2022/4/17, Sun.

 ミサイル・ロケットの開発能力を誇示しつつ、フルシチョフ軍縮を訴え、一九五九年一~二月に開かれた第二一回党大会では次のように述べた。ミサイル技術でわれわれが優位にあるときに、米英仏に提案する。原子兵器、水素兵器、ミサイルの実験、生産、使用を永久に禁止しようではないか。この殺人兵器のストックをすべて廃棄しようではないか。これからは平和目的にだけ、人間の幸福のためにだけ使おうではないか。わが政府は明日にでもしかるべき条約に調印する用意がある。(end139)
 フルシチョフはこのように述べつつも、アメリカ帝国主義、西ドイツの軍国主義と復讐主義を非難していたから、この提案が米英仏に受け入れられる可能性はまずなかったが、フルシチョフは真剣に軍縮を求めていたように思う。独ソ戦で大きな被害を受けた西部の復興はまだ途上であること、国民は「雪どけ」を歓迎し平和を強く求めていること、ソ連が軍事的にも経済的にも合衆国に劣っていて、軍拡競争の負担はソ連にとってより重いことをよく認識していたと思われるからである。
 フルシチョフは一九六〇年九月の国連総会でも、核兵器の運搬手段の廃棄や外国基地の撤去などを第一段階とし、第三段階までの順を踏んで軍縮を実現することを提案した。実際フルシチョフは、自国の兵力の大幅削減を実行し、一時的にではあるが核実験を一方的に停止しさえした。
 結局、スプートニク・ショックの大きさとソ連への不信感から、合衆国指導部は核軍縮の提案には乗らず、核の運搬手段においてソ連に遅れをとってしまったとソ連の脅威を喧伝してICBMの開発に力を入れた。一九六〇年代に入る頃には合衆国はソ連をはるかに上回るICBM保有するようになって、核戦力バランスは合衆国優位に一層傾いた。とはいえ、ソ連は、一九六一年四月にガガーリンによる有人宇宙飛行を世界で初めて成功させ、科学と技術の水準の高さを世界中に印象づけた。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、139~140)



  • 「英語」: 578 - 600
  • 「読みかえし」: 657 - 664
  • 一一時に離床。さいしょになぜか七時台にさめた記憶がある。さすがに睡眠がみじかすぎるので無視してねむり、それからもういちどか二度さめたのちに正式な起床にいたった。天気ははっきりしない白曇りだが雲のなかに陽のつやがまったくないでもなかった。アレグラFX一錠を歯のあいだにはさんで洗面所に行き、服用。トイレで用を足してもどってくるとベッドにころがり、南直哉『「正法眼蔵」を読む』をしばらく読んだ。一一時四五分くらいから瞑想。三〇分ほど。三〇分がかなりながくかんじられるようになっている。体感ではもうすこしすわったかなというのが目をあけてみると三〇分しか経っていない。時間の連続性と、すきまのなさと密度が増しているようなかんじ。


 上階に行ってジャージにきがえ、食事はサバなど。新聞、書評面をおもに。入り口のところで北方謙三がとりあげられていてなんとなく読んだが、意外にもはじまりは純文学方面だったという。七〇年に『新潮』に載ったのがさいしょだと。しかしふるわず、同世代の文学仲間だった中上健次などみても、おなじ題材で書けばじぶんのほうがうまく書けるという自信はあったがしかしおれにはその題材がないということを痛感したと。一〇年間で掲載されたわずかな作をまとめた本を出したときに、編集者にエンタメ方面への転向をすすめられ、そういう気になってやってみるとそれがうまくいき、八〇年代以降のハードボイルドブームをうむことになったという。中上にはない物語性をたぶんに確保しつつ、そのなかににんげんがにじみだすようなスタイルをめざして確立したと。
 書評本面では中島隆博が「いい子症候群」なるものを題材にした本をとりあげており、苅部直講談社現代新書の吉田量彦『スピノザ』というのをとりあげていた。後者は伝記的な側面と思想とを両方丹念に追う正統的なやりかたでありながら画期的なしごとだというのでちょっと気になる。新書だから読みやすそうでもあるし。食事を終えるといつもどおり食器と風呂を洗い、茶をつくって帰室。茶はきのうだかに母親が買ってきてくれた六〇〇円くらいの狭山茶なのだが、どうもやはり苦味のかんじがあまり好みでない。それを警戒して茶壺にはいれず、開封した袋から急須にいれて洗濯ばさみでとめておいたが、それで正解だった。あと、となりの(……)さんが今朝だかきのうの四時に亡くなったらしい。一〇一歳だか一〇二歳だかわすれたが、いずれにしても大往生。とつぜんくるしいようすになってそのままながびきもせずに逝ったと。さいごまでたいしたものだった。
 いつものように音読。「英語」と「読みかえし」を読み、便所に行って糞を垂れてくると、なんとなくためてあるPDFファイルのフォルダをみて、関口存男「わたしはどういう風にして独逸語をやってきたか?」を読みはじめた。ねころがって一時やすみながらしばらく読む。語り口が軽妙でなかなかおもしろい。どこでひろったのだったかわすれたがいぜんネット上で入手したファイルのはずで、関口存男は著作集みたいなのがマイナーな会社から復刊されているのだけれど、それがどれもこれも一万円いじょうするみたいなぼったくり的商売だったはず。はなしにならん。社会貢献ということをなにひとつかんがえていない。むかしのひとなのだし、ぜんぶ無料で公開するべきだ。ドイツ語や語学を真摯にやりたいというにんげんへの援助ならびに文化的発展ということについてなにもおもわないのか? そんなら「猿でもわかる! 一週間で英語がスラスラしゃべれるようになる三つの秘訣 ~グローバル人材として世界にはばたく理想の自分を手に入れよう~」という情報教材サイトでもつくってアフィリエイト商売をしているがよい。
 そのあとここまで記すと三時。


 いま一八日の午前零時半まえにいたっており、きのうの記事はさきほど完成して投降したのだが、職場のことをいろいろ書いてぜんたいで一三〇〇〇字くらいになった(はてなブログの投稿フォームによれば)。それくらいおおく書くとどうもNotionの動作がおそくなるというか、文字を入力しても表示されるまでにわずかにラグがうまれてしまって、そうするとやはりきもちよくスムーズに書けないので困った。たぶん一万字を越えるくらいからそうなる気がする。これはネット回線の問題というよりも、パソコンじたいのスペックの問題なのだろう、おそらく。やはり電源ケーブルからはずしてずっとつかっているのがよくなくて劣化がはやいのかもしれない。しかしスツール椅子にのせるとちょうどすっぽりはまって側面のいちばん奥側にある接続の穴にはどうやったってケーブルをつなげない。イヤフォンジャックならてまえのほうにあるので、椅子をのむきをちょっとずらして側面が出るように置けば(やや不安定になるが)イヤフォンは挿せるのだが。それで解決策としてメモ帳に打ちこんである程度書いたらそれをコピペしてNotionの記事にうつすという迂遠な方法をとったのだけれど、これが意外とよい。メモ帳はいまはフォントが設定できるようになっており游明朝もあるし、じつにかるいソフトだからスラスラと綴ることができ、サイズ12の細字で游明朝の文字が真っ白な背景上にならんでいるのはなかなかきれいできもちがよい。Notionのほうはダークモードにしているのでやや練ったような黒さのうえに白字なのだ。それより白背景に黒字のメモ帳のほうがなんだかすっきりしてみえてここちがよいのだが、これはおそらく細字設定の寄与がおおきい。標準だとああまあまあまあ、まあね、うんまあわかるけどまあ、というかんじになる。細字のさらさらとしたかるさのほうがよい。こんどからながくなって動作が遅くなったらメモ帳をつかおう。というかむしろもうメモ帳で書いて完成したらNotionに貼るくらいでもよいかもしれない。テキストファイルで保存しておけばついでにバックアップにもなる。そこまでしなくてもよいか?


 きょうはだらだら休んだり関口存男の文章を読んだり家事をしたり日記を書いたりといつもどおりの休日にほかならない。きのう、一六日の記事にはそこそこ手間取ったというか、書くのがむずかしかったことはひとつもないのだが、職場のことがながくなるとおもっていたけれどおもったいじょうに書くことがあったというあとあじ。とはいえぜんたいで一万三〇〇〇字だからそこまでの量でもないのだが。このくらいの記事をコンスタントに翌日までに書けるようになったらたいしたものだが、しかし休日だからできたのであって、労働があると完成まで行くのはきついだろうな。いずれにしてもここ数日の書きぶりはひじょうにかるく抵抗がなくおちついて記せるようになっているので、この感じをたもちたいところだ。がんばって書くのをやめること、とにかくちからを抜くことが旨だとおもっていながら、油断するといつのまにかがんばっているということがよくあるので。


 四時ごろにはやめに上階にあがってアイロン掛け。手をうごかしながらときおり顔をあげて、正面、南窓のむこうをみやる。風景に春の葉の量が増えてその範囲がひろくなり、空間がいかにもみどりして、陽のいろのない平板な空気ながら色調があかるくいろどられているのがみてとれる。空はかわらずのとざされた白曇りで、やまぎわちかくにはほんのわずかな窪みといったかんじで青灰色がほのかに混ざりながれており、そのしたの山は冬も生きていた濃緑よりも、いつのまにかはだかをやめた木の若い明緑がおおいくらいで、巨人がそこをのぼるためのみちびきのように斜面をいろどり染めている。
 そのあといったん室にもどり、五時半ごろにあがっていくと母親がまだやっていないというので飯の支度をしたのだが、なにをつくったのだったかわすれてしまった。タマネギと卵の味噌汁か。おかずになにをつくったのかはわすれてしまった。夕食の調理を終えたあとは居間のかたすみのボックスのなかに新聞紙がたまっているので、それを紐でゆわえてそとへ。玄関を出るとちょうどオートバイに乗った男性がやってきてとまったので、配達かなにかとぼんやりおもってご苦労さまですとあいさつしたのだが、するとお父さんいますか? という。それで新聞紙の束をそのへんに置いておいて室内にもどり(玄関をくぐるまえにおなまえは? ときくと、(……)さんだといった)、ソファについていた父親に来客だと告げた。そうしてそとにもどり、いま来ますんでといいつつ物置きのほうへ。道路のむこうにはまたべつの高年女性がいたのでこんにちはとあいさつを投げたが、これはとなりの(……)さんの関係で、(……)さんかもうひとりのほう((……)さんといったはず)かわからないがその奥さんだったのではないか。物置きに新聞紙をいれてもどるとさきの(……)さんと父親がその女性と顔をあわせてやりとりをはじめ、(……)さんはどうやら(……)らしく地域の役職者として香典をわたしにきたようなようすだった。こちらもいちおう(……)さんとはながく隣人で関係したにんげんではあるので遺族にあいさつしておいたほうがよいかともおもったのだが、面識もないし、そこにはいっていくのもきおくれしたのでさっさとなかへ。