2022/5/14, Sat.

 こうした日々のなかで、数年にわたった仕事も何とか形になりそうな所まできた頃、どうしても見つからないある十九世紀の精神科医の本があって、思いあまった私はリュフ先生に持っておられぬかと手紙を書いた。そしてもしお持ちならば是非読ませていただきたいとつけ加えた。私のなかには書物に対する古い感覚があって、こうした要求をするのには勇気がいった。けれど、ただちに返事があって、その本は手元にあるからすぐ来るようにと記され、私の杞憂は霧散すると同時に心が躍った。とるものもとりあえず先生の書斎に着くと、親切にも先生は私に机と椅子とをあてがい、目的の本を私の前に置いて下さった。その時、私の心は感動で震えていた。ほとんど嬉しさで泣きたいほどであった。それは久しく捜し求めていた書物が今眼前にあるということをこえて、真の師と呼ばれるものの偉大さであり、人の心がそれほど無償に美しくなれるものであることに感動していたのだった。人の心がある場合には涯しもなく知性をもつがゆえに悪魔的になりうるのとは反対に、無限に高貴にもなりうるということを弟子に示すのが、魂の聖なる火を手渡してゆく師の姿なのではあるまいか。……私は書斎の窓に夕暮が落ちてくるまで懸命にページをくりノートをとった。精神の炉が白熱してゆき、もはや何物も眼中になく、古びた紙を開いていったのだが、その時、私はふと、ごく小さなそして人(end136)の知らない世界であろうと、一つの信念に身を捧げてゆく人々の深い歓喜がほんのわずかでも分ったように思ったのだった。そして、こうした精神の熱狂と呼んでもさしつかえのない状態こそ、都会という澱んだ空間のなかで私が捜しあぐねていた魂の気象ではなかったろうか。自らに巣食った停滞を破るその魂の状態 [エタ・ダーム] は、自己という牢獄をこえてゆく無償の大きな愛によくにているように思われたのだった。必要なノートをとり終ったころ、手元がやや暗くなっていつものように冬の短い日は暮れようとしていた。
 「おもしろかったかね。」
 いつのまにか背後に立っておられたリュフ先生はそう声をかけ、常日頃のように御茶の席に招いて下さるのであった。そしてひとたび書斎の扉を閉ざすと、東洋の一青年に茶菓子をふるまわれる優しい方であった。青春時代には眼を悪くされ、医者の命で一時は学問を諦められて、高等中学 [リセ] で教鞭をとられていたというような想い出話や、在野にも学者以上に物識りはいるのだ、というような戒めの言葉などを謙虚に語られるのだった。そうした大いなるへりくだりの心は俗につながった野心を赤面させるに充分であり、またそこに先生のカトリック信仰を思わずにいられなかった。実際、優れた個人はどのような時代、風俗、どのような政治体制においても優れたものではないか。多分、先生の静かな日々はいまだ私のものではない、私はまだまだ俗にまみれ、路頭で行きくれる日もあるだろう、(end137)という意識は消しがたくはあったが、広間の肱掛椅子にいる間は愛する人々だけを集めた一種のファランステールの夢を追うことができた。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、136~138; 「Ⅱ ベイルート夜話」)



  • 「英語」: 371 - 400
  • 「読みかえし」: 757 - 761


 寝坊して一一時五〇分の起床。曇天である。きのう降っていた雨はやんでおり、空気は白くてもよどみはすくなく、気温が高くて窓をあけても風の気配がはいってこずに大気は停滞にぬくもっている。水場に行ってくると書見。クロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』。一二時半ごろまで読んで階上へ。ジャージにきがえる。上着はきのう自室で脱いだまま枕の横に置いてあり、ジャージになったのはしただけで上半身は黒の肌着である。洗面所で洗顔やうがいをしたり口をゆすいだりして、食事。きのうの炒めもののあまりやシュウマイなどをおかずに白米を食べる。卵や野菜のはいった醤油風味のスープも。新聞を読もうとしたがテレビで中居正広が司会をつとめる報道番組というかワイドショーがやっており、ウクライナのことをはなしていたのでそちらに邪魔されてあまりうまく読めなかった。中居正広っていまこんなことやっているんだなとおもった。テレビに出演していたのはかれのほか、劇団ひとりみちょぱ古市憲寿とあとは知らないにんげん。専門家らしき男性も遠隔でつながり、こなれた調子で明快にものごとを説明していた。その番組で瞥見したところではプーチンが「自由主義は時代遅れだ」と発言したというのだが、これはいま検索してみるとどうやら過去の発言を紹介していたぶぶんのようで、「プーチン氏「自由主義は廃れた」 FTインタビュー」という日経の記事が出てくる(2019/6/28)。Financial Timesとの単独インタビューでそう言ったらしい。英語で検索すれば、”Putin: Russian president says liberalism 'obsolete’”(2019/7/28)(https://www.bbc.com/news/world-europe-48795764(https://www.bbc.com/news/world-europe-48795764))というBBCの記事も出てくる。そこからかれの発言を引いておくと、以下のようなかんじである。

The Russian president said the ideology that has underpinned Western democracies for decades had "outlived its purpose".

The Russian leader also praised the rise of populism in Europe and America, saying ideas like multiculturalism were "no longer tenable".

     *

"[Liberals] cannot simply dictate anything to anyone," said Mr Putin, who is on his fourth term as president.

He added that liberalism conflicted with "the interests of the overwhelming majority of the population," and took aim at German Chancellor Angela Merkel for allowing large numbers of refugees to settle in Germany.

"This liberal idea presupposes that nothing needs to be done. That migrants can kill, plunder and rape with impunity because their rights as migrants have to be protected."

Mr Putin, 66, also said Russia had "no problems with LGBT persons… but some things do appear excessive to us".

"They claim now that children can play five or six gender roles," he continued.

"Let everyone be happy, we have no problem with that. But this must not be allowed to overshadow the culture, traditions and traditional family values of millions of people making up the core population."

 それで、じぶんがなぜプーチンのこの発言にひっかかったかというと、やっぱりヒトラーといってることおなじなんだよなあ、とおもったからだった。いぜん読んだヒトラーの演説中の発言の記憶が触発されてよみがえったのだ。したの引用の、「民主主義がお話にならないことは誰もが知っている」という一文。まあ前後とか文脈とかはそんなに似てはいないが、「自由主義は時代遅れ」というプーチンの発言と、ヒトラーのこのひとことがじぶんのあたまのなかでひびきかわしたのだった。

 今、ドイツ人はどうすれば救われるか。どうすれば失業を逃れられるか。私は一四年間言い続けてきたが、何度でも繰り返し言おう。経済計画や産業への信用供与や国庫補助金はすべてナンセンスだ。失業から逃れられる方法はふたつしかない。ひとつ目はどんな価格でもいいから、何としても輸出を増やすこと、ふたつ目は大規模な移住政策をとることだ。これ(end50)はドイツ国民の生存圏の拡大を前提条件とする。私が提案するのは二番目の方法だ。五〇年から六〇年で、まったく新しい健全な国家ができあがるだろう。しかしこれらの計画は、必要な前提条件が整ってはじめて実行に移すことができる。前提条件とは国の強化だ。ひとはもはや世界の市民であってはならない。民主主義や平和主義などありえない。民主主義がお話にならないことは誰もが知っている。民主主義は経済においても有害だ。労使協議会は兵士の協議会と同じくらい無意味だ。なぜ民主主義がこの国で可能だなどと考えられるのか。[……]ゆえに政権を掌握し、徹底的に破壊分子の考えを抑圧し、道徳的規準に沿って民衆を教育することがわれわれの仕事だ。反逆を試みる者がいれば、死刑をもって冷酷に罰しなければならない。あらゆる方法でマルクス主義を抑圧することが私の目標だ。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、50~51; 一九三三年二月三日、ヒトラーの演説)

 食事を終えると食器を洗い、そのまま風呂も。終えると白湯をコップについで自室へもどった。コンピューターをスツール椅子のうえに乗せてNotionを準備し、きょうはさいしょに音読するのではなくてきのうの記事をさきに書いて投稿してしまった。それから「英語」と「読みかえし」を音読。BGM(いつもFISHMANS『Oh! Mountain』)をながすので窓を閉めるのだけれど、きょうはそうすると蒸し暑くて肌が火照りにかこまれたようになるくらいの気温である。音読後、きょうのことをここまで記述。プーチンの発言を検索する過程でロシア関連の記事をいくつかみつけ、なかにひとつ、松下隆志・岩手大学准教授「現代ロシア作家に広がる「プーチン支持」 ドストエフスキートルストイの“文学大国”はどこへ」(2022/5/9, Mon.)(https://news.yahoo.co.jp/articles/a7864d00ce6bc72e686c0871ee8d79a7bfec17e1(https://news.yahoo.co.jp/articles/a7864d00ce6bc72e686c0871ee8d79a7bfec17e1))というのがあった。それによれば以下の由。

 このように体制に批判的な作家がいる一方で、逆の立場の作家もいる。サンクトペテルブルグの作家パーヴェル・クルサーノフ氏(61年生まれ)は、ソ連アンダーグラウンド・ロックの世界で活躍した後、文学活動に転じた。作品は徐々に帝国主義的傾向を強め、出世作となった歴史改変小説『天使に噛まれて』(00年)はその反米的な内容が物議を醸した。地元の知識人らと「ペテルブルグの原理主義者」と称するグループを結成し、02年には芸術的な「パフォーマンス」としてプーチン大統領宛にロシアの領土拡張を訴える公開書簡を送った。

 プーチン政権下でロシア文学は急速に保守化したが、今回のウクライナ侵攻との関連でとくに見逃せないのは、若い世代による愛国的な文学の台頭だ。この傾向を代表するザハール・プリレーピン氏(75年生まれ)は、大学で学ぶかたわらオモン(ロシア警察特殊部隊)隊員としてチェチェン紛争(ロシアからの分離独立を目指すチェチェン共和国との紛争)に従軍し、戦場での実体験にもとづいて書いた戦争小説「病理」(04年)でデビューした。

 荒削りながらエネルギッシュで躍動感のある文体を持ち味とし、作中ではしばしばマチズモやヒロイズムが強調される。「帝国」としてのロシアを賛美し、ブログや作中でプーチン大統領をじかに「皇帝」と呼んでいる。

 もっとも、プリレーピン氏は最初からプーチン大統領を支持していたわけではなく、かつては「ナショナル・ボリシェヴィキ党(NBP)」という極右と極左の要素を併せ持つ過激な反体制政党の党員だった。ファシズム的なイデオロギーなどから「ネオナチ」と称されることもあるが、党首エドゥアルド・リモーノフ氏のカリスマ性も手伝ってNBPは愛国的な若者の間で人気を博し、90年代ロシアのサブカルチャーを象徴する現象の一つにもなった。

 客観的に見て、ロシアの現代文学におけるプリレーピン氏の快進撃はめざましいものだ。ヤースナヤ・ポリャーナ賞、ナショナル・ベストセラー賞、ビッグ・ブック賞などロシアの主要な文学賞を相次いで受賞し、11年にはスーパー・ナツベスト賞(過去10年間のナショナル・ベストセラー賞受賞作の中からとくに優れた作品に贈られる賞)に輝いている。また、創作だけでなく評論活動や若手作家のアンソロジー(作品集)の編纂(へんさん)などにも積極的に取り組んでおり、新世代の文学の牽引役として存在感を示した。さらにその旺盛な活動は文学の領域のみに留まらず、俳優やミュージシャンなど多彩な顔を持っており、自身のユーチューブ・チャンネルも開設している(チャンネル登録者数16.5万人)。

 その一方で、公然とスターリンを礼賛するエッセイ(12年)を発表するなど、強い愛国心に裏打ちされた過激な政治的言動はたびたび問題視されてきた。リベラル派との溝は次第に深まり、14年のクリミア危機をきっかけにプーチン支持に転向した。ウクライナ東部のドンバス戦争にも積極的に関与する姿勢を見せ、「ドネツク民共和国」の首長アレクサンドル・ザハルチェンコ氏の顧問となり、同地で自身の大隊を招集した。18年8月にザハルチェンコ氏が暗殺される1カ月前にロシアに帰国したとされるが、その後のユーチューブのインタビューで自分の大隊がいかに多くの敵を殺害したかを自慢げに語り、これまた物議を醸した。

 うえまで書いた時点ではやくも午後四時がちかくなっていた。ベッドにねころがって書見。『フランドルへの道』のつづき。第三部にはいった。扉ページにひかれている題辞がかっこうよい。「肉体のよろこびとはつまり、ひとりの死者のからだをふたりの生者が抱きしめることなのだ。その場合の《死体》とは、しばしの間扼殺され触覚でたしかめることのできる実質と化した時間だ。」(マルコム・ド・シャザル)。この人物がなにものなのか、はじめてみるなまえだしまったく知らなかったのだが、検索するとマダガスカルの詩人だと出てくる。「ジャン・ポーランに見いだされた、叙情的で感覚的な新進の詩人の一人」とコトバンクのページにはあって、ジャン・ポーランというなまえはきいたことがあるのだがどこできいたのかもどういうにんげんなのかもわからない。レジスタンス方面のなまえだった気はするのだが。マルコム・ド・シャザルはマダガスカルの詩人とあるいっぽうでモーリシャス生まれらしく、Wikipediaには、”Except for six years at Louisiana State University, where he received an engineering degree, he spent most of his time in Mauritius where he worked as an agronomist on sugar plantations and later for the Office of Telecommunications.”とあるから、「マダガスカルの詩人」ではないのでは? という気がするのだが。アンドレ・ブルトンが称賛していたらしい。『フランドルへの道』の第三部はおもしろく、これまでも文章が句読点なしでながくつづくマシンガン的な箇所はおりおりにあったけれどそれがまた出てきて、しかもそのとちゅうで場面がいきなり変わって時空がとけあい混線するようなおもむきになっている。読むのに骨は折れるがそんなに読みにくかったりわけがわからなかったりするわけではなく、比喩によるイメージはあるけれど基本的にはあくまで具体的な行為や知覚のたたみかけになっており、観念とか考察のほうに遊離しないのがじぶんとしては好きなポイントで、とりわけこのへんではこれまでによくあったように丸括弧の挿入で修飾を膨張させたりやたらながい形容をつかったりすることがそんなになく、句読点のくぎりは排しながらも比較的みじかい分節で情報をかさねていくやりかたになっており、その具体性のたたみかけによるひたすらな執拗さみたいなところに惹かれる。『族長の秋』をじぶんでもいずれやりたいとむかしからずっと夢想しているが、シモンのこういう句読点なしのマシンガン的文体でそれをやることも不可能ではないかもな、とおもった。ただ、これでもって一定のペースで叙事をやるのはむずかしいだろうし、わざわざこの文体で『族長の秋』のような一定性をたもってもそれはなんか、という気もするので、そのへんはまた問題になるだろうが。ただ、この文体でながたらしい歴史とか神話を語るような長篇小説ができたらおもしろそうな気はする。歴史の声というか、歴史そのものが語っている、みたいなかんじにできたらよさそうなのだが。
 四時四五分から瞑想。ここ数日はストレッチなどでからだがととのっているので瞑想をサボりがちだが、なにもせずじっとする時間もとっていきたい。カラスが数羽、窓外でさわがしくしきりに鳴き交わしており、一羽は距離がちかくて飛んで移動しながら声を降らしているのがわかり、その声はカーカーカーというかんじではなくもっと気のないような、走っているにんげんがハッ、ハッ、ハッ、と一定の間隔で息を吐くような鳴きかたで、はばたきのおとはきこえないけれどまなうらで空中を移動している黒いすがたのイメージが宙を打つ翼のうごきと同期するかのような一定性で、そのほかに三羽がよりとおく、ばしょもわかれて空間の奥から声を発してわたらせて、第一のカラスのはっきりとした実体的な声のしたやそのむこうに交雑するように浮かべていたが、それらの鳴きかたはみんな異なっていた。カラスたちの声が去れば近間のより地上にちかいところでチュンチュンいう小鳥たちの声があちこちに散る。
 五時一〇分まですわってうえへ。台所にはいって手を洗う。蕎麦が食べたいと母親。豚肉があり、自家製らしい新タマネギもシンクのうえに置かれていたのでそれらを炒めることに。汚れているフライパンに水をくんで火にかけ、そのあいだにタマネギを切り、沸騰したら湯を捨ててキッチンペーパーで水気とよごれをぬぐい、ピーマンも切ったあと、油を落としてチューブのニンニクとショウガ。そうして母親がいくらか保存用に(袋型の真空パックのたぐいを裏返すようにはめた手で)取ったのこりの肉をフライパンに投入し、木べらふたつをつかってたしょうちぎりながら熱していって、ピーマンとタマネギもくわえて炒めた。醤油と味醂と料理酒と塩コショウをそれぞれてきとうに入れ、水気がおおいのでほとんど煮るかにしながらあいまに切れた醤油のボトルからラベルやキャップを取ってかたづけるなど。母親は鍋でほうれん草をゆでる。炒めものができると洗い物を始末し、蕎麦をゆでるのにいいおおきさの鍋がないというので収納をみたが、まえあったのをいくらか出してしまったらしくたしかにちょうどよい器具がない。フライパンでやるとなると狭すぎるし、いつもタケノコを長時間湯がくのにつかっている巨大鍋だとおおきすぎるのだが、まあそれでやるしかないだろうと頭上の戸棚の天井ちかくからそれをとりだし、水をそそぎいれてコンロに乗せた。しかし母親が天麩羅をやるというし、まだ時間もはやかったので麺をゆでるのはそのあとでいいだろうとおもって、いったん白湯とともに下階にもどってきてここまで記せば六時四〇分。空腹。


 上階へ行くと父親がすでに蕎麦をゆでて、ゆであがったものをパックやちいさな竹ひごのザルにまるめてわけているところだった。それをもらい、天麩羅や炒めものもあたためて用意し、長方形のおおきな盆に膳をならべて下階へ。(……)さんのブログを読みながら食す。五月二日付。二〇一一年一一月六日からのエピソードがおもしろい。金の神マモンをあがめるアイドル業界のたましいの売りっぷりもやばいし、アイドルのひとも苛烈な競争がたいへんそうだし、Fさんもやばいしで内容が濃すぎる。

NMB48の握手会に参加してきたFさんの土産話が面白かった。せいぜい数百人程度の参加者だろうとFさんは見込んでいたらしいのだけれどじっさいは数十万人いたとかいっていて、数十万人はいくらなんでも大袈裟だろうと思うのだけれど、意外だったのは女性ファンもかなりな割合で会場に来ていたということで、Fさんは事前にCDを3枚だか購入していてそのため三度にわたって握手のための列にならぶことができるとかそういうシステムになっているらしいのだけれど、えげつないことに握手チケット付きのCDが当日の会場でも山のように販売されていたみたいで、そこは金に糸目のつけないFさん、とりあえず8枚購入したとかいっていたのだけれど、それとはまた別にメンバーの写真だかポストカードだかが一枚1000円で販売されているらしいのだけれど中身がランダムという鬼畜仕様というか、つまりいちばんお目当ての女の子の写真が出る確率は1/48とかになってくるわけでそのあたりもほんとえげつないと思うのだけれどとりあえず Fさんはそのお目当ての子をもとめて50枚購入したと言っていた。あとFさんの好きな子は上から二番目だか三番目だかに人気のある子でそのため握手の列もとてもこんでいたらしいのだけれど、そういう列にならびながらふととなりのレーンを見遣るといまひとつ人気のないメンバーなのかひとけはなくガラガラで、その先でぽつねんと立つ女の子のさびしそうな表情を見ているといてもたってもいられなくなるというか、そういうときにかぎってふとその子と目があったりして、するとこちらにむけてうるうる目線を送ってきたり小さく手をふってきたりする、そんなことされればなあ(……)くん! もう行くしかないやんそっち側にさァ! と義侠心あふれるFさんは熱弁していて、たいして興味もなかったメンバーの列へ途中で抜けて握手してそれからまた別のチケットで本命のところにならびなおして、それでその本命の子といざ握手するとなったとき、あなたさっきとなりの子に浮気してたでしょ!? みたいなことを言われたとかなんとか、いやー参ったわ、きっちり見られとると思わんかったからなァ、これからは一筋ですって言うといたけどな、と語るFさんのデレデレっぷりは半端なく、それにしても「浮気」という語を使ってみせるなんてそのメンバーの子もなかなかしたたかだなぁと感心した。

 したの小説案もよくおぼえている。

 エリーにもきっと十七歳のころがあった。当然のことだ。そしてそれはさほど遠くない昔のことだ。わたし自身そのころのエリーと言葉を交わしたことがある。とんでもない! それどころか一年にもわたって衣食住を共にしてきたのだ。にもかかわらず十七歳のエリーがどんな女性だったか、てんで思い出すことができないのはどうしてだろう? それこそサラをつまずかせた最初の疑問だった。疑問というものが答えを前提とすることではじめて成立し、意識化されるものであるということを彼女は知らなかったのだ。
 十二歳のわたしの記憶力はそれほど貧弱なものだったのかしら? いいえ、いいえ、これはきっと記憶力の問題なんかじゃないわ、とサラは考えた。十二歳のわたしと十六歳のわたし――もっとも十六歳のわたしも明日になれば湖の底(トムはまた釣りに出かけているのかしら? ギドとうまくやれているといいけれど! ああ、かわいそうなサールにたいする風当たりがこれ以上強くなりませんように!)に降り積もった仄暗くてやわらかくてちょっぴり生温い泥の褥に沈みこんでしまうんでしょうけど――の違いのせいだわ。四歳のわたしが十二歳のわたしと十六歳のわたしの間にたちふさがってふたりを引き離しているのよ。するとサラの頭の中にはたちまち背格好の異なるふたりのじぶんによって右から左から挟み撃ちされているタチアナの、肩幅よりも少しひろく足を開いて腰を落とし地面を踏みしめながら両手を思い切り左右に突っ張って決死の様相で圧迫に抗っている姿がおぼろげとも鮮明ともつかぬ像と言葉の接点でとりむすばれたイメージがあらわれた。それはいわば草の葉のように繊細で、かぼそく、ときにたやすく踏みにじられ虐げられもする、呆れるほどのよわさに震えどおしの、そしてそのよわさを犠牲にしてするどさを獲得した、村の中でもきっと彼女だけしか持ち合せていないに違いない(けれどひょっとするとロランや、もしかするとサールにだってその萌芽のようなものがあるかもしれない、ええそうよ、いいわ、認めてあげる! わたしたちみんな仲間よ、同族よ!)感受性にのみなせるわざだった。けれど――と、摘み取ったばかりのハーブをすでに入り用な野草の数々によってたっぷりとふくらみ彩られてるバスケットの中にちょっとしたアクセントをつけるように添えながらサラは踏みとどまった――けれど、タチアナは四歳じゃない。もう八歳だわ。そうよ、そうなのよ! まるで背骨を刺しつらぬく氷柱のような当惑だった。結局、わたしだってお姉ちゃんと同じことをしているのだ。目を閉じて思い描くタチアナの姿はきっと四歳なのだ。なんてことだろう! 八歳のタチアナをわたしは心のとても深いところ――そう、それこそやっぱり湖の底に降り積もった仄暗くてやわらかくてちょっぴり生温い泥の褥よ(ギドったら最近はトムにまで口答えするようになってしまった。ふところに異教徒から奪った曲刀さえ忍ばせているって、ロランのあの話は本当かしら? いいえ、ギドにはきっとそんな大それたことなんてできないわ、きっとロランを前に大見得を切ったにすぎないのよ)――に葬ってしまっているのだ! それどころじゃないわ、九歳のタチアナも十歳のタチアナも、なんだったら二十歳のタチアナも三十歳のタチアナも、ひょっとすると七十歳や八十歳のきっといまよりずっと落ち着いて率直で素直で穏和になったおばあさんのタチアナまでも、わたしは先回りして葬ってしまっているのだ! まるで村の長い夜を震えあがらせるおそろしい噂 ――それはゴードンが毛皮を売りにピドンへ出稼ぎに行くたびに持ち帰ってくる土産話のひとつで(村のみんなったらどんな手土産よりもゴードンの物語を楽しみにしているのだ)かつては海上要塞として繁栄した北方の半島に位置する海辺の街でじっさいに起こったのだという聞くもおそろしい残虐な事件についてのものだった(ああ、悪趣味なゴードン! 悪趣味な村の大人たち!)――の中でくりかえし語られるあの身も凍るような殺人鬼にじぶんがなってしまったかのような気がして、サラはおもわず身震いした。けれどその身震いには彼女自身、自覚と無自覚のあわいに留めおくことにしているある種の恣意のようなものがあった。そしてそのような恣意的な開きなおりこそが、陶酔的な自己肯定と卑屈な正当化こそが、おそらくはこれまでにも幾度となくつまずきかけたサラの脚をぎりぎりのところでひょいと支えてみせた、重心の安全を保つあのすばしっこい補助の正体であった。
 葬ってしまったものをただちに蘇生する奇蹟を念じるかのようにサラは指先につまんだものから目をあげるが早いか、遠い山並みのむこうにごろごろと唸る雷雲を従えながらもいまはまだはっきりと晴れ渡っている、きらきらとした光線が暖かくやわらかな織物――まるでミュルスさま(またこんな言い方をしてる、癖になってしまったんだわ!)の華奢で繊細な体をゆったりと覆っていたあの最後の絹織物みたい(ああ、かわいそうなサール! もう三年が経とうしているのにいまだにあんなにうちひしがれたままで!)――のようにふわりと敷きならべられてある丘の緑いちめんに狩人のような目つき――ギドが弓の扱い方をお姉ちゃんに内緒で教えてあげると言ってくれてからもう二月が経つ――をめぐらせた。幼子でも区別のつく紫色の花びらを申し訳程度にちらつかせた背の低いハーブを摘むようにとの言いつけなんてまるでいちども耳にしたことなんてないとばかりに花環を編むのにやっきになっているタチアナの姿――そう、確かに八歳の―― をとらえると、ひとつの役割に特化した者だけがおびることのできるすこやかなひたむきさ、透明な懸命さ、輝く無心のなんでもなさによってその一挙手一投足が日の明るみのもとでも見劣りすることなくきらめく無数の燐光で彩られている、痛いほどの貴さをたちまち認めることになった。それはまだいかなる習慣にも規則にも惰性にも傾いてはいない平行な注意力の、その都度その都度の移ろいに背をゆだねて漂うことのできるあの選ばれた一族だけがおのずとにじませることのできる、このうえなく善良で高貴なしるしのようなものであった。あんなふうにたったひとつのちいさな営みに、明日になってしまえばもうきっと忘れてしまうような些細な取り組みにじぶんの全身全霊をそそぎこんだことがわたしにもあったのかしら? あるいはこれからあるのかしら? ちいさな熊のぬいぐるみを背負ったちいさなタチアナにたいしてさえいちいち負い目を感じているじぶんに気がつくと、自嘲にしてはどうにもふてぶてしさに欠ける、どんな家畜も呼び寄せることのできない口笛のような溜息をつかずにはいられなかった。そうだ、いつもこうなのだ。わたしはいつもこんなふうに後ろめたいのだ。でも、どうして? 何にたいして? タチアナはどうして花環を編んでいるのだろう? だれかに贈るつもりなのかしら? 彼女の夢中は贈り物をするよろこびにむけられているの、それともただその手の中でしだいにかたちづくられていく美しさに魅入られているだけ? 八歳のわたしもやっぱりあんなふうにありったけの五感を指先とまなざしに寄せ集めた真剣なようすで花環を編んだものかしら? わからない、でもピブロフのお屋敷――なんて口にするたびにエリーに馬鹿にされたっけ、でも仕方がないじゃない、八歳のちいさなわたしにはたしかにお屋敷のように(そうよ、お屋敷なのよ、エリー!)見えたんだから――の庭園にもリノンと同じ花が咲いていた覚えがあるわ。
 不意にタチアナが手元の花環から目をそらし、あらぬかたに目をむけた。まるで茂みを揺らす気配を敏感に察知して草を食むのをやめて耳をそばだてる鹿のような仕草――なんて魅力的なんだろう!――だった。注視の過剰が対象との完璧な同期を果たし得たかのように、その魅惑に屈してみずからもまた鹿と化し、鹿と化すことで鹿の耳や注意力を獲得したサラの遠くおしひろげられ拡散する聴覚の帯を、雨雲の接近を告げる山鳥の声にも似たせわしなさが横切った。ハーブの群生地からずっと離れたところでなだらかな曲線のまるで春の日の波――そう、これも過ぎ去りしピブロフの日々の数少ない残像だわ――のように、豊かな夫人の艶かしくにおいたつ下腹のようにだんだんとうねる小高い丘のむこうからこちらにむけて声を弾ませながら(「帰ってきたよ、帰ってきたよ!」)駆けてくるのがロランであることはわざわざまばゆい痛みに細めた遠目を青白い逆光の彼方にさしこんでみせるまでもなく明白であったし――いったいこの村に寝起きする誰があのわんぱくな声を耳にして騎士様の剣の代わりに棒切れをふりまわしながらちょこまかと駆けめぐるロランの姿を思い浮かべずにいられるだろう!――じぶんの姿が目に入るところより遠くへ行っちゃ駄目だとあれほど強く言い聞かせたのにもかかわらずその忠告を簡単に破り姿をくらませていたことにたいする腹立たしさもあって――ほんの一ヶ月ほど前に迷子になって村のみんなの手をわずらわせたばかり(エリーったらわたしのことを子守りもできない女だなんて村のみんなの前で罵ったわ!)だというのに!――サラは近づきつつある声にはあえてそっぽをむいたまま、ついさきほどまで思慮深げに硬直していた手にふたたび血をめぐらせてハーブとバスケットの間を淡々と行き来させた。まるでいまのいままでロランのことなんてちっとも気にもかけていなかったとでもいうように、そしてなにかしらたいへんな知らせ ――おそらくは山道を抜けるゴードンのあの赤いジャケットが目についたのだろう。ああ、わたしたち(ニカったらなんでまたこんなときにかぎって!)の香水はピドンのひとびとに受け入れてもらえたかしら?――をもたらそうと大急ぎでこちらに駆けてくるいまもさほど気にはならないとでもいうような、無情な熱心のとりつくろったひけらかしだった。そんなことをしたところで無意味なのだ、興奮しきっているロランにこんな迂回路が通じているはずなどないのだ。ああ、わたしったらほんの子供相手にどうしてこんなふうな抗議の意志を表明することしかできないのだろう? そのような迂回が、婉曲が、間接性の意思表示が、姉にたいする態度そのままであることにサラ自身気づかないわけがなかったし、それに罪のないゴードン――二週間ぶりの我が家を前にしてきっとうきうきしているに違いない(陽気な秘密主義者ゴードンだなんてまったくもってひどい言い草だわ!)――を巻き添えにしかねないことを考えると、ただでさえ重苦しく息のつまる自身の気弱さや臆病さを呪うような気持ち以上に、いますぐにでもどこかに駆け出してしまいたくなるような羞恥心が炎のように燃えあがり、その炎はたちまち彼女の意固地を氷解させた。バスケットを片手にたちあがったサラを見上げると、あとは環を閉じるだけとなった作りかけの花環を地面に置いて同じようにたちあがったタチアナはたちまち、いまではもう息の切れて叫ぶ声もままならずそれでも懸命にこちらにむけて駆けてくるロラン――この懸命さにはやはりある種の貴さが認められる――にむけて、だあれ? ねえロラン、帰ってきたのはだあれ? と声のかぎり叫んだ。ゴードンだよう、ゴードンが知らないひとといっしょに来たよう! 知らないひと? ギドでもなくて?  ひとすじの細い不安がきざしたのはタチアナも同様らしく、山吹色の洗いざらしてめっきり薄くなってしまったために先月から野良着として着用することに決めた身頃と一体化したスカート――スカートで働くなんて馬鹿げているとエリーがこぼしていたとジュリアンから聞いたのは一昨日のことだ――の軽くしぼられた腰のあたりの布地めがけて噛みつくようにしてのばされ、握りしめられたちいさな手のひらの頼りない五本指の上にサラは重ねて手を添えてやりながら、そう、これこそほかでもないあの四歳のタチアナの不安げな仕草よ、トムのコートの陰に隠れるようにぴたりとよりそっていたあのころのタチアナと瓜二つだわ、と考え、幼いじぶんの鏡像を思い浮かべようとしたところで結べども結べどもタチアナの姿ばかりが像をなした先ほどの失態はきっとじぶんの姿をまざまざと目にする機会の少なさだけが原因などではないのだ、そうなのだ、わたしったらもっと積極的に、こういってよかったら暴力的にタチアナの立ち姿を横取りしているのだわ、彼女を彼女からじぶんへとひきつけているんだわ、わたしたちそんなふうになんでもかんでもじぶんにひきつけちゃうのかしら? 心の奥底でじぶんより弱いと見なしているひとたちのことをそうやってじぶんの分身にしちゃうのかしら? そう、だからわたしにはエリーの十七歳がわからない――十七歳のエリーはこんなふうな日だまりを遠慮がちに低く流れる風に眠気を誘われたことがあったかしら? まるで牧師様に頭を撫でられた気恥ずかしさにびっくりしておもわず付き添い人の背中にまわりこんで身を隠してしまった子供みたいに野草のこうべが吹き抜けるもののあるたびごとに身を低くそわそわしている(つまり牧師様はジュリアン、身を隠す子供はタチアナってことね)――のよ、エリーのことをじぶんじゃ太刀打ちできない強いひとだと思い込んで、負けを認めてしまって、頭があがらないなんて独り合点してしまって、
(未完)

 このころの記事はブログを発見してそんなに経たないころにさかのぼって読んだのだとおもうが、とうじのじぶんはまだ読み書きをはじめてまもなかったわけで、孟宗竹と猿の断片もそうだけど、こんなのをひょいひょいボツにできるくらいふつうにスラスラ書けるの? 想像力ありすぎじゃない? とビビっていた記憶がある。うえのやつはたしかロマサガ3をもとにしていたはずで、ウルフとマンスフィールドをやろうとしたらクロード・シモンがまざった畸形児みたいになっちまった、みたいなことをとうじ(……)さんは書いていたような気がする。「それはまだいかなる習慣にも規則にも惰性にも傾いてはいない平行な注意力の、その都度その都度の移ろいに背をゆだねて漂うことのできるあの選ばれた一族だけがおのずとにじませることのできる、このうえなく善良で高貴なしるしのようなものであった」というぶぶんは、『灯台へ』の冒頭の記述にもとづいたものだろう(「あの選ばれた一族」)。「それはいわば草の葉のように繊細で、かぼそく、ときにたやすく踏みにじられ虐げられもする、呆れるほどのよわさに震えどおしの、そしてそのよわさを犠牲にしてするどさを獲得した、村の中でもきっと彼女だけしか持ち合せていないに違いない((……))感受性にのみなせるわざだった」ももしかしたらそうかもしれない。
 「Hくんからほかの住人の残飯食べるのはマジでやめてくださいと言われたときにふと思いついたのだけれど、「残飯」といわずに「エコフード」といえばすべての問題が解決するような気がする」にはクソ笑う。
 しかし(……)さんが執筆のためにこうして過去の日記を順次読みかえしているのをみると、じぶんもじぶんの日記を読みかえしてむかしなにがあったのかなというのを知りたくなってくる。おもしろくないわけがない。一年前の日記すら読みかえさなくなってひさしいが、そもそも日記って書いているだけではあまり意味ないというか、読みかえしてなんぼのものだとおもうのだが? ほんとうは検閲もすすめなければならないし。とりあえず一年前の記事を読みかえす習慣を再確立させたいのだけれど、どうもやる気にならない。


 きょうは暑い。夏の夜のようになってきている。


 レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)の書抜き。西岡恭蔵とカリブの嵐『77.9.9 京都「磔磔」』をながす。

 (……)このテーマで書くことの大きな喜びのひとつは、歩くことが限られた専門家ではなく無数のアマチュアの領分であることだ。誰もが歩き、驚くほど多くの人が歩くとはなにか考えをめぐらせ、その歴史はあらゆる分野に広がっている。だから知り合いの誰もがエピソードや情報の源となり、探究の見通しを立てる助けとなってくれた。歩行の歴史はすべての人の歴史なのだ。(……)
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、7; 「謝辞」)

 「歩くことは意志のある行為でありながら、呼吸や心拍といった身体の不随意なリズムに極めて近い」(13)。感動する。「作業と休息、存在と行為の繊細なバランスの上で思索と経験を生み、そのうちどこかへ到達する肉体的な労働である」。「歩くことの理想とは、精神と肉体と世界が対話をはじめ、三者の奏でる音が思いがけない和音を響かせるような、そういった調和の状態だ。歩くことで、わたしたちは自分の身体や世界の内にありながらも、それらに煩わされることから解放される。自らの思惟に埋没し切ることなく考えることを許される」(14)。「ただし車や船や飛行機によって移動するのではなく、それ自体が移ろってゆく身体の運動によってしかある種の放浪への憧れは慰めることができない。運動とともに、心になにかをひらめかせるように過ぎ去ってゆく光景。それが歩行に多義性と無限の豊かさを与える。そして手段且つ目的であるもの、旅と目的地の両方に歩くことをかえてゆく」(15)。


 書抜きちゅうにまたちょっとギターが弾きたくなったので切りのよいところまで打つと隣室に行って楽器をいじった。八時四五分ごろ。きのうよりはおもしろかった。九時一五分くらいになるときりあげて入浴へ。湯のなかではきのう書いた散文をこのあとどういう展開にすればいいのかなあということをすこしかんがえた。洗い場に立って束子で腹のあたりを中心にからだのあちこちをこするのだけれど、そうしながら足もとをみおろすと、紙の一、二枚分をはがしたくらいのほんのわずかなくぼみが縦横に走っている床が水気にまみれており、その水はあるところではくぼみを埋め、あるところでは埋めず、また通路のようなくぼみからはみだしてあるところではひろくつながり、あるところではつながらずにあいだに欠如をつくっているのだが、それらの水がおりなす不規則なかたちはアメーバ状のジグソーパズルのようにみえた。洗面器のなかではこちらのうごきにおうじて微小な水の粒が散りかかるのだろう、湯が表面をたえずマントのようにたわませている。
 出て白湯をもってもどってくると歯を磨きつつ(……)さんのブログをまたすこしだけ読んだ。したのエピソード、おもしろすぎる。へんなひとのおもしろエピソードおおすぎでしょ。京都って魔界だったのか?

借りるものを借りてさて帰ろうかと駐輪場からケッタを出しかけたところでじぶんのケッタのとなりに駐車してある大型バイクの持ち主とおぼしきおっさんというかおじいさんというか実年齢はおじいさんなのだけれど心意気はおっさんみたいなアレであるのでその心意気を買って以下おっさんと表記することにするけれどそのおっさんがなにやら話しかけてきて、すみませんすみませんと言うものだからてっきりこっちのケッタを出すのに相手のバイクがちょっと妨げになっているのでそれを気にしてわざわざ一声かけてくれてんのかなと思ってふりむくと、あのあなたね、ミュージック、ミュージックに興味ない? と唐突にたずねられた。ああこれはもう絶対おもしろいことになるわとその時点で確信したので長期戦になるのを覚悟して、え、ミュージックって音楽ってことですか、と興味津々に問い直すと、そう音楽、あなた音楽やらない、というのはね、わたしね、曲をね、音楽をね、二曲、二曲いまあるんだけれど、あなたそれやってみない、ギターとか弾いてね、と言うので、え、ていうかなんでそもそも僕なんすか、と重ねて問うと、いや、もう一目見たときにね、このひとだと思ったんですわ、わかるから、もうミュージックやってるでしょ、わかるから、とアパートの下見におとずれたときの大家さんみたいなことを言う。ああ、バンドメンバー募集みたいなことですか、と答えると、いや、バンドとかじゃないんですわ、お兄さんにはね、歌ってくれないかなって、うんお兄さんにね、それでまあわたしはプロデューサーっていうかたちでね、と思ったんだけど、もちろん著作権はこっち持ちなんだけどね、どうかなと思って、そういうふうに考えてるんやけどね、と続けて、どんな音楽なんですか、と問えば、演歌、演歌やね、演歌、と即答し、ちなみにね、曲はね、いまのところ二曲、(ダウンジャケットのポケットに収納されているとおぼしきレコーダーか携帯電話を指し示しながら)これ、これ二曲までやったらふきこめるからね、ひとつはね、「明日は明日の風が吹く」って曲でね、まあこういう感じなんやけど、(※以下、90秒ほど歌唱)、これはね、むかしね、友人がなにかの拍子に口にした言葉でね、このあいだ酒飲んでたときにふと思い出して、それで広辞苑を調べてみたら、ほら、のってる、のってるからそこに、それでこれはもうええ言葉やとね、酒飲みながらね、紙に書いてみたらね、そしたらねあなた、続けてすらすらとね、次の一行が出てきますがなほんと、それで気ィついたらできてますやろ詩が、それでもうこれは歌になるわと、そう思ったんですわ、それでもうひとつ、もう一曲は「薔薇の花」というのでね、(※以下、60秒ほど歌唱。Bメロの歌詞を忘れるというトラブルも!)これはね、四ヶ月前にできた曲でね、きっかけは(※以下、友人宅に遊びにいった際に庭に咲いていた薔薇を刈り取ってくれと頼まれて刈り取ったはいいもののあまりの美しさに捨てられなかったという最近のエピソードが、友人とその奥さん(この奥さんはおっさんのことをとても嫌っているらしい)の声色をそれぞれ小器用に使い分けたうえでたっぷりのジェスチャーとともに演じられる)でね、まあそういう感じですわ、とここでようやくおさまる。いやもうじぶんで歌ったらいいんじゃないですか、そのほうがいいっすよ、歌だって上手じゃないっすか、と言うと、気恥ずかしそうに笑いながら、いやワシこんな指しとるから、とだらんとさげていた左手をつかのまパッと開けてみせて、はっきりは見えなかったのだけれど指が一本緑色っぽくなっていてそのときは痣か何かかなと思ったのだけれどとにかく、こんなんじゃね、(ギター)弾けんから、と続けて、それにね、ワシもう60、60で歌うってのはちょっとな、いまはほれ、大学生とかな、月にいっぺんくらいコンサートできるって言うから、知り合いがね、そやから大学生と仲良くなってね、その子に歌わせればええって、ワシは曲とね、あと詩、詩だけ書いてそれを提供する、それやからこうやってね、ワシ大学生の知り合いとかおらんからね、いやひとりもおらんことないですよ、おるにはおるけど、ほれ、こっちのほう(と言いながらギターを弾く仕草をしてみせる)できる大学生ってのがね、残念ながらおらんもんで、それでお兄さんどうかなって思ってね、お兄さん大学生? と問うので、や、もう卒業してフリーターっす、と答えると、そう、まあそんな感じでね、こうやってね、声をかけてるんやけどね、若い子のほうが、ほら、テレビにも出れるし、と言うので、なんでテレビ出たいんすか、と果敢につっこんでみると、とたんに顔色が変わって、そりゃワシ、テレビに出れると思ってるから! それくらいええ曲作ってるから! とよくわからんタイミングで若干キレ気味に言うので、ていうかね、そもそもぼくがあなたの立場やったらそこまでええ曲作っときながらひとに歌わすなんてこと絶対しないっすけどね、ほんなもんじぶんで歌いますよ、だいたいなんすかそのテレビどうのこうのって、若いの使わな駄目みたいなこと言うたの誰か知りませんけど、なんすかそれ、そいつ、ちょけとんすかねそいつ、ほんなもんいちいち耳貸しとってどうすんですか、ほんなもん知ったこっちゃないってくらいの心意気ないと駄目ですよそもそも、だいたい指がどうのとか年齢がどうのってなに逃げ腰になっとんすか、芸術ってのはアレっしょ、おもくそフェアな舞台でしょほんなん、年齢もクソもないっすよ、あのーあれあれ、ジャンゴ・ラインハルトみたいなひとやっておるんすから、ほんなもん関係ないっすわ、いっさい関係ない、しょうもない連中の言うことなんて耳貸す必要ないですよそんなの、クソ喰らえですよ、なにおとなしく言うこと聞いとんすか、ぼくやったら唾吐きかけたりますよほんと、ねえ、もっと突っ張ってくださいよ、だいたいテレビ出とんがええもんとは限らんでしょそもそも、いやほんとぼくの好きなミュージシャンなんてだれもテレビ出とりませんよ、と適当にホラを吹いてみると、いや! いや! いや、どうもすんまへん! あなたの言うとおり! やっぱりあなたはね、ほかと違う! 芸術家やと思うてたんですわ! そりゃ見たらわかる、もう一目見たらそれくらいのこと、ワシらくらいの年齢になるとね、わかるもんですから! 一目見たらわかる! だから声かけさせてもろたんですわ! とあって、とりあえずこの調子で今日交わした会話を書きつづけるとほんと原稿用紙50枚とかになりかねないので以下は端折って書くけれど、そのおっさんの本職は彫り師だった。脛を見せてもらったけれどびっしり蓮の花かなんかが咲いていた。指の痣と見えたのはたぶん彫り物で、あとたぶん小指がなかった。突っ込んでみると、いや不義理をしてもうてね、若いころはほんと酒癖が悪くてね、と照れていた(やくざもんにもっと突っ張れとか説教してしまったじぶんがはずかCが後の祭り!)。高校一年のときだか英語の授業中に弁当を食べていたところ教師に注意されたので腹がたって手近にあった何かをぶんなげてそれで退学になって、育ての親にもうこれ以上の面倒は見れんから働きなさいと親族の経営する会社を紹介されてそこで電気工事かなにかの仕事を数年して、徹夜で工事が当り前だったとか関西電力の偉いさんに袖の下がどうのとか面白いエピソードもいくつかあったのだけれどとにかく色々あって親方相手にぶちきれて喧嘩ふっかけたところボコボコにされて(ここで大笑いすると、いや、でもその後数年してからもう一回挑んだからね、出てこーい言うても出てこやへんもんやから窓ガラスぜんぶ蹴破ってね、それでそのときはまあ、勝ちましたわ、おかげで留置所で一泊しましたけど、でもね、そっからまた十数年経ってからね、ワシ酒おごりましたわ、わざわざ神戸まで会いにいってね、筋だけは通しましたわ、と激烈な反論があった)、それでそのあとはなんだったけな、友人五人で同居生活してたこやき屋経営したりキャバレーのボーイをしたり、でもどんな仕事も続かなくてどうしようというときに銭湯でやくざを見かけて、その刺青を目にしたときにじぶんにはこれしかないと思って彫り師の門を叩いたとかなんとか、結局師匠のもとで修行をしていた期間は一年にも満たず(「不義理をしてもうてね、不義理を!」)あとは独学だということだった。それでだいたい面白い話も聞かせてもらったし小一時間も屋外で突っ立ったままでいたものだからいい加減冷えてきたしそろそろお開きかなと思っていると、最後にええこと、ええこと教えましょか、最後にええこと、ええことでっせ、とどんだけ期待させんだよみたいな前フリをするので、ええぜひ、と応じると、あのね、と秘密を打ち明ける口調で言いながらほとんどキスができるくらいのパーソナルスペースガン無視な距離にまでこちらに接近したうえで、あのね、おてんとさんはみんな見てる、みんな見てるで、と口にしたあげくほとんど神々しいくらい満面のドヤ顔をしてみせて、で、なんかこのあといきなり守護神の話みたいなスピリチュアルな方向に話が急展開し、神社における二礼二拍手一礼の作法だとか神棚の作り方とか塩の盛り方とかそういう諸々をレクチャーされたのだけれどその前にアレだ、たしかじぶんが寅年だみたいなことを言い出して、寅年の守護神は文殊菩薩なのだけれどその文殊菩薩広辞苑で調べてみたところ釈迦のガーディアン(大意)みたいなことが書いてあり、ところで寅年の前後にあたる子年と丑年、それに卯年と辰年はそれぞれのペアにつきひとりずつ別のなんとか菩薩が守護神でそれらをやっぱり広辞苑で調べてみたところ、どちらの菩薩も「文殊菩薩とともに」釈迦を守るとかなんとかそういう書き方がしてあったものだから文殊菩薩やべえじゃん、超えらいさんじゃんとなって、それでじぶんの周囲の家族や友人知人の干支を調べてみるとなんとみんながみんな子年か丑年か卯年か辰年だったのだ! みたいな、だいたいそんなふうな話がくりひろげられたのだけれどこちらとしてはただおれの干支をきいてくれるなとその一念ばかりで、というのもこちらの干支はしょせんは文殊菩薩の脇役にすぎないなんとか菩薩を守護神とする丑だからなのだけれど、ま、案の定そこのところをたずねられたので、いやもうあんま言いたくないっすけど見事に丑ですね、と言うと、もう見たことのないようなすっごいしたり顔が出た。あとこれも別れ際だったように思うけれど、右目の下にほくろがあると異性から言い寄られるタイプ(「宮沢りえとかそうでっしゃろ?」)、左目の下にあると逆に言い寄るタイプらしいのだけれど、ワシは言い寄るほうなんやけどね、もういい加減言い寄られたい、言い寄られたいからね、ほれ、ここにほくろあるやろ、これね、ワシじぶんで刺青いれたったんですわ、とか言ってたのがクソ面白かった。効果はどうですか、とたずねてみたところ、さっぱりや、と歯切れの良い返事があったのがまた可笑しくてふたりしてゲラゲラ笑い、ほんならぼくもまあさびしなってきたらじぶんでペンかなんか突き刺してほくろ作りますわ、と言うと、とたんにきびしい顔つきになり、いやあかん、そんな簡単にするもんやないで、ワシなんかもうこの年やからアレやけど、ほんと一変するから、あんまり簡単にするもんやないで、となぜかいきなりたしなめるような感じになって、その態度というのがいかにもおふざけも軽口いいけどここはきっちり一線画すべき領域だぜ小僧みたいな格好つけたアレだったもんだから、なにいってんだこの煩悩のかたまりが、と思った。それで最後にかたく握手してバイナラした。菩薩さまの名前を口にするときや念じるときは必ず菩薩さまというふうに「さま」まできっちりつけること、呼び捨てもさん付けも駄目だと最後に忠告をくれたのだけれど、当のおっさん、ついさっきまで文殊菩薩文殊菩薩と呼び捨てにしまくりだったし、じぶんの守護神以外の菩薩については完全に名前失念していたりもした。

 そのあとまた書抜きをすることにして、diskunionのジャズ新着ページをみたらCharlie Parkerの復刻とかあったのでParkerをきくかとAmazon Musicで検索し、さいしょに出てきた『Bebop Story Live, Vol. 3, 1952-53』というやつを選んだ。これはどうやら出自のよくわからんコンピレーションみたいなやつのようで、検索しても情報が出てこなかったのだけれどそれをながしてみると、これがものすごくて、おどろかされ、ひさしぶりにぶっ飛ばされた。Charlie Parkerは過去にも、そんなにちゃんとではないし回数もおおくないにしてもきいたことはあるのだけれど、こんなにおどろくことはなかった。びっくりしたので書抜きのあと、さいしょにもどって三曲分じっときいた。このなかにすでにEric Dolphyがいるようにしかきこえないし、John Coltraneの『Giant Steps』にしても、たんにここにもどっただけのようにしかおもえない。音質がひじょうにわるいので二曲目の”52nd Street Theme”なんてピアノがほぼきこえず、(もともとよくあるスタンダードというかんじの進行でもないだろうし)コード感が希薄なのだけれど、へんなはなしそれでアヴァンギャルド系の演奏をきいているようにひびく瞬間すらある。これが一九五二年か……とおもった。おそろしい時代だ。Charlie Parkerは地位を確立したレジェンドとして語られているのでじぶんのおどろきはいまさらなのだけれど、なるほどなあ、たしかにこれは行くところまで行っちまっている、とおもった。こういう演奏法を洗練されたスタイルや技術として大成したというよりは、黎明のあらあらしさをのこしたままで無理やり行き着いてしまったようにもきこえる気がする。たしかにこれ以降のサックス奏者が、このあとでまたあらたにはじめなければならない、そういう奏者なのだと。おそらく、Art TatumBud Powellのあとのピアニストがまたあらたにはじめなければならなかったように。というか晩年のParkerは衰えが顕著だったという評判はよくきいたことがあって、かれは五五年に死んでいるから五二、三年は晩年と言ってよいようにおもうのだけれど、とても衰えているようにはきこえない。これが全盛期じゃないの? と。それにしてもビバップという音楽はじつに愚直で、苛烈で、まるで戦争みたいな音楽ではないかとおもった。これほど苛烈な音楽もないんじゃないか。あまりにもマッチョだ。ハードバップビバップの区別もよくわからんのだが、いちおうジャズ史的には五四年のBlakeyの『A Night At Birdland』がハードバップの嚆矢だとされているはずで、ハードバップといったらじぶんのイメージもあれなのだけれど、しかしそれ以降五〇年代のジャズよりもParkerがここでやっているビバップのほうが苛烈で、ある種純化されているようにきこえる。やばい。
 この音源の出所、もとのデータが知りたいとおもって調べたところ、Milt Jacksonもはいった三曲目の”How High The Moon”とおなじものがYouTubeにあがっていて、その典拠として『CHARLIE PARKER, VOLUME 1 - BALLADS AND BIRDLAND』というのが書かれており、discogsをみてみればその冒頭二曲目が”Ornithology”と”52nd Street Theme”なのでおそらくこれである。五曲目まではたぶんここから引っ張ってきたものだ。録音年月も一九五二年となっているし。さいしょの二曲が九月二〇日で、つぎの三曲が一一月一日。前者のベースはCharles Mingusで、ドラムはBlakeyかな? とおもっていたのだけれど、Phil Brownというひと。ピアノはDuke Jordan。三曲のほうはMilt Jackson、John Lewis、Percy Heath、Kenny Clarkeとやっていて、だからModern Jazz QuartetにParkerが乗ったかたちだ。


 うえまで書き、ベッド上で少々やすみ、夜食になにか食うことに。上階に行くと母親はぐったりとしたようなようすでソファについており、手にはスマートフォンかリモコンをもちながらうごかさず、テレビはよくわからなかったが子どもむけみたいなかぶりものの扮装劇めいたものをうつしており、開脚して上体をひねりながらこれなんなの? ときけば、いや、よくわからないんだけど、タコの一生を追うみたいな、とかえった。食パンと豆腐を食うことに。オーブントースターでパンを焼きつつ豆腐を用意し、また食器乾燥機のなかの皿たちを、もう時間がおそいのでなるべくおとを立てないようにとりだしはこんで棚に整理する。しかし豆腐にかける麺つゆの細長いボトルを冷蔵庫からとりだすさいに、ボトルをひきだすと天麩羅のあまりをキッチンペーパーにつつんで置いてあった真っ白な皿があやまってそれについてきて、冷蔵庫の縁から落ちそうになったものだからあわてて手を伸べたのだけれどふれるだけでもちなおすことにはならず、落としてしまってけっこうおおきなおとが立った。パンにはバターとハムを乗せて、焼けるともって自室へ。(……)さんのブログをまた読む。したにしるされた女子高生のいち場面は『囀りとつまずき』のなかでもこちらがいちばん好きかもしれない断章のそれだ。ヴァルザーの言にまつわっていえば、じぶんは中学校からもれてくる吹奏楽部の練習のおとにかなり魅力をかんじる。あれはいつも、すごくよい。意味ではなくて存在を、そこにものがあり、あったのだということをひたすらにさししめしつづけるということが、小説のひとつのかたちとしてやはりあるべきなのではないか?

中国人の女の子が乗車してきた年寄りに席を譲ろうとして座席から立ち上がったものの肝心の年寄りがその譲歩に気づかず、席を譲った当人もその意思を日本語で伝達することができないらしく仲間の同国人相手にどうしたものかといくらか困惑の体ではにかみ目配せを送っていたバスの一幕が完璧だった。京都駅の待合室ではまだ小学校にも就学していないように見える幼い兄弟ふたりが流行歌らしきものを口ずさんでいた。しずまりかえった室内の空気を尊重するかのように、抑制された、ほとんどつぶやくようにして重ねられる声の、それでもところどころ内側からあふれだすように高まる抑揚や、そのことに気づくが早いかすぐさま誰かに叱られたわけでもなしに声のトーンを落としてみせる健気さなんかがすばらしすぎて、読書どころではなかった。歌声よりも口ずさむ声のほうが好きだ。もう二年か三年前になると思うけれど、いぜん住んでいた家の近所にある交差点で信号待ちをしているとき、そばにいた女子高生三人組のうちのひとりが、なか卯の店内から漏れてくるテーマソングにあわせて鼻歌をうたいだし、それに触発されるようにして残る二人も同様に口ずさみだすと、そこではじめてじぶんが鼻歌をうたっていることに気づいたとでもいうようなちょっとした驚きに目を見張ると同時に、そんななんでもなさ、気のなさ、無自覚な一手が契機となってひとつのうねりをつくりだしはじめた歓びにあらためて顔を輝かせた瞬間を目の当たりにしたことがあって、声はしだいに抑揚を増し、信号が変わるころには三人が三人ちょっとしたふりつけのようなものに身体を揺らしさえしながら歌声と笑い声の半々になった声で合唱していて、その照れくさそうな表情には周囲の目線はたしかに気にはなるけれどでもいまのじぶんたちだったらそれさえも有利な環境や条件に改変してしまうことができるのだという無敵感にみちあふれていて、あんな幸福な一幕ぜったいに忘れることなんてできない。近所を散歩しているときにどこかの家の中からひびいてくるピアノのたどたどしい音色がじぶんをいちばん感動させるのだみたいなことをヴァルザーが書いていたけれど、よくわかる。ただ、それはある種の権威にたいする素朴な反発なんかでもなければ(そういう露骨で単純な反動性みたいなのはむしろじぶんの嫌悪するところである)、「子供(の無垢さ)」の特権化なんかともぜんぜん違うものだ。要するにそこでじぶんが感受しているのは「音楽」ではなく「風景」なんだろう。なんの教訓にもならない、使い道のない風景。でもきっと折りにふれては思い出す。忘れることはきっとないというその確信だけを根拠にかろうじて保たれているもの。『偶景』を書いたバルトは正しい。バルトは小説というものを本当に心の底から愛していたのだと思う。


 その後、河東哲夫「「プーチンはロシアの未来を破壊した」GDPも平均賃金も5倍にした"繁栄"はウクライナ侵攻で終わりを告げた」(2022/5/13)(https://president.jp/articles/-/57074?page=1(https://president.jp/articles/-/57074?page=1))を読み、ベッドにうつって『フランドルへの道』も読み出したが、じきにねむけが差したので三時一五分か二〇分くらいでもう寝ることにした。できればきょうじゅうにシモンを読了したかったのだがしかたない。

 1992年1月2日、ソ連崩壊で全権を掌握したエリツィンが、それまで国が全部決めていたモノの価格を一斉に自由化したからたまらない。パンの値段が1日で2倍になることも珍しくない、ハイパー・インフレとなった。たった2年間でルーブルの対ドル価値は6000分の1に落ち込んだのである。

 当時は僕も、ロシアで誰かを食事に招待した時など、何センチもの厚さの札束をいくつも袋に入れて出かけたものだ。

 街の雰囲気は激変した。ソ連末期、流通を握ったマフィアがインフレを予期してモノを退蔵し、店には文字通り何もなかった。しかし、価格自由化後は街路に粗末なキオスクが林立し、アパートの一階には「商業店」なるものがやたら増えて、西側の安っぽい化粧品や装飾品を並べた棚の向こうに、口紅を分厚いバターのように塗りたくった女店員が座っているようになったのだ。それは何でもありの、暴力とカネが支配する世界。僕も、血だまりに横たわる死体のそばを車で通り過ぎたことがある。

 こんな状況だったが、インテリたちは、「やっと自由と民主主義の社会になった」として改革への期待に燃えていた。自分でベンチャー・ビジネスを始める意欲に燃えた青年も多かった。

 そして混乱も3年ほど経つと、西側の資本がちらほらとスーパーやショッピング・センターを開き始めた。ソ連時代は顧客に微笑むことなどなかった女店員たちがぎこちないスマイルをしてくる。社会主義時代は、客にスマイルするのは気がある時だけだった。

 やがてそのスマイルも自然なものになってきた頃、社会は落ち着いた、というか利権の再配分が終わって、その汚い傷にかさぶたがかぶさったような具合になった。ソ連崩壊は改革にはつながらず、ただの利権の取り合いで終わってしまったのだ。

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 1990年代後半、エリツィン国債の大量発行で偽りの繁栄を築く。しかし、1998年5月、インド・パキスタン間で核戦争の危機が高まったことで、高リスクのロシア国債は投げ売りされ、同年8月にはロシア政府は元利支払いを停止、デフォルトを宣言する。ルーブルは4カ月で3分の1以下へと値を下げ、モスクワ市内の高級レストランはがらがらになった。

 その混乱がまだ収まらない1999年12月、エリツィン大統領はプーチンに権力を禅譲プーチン時代となったのである。ルーブルが大幅に減価するところまでは、制裁を食らった後の今のロシアに似ている。後はプーチンが誰かに権力を禅譲すれば、歴史の一サイクルは回ったことになる。

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 まだサンクト・ペテルブルクで無名だった1997年、プーチンは博士論文を出した。その題名は、「市場経済形成下における鉱産業の再生・その戦略的方向」。要するに、国の富の基本である石油・資源部門を政府ががっちり押さえ、そこから上がる利益で賢い投資を行っていこうという、ソ連時代のブレジネフを髣髴ほうふつとさせる内容のものである。

 プーチンは大統領になると、この政策を早速実現する。サンクト・ペテルブルク市庁勤務時代からの側近、セーチンを使って、ソ連崩壊でばらばらになっていた石油・ガス部門をほとんど政府の下に集約してしまうのである。ソ連時代と違うのは、外国資本を恐れず活用して、製造業を改革しようとする姿勢、そして民営の中小企業を振興しようとする点である。だからプーチンは2012年、交渉を始めて18年も経っていたロシアのWTO加盟をやり遂げ、OECD加盟を次の目標にすえたのである。

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 エリツィンから政権を引き継いだ2000年は、まだソ連崩壊と1998年のデフォルトの傷跡が生々しく、既に言ったように給料遅配、企業間の現物決済=物々交換は収まっていなかった。2000年のGDPはわずか2600億ドル程度しかなかったのである。ところがリーマン・ショック前の2007年にはGDPは1兆3000億ドル、つまり7年で5倍になり、まさに中国を上回る世界史上の一大奇蹟(手品)を成し遂げる。

 平均賃金も2000年から2013年の間に5倍になり、プーチンの支持率を高止まりさせる消費生活は、別天地であるかのように良くなった。きらびやかで広大なショッピング・センターから、都心・郊外のそこここに点在する市場いちば、小型のスーパーまで。所得水準に応じて何でも買える。スマホでタクシーを呼べば数分でやってくる。地図検索もネットでできるから、会合の場所にもすぐたどりつける。電子書籍も普及したし、寿司さえも24時間のデリバリー・サービスがある時代。

 だが、国民は知っていた。これが脆い繁栄であることを。僕はある時、タクシーの運転手に聞いてみた。「プーチン大統領、すごいね。あんた、収入何倍にもなっただろう」と。すると運転手は前を向いたまま、こともなげに答える。

 「まあね。でも石油の値段がこんなに上がれば、誰だってこんなことできるさ」