2022/5/16, Mon.

 散策者は林の中、谿流沿いの路、丘に登る七曲りの坂道など、どこでも気のおもむくままにたどってゆくがよい。午後の太陽が傾きはじめ、澄みはじめた光線が何かを訴えるかのように微妙になる時刻ならばさらに良い。風が吹きすぎるたびに、波の白浜にうち寄せるような、無数の木の葉の音をきくがよい。夏の終り、山々の色あいが高い方からかわってゆく時でも、あるいは鹿皮のように雪が斑に草原をおおう時でも、そこには魂のもっとも深い所に忘れられた古い絃をよびさます何者かが常に潜んでいる。そんな小径に咲く花の可憐な姿などを見ながらゆっくりと散策してゆくと、大抵は人気のない小さな村々に出会うだろう。石の古い匂いが漂っているような村の秋はまた格別で、かさこそとマロニエの大きな枯葉が、ひなびて角が摩滅した噴水のまわりに舞っていたり、犬が新来のよそ者をいかにもいぶかしげに眺めているだろう。そんな所には、ニースの海岸通りで出会うような豪華な乗用車も見られないし、大都会でふと出会う暗い深淵、絶望と自棄との深淵とも無縁であった。ただ古い噴泉の水が誰のためにでもなく清冽に流れて、水面におちた枯葉のあいだにきれぎれの秋空が揺れているのだった。ところがそこにも人間の営みがある。散弾銃を背負った男が、軽快な猟犬をともなって歩く姿や、日暮れ時には、雑貨商やパン屋に村の女たちが集っているのを目にするだろう。そうしてやがて深い静寂が夜とともに訪れてくる。コスモスの沈黙が村を支配してゆくのだ。初めの頃私の感性は、突然自然そのものが訪れてくるようなその沈黙を怖れたものだった。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、156~157; 「Ⅱ ベイルート夜話」)


 なんどか覚めつつ、ねむりが足りないなと覚醒をやりすごし、一〇時ぴったりに携帯をみて正式にさめた。しばらく布団のしたで足の裏をあわせて深呼吸。天気は雨。気温はここのところではやや低い。ゆめみがあった。(……)といっしょにどこかにむかって電車に乗っている。扉際にふたりで立っており、じぶんは座席の端の縦向きの手すりをつかんでいるが、いつのまにかねむってしまう。目をさまして立ったままねむっていたことに気づき、よくたおれなかったなというような遅ればせの不安をかんじる。(……)の顔をみると、かれは笑っていたかもしれないが、その顔は(……)のものではなくじぶんの顔である。しかし夢中ではそれをじぶんのすがただとは認識していなかった。そのあと携帯にメールがはいって、みれば(……)からで、きょうやっぱり家にもどってこれないかだったか、あるいは職場にいられないか、みたいなことが書かれている。もともとなにか相談をしたいかいっしょにすすめたいことがあるらしいのを勤務だからとことわっていたようだが、じっさいには(……)とこうしてどこかに出かけている。職場とあるのは、勤務のとちゅうに職場から遠隔ではなすということなのかな? と疑問におもう。
 これいぜんにもなにかみたおぼえがあるが、それは忘れてしまった。一〇時一五分に起床し、水場に行って顔を洗ったり口をゆすいだり。便所で小便もはなってくるとまたベッドにあおむいて書見した。ホッブズ/永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサンⅠ』(中公クラシックス、二〇〇九年)。さいしょに載せられている川出良枝というひとの解説を読み、本篇の冒頭もほんのすこしだけ。にんげんは「技術」によって《自然》を模倣するが、それにとどまらず人間自身をも模倣するもので、すなわち《リヴァイアサン》たる国家はひとつの「人工人間」であるという言明がさいしょにあり、ここでもうはやくも「リヴァイアサン」という語が出てくるんだなとおもったし、また、それであのゆうめいな、国土のうえに王冠を戴いた巨人がだいだらぼっちのようにぐあーっと君臨しているというれいの絵があるんだなとおもった。リヴァイアサンというのはもともと旧約聖書の「ヨブ記」に出てくる最強の海の獣、一種の怪物らしいのだが、ホッブズはそれを獣から「人工人間」におきかえ、機械論的に分節してかんがえようとしている。
 そのうちに便意がきざしたのでクソを垂れにいった。きょうは便が硬いということもなくつつがなく肛門を通過し、腹を軽くしてもどってくるとNotionを用意してから瞑想した。一一時一五分から三〇分ほど。わるくはないが、そんなにここちがよかったり集中できたというかんじでもなかった。その後上階へ。ジャージにきがえ、屈伸をくりかえして脚や膝をやわらかくし、きのうのあまりもので食事。山芋のとろろがあるというのでいただくことに。べつにとりたてて好きではないが。新聞一面は沖縄の本土復帰五〇年を期しておこなわれた式典のもようや、読売新聞の世論調査では内閣支持率が上昇して六三パーセントになったこと、またフィンランドの首脳ふたりが正式にNATOへの加盟申請を表明したという話題など。岸田文雄は式典にさいして、キャンプ瑞慶覧のいちぶを返還前に先行的に公園として開放すると発表したらしい。内閣支持率は野党支持層でも三〇パーセント台から五〇パーセントを超えて、支持と不支持の割合が逆転したという。コロナウイルス対策やロシアのウクライナ侵攻への対応が評価されたとのこと。フィンランドNATO加盟にかんしてはスウェーデンも同時に申請するうごきをみせているらしい。
 食器を洗い、風呂も洗って、洗面所で髪を濡らさないまま櫛つきドライヤーでちょっとなでておき、白湯を一杯ついで自室へ還った。さっそくきのうのことをみじかく書き足して投稿。それからきょうのこともここまで記し、一時を越えたところ。きょうは労働で、雨なので歩くか、それともかなり余裕が生まれてしまうが三時すぎのはやい電車で行くか迷っている。予習で読んでおきたいテキストもあるしはやめに行けば行ったでやることはあるのだが。

  • 「英語」: 416 - 432


 音読をしたあと、一時半くらいから二時ごろまでストレッチをした。そのあと瞑想。意識はそこまで明晰というわけではなく、眠いというほどでもないのだが思念や知覚が明確に意識されずにたゆたうようなかんじになり、きもちがよかった。半分眠っているというか、はっきりと意識をたもって起きながら眠っているというかんじ。二時半ごろに階をあがり、おにぎりをひとつつくって白湯といっしょに持って帰り、食べながら河合塾の『やっておきたい英語長文500』を予習。まあいきなり読んでもわからない文はまずないだろうが、授業であつかうならばやはり事前に読んでおかなければ。六課と七課。八もとちゅうまで。あと歯磨きしながら電気工事士の資格参考書も。こういうのもいざ読んでみればそれなりにおもしろいはおもしろい。いわゆる理系の分野にはまったくつうじていないし。なんであれものごとを知るということはおもしろいことだ。読み書きをはじめ、何年もつづけていちばん身についたのは、だいたいなにごとにもなんらかの面白みをみいだすという姿勢や感じかただろう。だからといって退屈なことがらがまったくなくなるというわけではないが、すくなくとも退屈な時空というのはほぼかんぜんになくなった。それはたぶんに、じぶんが習慣的にやる書きものがこういう形式だったということも影響しているはずで、あまり一般化はできないのかもしれないが、しかしすくなくとも文学と哲学はこの世のすべてを対象としうる可能性をもち、それぞれにちがうやりかたで普遍と個別を志向する面があるはずで、だからむしろある程度はそうなるのが自然ではないかという気もするのだが。
 三時すぎに出発。けっきょく電車に間に合わない時間になったので歩くことに。気温が低めなのでジャケットも着る。スーツのジャケットを羽織ったのはひさしぶりなかんじがした。雨はすでにやんでいたが空はまだまだまったき曇天で、玄関を抜ければあたりの大気にあかるみの気配すらなくよどみがちなので、また降っても少しも不思議ではなさそうだったが、まあ降らないだろう、降ったらそのときとひとり決めして傘をもたなかった。東へ向かう。みちのはたにピンク色の微細な小花をつけた雑草が背低く群れて点々といろを散らしている。いまは淡いみどりのとがった葉が風にゆらぐカエデの木か、そのてまえの電柱かにヒヨドリがいて鳴き声を張り、弾力的にながしていたが、すがたをみつけられなかった。坂道にはいるとガードレールを支えにしてからだをおおきく反らせている老人がいた。歩いているうちに腰が疲れたか痛んだ、ということのようだ。過ぎざまにこんにちはと声をかけた。のぼっていくあいだ左の林縁には爪のおおきさほどもない白い小花が無数の粒としてところどころに集まっており、ちかづいてその粒立ちをちょっとみたがこれは卯の花だったはずだ。それにともなって、この時期の雨のことを「卯の花くたし」ということもおもいだした。坂道には風が吹いて頭上のこずえから水がざらっと、もしくはぱたぱたと落ち、服やあたまにも降りかかって雨がひととき復活したかのよう、湿り気をはらんだ大気のうごきにこれはまた降るかもなと危ぶんだが、けっきょくその後、降りはなかった。坂道が終わるあたりで右の眼下にのぞくしたの道の一軒のまえで、婦人がその家の犬を小脇にかかえて戸口に向かうところで、ちいさな犬が腹のところでひっかけられるようにして無造作に右腕で抱えられているのはやんちゃな少女が人形やぬいぐるみをたずさえているようでもあり、またゆるくあさいアーチをえがいたそのからだからはホースとかの扱いをおもいだすようでもあった。
 街道に出るすぐまえのガードレール脇には斜面下から立ち上がった杉の木の枝葉が浮かぶ。籠もるような鈍いみどりで樹冠のひろげるかげにかくれているその葉叢のさきに、しかしもっと真新しくあかるいみどりのすじがいくつかみられ、人差し指でところどころいろをこすりつけて回ったかのように、曇ったガラスに指で線を引いたときのおだやかな輪郭と湾曲をもった軌跡の群れがみじかく多方向にひろがっており、空に爆発して弾けた花火の一本一本の条線が、あたまのほうはまだいろを燃やし尾のほうは夜に埋めてかくしながら宙を垂れながれるあのさまにも似ていた。きょうは雨だったからなのか、それとももう終わったのか、街道に工事の光景はなかった。人足も整理員もいない。ただ道沿いの空き地に重機のたぐいが二台置かれてあり、風は湿気をふくんで涼しい。老人ホームの建物横にはパンジーなどの花がこまかくカラフルに植えられてあたまをふるふるみだしている。裏に折れる横道のとちゅうには一軒の塀のむこうにかなり大ぶりの赤いツツジが咲いていて、花弁に皺を寄せながら口をおおきくひらいたその真っ赤なすがたは、花というよりもヒトデなどのような一種の海棲生物をおもわせる。ガクアジサイなどもそうだが、植物のなかには、海というひとの永住をゆるさない遠い環境でながくはぐくまれたもの特有の、奇矯や素っ頓狂じみた畸形や特異性を帯びているものがたまにある。
 裏路地。みぎてにバッグを提げ、左手はスラックスのポケットに突っこみながら軽めの足取りで行く。ひとどおりはない。家並みの向こうに屋根を越えてつねにみえている丘をみやれば、樹々はもはや緑でないものがなく、どこをとってもなんらかの緑にそろえられていて、混じりけといっておそらくヤマボウシだろう白さがいちばん下の最前にちょっとみえたのみ、緑のうちには若きも老いもあかるさも地味もとりどりあって、どちらかといえばむしろ後者のほうがおおい気がしたがいずれまだらというほどでなく、あたらしそうなこずえと常緑らしい褐色点まじりが接している箇所もあるけれど、きょうの湿った天気もあって、緑は緑、とすべてしっとりならされている。電柱の脇に生えた雑草を掘り取っているひとがいた。年嵩の女性で、派手ではないピンク色の、エプロンというよりも割烹着といいたくなる服をつけており、さいしょは立った状態から腰を曲げて草に手を伸ばしていたが、そのあとしゃがみこんで背を丸めながら器具をつかって本格的に掘っていた。しだいに下校中の小学生がたくさんあらわれる。なかに六人の、赤いランドセルの女子がおそらくひとりだけだったとおもうが、二年か三年だろうからだのちいさな一団があって、前方にあらわれたかれらはあるくあいだに前後左右のならびを自由に入れ替えて色がうごめくが、だんだんちかくなると聞こえた会話に「人間の賞味期限」というワードがふくまれており、おいおい、なかなか残酷で辛辣なことばをつかうなとひそかにおもった。いったいなにをしたというのか同級生のひとりについて厳しく糾弾しているらしく、数人がゴミだゴミだと言い合っており、あいつ一年のときからゴミ、いや幼稚園からゴミ、生まれたときからゴミだ、と非難が倍がけ的にエスカレートして重ねられていた。
 いつもどおり(……)に寄って小用。ちがう。この日は休みだったのだ。だから寄っていない。そのまえを過ぎてみちを行くとちゅう、ふりむくと横に男子高校生がひとりいて、振り向いたのは車の気配をみただけだったのだが高校生はじぶんに目をむけられたとおもったような雰囲気をかもした。それはおそらく若い男特有の(女性にもあるのかもしれないが)同性や他人の目をうかがってやや対立的にとらえる自意識の産物だろう。なかなかかっこうのよい男子で、なにがかっこうよいといって髪型で、うしろにひとつゆわえてさきをみだしたいってみればパイナップル的な髪型であり、まあEXILEとかああいう系のグループにいそうなかんじでそうかんがえるとオラオラしたおもむきが出てきてなんか嫌だが、しかしこの男子においてはそれがラフに決まっていてなかなかかっこうよくかんじられ、だがそのすぐあとでかれは黒のニット帽をかぶっていた。こちらの視線を気にしたのか? とおもったが、それはこんどはこちらの自意識過剰、気にしすぎというものだろう。かれは前方をどんどん行って距離をひろげながら、なんどかうしろをふりかえっていたが、それもこちらを気にしたのかはわからない。いっぽうでニット帽はいちどかぶられたあとにまたすぐはずされ、さらにまたすぐかぶっており、またとちゅうからは制服の上着を脱いで着崩したワイシャツすがたになってもいた。
 職場について勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 帰宅後の夜はこともなし。日記を書きたいところがやはりながくそとにいてはたらきもしたので、入浴をすませて帰ってくると疲労がぬぐえず、休んでいるうちに意識をうしなっていた。おそらく二時ごろ。気づくと五時だったので消灯して就寝。