2022/4/21, Thu.

 少し遠回りになるが、体制のこの特徴について確認しておこう。計画経済が確立して以後のソ連では、国家計画委員会を中心に連邦政府が計画を作成し、二〇から三〇程度ある工業部門別の省がこの計画を執行した(連邦全体を直接管轄する全連邦省と、共和国に置か(end157)れた省を通じて管轄する連邦・共和国省とがあった)。個々の省には、企業を管轄する管理局や総管理局が複数置かれ、その下に、生産に従事する企業が複数あるというピラミッド型をなすのが一般であった(国民経済会議が置かれていた時期には工業部門別の省はなく、国民経済会議に各種の管理局が置かれ、その下に企業がある形となる)。上からは計画に基づく義務指標(ノルマ)が下ろされていき、下からは生産と供出の達成数字が上げられていく。ノルマの超過達成に対するボーナスと未達成に対するペナルティとによって企業は生産への刺激を受けることが想定されていた。
 しかし、ノルマは時間の余裕をもって示されるとは限らず、生産活動の途中で変更されることもあった(それもしばしば引き上げられた)。また、ノルマを超過達成すればボーナスが出るが、多くの場合、以後ノルマが引き上げられることになったから、経営者たちは企業の生産能力を隠して低いノルマを受け取り、それをぎりぎりで、あるいはわずかに超過して達成するよう努めた。管理する側もそのことはわかっているため、ノルマをめぐる「交渉」が頻繁になされ、生産能力や生産実績に関する虚偽の数字がやりとりされることにもなった。
 しかし、企業側の「努力」によりノルマが低く抑えられた場合でさえ、原材料や燃料が計画通り供給されず不足しがちという問題もあってノルマ達成は容易ではなかったため、(end158)企業は原材料や燃料を過剰に抑え込もうとした(このため不足は一層激しくなった。市場経済ならば需要が過剰であれば価格が上昇して需給は均衡に近づくが、計画経済では価格が固定されているため不足は解消されず、需要が増すほど不足は激しくなったのである)。
 こうした状況では、月間、年間を通じて安定した生産活動をおこなうことは難しく、原材料や燃料を合法・非合法の様々な経路を通じて確保したのち、短期間に突貫作業で製品を生産して納期に間に合わせることが常態化した(月の下旬に当月の生産高の四分の三を生産する例もめずらしくなかった)。このため企業は、この突貫作業を可能とする労働力を確保しておく必要があった。こうした通常の生産活動には必要のない余剰な労働力を抱えていることは、労働生産性を低くし、労働規律の弛緩を招いたと同時に、労働力に対する需要を大きくして、労働者の「売り手市場」という状況を強めた。そして、そのことがまた労働規律を弛緩させるという悪循環に陥っていたのである(こうした生産活動の結果として、月末や年末に作られた製品の質が常にもまして劣ったものとなるという弊害もあった)。
 その結果として、ソ連の労働者の戯画的イメージともなった「働かず、勤務中に酔っぱらっている労働者」は現実に存在した。「クビにならないだろう、クビになってもすぐ次の職場が見つかるだろう」という意識のある労働者は労働規律を守ろうとせず、酔った状態での出勤や勤務時間中の飲酒は至るところで見られた。経営者にとってこれは看過でき(end159)ない問題であったが、クビにして代わりの労働者を確保できるか定かでなく、確保できても前よりましだとは限らなかったから、飲酒だけを理由として解雇まですることは少なかったのである。これが労働規律を一層弛緩させたことは言うまでもない。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、157~160)



  • 「英語」: 633 - 645, 646 - 686
  • 「読みかえし」: 672 - 678


 一一時一五分に起床。曇天。カーテンをあけると一面の白さのなかに陽の感触や残影がわずかにないでもない。水場に行ってきてから書見。南直哉『「正法眼蔵」を読む』。なかなかおもしろい。メモしようとおもうところはそこそこある。正午くらいまで読み、それからまくらのうえに起きなおって瞑想した。三〇分行ったかどうか。たぶん行かなかったのではないか。
 上階へ行きジャージにきがえると便所に行って排便。母親は一〇時かそのくらいに部屋に来て、たけのこをわたしに行くとか言って出かけていったがだれにわたしに行ったのかは知らない。食事はチャーハン。新聞の一面からウクライナの報を読む。マリウポリのさいごの拠点である製鉄所が激しく攻撃されており、ロシア軍は地下貫通爆弾というものをつかったという。地下にまで貫通したあと爆発するものらしく、それで施設はかなり損害を受けたようで、生き残ったアゾフ大隊のにんげんだかが多数のひとびとが瓦礫に埋もれていると証言していた。施設にはウクライナ軍とアゾフ大隊の兵二五〇〇人ほどがのこっていたといい、また子どもをふくむ市民もおおく避難してきていた。マリウポリはもうほぼ全域が制圧されたようで、ロシアとウクライナは市民をザポリージャに逃す「人道回廊」の設置に合意したというが、ロシアからすればもうあたらしい市長も置いてかれらの統治をはじめるつもりのようなので、市民を逃がす必要はないといういいぶんになりそうなものだが。文化面には古川日出男があたらしい小説を書いたという報。カルト集団をとりあつかったものらしく、オウム真理教による地下鉄サリン事件が風化しつつあるいま、とうじの空気を知っているにんげんが書き残しておかなければならないという意識からものしたという。社会面、さいごのページにはヘルソンからリヴィウに避難したひとの証言。ロシア兵は家に押し入って金品などを押収し、体格のよい男性は連行されて、ころされたのか刑務所にいれられたのかだれにもわからない、という。
 食器を始末。風呂も洗う。なにかもうすこし食べたい気がしたので冷凍のたこ焼きをいただくことに。電子レンジであたためているあいだに白湯をもっていったん帰室。コンピューターでNotionの準備などして、あがるとたこ焼きをもってきた。食いつつウェブを見、その後音読。「英語」と「読みかえし」と両方とも。あいま、二時にあがって洗濯物をいれておいた。曇天だし、そんなに湿ってはいないものの乾きがよい感触ではない。「読みかえし」記事ではコンピューターなどのブルーライトを排除してなるべく陽にあたる生活を実験的におくった記者の記事があって、おれもほんとうはもっとそとに出てひかりをえたほうがいいんだろうが、とおもった。まいにち昼前までねすごしている。曇天でも室内とくらべると光量にはかなり差があるらしく、記事によれば、〈The illuminance of light is measured in lux. On a cloudless day in summer, the light outdoors can reach as high as 100,000 lux; on an overcast day, it can be as low as 1,000 lux. (……)/Back indoors, I took a reading in the centre of my shared office: 120 lux – lower even than the 500 lux you’d expect outdoors immediately after sunset. Horrified, I returned to my temporary desk by the window, where it was colder, but a sunnier 720 lux.〉ということだ。そとにでてきもちがよいのはひかりもあるが、やはり風と大気のうごきですね。ほんとうはいちにちにいっかいはかならずそれをあびたほうがよいんだろうが。
 母親は二時すぎに帰ってきた。きょうのことをここまで記すと三時一五分。きょうは休みなので余裕はある。やはりいちにちはたらいたらいちにち休まないと日記をじゅうぶんにたもつことはできない。おとといの一九日まではもうきのうのうちにかたづけたから、あときのうのことを書けばよい。

 うえに書いたようにすこしばかりでも外気を浴びようとおもったので上階にあがってベランダに出、しばらく屈伸したり左右に開脚して腰をひねり太もものつけねのほうを刺激したり、前後に開脚して脛のすじをのばしたりした。文句なしの曇天である。雲はきれいに空を白く埋め尽くしていて、上体を左右にひねりながらみあげれば一帯のなかでは西の低みがより白く、すこし高めから天頂まではそれにくらべるとみずいろの気がみえないでもないが、いずれたいした差でもなく総じて白の模様なき平面である。微風がながれて冷たさにむすばず不定のうごきで肌にふれまわりなでていくのがここちよい。自由とおちつきと開放の感覚。ことは皮膚感の問題である。とおくのおとがつたわってくるのもよい。
 

 いま午前一時直前で、二一日基準でいうと二五時である。きのうの記録をしまえた。職場にいるあいだのことがおおくてどうにもたいへんだが、書く気にならないことおぼえていないことはよいとしても、ほかのことがらにつかえる時間を確保するために、記述をみじかく縮約して書けること書く気になることを書かずにすませようというこころにどうしてもならない。この日記いがいの、なんらかの作品めいた文をつくることをかんがえるならば、とうぜんこれに割く労力をもっと減らしたほうが利口だしその必要があるわけだが、どうしてもそうする気にならない。じぶんにとってはこれがまずだいいちに来てしまう。これをすませないとほかの文を書く気にならない。ところがこれをすませるだけで気力もつかってだいたい満足してしまうし、そもそもいまやコンスタントに、まいにちおくれずにすませるということができていない。


 五時ごろにあがっていつものようにアイロン掛け。夕食をとったのは七時直前から。そのまえにOasisがながれるなかで瞑想したのだが、やたらねむくなってあまりうまくいかなかった。夕食は母親がカキフライとかローストポークとかを買ってきたのでなかなか豪盛なものになった。カキフライがけっこう美味で、食と味覚の快楽があった。
 夜はだいたいぜんじつの日記を書いたり。深夜に書抜きもできた。松戸清裕の『ソ連史』。Oasis『Familliar To Millions』をながしたが、ここの”Stand By Me”がやはりきれいでさわやかでよい。セカンドアルバムのデラックスエディションも日中や夜にひさしぶりにながして、”Talk Tonight”をきいてちょっとくちずさんだりもして、やっぱりこのくらいのシンプルな弾き語りやりたいなとおもった。三時ごろからはだらけて、三時四〇分に就床。