2022/5/17, Tue.

 「クロコフスキーめ」とセテムブリーニは叫んだ。「ああやってぶらぶらしていますが、あいつはサナトリウムのご婦人連の秘密をみんな握っているんですよ。彼の服装の微妙な象徴性にご注目ください。彼があんな黒っぽい服装をしているのは、彼の最も得意とする専門分野が夜の世界であることを暗示するためなのです。あいつの頭の中には、たったひとつの考えしかない、しかもそのひとつがなんと不潔なことか。(……)」
 (トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)、136)


 一首: 「そこらじゅう耳をひらけば偶然の魔法を知れよ街を行くひと」

  • 「英語」: 433 - 462
  • 「読みかえし」: 775 - 787


 一〇時四二分に正式な覚醒。ねむりはやや混濁気味で、そのまえにもなんどかさめたが浮上しきれずすぐに沈下することをくりかえし、一〇時四二分にいたってようやく、なぜか容易に意識がかたまりとどまることができた。ゆめをみて、起きた時点ですでに大部分うしなわれており、のこったいくらかを寝床で反芻したのだけれどそれももうわすれてしまった。布団のしたでしばらく深呼吸。胎児のポーズもやって、一一時四分に離床。天気はきょうも曇りで、雨は降っていないようだがひかりの感触はなく、よどんだかんじで気温も高くない。洗面所に行って顔を洗うとともにうがいし、トイレで用も足してもどるといつもどおり書見。ホッブズ/永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサンⅠ』(中公クラシックス、二〇〇九年)。原著は一六五一年刊行の古典である。けっこうおもしろい。冒頭で《リヴァイアサン》すなわち国家は「人工人間」であるという定式がなされるとともに、それに関連してこの書で考察される四部のポイントがみじかく要約されているのだが、まず「第一に、その「素材」と「製作者」。それはともに「人間」であるということ。」(8)というわけで、だから本篇は「人間について」と題された部からはじまり、「感覚について」「イマジネイションについて」「イマジネイションの継起あるいは連続について」「言語(スピーチ)について」と各章であつかわれる。ホッブズのかんがえではにんげんの思考のおおもととしてまず「感覚」があり、それは対象のなんらかの運動に刺激されたわれわれの器官や脳髄がわれわれの内部につくりだすおなじく運動としての表象=現れ=心像であって、それが思考の根源をなす、もしくは思考そのものである。それはまた「イマジネイション」と呼んでもよいが、さらにいいかえれば「衰えゆく感覚」(18)ともいえるもので、そのさらに具体的な名称が「記憶」であり、記憶が多量化すれば「経験」と呼ばれる。ホッブズによればにんげんの思考はかならずかつていちどはなんらかのかたちで(「全部いちどきにか、あるいは部分的に数回にわたって」(20))感覚されたことがらから成っており、ケンタウルスのような想像の産物も「あるときに見た人の姿と他のときに見た馬の姿」(20)から「複合的」(20)につくりだされる。この点、つまり感覚=知覚がすべてのおおもとであるということはかれがなんどか強調するところだが、そこからうみだされるいちれんの思考はおおまかには二種類があり、つまり「「導きのない」「企図のない」不定なもの」(27)か、「ある意欲とか企図によって「規制(レギュレイト)された」もの」(30)である。後者のうちにたとえば「回想」とか「深慮」すなわち経験にもとづいた未来の予測=推測がふくまれ、ここまでは「人間に生得の精神作用で、それを行使するのに、人間として生まれ、五感を働かす以外何一つ必要としないもの」(34)なのだが、さらにそこに「ことば(ワード)と話(スピーチ)の発明」(34)、すなわち言語がくわわることで、にんげんはほかの生物から区別される高みに達している。そこで第四章からは言語についての考察がはじまるのだが、そのなかではたとえば「「真」あるいは「偽」は、事物ではなく言語(スピーチ)の属性であり、言語のないところには「真」も「偽」もない」(43)(ただし、「「誤謬」ということはありうる」(43~44))といわれたり、「「真理」とは私たちが断定を行なうさいに名称を正しく並べることである」(44)といわれていたりして、いわばテクスト主義者的なおもむきがかいまみえる。文学を好むものとしてそれには好感をいだくところだけれど、いっぽうで、こういう姿勢はもしかしたら分析哲学へとつうじていくイギリスの哲学的伝統なのかもしれない。言語分析はひじょうに大切だとおもうし、分析哲学についてもぜんぜんよくしらないが、言語の配列や構造や連関の分析によって真偽を腑分けし、それでもってにんげんの思考における問題がすべて解決したり解消されるとみなすならば、それはやはりちがうだろうとおもう。ともあれそういうわけで、国家論をものするのに人間についての語りからはじまり、認識論にはじまって言語論へとながれていくというみちゆきになっていて、このあたりすごくむかしの哲学者っぽいやりかただなという気がした。プラトンの『国家』篇もたしか、善い国家とはなにかをかんがえるためには、まず国家よりもちいさくてちかくにあるもの、人間においての善さとはなんなのかをかんがえなければなるまい、みたいな理屈になっていたおぼえがある。逆だったか? さいしょにまず老年についての対話みたいなことがあって、それから正しさとは強者の利益であると主張するやつが出てきて、ソクラテスがこれをれいのいやらしい問答法で自己瓦解においつめ論駁するのだけれど、それでもしかし正しさとはなんなのかけっきょくよくわからんねえ、それでは善とはなにかを洞察するために、にんげんよりおおきくてよく見えやすいもの、国家や共同体における正しさをかんがえよう、そののちにそれをまたにんげんのたましいへと適用してかんがえてみようではないか、みたいなはなしだったかもしれない。しかもさいごまで行ってもけっきょく善とはなんなのかということについての明確な結論や定式はしめされず(そのくせソクラテスは、にんげんは善く生きるべきであるということ、善く生きるということがにんげんの幸福であるということだけは絶対的に確信している)、たましいの輪廻についての神話的な物語がかたられて終わるという構成になっていたはず。
 一二時過ぎまで読んで瞑想。三〇分弱。だいぶよいかんじがした。瞑想とはなにもしないということ、能動性をできるだけ無化することであるという点をさいきんわすれていたような気がされ、座っていてもなにかしらのことをしてしまっていたような気がするのだが、きょうはその原点にたちかえることができ、しかもけっこううまく行ったようだった。やはりそれが基本原理だ。そしてとてもむずかしい。なにもしないとはどういうことなのかとかんがえるに、記述的にとらえて「座っている」という一語で事態が終了しそれいがいになにもないということではないかとおもわれ、ひとまず主語をつけておくとそこで座っているのはじぶんだから「わたしが座っている」となる。只管打坐という道元の用語があるわけだが、その「只管」を「ひたすらに~する」の意ではなくて「~しかない」のonlyでとらえたいというのはいぜんなんどか記したとおりで(学問的にみて成り立ちうる妥当な解釈なのかわからないが)、それが可能だとしたら「只管打坐」という語も、座るということいがいになにもない、座るで事態が終結しておりその外部がない、座るによって世界がばっさりと切り落とされている、というようなイメージになる。座るしかないとはいってもじっさいにはもろもろの内外の知覚や思念があるわけだが、じぶんにたいして紐付けられる述語的な要素としては座るしかないということで、したがってそれはなにもしないといっているのとほぼおなじことである。しかも瞑想においてなにもせずじっとしているというのはまさしく「している」ということであり、つまり一回の行為としての「座る」ではなく、「座っている」という状態、その持続だということになる。なにもせずに座っていることによってにんげんを絶えず拘束している行為や行動(すなわち能動性)の呪縛からひととき逃れて自由と解放の時空を現出するのが瞑想だといえるのかもしれず、それをいいかえれば自己の存在の全的な武装解除ということだが、そうとらえたときの瞑想において目指されるのかもしれない事態の推移を記述的にかんがえてみると、まずさいしょに「わたしが座っている」というところからそれははじまる。座っている状態のなかから能動性がより薄くなっていくにつれて、おそらく主語が脱落し、そこで言語定式は「座っている」になるだろう。そうなるとこの「座っている」はじっとうごかずなにもしないことなので、ほぼ「存在している」と同義になって転化され、きわまれば、なにが存在しているでもなく、ただ「存在している」、さまざまな事物や知覚や思念など、じぶんをふくめたあらゆる存在が存在しているという同語反復の状態にいたるのではないか。瞑想にかんして主客同一だの存在の初期化だのといわれているのは、言語的に記述するとそういうことなのではないかと推測できる。
 こういう瞑想的な自由と解放のありかたを瞑想いがいの時間、つまりふつうに生きてなんらかの行為や行動をおこなっている時間に援用してかんがえるとき、まずonlyのもう一面の意味をそこに導入したい。「~しかない」ということは、行為にあてはめて裏返していえば、「ただ~する」ということである。「自然」ということがよくいわれるもので、それはときにこの「ただ~する」といういいかたと同義の語としていいかえられ、こちらじしんも「ただ書く」ということを実現したいなどと過去になんどか書きつけてきたが、この「ただ~する」という行為のありかたもしくはしかたがどういうことなのかという点は、意外にも、もしくは順当にも、なかなか判然とせずむずかしいところだ。それはあるばあいには、無意識的な、ほとんど自動的な行為のありかた、つまりじぶんのおこなっている行為にたいするメタ的な認識をうしない再帰的な顧慮や調節(ということはつまり能動性)がまったくはたらかない没入(没我)状態として語られ、あるときには、むしろ顧慮が最大化されて行為の隅々まで配慮や調節が行き届き、そのメタ的な認識にこそ最大限に没入している事態として語られるようにおもう。どちらにせよ、自己と、その自己がおこなうなんらかの行為(というよりは、それはおそらく「行為」ですらないことがあるとおもわれるから、述語的要素)のあいだに分裂や齟齬ばかりかわずかばかりの距離すらなくなって、主述が調和的に一致する状態ということなのかもしれないが、そこで大事になってくるのがまさしくこの「状態」ということばなのではないか。つまりうえの瞑想についてのかんがえを援用してみるに、行為を状態化するというのが「ただ~する」ということのひとつの内実なのではないかということで、瞑想をしているときに理想的にはそこに「座っている」しかないように、「~している」しかなくなる、というのがその意味なのではないか。そういうありかたで行為において、理想的な瞑想とおなじように諸縁を放下した自由と解放の時空が実現するのかどうか、その点はよくわからないが、行為が状態化して自己の存在とまるごと一致するようなことになればそういうこともありうるのかもしれないし、スポーツ選手がゾーンに入るとか言っていることもそういう様相なのではないか。「~している」というのは英語では進行形というカテゴリであらわされることがらであり、進行形にはbe動詞が構成要素として必要である。状態動詞は進行形にならないというルールはよく知られている通りだが、なぜかといえば状態動詞はそのなかにすでに持続をはらんでいるからで、したがって進行ということと状態ということがらは比較的ちかいはずである。そして状態動詞の最たるものは、存在をあらわすbe動詞だろう。したがって、「ただ~する」ということ、すなわち「行為を状態化する」、もしくは「行為が状態化して自己の存在とまるごと一致する」ということは、文法的なことばでいえば、行為動詞を(進行形を経由して)be動詞にできうるかぎりちかづけていく、というふうに換言できるかもしれない。たとえば書くことだったら、writingがbeingになるということで、それをwriting is beingと書きあらわすと、なんか自己啓発本にありそうなお手軽なにおいが出てきていやなかんじだが、ただいっぽうで、このbeingをもし「生きること」の意味でとらえるならば、この表現はむかしじぶんがよく記していた書くことと生きることの一致、「生きることを書くことによって書くことを生きること」のテーマともちかい射程を帯びてくる。ただこのばあいの「生きること」は生活とか人生の意だから時間的空間的範囲がひろい。いまかんがえているのはもっとちいさな、ひとつの行為の観点である。英語をつかって「行為の状態化」という事態を言語的に形態化してみるに、まず前提としてI am. があるだろう。つまり、わたしは存在している、ということである。つぎにI am writingといえば、「わたしは書いている」とつうじょう訳されるが、be動詞は存在の意であるとともにイコールをあらわすことばなのだから、これはI = writingであって、「わたしは書くことである」もしくは「わたしは書くこととして存在している」といういいかたもできるだろう。だからこの時点ですでに、「行為が状態化して自己の存在とまるごと一致する」という様相がわりと実現しているようにもみえるのだが、現実にはI am writingという表現は、「わたしは書いている」、わたしが能動的な主語として書くという行為を進行している、という意味でもっぱらうけとめられる。ここからwritingがより状態に近くなっていって能動性が消えることにより主語が脱落するとかんがえると、am writingとなる。主語としてのわたしが脱落したので主語となりうべき名詞はwritingしかないとかんがえてこれを逆転させれば、writing is. となる。「書くことが存在している」である。これが主客合一というか没我の言語的定式化だろうが、ただ現実には、わたしが消え去って書くことだけがそこにあるというような事態は、作家とか思想家たちはそういうことをしばしばいうけれど、そうそう起こるものではない。そこでいちおうここにわたしを再導入してのこすとするなら補語の位置しかないわけだが、そのときかんがえられる等置は、まずはwriting is meである。「書くことがわたしとして存在している」。「書くことは」と「は」をつかうと、日本語として総称的な、普遍的なニュアンスが出てしまうので、「が」のほうがおそらくよいだろう。これもまあわからんではない。作家や思想家やあるいは宗教者などがしばしばいう、わたしが主体ではなくて、たとえば言語とか、つうじょう述語となることがらのほうが主体なのだといういいぶんは、みじかく定式化するとこうなるだろう。もうひとつ、わたしを書くことが発生し展開する場だととらえて前置詞を導入するいいかたがありうるかもしれない。writing is in me、もしくはinだと包含の意味が出てしまうので、writing is on meのほうがよいかもしれない。行為が状態化され、その状態しかそこにはないとなったときに、しかしいちおう主語の地位をおわれたわたしをのこそうとすれば、行為がある場としてのわたし、すなわち名詞化された補語ではなく、存在する行為(行為が存在すること)にたいする副詞句としての補足的な(修飾的な)わたし、というありかたがじっさいにちかいのではないかという気がする。つまり、わたしがなんらかの時空において行為しているのではなくて、行為が状態となることをつうじてわたしが時空化する。
 余談だが、「は」と「が」のちがいについておもったこともすこし。「わたし」と「書くこと」をれいにしてこのふたつの助詞をつかったbe動詞的な文を四パターンつくりだすと、「わたしは書くことである」「わたしが書くことである」「書くことはわたしである」「書くことがわたしである」となる。このうちまず「わたしが書くことである」という文はある意味で不遜さが混じっているというか、「わたしこそが書くことである」というようなひびきを帯びてかんじられる。つまりそこでは、わたしいがいにもほかにたくさんひと(もしくはこの文の主語になりうるもの)があるなかで、このわたしこそが、というふうに、多数の選択肢を前提としながらあえてこの主語を選んでいる、というような含みがあるようにおもえる。ここで直接いいあらわされていない範列的余地がこの「わたし」をとりかこんでおり、しかしそれらのわたしいがいのものは書くことではない、というかたちで、わたしの外部の存在や領域が潜在的に参照され、前提となり、暗示されているようにかんじられる。たいして、「わたしは書くことである」になると、この外部への参照がないようにみえる。この文には、ここで主語になっているこの「わたし」しか射程として含まれていないようにきこえる。ということは、そのほかのものが書くことであるのか否かは、この文の範囲では問題としてとりあげられていない。このような切り捨ての感覚があるかどうかが、「は」と「が」の違いだとひとまずかんがえてみる。そこで「書くこと」を主語にした文のほうにうつると、さきほどうえで、「書くことはわたしである」とすると総称的、普遍的なニュアンスが出てしまうと記したように、「は」をつかうと、「書くということは」、「書くこと」にもさまざまな種類だったりそれがおこなわれる個別の機会だったり、多数の「書くこと」があるけれど、それらすべてをひっくるめた総体としての「書くこと」、というひびきがかんじられる。そのばあい、すべての「書くこと」がそのなかに含まれるわけだから、「わたしは書くことである」と書いたときと同様、(すくなくとも「書くこと」の範疇において)その外部はなくなる。この文は「書くこと」についてしかふれていないし、その他の行為やものがわたしであるか否かは問題化されていないということになる。そしておもしろいことに、「書くこと」を主語としたばあいには、こちらのほうが不遜にかんじられるのだ。あらゆるすべての書くこととはわたしである、という響きを帯びるからである。「書くことがわたしである」といったばあいには、うえの段落で述べた内容や文脈にあわせていえば、ある個別の時空において、というニュアンスをはらむのだ。すなわち、「書くこと」には無数のさまざまな「書くこと」があるけれど、ある特定の機会においては書くことがわたしである、あるひとつの「書くこと」がわたしである、という含みを得る。ここで「書くこと」は限定され、条件付きのものになるわけだ。したがってそれもやはり、「書くこと」の多数性を前提としている。多数のもののなかから限定することで個を強調し、選ばれたものとその外部という区分をつくりだすのが「が」のはたらきであるという理解になるが、うえの例で生じる不遜さの印象は、まさしく主述のあいだにある個と総体という地位のずれに起因している。それをしめすまえにここでもうひとつポイントとなるのは、文を言明する主体にとって、「わたし」とはまさしく「このわたし」しか存在しない、ということである。「わたし」ということばは唯一の「このわたし」を前提としており、総体と個が同一で、したがって「わたしが書くことである」という言明において「わたし」の外部として暗示されるのは、「わたし」いがいの他者である。「わたし」のなかに複数性が導入されることはない。「わたし」は基本的には個としての、「このわたし」としての地位をもっているため、述語に置かれたばあいは個としての位置づけになる。「わたしが」というと、「わたし」いがいの外部を参照するから多数のなかでの個別性がより強調され、「わたしは」といえば個がそのままで総体化される。述語としての「わたし」は「ひとつのもの」、「わたしが」の「わたし」は「多くのもののなかのひとつのもの」、「わたしは」の「わたし」は「ひとつであり全体であるもの」となるだろう。これにたいして「書くこと」には複数性があるから、「書くこと」の内部で、あるひとつの個と総体の区別がなりたちえる。このような一般的名詞は、それだけで述語の位置におかれると、なんの特性も帯びないので漠然と総体化されてとらえられる。いじょうを踏まえて四パターンの文に主述の地位をあてはめてみると、「わたしは書くことである」は総=総、「わたしが書くことである」は個=総、「書くことはわたしである」は総=個、「書くことがわたしである」は個=個となる。したがって、これらの文を読んだときにこちらがかんじる不遜の感覚は、個が普遍を僭称するときのそれである。
 

 タイトル案ふたつ: 「きのうの景色とあしたの音色 [ねいろ] 」「眠りぎわに天使はささやく」


 瞑想にかんして能動性を無化するということをまえからいいつづけているわけだが、「~する」よりも、「~しようとする」のほうが難敵なのではないかという気がしてきた。なにもせずじっと座っていることとして定義される瞑想中であっても、なんらかの意味での「~する」をかんぜんに排除するのは非現実的だし、それどころか不自然である。完璧主義とはむしろ能動性の極致だ。それよりも「~しようとする」にどう対応するかのほうがむずかしく、大事なポイントのような気がする。それはとくに身体的なことがらよりも精神のうごきにかんしていえる。身体においては「~しようとする」と「~する」のあいだにまさしく身体というクッションが介在しているために、そこがかならずしも直結するわけではないが、精神的な領域においては「~しようとする」が発生した瞬間にそれがほぼそのまま「~する」に変わっている。そのうごきを追認し、強化することになるとまずいというか、まずいといったって現実そんなうまく切断できないわけだけれど、というか精神のうごきを切断するとかんがえるとそこにまた能動性が生まれるわけだけれど、ともかくよくいわれるように、思念の発生やそのながれを承認しつつ放っておく、というのがコツではあるのだろう。それをどうやるの? ということになると、これは言語化できないわけだが。「放っておく」ができればよいのだが、「放っておこうとする」になるとよどみ、濁るという、ここにもおなじ問題が出来する。そして瞑想という時間にかんするかぎり、それはすべての動詞につきまとう問題となる。能動性とはこの「~しようとする」を追認的に強化することにあるのではないか。能動性にたいして傾向性という概念を導入してみたとして、事態が傾向性の段階にとどまっていればよいのだが、それをひろい、とりあげてひとつのながれに固定化し、みちをつけると能動性に転化すると。そういうわけで、傾向性を追認し、強化することを能動性として定義できるかもしれない。能動性が無化された状態を理想的な瞑想として想定するなら、それは心身の(主には思念の)みちすじが固定されずあらゆる方向への傾向性を潜在的にはらみ、実際上も自由にうごめきまわりながら、しかしどの方角にもとどまることのない拡散的なたゆたいの状態だと記述できるかもしれない。
 一二時半ごろ上階へ。ジャージにきがえて食事はオクラの味噌汁やマクドナルドのバーガー。テリヤキチキンだとおもう。ポテトも一箱というか容器ひとつ分、大皿にあけて電子レンジであたため、食った。新聞一面は六月から予定の外国人の入国解禁にあわせて、出国時の検査が充実しているいちぶの国からの入国にかんしては水際対策を緩和する方針との報。一日の入国上限もいまは一万人だが二万人に増やす予定だと。ビジネス界から日本は制限がきびしく、事業の足かせになっているみたいな声があったらしい。いまは出国前七二時間以内におこなったPCR検査などの陰性証明書を出さなければならず、また入国時も抗原検査かなにかで陰性を確認しないといけないとか。ウクライナにかんしては、ハルキウ(ハリコフ)付近でウクライナ軍がロシア軍を押し戻して国境に到達したとあった。すごい。しかしロシアは東部ルハンスクの全域掌握を優先しているらしく、すでに九割が制圧されていると。英国の発表によれば、今後三〇日間、ロシアが劇的な前進をすることはないだろうと予測されているらしい。よくもわるくも長期化がみこまれる。二面にはプーチンが集団安全保障条約(CSTO)の対面会合をモスクワでおこない、同盟国に戦争への積極的な関与というか支援をもとめたと。つまりプーチンとしては出兵してほしいわけだ。構成国は、ロシア、ベラルーシカザフスタンキルギスアルメニアタジキスタン。しかしどの国も反応は鈍く、カザフスタンは今年一月に反政府デモが拡大したさいにロシアが軍をおくったにもかかわらずウクライナ侵攻に反対するデモを黙認しているというし、ベラルーシのルカシェンコですら、ロシア軍に拠点を提供してはいるものの、出兵にかんしては要求をかわしているという。スウェーデンのマグダレナ・アンデション首相がNATO加盟申請を正式に表明という報もあった。
 食器を洗い、風呂も洗うと帰室。きのうは二時ごろにいつのまにか力尽き、パソコンをつけたまま眠ったのでNotionはすでにひらいてあった。あたらしくきょうの記事をつくると音読。なぜかすらすら読めて、とくに「読みかえし」のほうをおおくできた。そうするともう三時。そのあとはきょうのことを書いたり休んだり。なぜかうえのように思考がやたら走って、抽象的なことがらをつらつら綴ることになってしまった。五時すぎで上階へ。アイロン掛け、とはいってもじぶんのワイシャツ一枚だけ。食事の支度も母親がすでにやっていたのでしごとがなく、さっさと帰るとまたきょうのことを書いた。「は」と「が」の区別について。それができるとベッドでウェブをみながら脚をマッサージし、八時で夕食へ。スンドゥブなど品をそれぞれ膳に支度し、長方形の盆の左右を両手でもって、足をはずさないように身を横にかたむけながらしたをよく見つつ階段をゆっくり下りる。きょうは(……)さんのブログを読まずにウェブをてきとうにみながら食し、九時をまわってうえに行くと食器を洗い、ながしの洗い桶に漬けられていた包丁とかパックとかもついでに洗った。入浴。湯のなかで目を閉じてじっとしたが、思念は高速で秩序なくながれ、なんでもないような記憶が瞬間的におもいだされたり、FISHMANSの”幸せ者”がなんども回帰してきてほとんどそこに固着するようになったり、にんげんの精神というのはその本質からして分裂的というか、ほとんど散り散りなのだとおもう。表象が映ったり、かいまみえたりするその速度ははやい。ある知覚からある印象や思念が生じ、またそれがひろいあげられずつぎの思念に場をわたして消えていくその速度もはやい。クロード・シモンが『フランドルへの道』のさいごのほうで散乱した記憶が混線して混ざり合うみたいな表現をやっていたが、もしひとの思念をより正確に(そこでいう「正確」とはいったいなんなのか?)言語化できたとすれば、あれをさらにはるかに破砕的にこまかくしてモザイクみたいに組み合わせるというかたちの表現になるだろう。それもこころみとしておもしろそうだが、果たしてそれが小説として成り立つかというとむずかしい気もする。どちらかといえば詩とみなされるものになるのではないか。そういえばとちゅうで、母校である(……)高校のようす、門をはいって昇降口までのあいだにあるスペース(職員室などがあった棟のしたをくぐるかたちになっており、だから昇降口のすぐまえに来るまで大部分頭上はおおわれている)や、下駄箱というかロッカーのある昇降口をはいったあたりの一階のフロアのようすとかがおもいおこされるときがあって、そんな空間の情景はもうながいあいだおもいだすことがなかった。
 風呂を出てもどってきて、ここまで記すと一一時をまわったところ。きのうのことを書かねばならない。


 そのあとはだいたい前日、一六日のことを書くのについやされた。しかしぜんぶは終わりきらず。職場のことをいくらかのこしたところで、きょうはここまでかなとちからが尽きた感があったのでそれにしたがい、その後は怠けた。四時就床。