2022/4/16, Sat.

 第二次世界大戦アメリカ合衆国と対峙し競争していたソ連は、現実の国力では合衆国に大きく劣っていた。その差がとりわけ際立っていたのが、軍事力、特に核戦力においてであった。合衆国が大戦中に原爆をすでに実用化し、広島と長崎に投下してその強大な破壊力を見せつけたのに対して、ソ連はまだ原爆の実用化に至っていなかった。このためソ連側は強い危機感を抱き、多大な人的物的資源を投入し、合衆国に対するスパイ活動もおこなって原爆開発を急いだ。国内各地に極秘に核開発を進める「閉鎖都市」が作られ、科学者と技術者が集められた。原料となるウラン採掘には囚人労働が大規模に用いられた。
 こうした努力によってソ連はようやく一九四九年八月に原爆実験に成功したが、その後もしばらくは、運搬手段がなかったため合衆国本土への核攻撃能力は持たなかった。一方、アメリカ合衆国はこの頃原爆を一〇〇発以上保有し、ソ連本土への運搬手段も持っていた。米ソの核戦力の差は圧倒的であり、スターリンが「熱戦」を恐れたのも無理はなかった。
 一九五三年までに約五〇発の原爆を保有するようになったソ連は、一九五三年八月には(end138)水爆実験の最初の段階に成功した。合衆国との戦力差はなお大きかったものの(合衆国はすでに一千発程度の原爆を持ち、一九五二年一一月には水爆実験にも成功していた)、ソ連がこれほど早く水爆開発を進めていることに合衆国側は驚きと脅威を感じたという。
 ソ連は一九五七年八月には大陸間弾道ミサイルICBM)の発射、一〇月には人工衛星スプートニクの打ち上げにいずれも史上初めて成功した。ミサイル・ロケットの打ち上げと制御の技術は、核兵器の運搬能力に直結するから、ソ連が合衆国に先んじてスプートニクの打ち上げに成功したことは、ソ連が合衆国全土に自在に核兵器を落とせるかのような印象を生んだこともあって(フルシチョフは、ソ連がロケットを数十万キロも彼方の宇宙空間に飛ばすことができた以上、地球上のどの地点にでもミサイルを撃ち込めるのは明らかだと公言していた)、合衆国の国民に大きな衝撃を与えた(スプートニク・ショック)。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、138~139)



  • 「英語」: 564 - 577
  • 「読みかえし」: 653 - 656
  • 一一時ちょうどに起床。カーテンのあいまにのぞく空はくもりながらも陽の質感をもらしていたが、その後に瞑想をしているあいだには雨粒がぱらついて窓ガラスにあたるおともきいた。午後二時まえ現在では空にみずいろがあらわれ白さを溶かしつつ、ひかりのおだやかさも近所の家壁にふれている。おきて鼻を掃除し、洗面所に行ってアレグラFXを服用。用を足してもどってくるとねころがって本を読んだ。南直哉の『「正法眼蔵」を読む 存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ、二〇〇八年)をきのうから読みはじめている。一一時四五分から瞑想。れいによってだんだん便意がもたげてきて一五分くらいしかすわれず。


 また無意識に箇条書きにしていた。上階に行き、無人の居間でジャージにきがえ、食事。いつものようにハムエッグを焼こうとおもったところがハムがなく、卵もひとつしかない。冷凍に肉をもとめたがこちらもない。どうしようかとかんがえ、野菜室にキャベツをみたのでそれと卵で炒めて米に乗せることにした。味噌汁の鍋をあたためるいっぽうでフライパンに油を垂らし、そのうえからキャベツを包丁で切り落とすようにしていくらか削ぎ、炒めて卵も割り落とした。丼の米にまとめて乗せて卓へ。新聞一面はウクライナ情勢。きのうのニュースですでにみたがロシア黒海艦隊の旗艦「モスクワ」沈没の報。大型ミサイル巡洋艦という種類の船であるこの艦は、S300とかいう防空ミサイルをそなえていて、ウクライナ南部に攻撃をしかける隊にたいして防空網を提供する役割をはたしていたといい、したがってそれがうしなわれたのはロシアにとってはおおきな打撃であり海軍力の低下はさけられず、攻撃戦略にも影響があるだろうと。ロシアはキーウにむけてミサイル攻撃を再開し、それは報復の可能性がある。東部への部隊配備はおくれており、総攻撃はまだはじまっていないらしい。ロシアがわはマリウポリの製鉄工場を「解放」したと発表したが、これがきのうおとといにウクライナ軍とアゾフ大隊のさいごの拠点としてつたえられていた製鉄所とおなじものだとすると、マリウポリはいよいよ制圧間近ということになるのではないか。ウクライナがわはその情報を否定。
 今年末にむけて自民党が安保関連三文書の要綱案を提案したという報もあった。NATOが各国にもとめている数値にあわせて、GDP比で年二パーセントの防衛費割合を五年以内に実現することをめざすと。いわゆる「敵基地攻撃能力」は専守防衛の枠組みのもとで保有。攻撃対象として基地のみならず敵側の司令本部などもふくむといい、それは司令部をたたかなければミサイル攻撃などの連続をとめることは困難であるとのかんがえからだと。
 食事を終えると台所のながしで皿を洗い、炒めものにつかったフライパンはみずをそそいで火にかけておいて風呂場へ。浴槽をあらって出てくると沸騰したフライパンから湯を捨てて、キッチンペーパーで汚れをぬぐった。そうして白湯をコップに一杯もって帰室。Notionを支度してきょうの記事をつくり、湯をちびちびすすりながらウェブをちょっとみたあと「英語」記事を音読。そのうちに買い物に行っていた両親が帰宅した。「読みかえし」にうつるまえに白湯をおかわりしに行くと、「トイザらス」まで行ってきたという。ゴールデンウィークに兄夫婦が来るようだから子どもらにあげるものをみてきたのだろう。音読に切りをつけると一時四〇分くらいで、ここまで記して二時まえ。きょうは六時から労働。五時半過ぎには出る。それまでに一三日の記事を終わらせたい。そうすればあとはきのうのことを書くだけ。


 いま三時半。一三日の記事はかたづけ、一四日分とあわせて投稿し、きのうのことも往路まで書き終えた。よい。きのうあたりからすらすらと書ける。出るまえに一五日をさらに書けるかわからないが、ここまで記せばあとはどうにでもなる。帰宅後やあしたでもすこしも問題ない。

 いま五時すぎ。三時半すぎから瞑想をして、そのあとストレッチも。ストレッチも息をがんばって吐くのではなくてやはりちからをぬくようにやったほうがよい。それから上階へ行き、母親が買ってきたやわらかいパンにメンチカツをはさんでバナナとともにもちかえった。パソコンをまえにそれを食ったのち、ゴミの始末をしていなかったのでついでにいっしょにもっていってかたづけ、食器乾燥機のなかみもついでに棚にもどしておいた。そうして白湯とともにもどってくるときのうの日記のつづきを記し、終えることができた。すばらしい。きょうのこともこれで現在時に追いついたので余裕がある。


 出勤まえに短歌を二首。「ともしびのゆらぎにおもう罪もあり表情筋の波頭ま白く」「夕暮れと真昼を分かつ破線上冒険者には既知がみえない」
 歯をみがいたりスーツにきがえたりと身支度をすませると一〇分ほどあまっていたので一曲だけなにかきくかとおもい、中村佳穂の”きっとね!”をながした。それから”忘れっぽい天使”も。中村佳穂はアクセントのつけかたとかうたっているとちゅうのことばの切りかたが独特で、この単語のこのぶぶんで切るんだ、とおもうところがあった。みじかく切りながらおとを置くようにしてうたうことがけっこうおおい。いま具体的にはおぼえていないのであした(一七日)いこうでやる気になったらききなおして記す。あと”忘れっぽい天使”だと、ほんとうに秋虫のすきとおった翅がふるえているみたいなかんじのビブラートもおりおりあって、その質感はほかであまりきいたおぼえがない。「遠い遠いむこうには」のぶぶんにひとつわかりやすいのがあった気がするが。
 上階に行き、靴下を履くと出発。林縁の石段上にはつよい紅色の花木がまだ宙にいろをのこしている。五時四〇分ごろだが南の山には濃淡でややまだらになったみどりのうえに陽のいろが乗っておだやかな暮れ、公団前までくると棟にちかく空の低みに溶けこむようなほのかな雲が、引かれたりまるめられたりいろいろありながらも整列というかんじで縦幅をくぎって横にながくつづいていた。公園の桜などみながらぼんやり行っていると、行ってらっしゃい! という声が急に横から飛んできてちょっとびっくりしたのだが、それは庭の前栽めいた低い草のむこうにしゃがんでいた(……)さんが発したもので、そこにいることにマジでまったく気づいていなかった。あ、こんにちはと受け、ご苦労さまですとかえして坂へ。
 ガードレールのもと、斜面のはじまる端のあたりに、キュウリの皮を剝いであわせたみたいなながい濃緑の葉のシャガの花が咲きだしていた。坂を終えて最寄り駅までくると八重の桜がいっぽんまだ薄紅を宙にばらまいており、盛りとみえなくもないが葉のみどりもすでに混ざりはじめている。からだのむきを変えると付属広場に立った大傘型の枝垂れのほうも淡い桃色をひろげつつもやはり軽いみどりがちらほらみられて、斉一の充実がくずれはじめるころのその色彩のとなりあいはあざやかで、官能的で、粋である。ホームにはいるとひとがなぜかたくさんいた。すぎて先頭のほうに行き、来たものに乗車。扉ぎわで目を閉じて手すりをつかみながら到着を待つ。山帰りのひとがやはりおおい。
 ついておりると駅をぬけて職場へ。勤務。(……)
 (……)
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 そうして最寄り駅までともにのり、あいさつをして別れて降りたのち、帰路にとくだんの印象はない。淡く雲をかけられた月が浮かんでいたくらい。帰宅後は休んで食事し、風呂に浸かって疲労を回復したのち日記を少々。しかしさすがに疲れていてたいしてできず、ベッドに避難しているうちに意識を落として四時を越えていた。風呂にはいりはじめたあたりでは、眼鏡をながい時間かけた影響であたまのなかや額や眼窩のうちがわあたりがかなりこごったようになっており、頭痛もあったのだが、冷水でなんどか顔を洗ったりあたまにもかけたり、またこめかみや後頭部や耳のまわりを揉むことでいちおう回復した。とくに耳の付け根やその付近の側頭部や後頭部をよくほぐすのが意外とかなり大事そう。