2022/4/14, Thu.

 フルシチョフらの世代はもちろん、「六〇年代人」もこの時点では基本的に資本主義に(end131)対する社会主義の優位性やソヴェト体制の正しさを確信していた。この確信と楽観は、本来の社会主義へと立ち戻ろう、さらには共産主義を実現しようという意識を強めた一方で、抑圧的な政策につながることもあった。たとえば反宗教政策である。独ソ戦をきっかけに政権はロシア正教会と和解したが、フルシチョフ期には政策が再び転換され、聖職者の逮捕や、教会の破壊・接収が大規模になされた。
 しかしその一方で、信者を相手に活発な活動を続ける教会も存在していた。宗教を広めることは禁止されていたが、信者を相手とする教会や宗教セクトの活動は、登録と監視の下で許されていたからである。そしてまた、宗教自体を処罰することはできないという意識も根付いてきていた。このため人々に対する宗教の浸透度は一九六〇年代になってもなお高く、党員やコムソモール員のなかにも、宗教を否定する公式見解を唱える一方で、自宅にイコンを飾ったり、子供に洗礼をおこなったりしていた者は少なくなかった。だからこそ、信者が増えることのないよう、また信者を「改心」させるべく、科学的無神論の宣伝や啓蒙活動を通じて、宗教を不要のものとする取り組みの必要性と重要性が強調されたのである。
 一九五〇~一九六〇年代には、教会婚や洗礼に対抗するため、結婚登録や出生登録の際に祝宴をおこなう試みがなされた。最初の結婚宮殿は一九五九年にレニングラードで設立(end132)され、人気を博して速やかに他の都市へと広がった。同年のモスクワ市についての報告によれば、結婚宮殿では結婚登録の他に、スピーチ、バンド、ダンス、ゲーム、軽い食事付きの集団結婚式を組織していた。写真撮影とシャンパン・フルーツ・デザート付きの軽食をサービスしていた例もあった。結婚宮殿の調度品は粗悪で、写真は質が悪く、香水の選択肢は限られ、ブーケの価格は高いといった不満も示されたが、結婚登録の際の祝宴は広く定着し、教会婚は減少していった。他方で、洗礼や教会葬はなかなか減らなかった。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、131~133)



  • 「英語」: 521 - 549
  • 「読みかえし」: 646 - 652
  • 一〇時半起床。きょうは雨降りの曇天。さくばん深夜から窓を打つおとがすこしずつはじまっていた。水場に行ってアレグラFXを飲んだりうがいをしたり、トイレで小便したりしてもどってくるときょうもきょうとて書見した。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』の下巻(新潮文庫、一九六九年)。そろそろおわりがちかい。いま730くらいまで行った。レコード熱のあとは、エレン・ブラントというオランダ生まれのデンマーク娘が登場し、かのじょが霊媒的な体質をもっているというわけでクロコフスキーのイニシアティヴでひとびとはその研究実験に邁進し、ハンス・カストルプも部屋でおこなわれるこっくりさんに参加する。かのじょを媒介としてよびだされるホルガーという霊は詩人だといい、ひとつ詩をつくってくれとたのむとその後一時間にもわたってワイングラスは文字のうえをひたすら行き来し、長大な叙情的詩文をものするのだが、この趣向はちょっとおもしろかった。こういうオカルティックなことはいかがわしいという観念がハンス・カストルプにはあるようだし、たぶんとうじはきちんとしたおとなならこんなことに首をつっこまないという認識が広範にあったのではないか(まあ、いまでもスピリチュアル方面にはまりすぎるとやばいひとあつかいされるとおもうが)。記述の調子からなんとなくそんな印象をうける(いっぽうで一九世紀末くらいには(とくにイギリスなんかで?)交霊会が盛んにおこなわれるようになったという印象があるが、それがただしい認識なのかはわからない)。それでカストルプもいちどはこのくわだてへの参加をやめ、近代科学的合理主義を旨とするセテムブリーニ氏もとうぜんいちどめの参加を非難しつつそれに賛同しているが、しかしエレン・ブラントにやどった霊がつぎはだれであれ死者を呼びだしてみせると言ったのに誘惑され、カストルプはけっきょく実験にまた参入する。この山のうえで病死したいとこヨーアヒム・ツィームセンをみたいとおもったのだ。それで最終的にみなは実験室にあらわれたかれのすがたを目撃することになるが、「ひどくいかがわしいこと」と題されたこの一節は挿話として(断片的物語として)なかなかきれいに結構がそろえられている感触をうけた。そのつぎの「立腹病」はサナトリウム内にふしぎと好戦的な雰囲気がいきわたって、だれもかれもが激しやすくなり、喧嘩騒ぎがひんぱんにもちあがるというはなしで、反ユダヤ主義者なんかもでてきて一次大戦前という時代の空気をなんとなくおもわないでもない。この節が終わればのこるは「霹靂」という節ひとつのみである。
  • 正午まえまで書見した。それからおきあがり、まくらのうえにすわって瞑想。しかし便意がだんだんおおきくなってきたので一五分かその程度しかできなかった。コップや湯呑みをもって部屋を出て上階に行くと、きがえるよりまえに便所に行って糞をひり出し、ジャージにころもがえして食事。黒っぽく濃い茶色に染まったカレー味のチャーハンなど。新聞一面にはバイデンがロシアのおこないをジェノサイドとはじめてみとめたという報があった。いままでは戦争犯罪だといいながらもこの語はつかっていなかったらしい。国際刑事裁判所ICC)の調査はすでにはじまっており、フランスの法医学専門家チームもブチャにはいったという。ウクライナのイリーナ・ベネディクトワ検事総長は五六〇〇件だかの戦争犯罪を調査しており、五〇〇人いじょうの容疑者をみこんでいると発表。マリウポリ市長はCNNとのインタビューで、市民の犠牲は二万二〇〇〇人にのぼるとかんがえられると述べた。ロシア国防省マリウポリにてウクライナ軍兵士一〇〇〇人が投降したと発表し、事実ならばさいごの拠点にいるとされる勢力の三分の一が降伏したことになるが、ウクライナ側は情報がないといって否定している。
  • ものを食べ終えたあと、すこしだけ椅子にとどまったまま南窓をながめた。いまは雨が降っているともみえず、小休止か、降っているとしてもほんのかすかなものらしく、大気にぶれやちらつきは視認されずに、くすんだ灰の気配をはらんでうっすらとした乳白色が木立や山の淡いみどりを霞めて封じ、風もないようでそのいろもふるえない。台所で食器を洗い、風呂も。出ると緑茶をつくった。いぜんに「(……)」で買った茶葉がもう一袋のこっていたとおもったのだが、玄関の戸棚をいくらさがしてもみあたらず。もう開封して、いま茶壺にはいっているのがそれだったのだったか? 葉ののこりはとぼしい。あと二回くらいでなくなりそう。カスタードクリームの今川焼がひとつだけのこっているというので冷凍のそれもあたためてもちかえった。一服したあとは「英語」ノートと「読みかえし」を音読。そうして二時半くらい。とちゅうで母親が部屋にきて、こちらの部屋のベランダがわにあたる西窓のレースと元祖父母の部屋のそれをとりかえるという。ゴールデンウィークに(……)家の両親が(……)に来てうちに泊まるかもというはなしなのだが、元祖父母の部屋のレースカーテンはしたのほうが黒くなっていて見栄えがわるいので、と。兄夫婦もいっしょに子ふたりをつれてくるわけで、そうすると六人が一気に増えていちにちだかふつかだかわからないが過ごすことになり、かんがえるといまからもういごこちがわるい。男どもはさんにんとも酒をのんでおおきな声でなんだかんだとしゃべりあうだろうし、席についたままじっとして飲み食いするばかりのかれらのために女性ふたりとこちらはたちはたらかなければならないだろう。そもそもこういう家族の団欒とか親戚づきあいみたいな状況のなかにじぶんがいるさまをイメージするだけでいごこちがわるくなり、先触れ的な疎外感と孤独への渇望が生じるのだが、それなのでとうじつはどこかに遊びに行ってそのまま外泊し、逃げようかともおもっている。とはいえ遊ぶあいても泊めてくれる家もないのだが。(……)夫婦と(……)にはどうも四日五日あたりで会うことになるようすだが、(……)家にそんなになんにちも泊まるというのもわるいだろうし、そもそもこんかい(……)も泊まることになっているのかどうかもよくしらない。こちらじしんだって何日間も他人の家でともにすごすのはわずらわしそうで気が引ける。
  • きょうのことをここまで書いて三時半まえ。またしぜんと箇条書きにしていたことにいまきづいた。だったらもうこの形式のままでよいのではないか?


 そのあとは『魔の山』のつづきを読みすすめて、五時まえに読了した。おもしろかった。さいしょの三〇〇ページくらいは、なにも起こらんしかといって描写に生きる作品でもないしぜんぜんすすまねえなとおもいつつその退屈さを味わっていたが、読み終わってみればたいした作品だなあという印象。さいごのひとつまえの「立腹病」の節では、732で、セテムブリーニの容態がだんだんわるくなっておりここのところは数日おきに寝込んでいるとか、それにつづいてナフタの調子もわるくなって病がすすんでいるという言及があるのだが、ここを読んだときに、形而上学的な議論をつねにはげしくたたかわせてきた永遠の論敵同士であるこのふたりもそろって病に服しているということにあるかなしかの感傷をおぼえた。そろそろかれらも死ぬのかもしれないという無常感をえたわけだが、ふりかえってみるに、この小説で死んでいくものたちはじつにあっさりと、ドラマティックな演出はほぼなしで、ひじょうに冷静な語り口のなかですみやかに死んでいく。ちかいところではメインヘール・ペーペルコルンもそうだったし、ハンス・カストルプの親しいいとこヨーアヒム・ツィームセンの死ですらが感情的な要素はほとんどなしに淡々とすぎていった。上巻の後半にもどれば、ハンス・カストルプが急にキリスト教的義侠心や死をおおいかくしてみえないものにせんとする施設の方針への反発に駆られて訪問した重症の患者たちもそうだった。国際サナトリウム「ベルクホーフ」においては病はもちろんつねにその全体にいきわたっており、死も直接ふれがたいながらもおりおりに生じてつぎなる患者によって埋められるべきいっときの不在をつくりだすのだが、そのふたつがもたらしがちな悲惨さや苦痛のいろはこの小説世界に希薄で、登場人物は基本的にだれも苦しんでいない。まったく苦しんでいないわけではなく、環境や設定からくる必然として病気への言及はむろんおおいし、はしばしで苦しげなようすやかなしみをみせるものもいないではないが、ぜんたいとしては病はここでの生活においてたんなる前提にすぎず、問い直されない前提につきものの無関心さであつかわれ、数しれぬ患者の死をみとってきたであろうベーレンス顧問官などは消失と新来の反復に馴れすぎたのか、悲愴さをおもてにしめす機会はほとんどなく、つねに軽妙な口をたたいて冗談ばかりいいつづけており、病も死も人生と運命のたわむれにすぎぬといった喜劇的達観ぶりだ。無数の患者連中においても、病気が苦悶や深刻な悲惨の相から本格的にとりあげられることはついぞなく、だれもかれもが病をむしろ誇りながらしかし同時にそれを無視するかのように山のうえでの生をそれなりに謳歌しており、語りにあらわれるそのすがたは一見したかぎりでは尋常な喜怒哀楽をたのしむ平常人のものと大差ない。なにしろみんなで夜中まで酒を飲んだり、音楽をきいたり、近間の風光を玩味しにいったり、みちならぬ男女の不倫にはしってみたり、街を散策したり、恋心にやられておもいみだしたりといったゆたかさである。そんななかでハンス・カストルプの教育者ふたりのおとろえにわずかばかりのはかなさがにじんだのは、読むこちらがかれらにつきあってきた紙幅や時間の量のせいもあろうし、また終演が間近で作品にもなんとなくニヒルないろあいがかもされてきていたからかもしれない。ニヒルといえばレオ・ナフタは上巻のカバー裏で「虚無主義者」の肩書を冠されていながらいままでその内実がいまいちわからなかったのだが、この終盤にいたってそのあたりがはっきりとえがかれていた。というのも、近代科学もひとつの信仰にすぎぬと否定したり(736~737)、絶対をみとめなかったり(742)、ヒューマニストリベラリズムの欺瞞をあばこうとしたり(744)しているからだ。その語り口は大仰かつ高遠でありながらも同時に「へへ、」という、ロシア古典文学をおもわせないでもない特徴的な憫笑がときにさしはさまれることでユーモアの味を一抹確保されており(743、744)、それをみるとおもわずわらってしまうのだけれど、話者は「理性の攪乱を目論んだ」(735)とか、「始末の悪いことになった」(736)とか、「陰険な底意」(739)、「悪意ある議論の実例」(739)などといっているから、一読したかぎりではセテムブリーニ氏の側についており、ナフタはこの小説において基本的には、そして最終的には否定さるべき像としてあらわれているようにみえる。訳者あとがきに紹介されていたトーマス・マンじしんの思想や政治的活動をかりに考慮にいれたり、またこの小説が設定されている一次大戦前という時代的舞台、ならびにこの小説が発表された一九二四年という時代の思潮を漠然とかんがえてみてもそれはたしかとおもえるが、ただしそう単純なはなしでもなく、レオ・ナフタの独裁的共産主義への親和やテロリズムの唱道は、一次大戦当時の欧州の別側面を憂慮とともにえがきとりつつ、またロシア革命を参照しつつ、一九二四年以後におとずれた第二次大戦の世界まで射程をのばしているようにもみえるわけだ。さらにまた、ひたすらにテロリズムにながれる極端さや、観念をただただまぜっかえして混乱させたいだけではないかという冷笑家ぶりや、ところどころ矛盾する思想の体系的瑕疵の印象はおくとしても、部分的にはかれのいいぶんは、いわゆるポストモダンの隆盛をみたのちの西暦二〇二二年になじみぶかいというか、要するにその精神の主旨は懐疑と近代批判である。それはいまや現代にめずらしいものではない。いずれにしても、健康的で明朗なる啓蒙主義者にして理性とヒューマニズムの徒であるセテムブリーニ氏がその悪逆な破壊性をゆるせるはずがなく、たびたび激論をたたかわせてきたこの二者は終盤においてついに決闘にいたるのだが、セテムブリーニが拳銃を頭上の空にむけて発砲したのを受けてナフタは武器をみずからのこめかみにむけ、ただ一息に自害して終わる。
 そうしておとずれる最終節は「霹靂」という題であり、容易に予想されるとおりこの青天の霹靂とは、その後に第一次世界大戦と呼ばれるようになった戦争の勃発なのだ。それによってこの山のうえで七年をすごし、おおいに知的発展を遂げながらも病と無為をむさぼりつづけていたハンス・カストルプは、いやおうなく低地に引きもどされて一片の兵として戦争を生きることになる。この身も蓋もない歴史のちからの到来によって高山の魔境が浸食され、下界とのあいだに堅固にたもたれていた隔離がほとんど一瞬のうちに消滅するさまは、(……)さんの『双生』を如実におもいおこさせた。「彼は両脚を引寄せ、立ちあがり、あたりを見まわした。彼は魔法を解かれ、救いだされ、自由になったのを知った。――残念ながら、彼自身の力によってではなく、恥ずかしい話だが、彼一個人の解放などということはおよそ問題としないほどの、巨大な自然力のごとき外力によって、一挙に魔法の圏外へと吹き飛ばされたのであった」(780)。ハンス・カストルプが、ついにかれを「君」と親称で呼ぶようになったセテムブリーニ氏と汽車のなかから別れをかわしたあと、二行の空白がさしはさまれたのちに戦場のようすがつぎつぎと具象的に描写され、そこを前進するハンス・カストルプが大戦を生きたのか死んだのかわからないままに話者は終幕を告げる。さいごにいたって戦争の場が具体的に、詳細に描写されたことはよかった。このながながしい小説の終わりかたとしても、事前の了解どおりといえばそうだが、これいがいには終わらせようがなかったようにおもう。数日前にふれたように、この山のうえには永劫を望見させるような再帰的な時間の沈殿が支配的なてざわりをもって鎮座しており、それはこのままいつまでもつづくのだろうなという印象すらあったのだが、この永遠を終わらせるには、歴史と事件のみがもつ暴力的な切断のちからが必要だっただろう。
 こちらじしんは衝撃を受けるほどにめちゃくちゃすごい作品とかんじたわけではないが、この小説が古典的名作としておおくのひとの関心をひきつけてきただろうというのは理解できるはなしで、トーマス・マンのほかの作品も読んでみたいというきもちは起こったし、また三〇年代からのかれの政治的活動、そしてもちろんナチズムへの対応などについても読んでみたいという気も起こった。

Q.国際社会に訴えたいことは何ですか?

申し上げたいことはただひとつ。

それは今、ウクライナの領土でロシアが戦争犯罪を犯しており、ウラジーミル・プーチンが主要戦争犯罪者としてその指令を出したということを私たちが同じように理解することです。

彼らは自分たちが「特別作戦」と呼ぶものを、私たちが「戦争」、「ジェノサイド」と呼んでいるものにしたのです。

産院や子どもが隠れている防空ごうを空爆しました。

平和な街に、その住宅地に空から爆弾を落としました。

3月9日から2週間にわたって攻撃を激化させ、街を文字どおり地表から消し去りました。

彼らは戦争犯罪を犯し、2万人の市民が死亡しました。

人々は飢餓や脱水だったり、必要な医薬品がなかったりして亡くなりました。

そしてそれはすべて戦争犯罪者の手によるものです。

彼らは街を包囲し、包囲網から住民を出そうとしませんでした。

その機会があってもそれをしようとはしなかったのです。

皆さんによく理解していただきたいのは、マリウポリの住民の2人に1人は民族的に言えばロシア人です。

つまりロシア人がロシア人を殺しにやってきたということです。

私たちは民族ではロシア人であったりアルメニア人であったりギリシャ人であったりウクライナ人であったりします。

そうした違いはあっても、精神的にはウクライナ人という「民族」なのです。

彼らはその「ウクライナ人」を滅ぼすためにやってきたのです。

ウラジーミル・プーチン自身が「ウクライナ人という民族は存在しない」と言っています。

彼の最も重要な目的はウクライナ人を滅ぼすことなのです。

それを私たちは「戦争犯罪」と呼んでいます。


 入浴中に二首: 「つつましく死期を占え青空にかくれた星は仇 [かたき] にならぬ」「相愛なことばとものがあるなんて路傍の石も知ってる嘘さ」


 湯浴みしてもどってくると一〇時ごろかそのすこしまえだったとおもうが、きのうの日記にかかったもののすぐにちからが尽きてしまい、ベッドに逃げてそのままながくやすむことになった。書きたいとおもってもどうもからだと意欲がついていかないときがあるものだ。布団をかぶったからだのまえにコンピューターをもってKindle Unlimitedについて調べたりなどして、いま一時一八分だがようやくさきほどからおきあがって書きものにもどれた。きのうの往路の記述、みた風光のことは仕舞い。とりあえずそれが書けていればよい。日中の書きぶりよりもちからを抜いて、姿勢もあまりうごかずにたもち、楽に書けている。いつもそうできるとよいのだが。ともすればやはり前のめりになるというか、息を吐いてがんばって書こうとする向きがある。いまはちょっと書いては目を閉じてからだのうごきをとめ、じぶんの感覚にたちもどりながらかるくことばをはこべている。そのようにしてちからをいれずに書けるほうがよいのだけれど、それは心身がととのっていないとできず、こごっている状態でそれをやってもとどこおるばかりでうまくいかない。


 二時半ごろまで月曜日、一一日の記事を進行。さいきんは勤務中のことで書くことがたくさんあってたいへんだ。そんなになにが変わったということもないのだが、生徒のようすなどで印象にのこることが増えた。同僚も。はなした内容とかをこまかくしるしておきたいきもちがある。これもまたつつましくきらめくなつかしき日々にいつかなるだろうというさきどりの感傷をすでにもっている。たとえば一〇年後二〇年後などに読みかえしたら、かなりおもしろいのではないかとおもう。
 一一日を終えることはできずにちからつきてベッドに逃げこみ、ウェブをみまわりながらだらだらして三時五〇分に就床。