2022/5/24, Tue.

 侏儒 [こびと] の少女がハンス・カストルプのためにクルムバハ・ビールを持ってきた。しかし彼はそれを諦めて断った。きょうはビールは飲まないことにしよう、全然飲まないでお(end358)こう、いや、すまないけれども、きょうは水を一口飲むぐらいのところでやめておこう。こういう彼の言葉が一大センセーションを惹き起した。どうなさったんですの。なんで急にそんなことをおっしゃるのです。なぜビールを召しあがりませんの。――少し熱があるんです、とハンス・カストルプはさりげなくいった。三十七度六分、ほんのちょっとですが。
 すると、みんなは人差し指を立てて彼をたしなめる仕草をした。――はなはだ奇妙な光景だった。みんなはいたずらっぽい調子で、首を横にかしげ、片方の眼をつむり、耳のあたりで人差し指を振った。まるで、いままで純真を売り物にしていたひとが何か突飛なことをしでかして、それが皆に知れ渡ったとでもいうような具合であった。「おや、まあ、あなた」と女教師は微笑しながらおどす真似をして、産毛の生えた頬を赤くした。「結構なお話ですね、ほんとにたいしたお話だこと。いまに見ていらっしゃいよ」――シュテール夫人も「あら、あら、あら」といって、短い赤い指を鼻の横に当てておどした。「参観の殿方に温度(Tempus)がおありですって。あなたも相当なものね――ご立派だわよ、頼もしい同志だわ」――上手 [かみて] の席に坐っている大叔母さんも、ニュースが伝わると、ふざけて、ずるそうに彼を脅す真似をした。美人のマルシャも、これまでハンス・カストルプに目もくれなかったのに、彼の方へかがんでオレンジ香水の匂うハンカチを口に当てたまま、まん丸い鳶色の眼で彼を見つめて、やはり彼を脅す真似をした。(end359)シュテール夫人から伝え聞いたドクトル・ブルーメンコールもみんなと同じそぶりをしたが、しかしそれでもハンス・カストルプの顔は見なかった。ミス・ロビンスンだけが、例の打解けない様子を崩さずにいた。ヨーアヒムは真面目な表情で眼を伏せていた。
 こんなにまでみんなからからかわれたので、ハンス・カストルプはくすぐったくなり、謙遜して何か否定の言葉を述べなければなるまいと思った。「いや、皆さん」と彼はいった。「皆さんは勘違いをしていらっしゃるのです。ぼくの熱は全然他愛もないもので、このとおり、ただの風邪でして、眼に涙がでて、胸が重苦しくて、夜の半分が咳きこんで、どうもとてもやりきれないのです。……」 しかし誰も彼の弁解など受けつけようとはせず、そんな言い草はたくさんだといわんばかりに笑って手を振り、「さよう、さよう、そのとおり、ごまかし、逃げ口上、風邪のお熱、そうでしょう、そうでしょう」と叫んだ。そして一同急に異口同音に、即刻診察を受けるようにとすすめた。このニュースでみんなが活気づいて、この朝食中は、七つの食卓の中で、この食卓がいちばん賑やかだった。ことにシュテール夫人ときたら、襞縁 [ひだべり] からまっ赤で頑迷な首を突きだし、頬には小さなひび [﹅2] を見せて、ほとんど野蛮とも評すべき饒舌で、咳の快感について一席長広舌をふるった。――胸の奥底でむず痒さがつのり、それが大きくなって、その刺激に応ずべく、こちらも痙攣したり我慢を重ねたりしながら息をずっと深くしていく気持、これはまことになんともいえないほど楽しくて、いい気持である。それは急にあのくさ(end360)めをしたい刺激が高じてきて、たまらなくなり、うっとりと二、三度大きく息を吐いたり吸ったりしたのち、その刺激に身を任せて、甘美な爆発に全世界を忘れ去るあの快感に似ているではないか。しかもときには二度、三度と続けざまにすることもある。これぞ人生の無料の楽しみというものであろう。もっとも、ほかにもたとえば霜焼けを搔く快感がある。春さきに、これがおそろしく痒くなり、それを一心不乱に、残酷に、それこそ血のでるほど狂暴に搔きむしって恍惚となるのも同じ種類の愉悦であるが、そんなときに、ふと鏡を見ると、そこには悪魔のようなしかめっ面が映っている、というのである。
 (トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)、358~361)



  • 「英語」: 521 - 549
  • 「読みかえし」: 807 - 824


 820番。「まさにいま、通りではオルガン弾きが演奏しながら歌っている。素敵だ、これこそが人生という重要事における無意味な随伴物なのだ」。すばらしい。

 (……)成人後の生活でキェルケゴールが客を招くことはほとんどなく、実に生涯を通じて友人といえる者はほぼ存在しなかった。しかし知人は多い。姪のひとりによれば、コペンハーゲンの街は彼の「応接間」であり、そこを歩き回ることはキェルケゴールの日々の大きな楽しみだったという。それは人と暮(end43)らすことのできない男が人びとに交わる術であり、束の間の出会いや、知人と交わす挨拶や、漏れ聞こえる会話から幽かに伝わる人の温もりを浴びる術だった。ひとり歩く者は、居ながらにしてとりまく世界から切り離されている。観衆以上の存在でありながら参加者には満たない。歩行はその疎外を和らげ、ときに正当化する。そのおだやかな懸隔は歩いているからこそであり、関係を結ぶことができないためではない、と。ルソーと同じように、歩行はキェルケゴールにとって思惟への沈潜を助けつつ、日常に隣人との交歓の機会をつくりだすものだった。
 ちょうど文筆活動をはじめたころの一八三七年に、次のように記している。

実に奇妙なことに、わたしの想像力は大勢の人びとのなかで、ひとり座っているときにもっともよく働くのである。騒音や人びとの声のせいで、想像力の集中を持続させようとするならば根こそぎの意志の力が必要となるような場面だ。この環境なしには無限に湧いてくる思念を受け止めることができず、想像力は血を流して死んでしまうだろう。

 彼は、この同じ喧騒を街路に見出した。それから十年以上を経たのちの日記にはこう述べられている。

わたしのような精神の緊張に堪えるためには気晴らしが必要となる。通りや裏道での偶然の出会いによって気を逸らすのである。なぜなら、数名の限られた人物との交流ではまっ(end44)たく気晴らしにならないから。

 キェルケゴールはこの日記やそのほかの文章で、精神がもっともよくはたらくのは周囲に気を散らすものがあるときだという考えを記している。周囲の喧騒から隔たってゆく過程ではなく、自らのうちに退いてゆく過程において集中力が発揮されるのだ、と。「まさにいま、通りではオルガン弾きが演奏しながら歌っている。素敵だ、これこそが人生という重要事における無意味な随伴物なのだ」。都会生活の騒乱に身を浸しながらそう書くこともあった。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、43~45; 「第二章 時速三マイルの精神」)


 一一時一〇分に起床。天気は快晴というほどではないが、あかるく、晴れ寄り。気温も高め。からだに汗もたしょうかいていた。起き上がると消毒スプレーとティッシュをつかってコンピューターを拭き、水場へ。トイレにはいって小便を放ち、洗顔したりみずを飲んだりする。もどると屈伸してからベッドで書見。屈伸をきちんとたくさんやるとからだが軽く、楽になる。活力が出て立って作業する気にもなる。ホッブズリヴァイアサン』は宗教についての章をすぎて、いよいよ自然法とか契約とかのはなしにはいっている。「各人の各人にたいする戦争状態」というれいのゆうめいな定式も出てきた(178)。感覚論や認識論からはじまって言語を経由しにんげんの感情や精神的性質について分類的に論じてきたのち、それらにもとづいてにんげん相互の「契約」という共同関係へと主題を移行し、そこからコモンウェルス(国家)についての部へとはいっていく、というみちすじ。宗教については、「こうしたことから、この世における宗教のあらゆる変化を同一の原因に帰することができると思われる。すなわちそれは不愉快な僧侶たちであり、彼らはカトリック教徒のなかだけではなく、宗教改革の大部分をやってのけた教会のなかにさえ存在する」(165~166)と第一二章「宗教について」の末尾に記されており、すくなくともホッブズローマ・カトリックの制度的な教会にかんしてはかなりディスっている。その直前には、反語的な問いかけのかたちで、教会の教説や私的なミサや煉獄の教義がもっぱら教会じたいの利益のためだということをはっきり示唆している。いっぽうで唯一絶対の神にかんしてはその存在を信じているのか、無神論なのか、どういうスタンスなのかそんなに明瞭とはかんじられず、いちおうそれを尊重するようなことは書いているのだが、ほんとに? といううたがわしさが全体的な内容や筆致からかもしだされてくる。
 ホトトギスが盛んに鳴いて声を空にわたらせていた。きのうの深夜、寝るまえにも耳にしたが、これがじぶんにとっては今年の初音だ。一二時五分から瞑想をした。やや遅くなってしまったのできょうは二〇分ほどでみじかめに。上階に行き、ジャージにきがえ、屈伸をよくやってから食事。煮込みうどんやペスカトーレだかなんだかパスタなど。新聞一面は日米首脳会談の話題。岸田文雄はバイデンにたいして防衛力の拡充をめざす意志をつたえたと。バイデンのほうは台湾有事が起こったばあい米国は軍事的な関与をおこなうつもりがあるかという記者の質問に、イエス、それが米国の責任だと断言したと。アメリカはいままでこの点あいまいな戦略をとってきたので、これはおおきな転換なのだという。こんなにはっきりと明言したのなら、中国にとっては相当な抑止力になるのではないかと、素人考えではおもってしまうが。ところで母親いわく兄から連絡が来ているということで、番号をおしえていいかといわれたので了承しておいた。食後は皿と風呂を洗って、きょうはきのうの帰りに駅で買ったコーラのちいさなボトルをもって帰室。そのあと白湯も飲んだが。
 兄からはSMSでViberへのリンクがきていたのだが、兄貴かと確認したあと、悪いがおれはそういうのをやる気はない、性に合わないといっておき、そのあとたしょうやりとり。テレビや浄水ポットがいらないかとおもってというので、テレビはおれには必要ないと断言し、浄水ポットはもしかしたらつかうかもしれないから、越してみてほしくなったらもらうということにしておいた。その後のメッセージによると、ブリタというメーカーのものらしい。ぜんぜん知らなかったが、たぶんいちばんメジャーなほうのやつなのだろう。兄はなんだかんだ会社で飲み物を買ってしまうが、それだと金もかかるので、浄水ボトルをつかって浄化された水道水を持っていったりもしているらしい。いまべつに水道水がまずくて飲めんということはすこしもかんじないが、たしかに(……)だとまた質がちがうかもしれない。浄水ポットというのがただ浄水するだけなのか、それとも加熱して湯にすることもできるのかが気になる。白湯は飲みたいので、後者だったらつかえる。
 あときのうの夜に(……)から二七日の(……)見送り会についての連絡があって、(……)付近の居酒屋かなんかを手配してくれたらしい。正確には(……)という土地らしいが、(……)駅からいっしょにあるいていこうというので了承し、ついでにようやく家を出て(……)に越すぞということをつたえておいた。(……)の実家もそのへんでけっこう近いのではないかとおもっていたが、(……)駅から五分くらいといっていたので、おもったいじょうに近場で笑う。タイミングが合えば軽トラを出しててつだってくれるというのでそうしようかなとおもった。きのうの昼間に父親からも運ぶものがあるんだったら準備して日を決めとかないとといわれたのだが、親に運搬を頼むつもりはなかったし、めんどうくさいからスーツケースに服とかだけ入れて身ひとつで行き、必要なものはもうむこうでそろえればよいかともおもっていたのだけれど、布団は母親が家にあるやつを持ってけばというので、なんだってよいしあるならまあ買う必要もないかなともおもっていた。そのばあいは運搬が必要になるので、(……)にでも頼もうかなとおもっていたのだけれど、このタイミングで(……)から連絡が来て渡りに船というかんじだ。さいきんはなぜなのかわからないが運がよいとかんじることがおおい。まず、ゴールデンウィークに(……)の両親で来るといわれていてめんどうくさそうだな、逃げようとおもっていたところがまあもろもろあってとりやめになった。つぎに、物件をさがせば最低ランクとしてはまあよさそうなやつがみつかって、支障なく審査にとおることもできた。そして今回の(……)。もともと(……)の件があったからこのへんで連絡が来るというのは予想どころか予定されたことではあるのだが、メールが来るまで(……)に頼めるかもということはまったくあたまになかった。ゴールデンウィークの件も、(……)家に泊めてもらうよう頼もうかなとおもいながらも、まよったりめんどうくさかったりで連絡をしないでいたら向こうからはなしが消えたといういきさつで、状況が変わるかもというあたまがまったくなかったわけではないが、可能性としては低いとおもっていた。ぐずぐずなにもせずようすをみているとむこうで勝手にうごいたりチャンスがきたというのがひとつめと三つ目。ふたつめはじぶんからもう出ちまおうとおもって行動したわけだが、それも(……)の両親が来るというはなしに触発されたところもあるので、触発をうけてうごこうとおもっていたらその触発の原因が消えてしまい、そのままうごきだしたらうまい具合に物件が決まったというかたち。なにかいろいろわりとうまくはまっている感がある。日ごろのおこないの善良さとにんげんとしての高潔な徳性が天の愛を引き寄せているにちがいないが、ここにこうして書いてしまったのでたぶんそれも今回で終わる。そもそもまだ(……)の予定が合うかどうかわからない。
 白湯を取りにあがったときに、母親が布団これだよというので元祖父母の部屋に行ってみておいた。ニトリで買ったコンパクトなやつだというがなんだってよい。それをもっていくことに。あとは服と本とアンプとその他必要そうな小間物くらいでいいのではないか。本を入れる段ボールかなにかがあるかわからないが。たくさんもっていっても部屋がせまくなるだけでどうせすぐ読めもしないし、そんなにおおくもっていくつもりはない。だんだんすこしずつ移すつもりではあるが。六月四日か五の土日で(……)にたのむとして、そのまえにでむいて洗濯機とか買って設置しておくのがよいだろう。あとカーテンか。電球も買わないとならんと(……)がいっていたがどういう型なのかよくわからん。重要事項説明がたぶんあしたかあさってになるだろうからそのときわかるようだったらおしえてもらうか、そこで鍵がもらえるはずだからその後にでむいて調べる。あとネット回線や電気ガス水道の契約か。このへんまったくよくわからんのでぜんぶauにしようかとおもいながらめんどうくさいのでサイトをおとずれてすらいない。auでんきというのとあとauガスもあったはずとおもっていまサイトをみてみたが、これはたぶんあれだ、auをとおして契約できるというものではなく、もともと東電とかと契約しているひとがauをかませることでポイントをもらえるみたいなやつだ。ネット回線はauひかりとかいうのがあるのでそれでいいかなとおもっていまサイトをたしょうみてみたがよくわからんしめんどうくさいので、とりあえず重要事項説明のときに(……)にいろいろきいておしえてもらえばよいだろう。
 音読。二時半すぎくらいまでやったか。「読みかえし」をけっこうたくさん読んだ。その後きょうのことをここまで記述してもう四時を越えている。社会生活のことももちろん知っておかねばならないが、こういうあまり興味が出ない、必要からくるわずらわしい調べ物に時間をつかったときは、いまでもまだそこそこのもったいなさをおぼえる。きょうはあときのうの日記をしあげたいのと、それがすめばだいたいなんでもよいがホッブズをできるだけ読みすすめはしたいかな。散文断片もやれたらやりたい。


 五時すぎで上階へ。アイロン掛けをやる。けっこう数があった。シャツ類やエプロンやハンカチ。六時くらいまでかかったとおもう。終えるころには台所で母親がやっていた食事の支度も終わってしまっていたので、そのまま下階へ帰った。なぜか『族長の秋』をまた読みだそうかなというきもちになっていた。まいにちすこしずつちびちびと音読して読んでいくのがよいのではないかと。まあまえにもおなじことはなんどもかんがえて、そのたびやりださなかったりやってもつづかなかったりしたので今回もたぶんつづかないのだが、しかしこの日はさいしょから五ページほどをじっさい読んだ。書き出しからしばらくのながれはあらためて読んでみてもすばらしく、ほぼ完璧と言ってよいなとおもった。まいにちすこしずつ音読をするというのもそうだが、まいにちでなくとも、一ページずつ精読してわかったこと感じたことをぜんぶ記録していくというのをやるのもよいかもしれないとおもった。これもおなじようなことはいぜんからいろいろな作品にたいしてかんがえていながらじっさいやっていないので、たぶんやらないが。しかし、きのう(……)くんとはなしたときにも話題にあがったけれど、そういう記事をnoteにでもコンスタントにたくさんあげていけば、これからはじめるひとり暮らしで収入をすこしでも増やすにあたって、オンラインでむずかしい本をいっしょに読むだけで金をくれるひとをつのるときの助けになるのではないか。(……)くんには、ポッドキャストがいいですよ、To The Lighthouseを読んで、訳文もいっしょに出して解説していく、そういう音声をYouTubeにでもコンスタントにあげてファンをつくって、そっからしごともらえばいいんですよ、みたいなことをいわれたが、そういうことも一案としてありえるだろう。
 夜はきのうの日記をすすめたりだらだら休んだりを交互にくりかえすような感じだったが、けっきょくすべては終わらず。通話中のことが書けずにのこってしまった。しょうがない。散文断片もできず。書抜きも。読み書きにかんしてはなんだかあまり奮わないさいきんだが、ともかくもまいにちそういう時間をつくること、そういう時間のなかにはいることができればとりあえずはよいというのが原点だ。