2022/5/4, Wed.

 先に述べたように、一九五〇~一九七〇年代に市民の提案や申し立てを重視し、その権(end213)利を保障する決定が何度もなされていたが、必ずしも実現していなかった。ゴルバチョフの右腕としてペレストロイカを推進したヤコブレフは回想で、一九八五年末にゴルバチョフに提出したメモで次のように述べたと記している。「国家機関の行為に対する不服申し立てを含め、あらゆる問題で個人の権利を保護すること。国民は行政機関と官吏に対して訴訟を起こす権利を与えられなければなりません。行政訴訟を扱う行政裁判所が必要です」。
 この指摘からも、国家機関と社会団体に対して活動改善を提案する権利や不服を申し立てる権利に関する憲法の規定は、この時点まで事実上紙の上のものにとどまっていたと言えよう。これは主に、批判をおこなった者が、職場の所属長や党機関・労働組合の幹部、さらには国家保安委員会によって抑圧されることがあったからである。しかし、憲法に規定された権利は、ペレストロイカが始められたことによって実質的な意味を持つことになった。ゴルバチョフは一九八七年一月に、「下からの統制」の重要性を訴え、腐敗や職権濫用を批判し、グラスノスチと批判の必要性を強調した。ゴルバチョフは、批判された者が保身に努め、批判者に対して締めつけや抑圧をおこなう例がめずらしくないことを指摘し、マスメディアの力を強めることが必要だと述べた。ゴルバチョフは、社会を活性化し、「停滞」から脱却する武器として「下からの統制」を活かすため、人々による批判を奨励(end214)し、マスメディアの役割を強調したのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、213~215)



  • 「英語」: 808 - 819, 101 - 122
  • 「読みかえし」: 721 - 728


 一〇時一五分離床。きのうはこちらの習慣からするとかなりはやく、一時四〇分ごろ消灯したのだが、そのわりにはやく起床することができなかった。これいぜんにも二、三度さめた記憶はあるが。ゆめをいくらかみたけれど起床時にはほぼ消滅。おぼえているのはひとつだけで、蓮實重彦に小説をみてもらって酷評されたというもの。設定としてはほかにふたり、あわせて三人がウェブ上で小説を提出して、それを蓮實重彦が審査して順位をつけるみたいなものだったようだ。評価をいいわたされたのは自宅の居間で、いちばんわるいものとしてさいしょにこちらが呼ばれて、こんなにひどい作品はありませんみたいなかんじでボロクソに評された。書いたものは短篇で、たしかにどうやらじぶんでもうまく書けたとはおもっていなかったようで、物語的なながれとか有機性をつくることができず、かといって文章や個々の描写としても冴えない半端で退屈なしろものだったようだ。
 水場に行ってきて『フランドルへの道』を少々読んでから瞑想。上階へ。ジャージにきがえて食事はきのうのマグロソテーののこりなど。新聞、国連もかかわってマリウポリから市民の退避がおこなわれているものの、ロシアはマリウポリ市内外に「選別収容所」なるものをもうけて避難の可否を決めているという。一七歳の少女の証言があった。この子は両親と妹の四人で避難したがとちゅうでみつかって選別にかけられた。一四歳以下は免除されるとかで妹と病弱な母親はまぬがれ、父親と少女のふたりが尋問をうけたが、少女じしんのほうは兵士が「童顔すぎる」といってすぐに解放したと。もし兵士の好みに合っていたら性的暴行を受けていただろうとのこと。父親のほうは携帯電話のデータを消去していたことが発覚し、そこを追及されてあたまを殴られ、そのせいで片目を失明しながらも選別はなんとか通過することができ、その後負傷したからだで車を走らせて避難することができた。ブチャなどの虐殺しかり、マリウポリ市内の同様の状況しかり、この「選別収容所」しかり、ロシア国内への強制連行しかり、ほんとうにナチスドイツがおこなったことと変わらない行為が現におこなわれているらしい。知床のKAZU Ⅰの件は運行会社の社長が記者会見で言ったことと遺族むけの説明会での資料にくいちがいがあり、社長は規定についてよく知らずきちんと理解していなかったようにみえるとのこと。事件時も病院におり、船長が航行中に海や風のようすを報告する定期連絡もおこなっていなかったという。
 その後はいつもどおりものを洗ったり、部屋に帰ってからは音読をしたり。天気が良かったので布団も干した。三時くらいからはひたすらになまけてしまい、八時ごろまでずっとごろごろ。こんなにごろごろしたのもひさしぶりだ。夕食をとって食器を洗ってのち、きょうのことをここまで記した。いろいろいそがしかったので四月三〇日以降をぜんぜん書けていない。 


 この日はあとなにをしたのかおぼえていないが、めだったことはほぼなにもせずにやはりだらだらなまけたとおもう。そのわりになぜか夜半すぎくらいでもう疲労がきざして、いつか意識をおとしてしまい、気づけば四時だったのでしかたなく消灯してねむりについた。