2022/4/29, Fri.

 政策に関する人々の手紙や投書は日常的にも多数送られていたが、人々の意思表示が組織的に鼓舞された際には、数量は増え、内容は一層多岐にわたった。一九五九年に組織された、七カ年計画の目標数字をめぐる全人民討議では、九六万八〇〇〇以上の集会に延べ七〇〇〇万人以上が参加、四六七万二〇〇〇人が発言したとされる。新聞雑誌の編集部や党機関、ソヴェト機関へは六五万通以上の手紙が寄せられ、そのうち三〇万通以上が新聞雑誌で公表された。
 一九六一年夏から秋にかけては、党の新綱領についての全人民討議がおこなわれた。延べ九〇〇万人を超える党員が参加した党員集会の他、企業、コルホーズ労働組合、コムソモールなどによる五〇万以上の集会に七三〇〇万人が参加したとされる。党委員会や各種新聞の編集部に対しては三〇万通以上の手紙が送られていた。
 一九七七年夏から秋にかけてのソ連の新憲法の草案をめぐる全人民討議には成年人口の(end198)五分の四以上に当たる一億四〇〇〇万人以上が参加したとされる。企業、コルホーズ、軍隊、居住地での勤労者集会は約一五〇万回、公開党員集会は四五万回以上開かれ、三〇〇万人以上が発言した。村ソヴェトから共和国最高会議まですべてのソヴェトが草案を討議し、二〇〇万人を超える代議員が討議に参加した。このような前例のない規模で草案が検討された結果、約四〇万の修正・補足の提案がなされたとされ、ソ連最高会議の憲法委員会はこの提案を検討し、一一〇の条文に変更を加え、新たな条文を一つ追加する計一五〇の修正をおこなうことを勧告、最高会議の場でさらに一二の修正がなされた。斥けられた提案も多かったが、そのうちのいくつかについては、何故斥けられたかをブレジネフが最高会議で説明した。その一方で、複数政党制を求める提案など、提案があった事実さえ明らかにされないまま斥けられた提案もあった。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、198~199)



  • 「英語」: 788 - 805
  • 「読みかえし」: 710 - 720


 一一時一〇分に覚醒。曇天。布団のしたで深呼吸して、一一時二〇分に離床した。水場に行ってくるとクロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』(新装復刊版)(白水社、二〇〇四年)を読んだ。そうして一一時五〇分まえから瞑想。すわっていると窓外にいた父親が急にこちらのなまえを呼んだので、え、と声をだすと、タオルをいれてくれ、雨が降ってきたからというので姿勢を解いて上階へ。ベランダの洗濯物をとりこみ、部屋にいったんもどるとゴミ箱とコップをもってひきかえし、ゴミを始末してジャージすがたへ。食事にはハムエッグを焼いた。あときのうつくった野菜の汁物。新聞、プーチンサンクトペテルブルクで演説し、諸外国がウクライナに軍事的に介入してきたら稲妻のようにすばやく反撃する用意があると言明したと。核兵器の使用も辞さないという姿勢をあらためてしめしたものだという。必要なばあいはそのちからをつかうという決定をすでにくだしていると述べたと。国際面では民間企業の衛星がウクライナでのロシアの動向を追ったり調べたりするのにおおいに活用されているという記事があった。米国の宇宙関連企業が画像を提供しているらしく、New York Timesがそれにもとづいて報道し、たとえばマリウポリではおおきな穴が日に日に拡大されており死体を埋める墓穴としてつかわれるのだろうとわかると。ICC国際刑事裁判所)がおこなっている戦争犯罪の調査でも役立つみこみで、企業側も客観的な情報を提供できるといっているが、ただ衛星情報にもとづいて攻撃がなされたばあいなど、企業は紛争当事者とみなされる可能性もたかく、危険もある。識者によればいまはひじょうにおおくの民間企業が衛星を飛ばしていてそれでたとえばウクライナのようすもいちにちに一〇〇回くらいはうかがうことができるといい、その間隔はみじかければ数分、ながくても一時間半程度なので、地上でおこなっていることを隠蔽するのは事実上不可能だと。撮影の質も高性能で、地上にある数十センチ大のものまでとらえられるという。ほか、南アフリカケープタウンで西ケープ州の分離独立をもとめるデモがあったと。西ケープ州は南アフリカでゆいいつ白人や混血が多数派(七割)を占める州だといい、二〇〇九年にジェイコブ・ズマが大統領になっていらい与党アフリカ民族会議が黒人を優先してそれいがいを差別するような政策をとってきたのに反発するうごきだと。アフリカーナーを中心とするなんとかいう民族主義政党も参加し、いっぽうで首都プレトリアでは黒人の貧困層を支持基盤として白人排斥をとなえる極左団体もデモをおこなったと。
 池辺晋一郎や佐々木幸綱が叙勲されたという報もあった。きのうも島田雅彦が褒章を受けたとあった。あと上海でロックダウンがはじまってから一か月で、じっさい中国は感染をおさえこめていないのだけれど、習近平のゼロコロナ政策が変わる気配はみられないという記事も。封鎖中の上海では感染者が出たマンションだかが即座に封鎖されて出入りできないようにされ、ある住民はまるで動物のようなあつかいだともらしていた。玄関を有刺鉄線の電気柵で封じられた家なんかもあるという。食料もなかなかとどかない。そうした状況に疲弊し、家のなかから鍋とかをガンガン鳴らしつつ大声で不満や抗議をうったえるひとの動画も出回っているらしく、これはロックダウンが七六日間つづいた武漢のときとおなじだと。
 食器を洗うと風呂場に行って浴槽をこする。きのう入浴したときにやはり左右の内壁の下端にぬるぬるした感触がのこっている箇所があったので、きょうは念入りにこすっておいた。そうして白湯をもって帰室。Notionを用意してウェブをみると音読。二時くらいまで。
 橋本努×若森みどり「自律を超える善き生(ウェルビイング)の理想を探る――橋本努『自由原理――来るべき福祉国家の理念』をめぐる対談」(2022/4/20)(https://synodos.jp/opinion/society/27929/(https://synodos.jp/opinion/society/27929/))を読みつつやすんだあと瞑想。二時二五分くらいから三時一〇分にいかないくらいまで。雨は本式の降りになっており、はげしいというほどではないが空間を密に埋めているのがみないでもわかる。その後ここまで記して三時四〇分すぎ。

 (……)さんのブログをすこし読んでから(あときのうとちゅうまで読んだ英文記事も)また瞑想した。からだをととのえて肌をなめらかにしてからでないとあんまりやる気が出ないという身体になってしまっている。四時一〇分から四〇分くらいまで。窓を少々あけた状態ですわったが、雨のおとというのはサウンドスケープとしてかなりおちつく。ここちがよい。不定的なリズムみたいなものがある。雨線の集合がかもしだすサー……というSの子音が背景的な基盤として空間ぜんたいにつねにひろがっているそのうえにたぶん木やなにかからしたたるものなのだろうがもっとボタボタとした打音が適宜ことなるリズムでさしこまれているのがきいている。すわっているあいだに降りはすこしだけ盛って、そうすると背景音のボリュームがややあがって迫るようになり、かつななめにながれる粒も出はじめたようで硬い打音もいくらかきこえた。おとといくらいからあたまが自動筆記的なモードになってじっとすわると勝手に乱雑なことばがすべりだしてわりとさわがしいが、かといってつかれるかんじはない。ヴァルザーをパクった小説をやるまえに『フィネガンズ・ウェイク』を読んでおいたほうがよいのかもしれない。
 五時までちょっとのこったのでクロード・シモンを読んだあと、五時ちょうどの鐘が鳴るとともに部屋を抜け、階上へ。父親は仏間とか元祖父母の部屋のほうをかたづけしていたようだ。兄夫婦が来るからだろう。こちらは食事の支度へ。父親がなんかやる? ときいてくるので、なんにしようかとかえすと、肉があるとかいってたからそれとほうれん草を炒めるのは、といった。ともあれまずは食器乾燥機のなかをかたづけ、炊飯器にわずかにのこった米をとって釜を洗い、あたらしく米を磨いだ。きのうだったか判明したのだがどうも炊飯器はタイマー機能がこわれたらしく、きのうまちがいなく六時半に炊けるようタイマーを設定したのに稼働していなかったので、きょうはタイマーをつかわずあとで炊飯スイッチを押すことに。それで冷蔵庫をみるとエノキダケがあったのでこれをソテーとスープの両方にすればいいやとかんがえた。きのうの汁物ももう一杯程度しかのこっていなかったので、椀にとっておく。ソテーは豚肉とタマネギとエノキダケで、きのこがあるからバターをいれようともくろみ、鍋にみずをそそいで火にかけるとエノキダケの半分弱を切り分けてまずそちらに投入。このあいだなにかの機会にテレビできのこの味をしっかりスープに出したかったらみずの時点から煮たほうがいいですといっていたのでそのようにした。そうしてのこった半分強を切り、タマネギも切り、あとキャベツも切りとやったがそのまえにあれだエノキだけでは汁物の具がすくないからそこでほうれん草をつかおうというわけで、ほうれん草は自家製のものを父親がとってきたもので玄関に網目状トレーにたくさんいれられてあったので、そこからちいさめのやつをひとつとってフライパンでゆでたのだった。それをしぼって鍋にくわえ、最弱の火でじっくり煮ておきつつソテーをつくる。油を引いてチューブのニンニクと生姜を落としてしばらく、そうして豚肉を投入してさいしょは箸でわけながら熱していたが、ある程度ではやめに野菜もくわえてしまって木べらで炒めた。醤油をそそぎ、砂糖を少々、それにバターだが、新品のバターを開封して包丁で切るのにやや手間取って炒めすぎた感がないでもない。しかしどうせ食べるころにはしなっとしてしまう。それから汁物に味噌で味つけ。たしか伊予だから愛媛県産だったとおもうがその麦味噌がのこりすくなかったのでちいさなへらでできるだけお玉にとり、それだけでは足りないので山梨の祖母がむかしつくったものだとおもうが黒々とした田舎味噌的な味噌もいっしょにとった。そうして溶かし、味見をしたものの薄かったので、いちど冷蔵庫にしまった田舎味噌をまたとりだして追加。それを溶かしおえて味見をしようというあたりで母親が帰宅し、玄関で甲高くなんとか言っているので、味の素を少量振ったところまでで火を消してそちらへ。父親は居間のテーブルでゆでられたフキの皮を剝いていたのだが、母親がぎゃーぎゃーさわぐのにすこし不機嫌そうなようすをしめしていた。座布団をはこんでくれとかいうのでサンダルを履き、傘をひらいて出ると、ジャンパーのフードをかぶって合羽がわりにしている母親は傘なんかひらいてらんないよ運ぶんだから、といったが、家のまえに停まった軽自動車の横に寄ってかのじょがさしだしてきた座布団をうけとると片腕でかかえることができて意外とそんなこともない。それで玄関に行き、ただ両腕がふさがっているので傘を閉じることができず、ひらいた傘は玄関の扉よりもおおきいので枠にひっかかってしまうのだが、その状態でなかにちょっとはいって父親に座布団をうけとってもらい、母親がもってきた後続もうけとるとこれは床のうえにひょっと投げておき、もういちど車まで行ってこんどはスリッパを腕にかかえてもどった。それも半端な姿勢で父親にわたし、そうして傘をたたんで屋内にかえると台所にもどって味噌汁の味見をし、まあこれならいいかと判断されたのでながしの洗い物をかたづけ、洗い桶もあらってあとサラダ。大根とニンジンをスライスするだけ。それをすませてほそくおろされたものをザルにあげておくと母親が洗い桶をあたらしく買ってきたものに替えようというので、貼られていたラベルを剝がし、なかをかるく洗っておいた。いまつかっているものよりもすこしだけ深い。それで台所を出て白湯をもって帰室。ここまで記すと六時四〇分まえ。きょうはあときのうのことを書き、これはすぐ終わるとおもうのだが、日曜日の通話時のことをできれば終わらせたい。しかしそちらはたぶん書くことがたくさんあるのできょうじゅうに終えられるかこころもとない。あまりこだわらずに割愛気味に行ってもよいという気にもなっているが。
 あと、居間にあがったとき父親がつけっぱなしにしていたラジオがながれていて、TBSラジオだったようだが、そこで女性と男性が人権とかヘイトスピーチとかそういう主題についてはなしており、まずきいたのは都心かどこかのほうではロシア人は出ていけみたいな声があがっているところもあるらしく、はなしているうちのひとりの知り合いでロシアの品々を売る店をやっているひともそういう被害を受けたというのだが、そのひとはロシア雑貨を売っていながらもウクライナ人なのだという。マジで愚か。どうしようもない。「ロシア」ということばとか、その語や観念を想起させる要素にただ機械的に反射的に反応して嫌悪をいだいているだけで、内実をまったく調べたり知ろうとしない。記号をそのままあいてにしているだけ。「ロシア」というこの三文字がそのままヘイトに直通している。これが差別の構造だろう。今次の戦争が起こったときに、今後ながいあいだ世界のあちこちでロシア人はロシア人であるというだけで不愉快なあつかいを受けることになってしまうのだろうという嫌なみとおしをもって日記にも書いたが、はやくもその実例を耳にすることになった。ほか、作業をしながらなのであまりよく聞こえなかったが、吉野家のうえのほうのひとが田舎から出てきた生娘をシャブ漬けにするようなかんじで牛丼中毒にしようみたいなことを大学の講義で口にしたというれいの件もとりあげられていたようだ。女性のほうが、つよいいいかたをゆるしていただければ、ほんとうににんげんとしての品性をうたがうし、ぜったい食べたくないなとおもいますと怒りをあらわにしつつも末尾あたりから笑いを混ぜて口調のつよさをやや中和していた。あと、この女性はそこそこ早口で、なおかつ「エスノメソドロジー」とかそんなに一般的でないだろうという横文字をけっこうつかっていきおいよくはなしていたのだけれど、そのあとでラジオのホストなのか男性が、発言のなかに出てきたむずかしめのことばの意味を補足的に解説していて、良心的な番組だなあとおもった(女性のほうも感謝していた)。その解説が、細部はよくきこえなかったのだけれど、口調のかんじからしてもよどみなくおちついてポイントを的確に要約しているようだったのですごい。
 日記を書いたりしたあと七時二〇分ごろにあがって食膳を用意。もちかえり、きょうも(……)さんのブログを読みながら食べた。過去ログの引用がたくさんあってたいへんおもしろいのだけれど、読みながら、じぶんが文学とか読み書きということに興味をもってそちらの世界をみてみようというときに「(……)」を発見したのは、やはりかなり幸福なことだったのかもしれないなとおもった。同ブログは二〇一三年一月に発見したと記憶しているのだが、たぶんその一か月まえくらいから文学方面の本をすこし読みはじめてもいたのだったとおもう。文学ってのがなんなのか知りたいと明確に意識してさいしょに読んだのは筒井康隆の『文学部唯野教授』だったはずで、ここからもわかるように、当初のこちらの関心というのはじぶんで小説を書きたいとかそういうことではなく、なんか世の中には文学っていうよくわからんもんをおもしろがっていろいろ論じたり語ったりしているひとたちがいるけれど(というのはとうじTwitterでじぶんと同年代の大学生らしいそういうひとびとが批評家ぶっていろいろ言っているのを目にしていたからだが)、それはどういうことなんだろう? どういうふうに読めばその魅力をかんじられるんだろう? ということだったのだ。だからそれいぜんにもそちらのたぐいの本を読んだ経験はわずかながらあって(たぶんカフカとか光文社古典新訳文庫でいちおうすでに読んだことがあったのではないか)、でもなんだかよくわからん、しかしなんか気になりはする、ということで、文学理論を小説のかたちでわかりやすく解説しているという評判をきいて(おそらく大学生協あたりで)買ってあった『文学部唯野教授』を読んでみたということだったはず。それがたしか二〇一二年の一二月ではなかったかとおもっていまEvernoteにアクセスし、七五九八個あるというノートのうちいちばんふるい作成日のものをみてみたところ、二〇一二年一月二一日にJohn Scofield『A Moment’s Peace』の記事をつくっている。このころは図書館で借りたり買ったりしたCDの曲目とかクレジットをぜんぶかならず記録していたので音源のノートがあまりにもおおすぎて邪魔なのだが、John Scofieldのうえのアルバムは、バラードアルバムなどぬるいしジャズはやはり熱気の飛び散るライブ盤がいちばんであるとおもっていたこちらがはじめてバラード作品もわるくないとおもったものだったはず。さいしょにきいたときではなく、その後なんどかきいたのちかもしれないが。書物としてさいしょにノートがつくられているのは二〇一二年一月二八日の長谷川宏『生活を哲学する』で、つぎが二月一日のサイモン・クリッチリー『ヨーロッパ大陸の哲学』。図書館にあったとっつきやすそうな哲学の本をえらんでいるのだろう。どちらも岩波書店の入門的なやつだ。そして二月六日には村上春樹訳のレイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』があり、プラトン宮沢章夫をはさみつつ、二月二〇日にはダニエル・アラルコンの『ロスト・シティ・レディオ』(新潮クレスト・ブックスの一書)が出てくるから、すでにこの時点で文学方面にふれてみようという意思があったわけだ。おもったよりもはやい。たぶん大学四年になって、授業もすくなめになったのでちょっと興味があった方面に手を出してみよう、というかんじなのだろう。しかしとうじはまだまだパニック障害ものこっていて体調もよくはなくそんなにやる気も出ないというか踏ん切りもつかないし、またもうすこし経つと卒論にとりくまなければならない事情もはじまって試行(『魔の山』のセテムブリーニ氏にいわせれば「試験採用(placet experiri)」)が中断され、卒論を終えてからまた手を出すことになったわけだ。おもいだしたが、この時期のじぶんは学問とか文学とか哲学とかいうのがおもしろそうだという興味はもちつつも(それじたいは大学二年ごろに萌芽をもつ)、パニック障害から来る体調のわるさもあってか実存的にニヒリズムにおちいっており、まさしくじぶんの人生の意味を見いだせないというかんじだったし、なにかの授業でイランやイラクあたりの歴史の本を読みながら、おもしろくないわけじゃないけれどこんなもん読んでなんになるんだろう? という疑問をいだき、それで卒論指導教官だった(……)さんに相談しにいったことがあったのだ。それがたしか大学四年次がはじまるまえ、二〇一二年の二月ごろだったのではないかという気がする(あともうひとつ、じぶんはパニック障害で電車に乗るのが怖かったし、兄が毎日都心のほうまで出かけて何社も受けるという就活をしているのをちょっと見ていたのだけれど、じぶんにあんなことはぜったい無理だ、ぜったいに死ぬとおもったしはたらきたくもなかったから就活はせず(あと、ほんとうは興味がないしそこではたらきたくもない会社の面接を受けて、さもその会社ではたらきたいかのようなことを言わなければならないということの欺瞞ぶりをおもうとうんざりし、そんなことをしなければ生きていかれないこの社会に嫌気が差し、端的に言って嘘をつきたくないとおもったので就活をする気が起こらなかった)、とはいえなにかしらはたらかないといけないわけだからということで地元の市役所にはいろうとおもったのだけれど、それももちろんはいりたいなどとおもっていないわけだから勉強にとても身が入らず(とくに数的推理とか判断推理みたいなやつがむずかしくてぜんぜんわからなかった)、受けに行きながら落ちるなとおもっていたし、じっさいに試験を受けているさいちゅうもわからんもんだからこれはふつうに落ちたなとおもったし、じっさい落ちた。それで身の振り方も決まらずにいたわけだが、それがもしかするとかえって腹を決めたというか、文学ってもんに手を出してみようというその関心を確定的にさだめたという面があったのかもしれない。卒論を終えたあとに父親に、文学っていうもんに興味が出てきているから正職につかず一年くらいそれをやらせてくれと相談したのだ。そんなことをずっとわすれていたが、そういえばさいしょは一年だけとかいう約束になっていたはず。その後たしかもういちど、あと一年だかあと二年だったかわすれたがそのくらい延長された機会があったとおもうが、そのままなしくずしに現在にいたっているわけで、それをおもうと笑ってしまう)。もしそうだとするとその二〇一二年二月はニヒリズムにはまりながらも意外といろいろ読んでおり、二六日にはトーマス・C・フォスター『大学教授のように小説を読む方法』なんていう本も読んでいるから、やはりこの時点でもすでに小説とか文学っていうもんをどういうふうに読めばいいんだろう? という問題意識があるのだ。この本も地元の図書館で借りたものだが、大学教授が素人の読者とちがうのはそれまでに書かれたいろいろな作品の型というかパターンをよく知っていて、たとえばこの作品の主人公は脚に傷を負っていてこれは要するにイエス・キリストとおなじだね、からだのいちぶに傷があるというのは主人公の特性として典型的なもののひとつなんだよとか、そういうふうに過去の作品とか古典とかを踏まえた重層的・象徴的な読みかたをするんですよみたいなことを解説したもので、いまからかんがえるとたいしておもしろくもない読みかただし、読むというのはそんなかんたんなことではないとおもうが、とうじのじぶんにとってはたぶん、へー、そういうもんなのか、おもしれえなとかんじられたのではないか。この作品のさいごで、マンスフィールドの『園遊会』を対象にして読みの一例をしめしていたのもおぼえている。そこでの解釈がどんなものだったかはわすれてしまったが、やはり聖書かなにかになぞらえるようなやりかただったような気もする。
 その後は卒論関連の書物がつづき、はなしをもどして問題の二〇一二年一二月にいたりたいのだが、あいだにはいっている音源の記事が大量なうえに読み込み中になるのでなかなか該当箇所を調べられない。いまやっとみられたが、しかし一二年一二月に『文学部唯野教授』の文字は出てこなかった。どういうことなのか?(いつ読んだのかわからないが、いずれにしても記事がのこっていないということは、書抜きをしようとおもう箇所がなかったということだろう) しかもじぶんが本格的に読み書きをはじめたはずの翌一三年一月も書物の記事はなにもなく、二月一日になって倉田百三出家とその弟子』と池内紀編の『尾崎放哉句集』が出てくる(どちらも岩波文庫)。三日にはレイモンド・チャンドラー『プレイバック』。一〇日に小野正嗣の『ヒューマニティーズ 文学』(やはり岩波書店の入門本)。一一日にはオルハン・パムク『わたしの名は赤』と森見登美彦太陽の塔』。一五日にミラン・クンデラの『小説の精神』、一七日にはおなじくクンデラの『カーテン 7部構成の小説論』。この時期のじぶん、本読むのはやすぎでない? 二〇日に加藤典洋『僕が批評家になったわけ』とキケロー『友情について』。というわけで、その後もジョナサン・カラーの『文学理論』とか、前田愛の『文学テクスト入門』とか、ロジャー・B・ヘンクル『小説をどう読み解くか』、佐藤亜紀『小説のストラテジー』というかんじで、文学作品じたいより「文学の読み方」本がつづく。そんなことをしていないでさっさともっとたくさん実作にふれろとおもうが、三月一〇日にニコルソン・ベイカーの『中二階』が登場する。これはよくおぼえている。とうじすでに(……)さんのブログに遭遇し、ああこういうふうにやればいいのか、こういうふうにいちにちをこまかく書けばいいんだな、じぶんでもやってみよう、というわけでいちにちをなるべくくわしく書くということをこころみだしていたのだけれど、そんなおりにインターネットをうろついていて、子どもが学校で書いた作文が先生に注意されて書き直されたのがじっさい読んでみるとあったことを順番にぜんぶこまかく書いていておもしろい、ニコルソン・ベイカーみたいだ、というブログ記事をどこかで読み、それで興味をもったのだった。『中二階』はじっさい、オフィスからそとに出るところだったか帰ってくるところだったかわすれたが、そこからはじまっていちにちのことをできごとや人物の意識思考やらひじょうにこまかく書きつらねていき、かつところどころに註をつけてそちらでも長文でいろいろかたるという作品で、冒頭付近にエスカレーターの手すりにひかりが反射してどうこうみたいな描写があったのをおぼえているし、主人公が昼飯かなにかを買いにいったストアがなんとかファーマシーで品物が茶色の紙袋にいれられたこともおぼえているし、あとこの主人公男性がワイシャツの裾をパンツ(スラックスということではなく、下着である)のなかにいれこむスタイルを提唱していたことや、トイレでとなりにひとが来ると緊張して膀胱あたりの括約筋(?)がしずまりはたらかなくなってしまい、小便をなかなか出せないのだがそれが恥ずかしいので出ないままにすませたふりをして便器のまえをはなれるということがたびたびあったのち、となりに来たにんげんの顔面にむけて小便をぶっかけてやる想像をするとそれが解決されるという方策を発見した、というはなしがあったのもおぼえている。
 二〇一三年四月は詩のほうにもふれてみようとおもって詩集をいろいろ読んだ月なのだが、このことはおぼえていた。『族長の秋』にぶっとばされたのは七月だとおもっていたのだが、記事は八月六日につくられている。読み出したのは七月かもしれない。七月終盤から八月一〇日までで保坂和志の小説論三部作も読んでいる。そこでミシェル・レリスなんかを知り、八月一八日にははやくもレリスの日記を読んでいる。みすず書房の高いやつを(……)で買ったのだろう。これはいまももっている。このときいらい再読してはいない。このへんでやめるが、この付近で磯崎憲一郎をよく読んでいるのも、保坂和志がとりあげていたのがひとつ、あと(……)さんのブログでなまえを知ったのがひとつだろう。さいごにひとつだけ記しておくと、七月二日には(……)さんの『誤自脱人』という小説の記事がつくられている。交流がはじまっているわけである。さかのぼってみると五月一日にも『Folktronica』がある。これがいちばんさいしょに読ませてもらったやつだ。たしか海辺のシーンを基調としつつなんか観念的なことをやたら展開するやつで、ニーチェを読んで触発されたみたいなことをとうじ(……)さんはいっていたような気もするが、これはたしかな記憶ではない。めちゃくちゃながく脱線してしまったが、はなしをもどすと、文学に本格的に興味をもちはじめたというときに(……)さんのブログを発見したのはやはり幸福なことだったのではないかということで、じぶんは「(……)」をみつけなくてもなにかしら文章を書くことをはじめてはいたかもしれないし、なにかべつのみちびきをえていたかもしれないが、(……)さんのブログの過去の文章を読むにやはりレベルが高いので、こういうのを日常的に書いているばしょを発見してはまったというのは、みちびきとしてもえがたいものだったのではないかとおもったのだった。
 (……)さんのブログをみつけ、読み書きをはじめ、(……)さんと知り合い、いろいろがんばって読んでいるこのころからもう丸九年ほどになるわけだが、そうかんがえてみてもよくわからない。そうなのか……というかんじ。九年という数字をみるに、もうそんなにという感もまだそれくらいという感もとりたてておぼえず、なにか別世界のようなよくわからなさと不思議さをかんじる。じぶんは読み書きをはじめるまえとそのあととでは端的に別人になったといぜんはおもっていたし、それがそれほどまちがっているともおもわないが、だからといって、読み書きをはじめたあとのじぶんといまのじぶんが地続きだとは、いまはまえよりはそうかんじない。読み書き以前以後のじぶんがおなじだとはおもわないが、そんなにちがっているともおもわなくなった。過去はきのうやすこしまえのことであろうが何年もまえのことであろうが、なにかたんじゅんに別世界のようなよくわからなさを帯びていまはうつる。それらがすべていまから等距離であるとはおもわないし、そんなわけがないともおもうが、過去であるというだけでみな平等に、それぞれ過去としての資格をえているようにおもえる。
 ところでそういえば、食事を用意するときにあがったとき、母親が、(……)のおばあちゃんが亡くなったんだって、と知らせてきた。(……)さんの祖母、(……)の両親の母親ということだ(たぶん父方か?)。したがって、あした両親は兄夫婦のところへ行く予定だったわけだがとりやめ、むこうからこちらに来るのもとりやめ。九二歳くらいだったようだ。


 風呂を出て洗面所でからだを拭いていると扉のむこうの台所で母親と父親がやりとりしているのがきこえたのだが、父親が皿を洗おうとしているらしく、いいから、洗うから、というセリフ(「いい」のぶぶんを「いぃい」みたいにちょっと伸ばす言いかたが母親にたいするわずらわしさをあらわしている)がきこえ、母親はそれで洗っちゃうと油っぽくなっちゃうから、とかいっているのだがそれは油物(というのはたぶんこちらがつくったソテーか?)の皿をさきに洗ってしまうと皿洗い用の網状の布がベタベタしてほかの食器にうつってしまう、ということだろう。父親はその忠告もしくは介入にやや気色ばんで反発しており、こちらが髪をかわかし終えて扉をあけた直後、台所のながしのまえでじぶんのひだりにならんだ母親のほうをむいて、洗っていいの? と、いらだちをはらんだおおきな声できいていた。こちらはそのうしろを抜けて居間のテーブルの端でポットからコップに白湯をそそいだのだが、その間父親は、こちらと入れ替わるようにして洗面所のほうに行った母親にたいしてともひとりごとともきこえる口調で、さきほどの気色ばみを薄い笑みに変えながら、うるせえんだよまったく、いちいち、ひとそれぞれのやりかたがあるんだから、と言い、そのさいごになあ? と同意をもとめる問いかけがついたのはたぶんカウンターをはさんで目のまえにいたこちらにむけられていたのだとおもうが、じぶんはそれを無視し、黙ってうつむいたまま白湯をポットからコップに受けるだけでなにもこたえなかった。湯のはいったコップをもって階段のほうにはなれると、ふざけんなよ、というつぶやきをもらしているのがきこえた。
 夜は日記を進行。二四日の通話時のことを記述。よくおもいだせず、やややっつけ的になってしまったが、数日経っているので致し方ない。二四日からぜんじつの二八日まで一気にブログに投稿。深夜二時台から詩をやろうとおもって進行中のやつの記事をひらいたのだが、いま書いてあるところまで読みかえして細部をほんのすこしだけ変え、それで一行足しただけでちからつきてしまった。いちにちの終わりではなく、もっとエネルギーがのこっている段階でやらないとすすめられない。

若森 本書全体での人間像の根底にあるのは、人間の自身に関する「無知」です。人は、最初から自分がどういうポテンシャル(潜性力)を持っているか知らないし、自分にとって善き生はどういうものなのかについても、予め知らない。この「無知」の定義が本書の出発点にあります。人生の試行錯誤の過程において意図せざる経験をし、また他者と出会うなかで、自分のことについてもだんだんとわかってくる。本書はこの点を強調しています。

人間の自身についての「無知」を基礎にしながら自由の意義を問い、善く生きる(ウェルビイング)とはどういうことかを考察する。これらの問いと絡めながら、福祉国家の構築へと議論を組み立てています。

橋本 先に挙げたセンのケイパビリティでいうと、私はこの概念に着目した上で「潜性的可能性としてのケイパビリティ」(capability as potentiality)という考え方を提示しています。というのは、センのいうケイパビリティは理論的に行き詰まっていて、私が考える潜性的可能性という側面から構築しないと、その考えの一番重要な部分が理解できないだけでなく、欠陥をもつことになるのです。

どういうことかというと、センはケイパビリティを、すでに能力として持っている、「できること」(ableness)という形でしか定義していない。でも、これでは「人は何が幸福なのかわからない」という問題と同様、自分の能力を十分捉えきった概念ではない。そうではなく、ケイパビリティとはむしろポテンシャル(潜性力)として捉えるべきで、自分でまだ気づいていないポテンシャルをいかに引き出すか、と問うべきなのです。

ですが、それに自分で気づいて、自分から引き出すのは難しい。だから他人にお願いして引き出してもらうような配慮をしてもらいたい。そういう、無知の前提に立った上で、その無知に対処するために福祉国家を営むことが必要になる。自分のポテンシャルを自律的に引き出すのではなく、自律した生活よりもすぐれたウェルビイングを求めて、政府に対して自律の代行を求めることができる、と考えます。

では私たちは、自律を超えるウェルビイングの理想を、どのように追求しうるのでしょうか。それは私たちそれぞれにとって、自分のウェルビイングが自生的に生まれるような環境においてである――本書の第5章で提示した、自由の原理である「自生的な善き生」の理論は、こうした政策理念を提供するものとして構想しました。

若森 「自律を超えるウェルビイング」という今のお話の論点、興味深いですね。本書の第2章「福祉国家の哲学的基礎」に、次のような印象的な一文があります:「人は、自己目的の観点から潜勢的可能性を捉えるだけでは、その力能を十分につかみとることはできない」(145頁)。人は生きるに値する人生を送りたいと根源的に欲求している。ただし私たちは、自分自身について配慮するのが苦手であるし、その可能性も孤立していてはわからない。

だから、ウェルビイングには自律を超えた、社会的な文脈が必要になるんですね。私たちには、自分自身に配慮するだけでなく、他者に配慮するようなシステムや社会的な土壌が不可欠である。この点にこそ、福祉国家の積極的な意義や役割があるともいえるわけです。――この点こそ、社会哲学者・橋本努が本書で示した福祉国家の理念の礎となる思考がある、礎といえるでしょうか。

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若森 話は変わりますが、本書は教育格差の議論にも活きるのではないか、と思います。生き方のロールモデルについては、ジェンダー・ギャップの問題や論じ方と絡めていろいろと考えさせられるところがあります。

たとえば、「親密圏」でのロールモデルは家父長的なもの以外の選択肢については非常に限られています。他方で、公共圏では従来の(男性主義的な)競争システムや官僚制などの支配システムが主流です。グレーバーのいう「ブルシット・ジョブ」を高評価するシステムのなかで、魅力的なウェルビイングのロールモデルを見つけることは容易ではありません。本書で橋本さんが論じる、互いに配慮し合う「もてなされた生」ともいえないですよね。

教育の役割とは、親密圏の制約から出るというチャンスの提示でもある。アーレント的に言うと、私的領域で閉じ込められ、奪われている(deprived)ところから解放される。そういう意味で、「もてなされた生」にいかに配慮するかは、教育格差をなくすという議論と哲学的な問題として重なるのではないかと思っています。私的領域から解放された、先の公的領域がいかにクリエイティブでありうるか、という点も機会があれば、また、お聞きしたいです。

橋本 この点、本書でいうポテンシャル(潜性力)の概念がカギになると思います。人はそれぞれ生まれ育つ家庭で、早い段階からアイデンティティを持ちますが、同時に自分の中の他のポテンシャルに気づく機会を奪われてしまう。だから教育で、いろんなポテンシャルに気づく機会を提供すべき、となる。

豊かな文脈で育った人は、そこに位置づけられた自我(situated self)のもと、コミュニティの中で生き生きとすることができる。しかしそうした豊かな文脈に恵まれてない人もたくさんいる。だから、その文脈から離れたところで、未知のポテンシャルに気づくことが重要になる。あるいは、別のコミュニティ・新しい文脈の中で「もてなされる」ことが生き方として重要になってくる。教育はまさにこの「もてなされた生」の重要な役割でしょう。

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若森 ナッジを熟議・民主主義に取り入れているという特徴も指摘しておきたいと思います。「熟議の民主主義」を提起する政治思想史家の宇野重規は、民主主義には熟議が必要である、と論じています。まったくそのとおりなのです。しかし、「熟議の民主主義」が「熟議のための熟議」となってしまっていては、人々は失望してしまう。それに対して橋本さんは、「ナッジが熟議を刺激する」という表現をしています。ナッジそのものが、価値の普遍化や多元主義を超えるというわけではありません。しかし、ナッジを民主主義を活性化する「仕掛け」として組み込めば、自由や福祉国家の理念についての熟議も刺激される可能性がある。政治についても言えることだと思います。

橋本 背景から説明すると、経済思想では「自由市場に任せるか、政府が介入するか」の対立があり、それに対してキャス=サンスティーンはリバタリアンパターナリズムの立場から、「介入とは自由のために行われる」という、真ん中を取りに行く議論をしました。私はそこから一歩進んで、「どういう自由のための、どういう介入がいいのか、要するにどういうリバタリアンパターナリズムがいいのか」に焦点を当てています。

というのは、リバタリアンパターナリズム自体は、「効用が高まりさえすればいい」という社会的厚生主義の立場なので、それ自体では介入の仕方は何でもありの議論になってしまう。ですが、本書でも論じるように、功利は数値で測ることができるものもあるけど、わからないことのほうが多い。それがわからないのであれば、争点とすべきはやはり価値なのです。

その価値にはいろいろな議論があり、熟議もその一つですが、一番重要なのは、私たちが市民社会を築くにあたって、「理性的に考える時間を増やすのか、それとも創造的になる時間を増やすのか」ということです。これまでの議論の考え方とは「みんなが理性的に熟慮すれば、もっといい社会になるだろう」という発想です。これは、自分が無知であることを知り、無知を理性的に克服するということですが、私は必ずしもそうとは思わない。

もちろん議論の過程で他人の意見も聞くわけだから、自分の無知はある程度相対化されます。でもそれは、その他人が自分より知識があればの話ですし、議論したってわからないということも十分あり得る。

例えば、将棋を指す人と解説する人を考えてみましょう。将棋を指す人には、理性的・反省的に考えていると却(かえ)って前に進めないことがあります。むしろ、ある種のクリエイティブな直感を頼って、それを切り開いていくような行為でもって前に進んでいく。これは、ハンナ・アーレントのいう活動(action)ですが、それは理性的で自律的な営みとしての仕事(work)とは違う。自分がどうしたらいいのかわからないなりに前に進んでいくことができる、善き生とはそうした活動(action)の形でありうる、といえるのです。

ある「一手」を指すための直感は、議論の中では鍛えられないんですよね。もちろん、なぜその一手がいいのか、議論し、やはりいい手だったと納得することはできるけれど、「じゃあ君、指してみてください」って言われても、熟議でそれが身につくわけではないですよね。スポーツや音楽、演劇、あるいは多くの場面で、熟議しても身につかない能力はたくさんあります。私が本書で論じているモデルは、こうした理性を超えるような能力を引き出すことを、社会的にどう奨励するかという話です。

その時、ある人たちをロールモデルにして憧れを抱く。その人になれるわけではないけれども、自分の中のロールモデルを増やしていく、そういうあり方が、一つの人的な資本形成になる。これが私が考える介入の正当化、つまりロールモデルを増やす仕方で活動的な生(vita activa)を支援し、福祉国家を作っていくべきというものです。

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橋本 私の母はいま認知症で、記憶がなくなりつつあるんです。そうすると、自分の人生が良かったのか悪かったのか、そういうことを考えようにも、本人はやがてたどることができなくなるのではないか。私の理論のなかで「回顧された生」という理念があるのですが、これは現在の効用よりも、過去を回顧した場合の効用のほうが重要、という議論です。まさに己の人生をどう捉え返したかが重要なになるんですが、しかしそれは本人だけでなく、他人が捉え返す視点でもありうるという議論になっています。ケアしてくれる人がその人の過去を知っている、物語的に受け止めてくれている。そこに善き生の可能性があると思うのです。

私が本書で理論的・哲学的に一番苦労したのは、効用(utility)の概念からウェルビイングの概念を導くところで、それだけでも3ヶ月を費やしました。実はこれまで、効用についての哲学はほとんど展開されてきませんでした。近代経済学の哲学、経済思想では、日本だと清水幾太郎が『倫理学ノート』(岩波書店、1972年、講談社学術文庫、2000年)で少し紹介した程度で、それも途中で考察が中断しているんです。そしてその後、「効用とは何か」を引き受けた現代的な理論はほとんどなかった。

私はそこに取り組みました。そして、「効用と異なり、ウェルビイングは第三者が判断する/三人称になっている」という結論に至りました。ウェルビイングには「他者が誰かを配慮する」という考え方が入ってくるんですね。社会を回していく一番の根本原理として、ウェルビイングには他者を配慮(ケア)することが据えられている。そこからいろいろなことが理論的に派生していく。

これまでリベラリズムは権利・義務・正義という、大文字の男性的な理念で語られてきたんですが、本書の理論ではこれらの理念を用いず、別の観点から論じている。それが、ケアの倫理をはじめ様々な可能性を開いていると思っています。(……)