2だったらしい李家超という人物が出馬表明という報もみた。警察出身で、民主派の弾圧を指揮してきた張本人であり、国家安全維持法を補完する国家安保条例みたいなものを制定するのではないかと危惧されると。選挙は親中派の選挙人による事実上の信任投票である。
  • 新聞を読んでいるあいだに両親が帰宅。食器をかたづけ、風呂洗い。すむと白湯をもって帰室し、Notionを用意しつつ湯を飲んでそのまま歯磨きもした。すでに一一時四〇分ごろだったので身支度へ。カラフルなチェックシャツとブルーグレーのズボンを身につけ、腕には時計をつけつつも荷物は財布をポケットに突っこんだだけで上階へ。靴下を履き、ちょっとうがいをしたり用を足したりしたあと出発。
  • 陽射しのひじょうにあかるい正午だった。みちをあるきながら坂下の家並みやとおくの山などをみやると、そのいろがずいぶんくっきりと、大気中になんの夾雑物をもなからしめる洗浄光のかわいた明晰さで空間にしるされている。風もたえまなくあたりをながれ回遊し、下草や林の樹々をなべてにぎやかしてはおとの泡を吐かせている。頭上をおおかたおおわれたほそい木の間の坂道にはいっても、樹冠のあいだがみずいろに澄み、みちのよこにひろがる草木の占領地にもひかりがかかって立ち木の枝葉をながれおちるよう、濃いのとあかるいのと、みどりがさまざまかさなりながらわきたっているそのむこうに、うえのみちの家の裏手のベランダにピンクや青やのあざやかなシャツがいくつか干されてあるのがのぞいた。足もとにわずかだが桜の花弁がまざっているのをみつけ、どころかのぼるあいだに宙をふらつく一、二片もあったが、あたりをみまわしみあげてもみどりばかりでもとがみつけられない。
  • おもてに出て、旺盛で幅広な、目をほそめずにはいられないひかりのなかを美容室へ。店のまえの道路でなにかの工事をしていた。といってあまり工事らしいようすもみえずどういうものかわからなかったのだが、ヘルメットすがたの整理員が車のながれを管理して、なにかの区画がつくられていたのはたしかである。入店。あいさつ。先客はひとり、高年の婦人。すぐに洗髪台へ。(……)さんに髪をあらってもらう。パニック障害のむかしはあおむけの姿勢でじっとしていなければならないこの時間がけっこうにがてでくるしくなったこともあったが、いまやどうということもない。ただ、唾だけはいまも処理しづらいが。洗い終わると礼を言って鏡のまえの椅子につき、散髪へ。(……)さんがきょうはどのくらいときいてくるので、もうばっさり、と笑い、まわりは刈ってうえのほうはたしょうのこし、ちょっとうしろにながすような、というかんじになった。まあいつもどおりてきとうにみじかくしてもらうというだけのことだが。暮れだったかなと前回来たときのことをいうので、暮れでしたかね、もうそんなか、と受けた。そのあとさらに会話のなかでおもいだされたが、たぶん(……)の結婚式があるからとそのまえに切ったのではなかったか。会計のときにスタンプカードをみた(……)さんがいうには、一一月だったというから、五か月も切っていなかったのかとおどろき、そんなに切らなかったことないですよとわらった。会話はまあたいした内容もなくいつもどおりの世間話だが、塾の生徒らは無事にみんなおくりだせたかときくのに、まあそうですね、今年は落ちた子もいなかったはずとこたえると(といいながらも、第一志望に落ちたにんげんはいたが、いちおうみんな行けるところには行けたということだ)、行くばしょにおくりこむまでがたいへんだよねえ、悠仁さまみたいにはいかないしね、まわりをさげろっていうわけにはねえ、あれも筑波大に支援金とかがけっこうわたってるんじゃない、などという答がかえって、あ、そういうはなしなんだとおもった。秋篠宮悠仁親王筑波大学附属高校に進学した件だが、それじたいは知っていたものの、そういうゴシップ的なはなしはいままできいたことがなかった。たぶん(……)さんの情報源は女性誌や週刊誌などではないか。「まわりをさげろっていうわけには」というのが、具体的にどういうことがあったと想定されているのかはよくわからない。むろんそういう皇族の裏口入学みたいなことは現実にあるのかもしれず、真実はしれないが、端的にどうでもよいことではある。
  • よくみなかったがとなりの婦人はパーマのたぐいをやっていたようだ。こちらの髪がバサバサ切られてカットクロスや床のうえに落ちているのを、洗髪のためにたちあがったときだったかそこからもどったときにみた婦人は(足がいくらかわるいようで、椅子から立つのに時間がかかって難儀しており、だいじょうぶ、たちあがるまでがね、とじぶんで言っていた)、若いからたくさんあって、みたいなことをもらし、それにすぐさま(……)さんか(……)さんがおうじて、じぶんにほしいくらいでしょ、いくらか払ってもねえ、あつめてくっつけられればねえなどと冗談を吐き、婦人も肯定して、いやそうそう、ほんとに、とかいっていた。(……)さんなどは、「総入れ替え」したいよね、とすら言っていた。こちらはそのあいだわらいをつづけて、かのじょらのことばをぶぶんてきにくりかえしたりするのみで余計なことはいわなかったが、これは生来偶然いあわせただけの初対面のひとと軽口をたたきあえるほどの社交性をそなえていないということもありつつ、また起きてから時間がそう経っていないためかあまり口がまわろうとしないという事情があったためだ。じっさい、(……)さんとの世間話も、たいした返答や話題がおもいつかず、あたまのなかにうまい文脈や連想が浮かんでこないというそのことを自覚しながら、無理はせずにそのひかえめさにとどまっていたのだった。いつもわりとそんな調子ではあるが。あと、声もなんだかすこしほそいようで出しづらかった。それでもさきの婦人がかえるときに会計の段で二〇周年なのとかいっていたのでそれをひろって、もう二〇周年なんですかときいてみると、記念品としてペンをつくったという。これはこちらもかえりにいただくことになった。二〇年だとぼくが小六のときですね、と言い、ぼくがはじめてきたのが高一だか高二のときで、そのころクラスメイトに、なんていうか、へんなおしゃれなやつみたいなのがいて、たぶんそれをみてじぶんもすこしは、っておもったんでしょうね、とわらってはなした。体育のあととかトイレでアイロンやったりしてるんですよ、とつづけたが、このへんな洒落者というのは一年のときにクラスメイトだった(……)くんのことで、ホストみたいなやや濁り気味のパサパサした茶髪で顔のまわりをおおった髪型をしており、服装にしろ髪にせよたいそう気をつかって洒落者をこころざしていたのだが、そのこだわりぶりが一〇代なかばの少年少女たちのなかではやや過剰だったのと、おそらく方向性もすこしずれていたようで、たぶん女子受けはよくはなく、(……)には「なにを(あるいはどこを)めざしているのかわからない」と評されていたのをおぼえている。一年E組には当初こういう、ややイケてるみたいな、いまでいったらいわゆる「陽キャ」だろうが、そういう男子のグループがひとつあって、そこに属していたのはこの(……)さんと、したのなまえをわすれたが(……)という背のたかいこれもけっこう顔立ちのととのったクールな男子、あと(……)(漢字がわからない)というこちらは背のひくいことをたぶんずっといじられていた、ややするどいような顔のやつなんかで、女子の胸を合法的にさわりたいといってレントゲン技師をめざした愛すべき馬鹿である(……)もそこにいたかもしれないが、このグループはさいしょのうちしばらくいっしょに飯を食っていたのだけれど、そのうちに(……)さんはそこからはずれて、それでこちらなんかとかかわりをもつようになった記憶がある(席がとなりだか前後だったかになったという事情もあった気がするが)。かれはみためはイケイケなほうだったのだろうけれど、たぶん性分としてはそんなにそっちのタイプではなかったのだろう。なにしろ合唱部にはいって安定的でふくよかな低音を出すことにこころをくだいていたくらいだし(じっさいその努力はみのり、高校三年時の合唱祭で三年A組は、かんぜんに(……)さんの趣味でプログレ的な難曲 ”44わのべにすずめ” を演ずるという無謀な選択をとったのだが、かれはみごとこのクラスをまとめあげて優勝にみちびき、実演のさいにはほんにんのバスもふくよかにちからづよくきわだってひびいていたし、この合唱をきいただけできょう来た価値はあったなと、とうじすでにえらそうな批評家めいた心性をもちあわせていたらしい一七歳のこちらにおもわせたのだった)。その(……)さんとこちらはなぜかわりとなかがよくて、二年からはA組とB組でわかれたがたまに廊下で会ってはなしたりはし、また体育はAB合同だったのでそこでもいっしょになっただろう。体育のあとにかれとよくトイレに行って濁ってパサパサになった茶髪の毛束をアイロンでのばしているのをながめたのが一年のころだったか二年時だったかはさだかでないが、かれはこちらの髪をも整髪料でちょっとととのえてくれたり、アイロンではさんでのばしたりもしてくれたはずだ(たぶん、素材はわるくないんだから、みたいなことを言ってくれていたとおもう)。それでたぶんじぶんもすこしはおしゃれにきをつかわなければというおもいがめばえたのだろう、じっさいこちらは高校時代をとおして髪はわりとながくしていたし、一時期は朝に鏡のまえで側髪をアイロンでのばしたりもしていた(だれとあるいていたのかわすれたがたぶん高校二年くらいのときに、(……)でホストの若いにいちゃんに声をかけられてはたらくようさそわれたこともいちどだけあった)。いまからかんがえるとちょっと黒歴史の感がある。しかしこういったこともいまからもうはや一六、七年まえのことなのだ。いざおもいだして書いてみると、ぜんぜんそんなかんじがしない。
  • となりの婦人はさきに終わってかえっていったのだが、調髪がおわって席からたちあがるそのときにこちらのほうをむいてなんとか言ったものの、なんといったのかよくわからなかった。笑顔でかえした。その時点でたぶんもう二度目の洗髪とドライヤーでの乾燥が終わって、さいごにととのえるのを待っていた段階ではなかったか。わからないが。ともかくみじかくしてもらって、さいごのほうでは兄のことをきかれたので、いまはロシアからかえってきて(……)に住んでいるといい、ロシアのまえはベルギーにいてそこで奥さんと出会ったということもはなすとともに、まあ貫禄はありますね、からだが、ロシアにいたときに北のほうの、林業をやってるひとたちのところに営業に行って、重機を売ってるわけなんで、それで現地視察みたいなかんじでいって、むこうのひととならんでうつってる写真をみたんですけど、からだのおおきさおなじなんですよ、熊みたいな、ロシアの木こりたちとならんで違和感なかったです、とわらってかたった。
  • 一時くらいで終えて会計。ふたりにそれぞれむきながら礼とあいさつを言って退店。陽射しはあいかわらずさんさんと分厚くふりそそいで額を熱し、目をおのずとほそめざるをえず、街道沿いを行けばまえからやってくる車たちのフロントガラスにやどりこんだ太陽はほとんどギラギラとした感触で純白のおおきな球としてふるえては突出を八方に伸ばしている。コーラが飲みたくなって自販機で缶を買った。それをうえからつかむかたちでみぎてにもちながら車がとぎれるタイミング、もしくは工事現場でとめられた列のすきまをわたるタイミングをうかがっていたが、こちらがわでとまっても対岸の車線をくるながれがあったりしてなかなかわたれず、しかたないのでとりあえずさきにむけてあるきだし、ときおりふりかえってようすをみながら快晴のしたをぶらぶら行った。しばらく行くとようやく隙がうまれたので南側にわたり、来た方向にもどっていって木の間の細道をくだる。草木のあいまにはいるとこまかな羽虫が発生して顔に寄ってくるのがうっとうしい陽気となった。したのみちに出て家まで行けば、父親が林縁の土地でピンクの小花の円陣めいた群れにかこまれたなかでなにやら地面を掘っていた。玄関にはいるまぎわ、みちのむこうのべつの林縁で段上に立った紅や白の花木の、あかるい大気のなかでいろがみごとに凝縮的につよく小球を凛々とつらねたようにきわだつさまや、林のいちばんはじのみどりがひかりをまとってかがやきながら微風にそれをはじいているのにちょっと目を張った。
  • コーラを飲むかと母親にきくとちょっと飲むというので、手を洗うとあけてついでくれとのこしていったん帰室。ジャージにきがえてもどり、昼につくられた焼きそばを皿に盛ってあたため、コーラ缶や氷をいれたコップとあわせてもちかえった。母親はコーラを父親の分も少量わけて、コップふたつをそとにもっていった。
  • 一服ついたあとに八日の日記をしるしていると母親が来て、たけのこを天麩羅にしてくれというのは父親が林から採ったらしい。せっかく書きはじめたところだったので辟易していやだよといいつつも切りをつけると上階に行き、しかし天麩羅ではなくてベランダの洗濯物をとりこんで始末した。台所では母親が支度をして揚げはじめていた。かのじょがトイレに行くあいだなどちょっとだけかわってたけのこを揚げつつたたむものをたたみ、洗面所にはこんだり仏間にならべたりしておき、さらに下階のベランダにも行って、こちらの寝床のシーツとか布団カバーもとりこんで、薄いほうとふつうの厚いほうと二種類のかけ布団にカバーをほどこした。そうしてもどると天麩羅はもうおおかた終わっていたので乾燥機をかたづけたり、台所の余計なものを棚にいれたり、洗い物をしたり。また米がもうすくないのであまったものを皿にとり、釜を洗ってあたらしく磨ぐと六時半に炊けるようセットした。そうして緑茶をつくって帰還。
  • 日記のつづきをしるして八日九日と完成。五時すぎくらいからしばらく休み、ネットで記事を読むなどしたあとおきあがってきょうのことをここまでしるせば七時一一分。かなりひさしぶりのことで現在時に追いつくことができた。どうせまたそのうちおくれるに決まっている。(……)

ただ、今回非常に特徴的だなと思うのが、そういう若い人とかインテリだけではなくて、非常に政権に近い立場の実業家みたいな人たち、あるいは企業としてプーチンの戦争に対して反対を表明するっていう現象が起きているんですよね。

やっぱり一番最初に声を上げたのが、ロシアのアルミ王と呼ばれている(オレグ・)デリパスカ、それから「アルファバンク」、非国営の中では最有力の銀行ですけど、ここの頭取の(ミハイル・)フリードマン、こういう人々がプーチンの戦争に反対ということを公然と言い出す。ちょっとこれ、私は見たことがないんですよね。これまではプーチンと一緒に、プーチンの方針に異を唱えないでプーチンを支えることによって、利益を得てきた人々というのが、プーチンの専権事項である外交安全保障に対して反対論を唱えるというのはあんまりなかった、というか初めてなんじゃないかと思うんですよね。

それからロシアの石油会社「ルクオイル」、これも非国営の中では最大手ですけど、ここも公然と戦争反対と言い出すと。それからロシアの(ロマン・)アブラモビッチチェルシーのオーナーだったアブラモビッチチェルシーを売ってウクライナ避難民の支援に充てますということですね。どうもビジネス界では、プーチンに対して距離を置いているような感じをすごく今回感じるわけです。

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もう1個は、今検討されているポーランドからウクライナに対して戦闘機を供与するという話とか、それからウクライナ上空に飛行禁止区域を設けるみたいな話ですよね。つまりこれまでよりもより強い形でのNATOからの軍事的なコミットメント、特に飛行禁止区域はつまり「ここを飛んじゃダメだよ」というだけではなくて上空に戦闘機を送り込んで制空権を取ってしまう、それでもロシアが飛行機を飛ばそうとするんだったら撃ち落とすというものですから、これはもう事実上戦闘参加に近いわけですよね。

今のところアメリカもNATOもそれは危なすぎると言って拒否していますけども、アメリカの世論が先週くらいからかなり変わってきたように世論調査とかを見ていると見えるんですよね。この中でじゃあ、さらにロシアがキエフとかハリコフで無差別攻撃をやる中で彼らを何とか救えっていう世論が西側の国々の中で高まらないという保証はないと思います。

じゃあそこで実際に飛行禁止区域を設定してロシアの空爆を阻止するみたいなことを西側諸国が本気でやる場合、あるいは戦闘機を供与して、その戦闘機の発進基地はポーランドの中の基地を使っていいですよということをやった場合、これはロシアの軍事思想ではほぼ参戦とイコールに捉えると思います。

30年くらいロシアの将軍たちが書いている雑誌をバーッとバックナンバーを読んでいくと、飛行禁止区域設定というのを事実上の宣戦布告と同じように見るところがあるんですよね。ロシアの軍人たちって。これはやはりイラクの場合であるとか、リビアの場合であるとかのことを相当よく覚えているんだろうと思います。なので今回も西側がそれをやったとしたら、ロシアはほぼ宣戦布告と考えると思います。

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ただそれでロシア対西側の全面戦争をやるかっていうと、これをやると第三次世界大戦になってしまいますし、現実にロシア軍は今ウクライナでさえ倒せていないわけなので、普通に戦ってNATO軍を全部相手にするのは明らかに無理なんですよね。じゃあそういう場合に何をするかというと、これも最近いくつかメディアでお話ししましたけど、やはり核使用の脅し。場合によっては実際に小規模な核攻撃をそんなに損害が出ない形でおこなって、参戦してくることを思いとどまらせるというシナリオは十分にありうると思います。

これは90年代にユーリー・バトゥーリンが国防次官だった頃に出てきたアイディアなんですよね。90年代にめちゃくちゃになっちゃったロシア軍の状態で、もしも万一大規模戦争が起こったらどうするかっていうときに、限定的にデモンストレーションのために核を使って戦闘の停止であるとか、あるいは域外国が参戦してくることを阻止するという思想が生まれてきて、これが2020年代の現在に至るまでどうすればそれが第三次世界大戦にならないように上手いことロシアの目的を達成できる核使用になるかっていうことをずっとロシアの軍人たちは議論し続けてきているわけです。

今まさにそれに近い状態なんですよね。これまではロシアとNATOが本当に一触即発になるっていうのは、「もしもそうなったらね」っていう感じだったわけですけれども、今回は本当にそうなりつつあって、そしたらこの四半世紀考えてきたエスカレーション抑止型の限定核使用をやらないとはなかなか断言しがたい。

実際に今回プーチン大統領が抑止戦力を特別警戒態勢に付けなさいということを国防大臣と参謀総長に命令しています。ここでプーチンは核とはいっていないんですね。抑止戦力という言い方をしています。ですから核も入るし、あと現行の2010年版軍事ドクトリンの中では初めて非核戦略抑止力という概念が盛り込まれておりますので、その非核の通常型巡航ミサイルとかも全部ひっくるめて抑止戦力というふうに呼ばれているので、必ずしもこれが核だとは限りませんが、これに対してロシアのショイグ国防大臣が言っているのは爆撃機部隊とか、太平洋艦隊と北方艦隊を戦闘配置に付けていますと報告しているんですよね。

爆撃機もそうですし、北方艦隊、太平洋艦隊というのはロシア海軍の5つの艦隊の中で唯一、弾道ミサイル原子力潜水艦を運用している艦隊ですから、全体として見ると戦略核のことを言っているように見えるんですよね。なのでもちろんそこまで配備するまで、海に出すまで、空に上げるまで、そこまでで脅しをかけるだけっていう可能性もありますし、そこで収めるべきだとも思いますけども、現状ではロシアがこれまでずっと考えてきた思想を持っている。そういう限定核使用をするという能力も持っている。状況としては想定されてきたものに極めて近いということを考えると、本当にロシアがそういうことをする可能性というのは、「まあないでしょう」というふうにはなかなか言い難いだろうというふうに思っています。

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小泉)ひっくるめてお答えいたしますと、第一にロシアの軍の中でずっと論じられてきた先制核使用ドクトリンというのは大きく2つあると思うんですね。ひとつはいまロシアがいま戦争を現にやっていて、このままだと負けそうであるというときに、ロシアにとって受け入れ可能な条件で停戦を強要するというシナリオがまずひとつです。

こういう場合の核使用のターゲットっていうのは何か非常に政治的に受け入れがたい目標に対して、1発だけというふうに想定される場合が多いと思いますね。例えば何か重要な軍事拠点であるとか重要な産業施設であるとか、人口密集地域であるとかに対して、1発だけ打ち込んで「これ以上続けるととんでもないことになりますよ」というふうにやる。これは相当の犠牲を伴います。ただしこれは犠牲を最大化することが目的ではなくて、停戦を強要することが目的なので、犠牲は出るけどターゲットは絞ってやるという考え方ですね。

ですからこれを現状の状況に当てはめると、例えばウクライナのどこかの大都市を狙うであるとか重要な産業地帯を狙うであるとか、そういうことをやるのではないかと思います。これ、もしもやるとした場合です。

もう一つのロシアの軍事思想の中にある核使用の考え方は、今は勝っているんだけど、そこに域外国が参戦してくると負けてしまう、軍事バランスが不利に傾いてしまうので、その当該域外国の参戦をくじくための核使用を行う。これは相手を逆上させるとまずいので、損害を出さないように気をつけてやるんですよね。

これは例えばその国の近くの海域上で核爆発を起こすとか、無人の地帯でやる、あるいはごく少数の軍人しかいない軍事施設に対してやるとか、そういうことが想定されているようです。

ですからこういう場合って例えばロシアがやるとしたら北大西洋上で核爆発を起こすであるとか、それからNATOの施設の中で本当にごく少数しか人がいないところをやるであるとか、そういうことは考えられると思うんですね。ただ、あのロシアも四半世紀この議論をやってきたので、最近だと初手からいきなり核を使うというのは、やはりあまりにもリスキー過ぎるということは認識されるようになっていまして、最近の議論だと、非核のミサイルを使えばいいじゃないかと。

非核のミサイルを使ってなるべくインパクトが大きくなるような攻撃の仕方をすれば、相手にその戦争の停止を強要するなり、参戦の見送りを強要するということができるんじゃないかって議論になっているんですよね。

だから今回の件に関しても、私もいくらなんでも最初から核を使うというのはないんじゃないかと思うんですね。わかりませんけど。むしろ何か通常型のミサイルでインパクトの大きいことをやる、例えば今ロシアにとって面白くないのはポーランドの国境から西側の軍事援助物資が入ってくることですよね。それを阻止したいんだったらポーランド国内にある物資の集積場を叩くであるとか、使用されているハブ空港を叩く、これはNATO加盟国に対する直接攻撃なのでインパクトは大きいんだけども、反撃してロシアと全面戦争に入るの、入らないのという究極の選択を突きつけられるわけですよね。

そういうことをロシアが狙ってくる可能性というのはあると思います。もう1個は、こういう戦略をロシアがずっと持ち続けているということ自体は、西側の国も早い段階から認識していて、多分1番この話が大々的に取り上げられたのは2012年にニコライ・ソーコフというロシアの外務省出身の核軍備管理屋さんがいて、彼がなぜロシアは限定核攻撃をエスカレーション抑止と呼ぶのかという論文を発表して、これ以降西側の人々も英語でこのエスカレーション抑止の議論に接することができるようになって、非常に注目を浴びたんですよね。

2018年のトランプ政権の核体制見直し、NPRの中ではまさにこれがメインテーマにご存知の通りなりまして、ロシアがこういう限定的な核使用をやって停戦強要するとか参戦見送り強要するって場合にどうするのっていう話になってできたのがLYTですね。つまり低出力トライデント。水爆弾頭の起爆用のプライマリー部分、要するに起爆用原爆の部分だけ取り出して弾頭にするか、出力は5キロトンぐらいしかないっていう弾頭をつくって、もしもロシアが限定核使用したらごくごく小威力な核爆発をどこかロシアの近くで起こしてやる、それによって我々はビビってないぞ、君たちの脅しは効いてないぞという政治的意思を示す。ということですよね。これは最近開発されてもうSSBMに1隻、積んだと思いますけれども、実際にアメリカはその能力は持っているので、もしもロシアが限定核使用をした場合ですけど、(使用)したとしたらアメリカもやっぱり1発撃ち返すんじゃないかと思うんですよね。

そうするとこれはつまり戦争状況下で核交換をしているわけではないけれども戦争状況下で米ロが核の脅しをするというかなり危険な状況ですから、そこまでやってエスカレーションが止まるという保証はないと思うんですよね。

ロシアが一発だけ限定的に撃ってアメリカもそれに対して礼儀正しく一発だけ撃ち返すみたいなことで、そこでちゃんちゃんというふうになるかどうかそのときの指導者とか、国民の気分次第だと思うんですよ。やっぱりこれは極めて危険なことやっているので、エスカレーション抑止できるなんていうことをロシアが考えなければいいなと思いますけれども、正直プーチンの腹一つですよね。

     *

アメリカの位置付けについては、要するにプーチンもロシアの戦略家たちもみんな思っているのは、アメリカ中心の秩序は面白くないってことですよね。冷戦後の世界というのはアメリカの単独覇権。ロシア側の言い方をすれば一極支配であったと。これを多極世界に変えていかなければいけないということをロシアはずっと言ってきたわけなので、まずそれがベースにあるんだと思うんですよ。

ただ2010年代前半までのロシアは経済大国として台頭していこうと。要するにアメリカ中心秩序をより平和的な手段によって変えていこうという意思自体はあったと思うんですよね。特に2000年代は原油バブルでものすごく国力がバンバン伸びていったし、特にそんなに地政学的な対立の火種がバチバチしていたわけでもないので。まだそういう見通しがあったというのがやっぱり2010年代に入ってから、プーチンが急速にアメリカに対して幻滅を強めていったような感じが私はするんですよね。

特にきっかけになったのは2012年の時のマグニツキー法ですね。ロシアの人権侵害を罰する法律。ああいうものに対してもうアメリカとはやっていけないっていう感情を10年ぐらい前にプーチンは持ったんじゃないかなというふうに私は思ってます。だから、プーチンも彼の書いたものとか言ったことを見てると、20年前のプーチンはもっとアメリカとか西側に期待してるんですよね。でもそれに対して苛立ちがどんどん、どんどん強まっていって、それが破談点に達したというのがまあ今回の戦争というふうに言えるのかなと思います。

だからこの先ロシアがおっしゃるように軍事侵攻はできないとしても西側の国にちょっかいかけ続けることは間違いないと思います。つまり、最終目標がアメリカ中心秩序を解体する。ガラガラ崩すのは無理かもしれないけど、溶解させてあのベトベトにしてダラダラに溶解させてしまうということが彼らの目標なのであるとすると、これから先もいろんなことはやってくるのは間違いないと思っています。それは軍事力を使う場合もあるし、サイバー攻撃かもしれないし情報の力かもしれないと思います。


反町理キャスター:
最初に侵攻してきたときの若いロシア兵にはいい人もいたが、しばらくしてやってきた古参兵が非常に荒っぽいことをやるようになった、という話がある。

小泉悠 東京大学先端科学技術研究センター専任講師:
まず正規軍が入ってくるが、正規軍はさらに前線に向かって移動する。後ろから治安部隊、情報機関のような人達が来る。この人たちの任務は戦うことではなく、監視したり人々を恐怖で押さえつけること。今回のブチャでも、生存者の証言によれば、どうも情報機関の人間が入ってきて、意図的に人々に恐怖を与えるために虐殺をした。

     *

反町理キャスター:
物価高騰は西側諸国のせいにして、国民には作物を植えろと。まさに戦時経済。ここでの83%の高支持率をどう見ればよいか。

畔蒜泰助 笹川平和財団主任研究員:
そこがロシア。ロシアには、自分たちは常に西側から悪者にされ、辛くあたられ、のけ者にされているという意識がある。

長野美郷キャスター:
仲間に入りたいんですか。

畔蒜泰助 笹川平和財団主任研究員:
仲間に入りたいが、条件を呑んでもらえなければ入りたくない。NATO北大西洋条約機構)の拡大をやらないと法律で明言することなど。問題の根底にあるのは、冷戦時代も冷戦後も、ヨーロッパの安全保障、秩序における意思決定にロシアが参加できない状況が続いていること。ロシアの意識の根底にはある種の疎外感があり、国民も一定の年齢層の人たちは共有している。だからプロパガンダも含め、ロシアのレトリックを聞きやすい。

     *

小泉悠 東京大学先端科学技術研究センター専任講師:
2012年にプーチンが首相から大統領に復帰した後から、ロシアは「経済制裁はロシアを弱体化するためのアメリカの陰謀だ」という見方を強めてきた。ロシアの国家安保戦略や軍事ドクトリンにも書いてある。西側がロシアの力を削ぐために、あらゆるところで嫌がらせを仕掛けてきているという世界観がある。為政者がプロパガンダとして国民に見せるにしても、たぶん6〜7割ぐらいは本気でそう思っているのではという感じがする。マインドが冷戦のまま。

     *

長野美郷キャスター:
ロシアは、日本の対ロシア制裁に対抗措置を取ると表明。ロシア外務省のザハロワ報道官は「日本の現政権は、前任者たちが長年に渡って築いてきた互恵的な協力関係の前向きな発展を一貫して破壊し続けている」と発言。これに対し、松野官房長官は「日本側に責任を転嫁しようとするのは極めて不当であり、受け入れられない」と反論。

畔蒜泰助 笹川平和財団主任研究員:
ロシア側が最も反発したのは、プーチン大統領自身に対して制裁をかけた点。領土問題を含めて決定できるのはプーチンだけであり、交渉しませんと言ったに等しい。日本はそれを覚悟で踏み切ったと思うが、まさにその延長線上にザハロワ報道官の発言がある。

小泉悠 東京大学先端科学技術研究センター専任講師:
畔蒜さんがおっしゃったように、プーチンに制裁をかけることの意味。ロシアでは国家の長が国家主権を体現しており、特にプーチンは非常にメンツを重んじるリーダーで、制裁は国内の威信にもかかわってくる。我々は外交安全保障政策のつもりで制裁を科しているが、プーチンにしてみると自分の国内基盤を崩されかねず、黙っていられない。日本からの制裁にかなりショックを受けているし、効いてもいるということ。

東 ぼく個人は、銅像を倒すことにあまり意味を感じません。旧ソ連崩壊時にはレーニン像が倒されました。でもロシアではいまもソ連時代の栄光を忘れられない人が多く、むしろスターリンなんか復活しています。大事なのは人の心であって、銅像はシンボルにすぎない。変えていくべきは他のところだと思いますし、それはもっと時間がかかる改革だと思います。
 そもそも、「歴史を書く」ことイコール「昔の過ちを正すこと」になってしまうのはよくありません。歴史とは、過去の人々がなにを考えていたのかを記憶する作業であって、「あの頃は間違っていました」と修正する作業ではない。ジェンダーの問題でも、#MeTooを受けてみな「間違っていました」とすぐ謝罪します。でも、同時に間違っていた頃の感覚を覚えておくことも大事です。そもそもそうでなければ反省の意味がない。これは自分のなかに分裂を抱えるということなので、なかなか難しいことではありますが。
 いずれにせよ、銅像を倒すというのは分かりやすく、フラストレーションを発散しているだけのように見えます。それ自体が社会を変えるものではないでしょう。そもそも、誰もが気がついていることですけれども、本気で植民地主義を見直すならば大英博物館を解散するべきです。

     *

東 万人が納得する誰も傷つけない言葉というのは存在しません。存在したとしても時候の挨拶のようなもので、新しい情報はありません。新しいことを主張し発言するということは、どうしても、ある集団の人たちをギョッとさせ、ある集団の人たちには暴力的に響く可能性をもつ。それをどのくらい許容するかという問題です。出版にしても初期のネットにしても、結局のところは、読者のアクセスが限られていたので大胆な表現が可能だった。いまのSNSは極端な話、小学生でも読むかもしれない。これでは何も言えなくなるのは当然です。裏返せば、この問題の解決は非常にシンプルで、大人が読むメディアを作ることですね。それしかないと思います。

――それは、「専門家がインターネットですばやくファクトチェックすればいい」などとは、まったく違う考え方ですね。自分たちの発信を受け取ってくれる拠り所を別に作るという……。

東 数字は個人的な感覚によるものでしかないですが、どんな時代でも1万人から10万人のあいだくらいは、ちゃんとものを考えている人がいる。まともなメディアはその人たち向けに作るしかない。
 これはメンバーの質というよりも、むしろスケールの問題かもしれません。ぼくたちが伝統的に「公共的」と呼んできたような感覚は、そもそも1万から10万くらいのスケールでしか機能しないのではないか。むろん近代国家の人口はそれよりもはるかに大きいですが、公共性とは近代では出版や放送のようなマスメディアがつくるものなので、「情報の送り手」の規模は人口が1億人になってもやはり変わっていなかった。ところがいまは、そういう10万人規模の近代マスメディアの上に、スケールがまったく違う数億人規模のポストモダン・ネットメディアが乗っかるかたちになっている。そして、そちらのほうが資本主義的にはお金も動くし、民主主義的には票も動く。だからほんとうの公共はこっちだろうということになってしまった。

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東 3年前に『観光客の哲学』という本を書いた時には、グローバリズムの進展の中で観光客というものが必然的に発生し、それがある種、国家と国家の対立関係への安全弁として機能するということを伝えようとしました。ところが、コロナでその安全弁が機能しなくなってしまった。いまや観光客というのはほとんどテロリストのような扱いで、いかにして入国を阻止するかが問題になっている。
 行くはずのない場所に行き、出会うはずのないひとに出会い、考えるはずのないことを考えること。その「誤配」こそが観光の本質だということで、ぼくとしてはある意味ではお気楽なものとして提示したつもりだったんですが、いまや観光客の権利や観光客の哲学的な意味が急速にアクチュアルになっている。新しい課題が出てきた感じですね。

  • 「英語」: 473 - 483
  • その後のことでおぼえているのは、ひとつはtofubeatsの『FANTASY CLUB』をながしたこと。なんだかんだ質はよい。二曲目の”SHOPPINGMALL (FOR FANTASY CLUB)”なんて曲がえがいている気分としてもけっこうよいというか、歌詞をきちんときいたり調べたりはしていないのだけれど、いわゆるファスト風土的なありかたをよく表象しているのではないかという気がする。それをこちらがよいというのはたんなる消費にすぎないのかもしれず、じっさいにそういう文化的環境で生きてきたひとにとっては、もっとひりつくような記憶が喚起されるのかもしれないが(この曲がそこまでの威力をもっているのかもわからないが)。ファーストの『Lost Decade』もながして、こちらもよいものがあった気がするがよくおぼえていない。
  • (……)
  • (……)そうしてやっていたのはTo The Lighthouseの翻訳である。この夜は風呂を出たあとからだったかそのまえからやっていたか、どちらにせよこの翻訳にだいたいの時をついやすことになった。第一部第八章のはじめの段落中、She bore about with her, からの範囲だが、けっきょく段落のさいごまでいけなかった。原文と、とちゅうまでつくれた訳をしたにひいておく。

(……)She bore about with her, she could not help knowing it, the torch of her beauty; she carried it erect into any room that she entered; and after all, veil it as she might, and shrink from the monotony of bearing that it imposed on her, her beauty was apparent. She had been admired. She had been loved. She had entered rooms where mourners sat. Tears had flown in her presence. Men, and women too, letting go the multiplicity of things, had allowed themselves with her the relief of simplicity. It injured her that he should shrink. It hurt her. And yet not cleanly, not rightly. That was what she minded, coming as it did on top of her discontent with her husband; the sense she had now when Mr. Carmichael shuffled past, just nodding to her question, with a book beneath his arm, in his yellow slippers, that she was suspected; and that all this desire of hers to give, to help, was vanity. For her own self-satisfaction was it that she wished so instinctively to help, to give, that people might say of her, "O Mrs. Ramsay! dear Mrs. Ramsay...Mrs. Ramsay, of course!" and need her and send for her and admire her? Was it not secretly this that she wanted, and therefore when Mr. Carmichael shrank away from her, as he did at this moment, making off to some corner where he did acrostics endlessly, she did not feel merely snubbed back in her instinct, but made aware of the pettiness of some part of her, and of human relations, how flawed they are, how despicable, how self-seeking, at their best. Shabby and worn out, and not presumably (her cheeks were hollow, her hair was white) any longer a sight that filled the eyes with joy, she had better devote her mind to the story of the Fisherman and his Wife and so pacify that bundle of sensitiveness (none of her children was as sensitive as he was), her son James.


 彼女は、自覚せずにはいられなかったが、美のたいまつをたずさえているようなものだった。彼女はどんな部屋にはいるときも、そのたいまつを高くかかげてはこんでいく。そして、ときにそれをつつみ隠してしまったり、それによって強いられるふるまいの単調さに辟易することがあったにしても、結局のところそのうつくしさはだれの目にもあらわだった。夫人は称賛された。愛された。葬儀のためにひとびとがあつまり座っている部屋部屋へ彼女がはいっていく。すると彼女の目のまえで、おおくのひとが涙をながす。男性たち、それどころか女性もまた、さまざまに込み入った事情を手放して、夫人とともに単純さのやすらぎを得ることができるのだった。カーマイケル氏がたじろいだのに夫人の心は痛んだ。彼女は傷つけられた。しかも、公明正大とはいえないやりかたで。それこそが彼女の気がかりで、夫への不満にくわえて念頭に浮かんできたものだった、つまりある感覚、カーマイケルさんが質問にはうなずくだけで、本を小脇に、黄色いスリッパで、足をひきずるようにすぎていくときにおぼえた、わたしは信用されていないという感覚、そして、ひとになにかを与え、助けになりたいというこの望みも、全部虚栄心にすぎないのではという感覚が。結局自己満足のためなのだろうか、わたしがこんなにも、本能みたいに、助けたり与えたりしたいと思うのも、みなさんが「ああ、」

  • さいしょのboreはbearの過去形でaboutはaroundと同義だから、かのじょはじしんとともに美のたいまつをもってはこびまわっているということになる。with herのぶぶんに、つねにいっしょにともなっているというかんじをえたので、「たずさえる」という訳語をえらんだ。
  • veil it as she mightはas she might veil itの倒置、「~だけれども」という留保の挿入。このshe mightはそのつぎのshrinkにもつながっている。shrinkは縮むなので、さいしょは「窮屈にかんじる」といういいかたをかんがえたのだが、shrink fromでしらべると、尻込みする、たじろぐというような意味が出てきて、「気後れする」をおもいつつも、意味をかんがえると、ラムジー夫人はとてもうつくしいので、おのずからそれにふさわしいようなふるまいかたをしなければならず、その自由のなさ、制限性がいやだということを言っているとおもわれるので、「いやだ」というニュアンスに寄せたいとおもって「辟易」をえらんだ。ただ検索してみるとこの語はうんざりするという意味のほかに、しりごみする、たじろぐの意味もあるようなのでちょうどよい。『太平記』の用例がでてくる。原義は「道をあけて場所をかえる(路を辟(さ)けて所を易(か)える)」ということらしい。
  • またどういうふうにかんがえて訳をつくったか、いろいろこまかく註釈をしておこうとおもったのだが、めんどうくさくなったのでやめる。しかしこんかいの箇所はだいぶむずかしかった。それでも、「それこそが彼女の気がかりで、夫への不満にくわえて念頭に浮かんできたものだった、つまりある感覚、カーマイケルさんが質問にはうなずくだけで、本を小脇に、黄色いスリッパで、足をひきずるようにすぎていくときにおぼえた、わたしは信用されていないという感覚、そして、ひとになにかを与え、助けになりたいというこの望みも、全部虚栄心にすぎないのではという感覚が」の一文はけっこうがんばった気がする。いま読みかえしてみると「気がかりであり」のほうがよかった気もするが。しかしちゃんと吟味していないのでほんとうにそうかわからない。