2022/5/26, Thu.

 毎日曜日、決って表玄関で郵便物が分配されるというのは、なんというありがたい習慣だろうか、と彼は考えた。一週間後のこの時間を待ちながら、彼は一週間をすごしたといっても過言ではない。待つとは、さき回りするということであって、時間や現在というものを貴重な賜物と感じないで、逆に邪魔物扱いにし、それ自体の価値を認めず、無視し、心の中でそれを飛び越えてしまうことを意味する。待つ身は長いというが、しかしまた、待つ身は、あるいは待つ身こそは、短いといってもよかろう。つまり長い時間を長い時間としてすごさないで、それを利用せずに、鵜呑みにしてしまうからである。ただ待つだけの人は、消化器官が、食物を栄養価に変えることができないで、大量に素通りさせてしまう暴食家のようなものだ。もう一歩進めていえば、むろん純粋にただ待つだけで、そのほかには何ひとつ考えもしなければ行動もしないというようなことは、実際にはありえないにしても、消化されない食物が人間を強くすることができないと同(end497)様に、ただ待つことだけに費やされた時間は、人間に歳をとらせないともいえる。
 (トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)、497~498)



  • 「英語」: 569 - 586


 九時台後半に覚醒。そこそこのめざめだった。インターフォンのおとでさめたようだった。きょうの天気は曇りでカーテンをひらけば空は一面白いが、ひかりの感触がまったくないわけではない。しばらく首を伸ばしたり、呼吸をしたり、こめかみや耳を揉んだり膝をかかえこんだりして、一〇時二〇分に起床。コンピューターを消毒スプレーとティッシュで拭き、部屋を出て洗面所へ。顔を洗ったりみずを飲んだり口をゆすいだりしてからトイレにはいって用を足し、もどってくるときょうもホッブズリヴァイアサン』を読んだ。もろもろの自然法の説明が終わり、人格という観念についての章をはさんで、いよいよ第二部、コモンウェルスについてのパートにはいった。もっとも基本となる自然法(理性がみいだす戒律)は契約を遵守するということで、ホッブズの論ではそれが要するに正義ということなのだが、その他いろいろな自然法が紹介されつつも、それらはかんたんにいえばじぶんがやられることを望まないことを他人におこなわないようにせよ、またじぶんがやってほしいことは他人にもそのようにするようにせよ、というキリスト教的なふたつの黄金律にまとめられうるようだ。そこから人格のはなしに行くのは要するに代表のことを論ずるためで、自然人格と擬制人格・人為人格、本人と代行者というような区別が出てくる。そうして各人が各人にたいして戦争状態にある自然状態をぬけだしてたがいの生命を保障するため、ひとびとはみずからの意志をひとつの代表的な人格もしくは合議体にゆずりわたし、委託し、公共の安全を確保するための権力行使をみとめる、というわけだ。それが契約によってつくられる国家すなわちコモンウェルスである。そうなると、その点が明言されているかわからないが、国家は個々人の生命と安全を確保するために構築されるものなのだから、そのつとめを果たせない国家は国家にあたいせず、存在意義がないということになる。そこからおそらくロックの抵抗権とかのかんがえが出てくるのだろうか。また国家が権力を行使できるのはあくまでもひとびとの生命と安全を確保するという目的、もしくはそれが可能であるかぎりにおいて、という主権抑制のかんがえも出てくるだろう。それをひるがえせば、国民の生活の安全を保障できてさえいればよいというような、強権的な国家形態も出来しうる。それがいまでいえば中国だろう。
 一一時すぎから瞑想をはじめたのだが母親がかけている掃除機がちかづいてくるおとがきこえたのですぐにやめ、上階に行った。ジャージにきがえて屈伸。南窓のむこうでは近所の屋根がすこし白い箔を貼られたようになっているものの、空はやはり丸ごと白く、青みが透けたとしても濁ったような、抑えられたいろでしかない。風はきのうにつづき盛んに駆けめぐっている。洗面所でまた顔を洗ったりうがいをしたり、髪を濡らして乾かしたり。食事はフライパンで焼いた鮭と白米、それにきのう(……)さんがもってきたセルバチコとかいう菜っ葉とトマトをあわせた小サラダ。ゴミがカラスにつつかれたようで散らかっていたと向かいの母親。掃除機をかけているときに(……)さんがとおって、あれたぶん(……)さんのうちのゴミじゃない、信玄餅とか食べた? とおしえてくれたという。恥ずかしい、となったというが、そこまでひどい散らかりではなかったようで、下着をこまかく切って入れたりしてたから(それなどを散らかされなくて)まだよかったよ、とのこと。カラスのしわざかゴミ収集業者のひとが落としたのかわからないが、まあおそらくは前者だろう。それでネットを買うようかなと母親は思案していた。そういうことを聞いていたので、あとはアパートになにをもっていくかとかもはなしていたので、新聞をあまり読めず。北朝鮮弾道ミサイル二発か三発を発射したということくらい。物件の重要事項説明は今夜になった。勤務後にそのまま(……)にむかって、たぶん飯を食いながらはなすことになるだろう。おごるつもりでいる。
 食器を洗い、風呂場に行って、浴槽にはいっていた汲み上げポンプをとりだすとそのさきのほうがもうずいぶん汚れていたので小さいブラシできれいにこすっておいた。それから浴槽内もスポンジ的なブラシで洗い、出ると白湯を一杯持って自室に帰還。Notionを支度すると音読にはいった。「英語」ノートをすすめて一二時半すぎ。そこからこの日のことをここまで書けば一時一五分。きょうも三時すぎか三時半すぎには出ないといけないので、そんなに猶予はないが、きのうのことをたしょうなりとも書いてしまいたいきもちはある。


 いまはもはや二七日をむかえた深夜二時半である。勤務後に(……)に出向き、(……)と飯を食ったり喫茶店で物件の重要事項説明書類を読み合わせたり。そうしているうちに閉店の一〇時がせまって時間がなくなったので、書類はひとまず受け取って記入し、あさって土曜日の夜にもういちど会ってわたすということになった。それで帰宅したのは一一時ごろで、そのあと断続的に(……)さんのブログの五月六日分を読んだのだけれど、シリアスなものも滑稽なものも、過去の日記からひかれたおもしろエピソードがありすぎてたいそうおもしろい。この豊穣さ。こりゃとうじのじぶんもぜんぶ読むわ、とおもった。(……)さんのブログを発見したころのじぶんはすでに二三歳だったはずだが、そこから一〇年弱を経過したいまからおもいかえすと、にんげんとしてもむろん未熟なただのクソガキだったし、いろいろな経験も知見もとぼしく、また本もぜんぜん読んでいないし文学というものをようやく知りはじめたころというかまだほとんどなにも知っていなかったのだけれど、(……)さんのブログをみてそれにはまったというのは、これはおもしろいなすごいなとおもってかぶれるだけのセンスがあったというのは、たいしたもんだなとおもう。過去のじぶんも、じぶんにとってすごいものを見分けて真に受けてしまうという、すごいものをすごいとかんじてしまえたという、あのとうじのあの程度のじぶんがそれをできたというのは、やっぱりそれもすごいなとおもった。その一点においてはじぶんは才能があった、センスがあったと言ってよいだろう。完全無欠なまでに目が利いていた。そこでかぶれてそのまま一〇年ちかくやってしまっているのだから、それもわれながらたいしたもんだ。ガルシア=マルケスで『族長の秋』をさいしょに読んでぶっとばされたというのも然り。文学にふれはじめてまもない時点であれを読んでめっちゃやばいとなるにんげんはなかなか少数派だろう。さまざまなブックリストで『百年の孤独』はかならずえらばれるにもかかわらず『族長の秋』の名が挙がることはほぼないという事象がその証左だ。『族長の秋』にぶっとばされることができたというのは、それいぜんにジャズをきいていたのがその準備になったのだとおもう。さいきんはめっきりきかなくなってしまったが、『族長の秋』をいちどめや二度目に読んだとうじのじぶんのなかでは、Antonio Sanchezの『Live In New York At Jazz Standard』とあの作品がちかいものとしてイメージされていた。Sanchezのライブアルバムもなにをやっているのかちっともわからないがとにかくすごいことだけはわかるというものとしてうけとめられていたのだ。ジャズのほうでそういう体験の下敷きがあったからこそ、『族長の秋』を読んだときにまったくわけのわからないものとして遠ざけることをせずにすんだ。そうかんがえると大学時代にちっともあそばず勉強もまじめにやらず、行ってはすぐに帰る往復をくりかえしながらもっぱら家で音楽をながしてばかりいたというあの時間も無駄ではなかった。

11時半起床。朝食をとっていたところNさんから電話があり、行きつけのお店からいまさっき連絡があって戦争体験を語ってくれる方が来店中だと報せてくれたのだけれど、行ってみればどう? とのこと。夜からバイトがあるし何より執筆する気満々だったものだから正直少し戸惑ってしまったのだけれど、でもまあじぶんからお願いしたことであるし、このチャンスを逃すとうんぬんと悪い予感のしないこともないので、ひとまずお店のほうに電話を入れて、N さんから紹介していただいた例の者ですけれど今から三十分後くらいにうかがってもいいですかと許可をとり、それで急いで支度をして家を出た。店はわりと近所にあって、中に入るとカウンター席におじいさんがひとりいたので、あ、きっとこのひとだと思って声をかけ、自己紹介し、それで当時のことを教えてほしいのですがとお願いしたのだけれど、なにをしゃべっていいかわからないからとりあえずきみの質問に答えるよみたいな流れになって、まさかのインタビュー形式にこれだと色々とりこぼしてしまいそうだと懸念を抱きながらも、しかし色々とおたずねした。
で、お話のお相手はSさんという方で、生まれも育ちも京都、19歳のときに赤紙ならぬ白紙で召集されて、これwikipediaによると訓練招集命令書というやつらしいのだけれど、当時軍事工場だかに勤めていたものだからこれはきっと機械の整備士みたいなかたちで配属になるのだろうと思っていたところが実際は工兵で、すでにその当時たいそうな物資不足だったらしく兵隊なのに銃も持たされないわ飯を食うための飯盒すら支給されないわで、かわりにスコップを持ち、それで四国の太平洋側の海岸でひたすら穴を掘りつづける土方のような日々を送ったのだという。その穴というのはもちろん塹壕で、敵軍が海岸から上陸するのに備えてその穴にもぐりこみ、頭上を通過する戦車にむけて先端に爆雷を設けた竹槍を突き刺す、そういう作戦の予定で作られたものらしいのだけれど、当然のことながら実際にそんなことをすればまず間違いなく穴の中の人間も死ぬ。幸い、作戦が実行されることなく終戦を迎えたのだけれど、玉音放送にまつわるエピソードがすごくて、その日Sさんの部隊は12時間歩きづめでどこかの集落にむかっていたらしいのだけれど、いざ到着してみると村人たちがみんな万歳を連呼している。けれど訛りがひどいものだから何を言っているのかぜんぜんわからない。四国出身者の兵士が村人らの話をヒアリングしてみるに、どうやら日本が戦争に勝ったらしいと、さきほどラジオで特別な放送があった、ノイズではっきりとは聞こえなかったもののどうやら戦勝記念らしく聞こえた、そういう話になって、それでもうそこからは村をあげての宴会となり、白米はなかったから稗と粟で、ありったけのお酒をみんなで夜通し飲んで騒いだらしいのだけれど、おそらく当時の戦況にある程度通じていたのだろう部隊の上官はやはりなにかおかしいと感づいていたらしく、宴会にも参加せずにすぐさま正確な情報を取得しに元来た道を引き返し、それで翌日ふたたび戻ってきたときに、勝ってねーよ! 負けちゃったよ! と、真相が明るみに出たという話で、これいくらなんでもできすぎだろというくらい面白い話なのだけれど、そのときどんな感じだったんですか、と問うてみると、いやそりゃもうね、ワーってなってたのがシーンてね、ということで、Sさん自身、戦時中は日本が勝つと思ってましたかという質問には、思ってた、僕みたいな小学校しか出てないようなのはね、やっぱりそういうのが行き届いていたね、日本が勝つだろうって、でもおそらく上のほうのひとたちは知ってたんだろうね、いま思い返せば思い当たる節がいくつか、と返答があった。かといって敗戦が判明したときにショックを受けたかといえば存外そういうものでもないらしく、号泣する者なんてひとりもいなかった、ただもう唖然としただけだ、とあった。
で、戦争も終わっちまったしとりあえず京都に戻ろうかということになったのだけれど、汽船が停止しているものだから本州に渡れず、一ヶ月ほど四国にとどまることになったらしい。部隊では緊急時の食料として牛を一頭引き連れて移動していたのだけれど、それはこの一ヶ月の待機期間に食った。それでも食料はやっぱり足りない。だから近くの村へ徴発に出かけることになったのだけれど、男はみんな兵隊にとられているものだからだいたい玄関に出てくるのは若い娘さんになる、だから気をつけろよ、惚れちゃ駄目だぞ、むこうも跡取りがいなくて困ってる、いちど関係結んじまえばもう京都には戻れなくなるからな、と上官からたっぷりと言いきかせられたということで、もらうものだけもらうと、みんな大急ぎで逃げるように部隊のもとに帰ったらしい。徴発にいくのは立場の上のひとたちの役目だったのだけれど、Sさんの部隊にいた下士官というのがSさんの父親の実家の近所に住んでいたとかなんとかで、Sさんの部隊配属が決定した直後にご両親が早速そのあたりのところに根回ししてくれたおかげでずいぶん助かった、優遇してもらえた、徴発にも同行させてもらったし寝泊まりも下士官らにまじって少しいいところでできた、とのこと。上官が四国出身だったらしく、その関係から一ヶ月の四国滞在期間中には防空壕を埋めるなど勤労奉仕に励むことになったとも言っていた。
それでいざ汽船で本州に向かうことになったのだけれど、その日は船の揺れがけっこうすさまじかったらしい。それでいちど大きな揺れが起きたときなんか部隊にいた誰かがその機に乗じて上官の荷物を海に捨てたりしたようで、上官の理不尽なふるまいをこらえにこらえてきたのが終戦をむかえて爆発したみたいなアレなのだろうけれど、本州に到着してから今度は汽車で京都にまでむかうその道中も、途中の駅で上官をひきずりおろして便所にでも連れていってそれでボコボコにやっちまおうかみたいな物騒な話が持ち上がりかけたらしい。ところでSさんはその部隊の任務で四国にいく以前にもいちど四国をおとずれていて、そのときはひとりだったのだけれど、というのもSさんが勤めていた軍事工場というのは全寮制の軍事訓練付きのアレだったものだからたいそうきびしく、それにたえられずいちど脱走したことがあり、そのときの避難先というのが叔父だったかの住む四国だったということで、このあたりもやっぱりちょっと出来すぎているというか、軍事訓練が嫌で逃げたその果てにたどりついた四国に、それから数年後、ひとりの正式な工兵の訓練ではない任務としてふたたびおとずれると、この構図は正直ちょっと使えるなと思った。寮生活時代は外部と連絡をとることができなかったのだけれどそれでもやっぱりみんな色々と考えたもので、たとえばじぶんの親とどうにかして会いたくなったとき、その旨と実家の電話番号か住所を記しておいたメモをお札でぐるぐる巻きにして寮の窓から近くの道路にむけて投げる、するとお金が落ちているぞと思って拾った通行人が中のメモに気づいて、Sさんの場合は三度試みて一度成功したという話であったけれど、そのメモをきちんと実家のほうまで届けてくれると、そういう抜け道みたいなのはあったらしい。ほかにも違反をして営倉にぶちこまれた仲間を励ますため、夕飯に出た米を仲間たちみんながちょっとずつ出し合っておにぎりをひとつ作って内緒で差し入れしたり、あとはなんだっけな、どういう基準なのかよくわからないのだけれどたとえば江戸川乱歩の小説なんかは読んでいけないことになっていたみたいで、見つかったら没収されるものだからみんな部屋の屋根裏とか畳の下に隠していたみたいな話もあった。あとこれ書いていいのかどうかという気がせんでもないというかまあいちおうどこに書こうが誰に言おうがけっこうですよという許可を最初にいただいているので書くけど、(二度目となる)四国行きが決まったとき、Sさんはもちろんもうじぶんが死ぬもんだと思っていたから、それで最後の記念にというか上官に引っ張られてやむなくみたいな言い方はしていたけれど、とりあえず風俗で筆下ろしをしてもらったらしいのだけれど、その最初の一回でいきなり性病をうつされたということだった。淋病に罹っているのは部隊の中にも数人いたらしい。

     *

そんなこんなでお話をしているうちにも何人か来店客があったりしたのだけれど途中でひとり、なんかアラン・シルヴァみたいな白髭におしゃれな民族衣裳みたいなのを羽織ったおじいさんがやって来て、するとKさんがまたもやここでこのひとが前言ってた小説書いてて戦争体験を聞きたがっているってひとなんですけどと紹介してくれて、というかじぶんの知らないところでじぶんについての話が少なからずどこかで交わされていたのだという事実のたびたびにわたる開陳にちょっと自意識のくすぐられるようなところがあるのだけれど、それでそのひとはOさんという方でパッと見からしてあきらかに何らかの物作りにたずさわっていることに違いはないのだけれど結局最後の最後まで正体を明かしてくれなくて、タクシーに乗って帰っていった後になってはじめてKさんの口からデザイナーだと教えられてなるほどと思った。それでひとまず自己紹介などしてよろしければ当時のお話を聞かせていただきたいんですけれどと切り出し、すんなり了承していただけたので、では早速と耳を持つものは聞けモードに入ったのだけれどOさんのお話はけっこうむごいというか生々しいところがあって、静岡の磐田出身らしいのだけれど終戦をむかえたのは6歳だったかで、その前年か前々年、病気の母親が病院から無事に退院したその快方祝いに赤飯を炊いて、というのもOさんの母親方だったと思うけれど実家が農家で食べ物にはそれほど困らなかったからそんなことができたらしいのだけれどその赤飯を親戚に配るべく浜松のほうに父親とふたり汽車に乗って出かけたその日にOさんは空襲に遭遇したのだという。当時は浜松くらい大きな街だと駅前の広場なんかにはきまって防空壕が設えられていて、ただ防空壕といっても地下に掘った穴なんかではなくてむしろ掘り出した土を盛って固めたでかいかまくらのようなものらしいのだけれど、空襲警報が鳴ったのですぐさま父親とふたりその防空壕の中に駆け込んだ。中はぎゅうぎゅうのすし詰めだったものだから父親が手にしていたこうもり傘を握ってはぐれないように必死で、それで空襲が過ぎて外に出てみると、焼夷弾のためにあちこちに火の手があがり何が焼けているのかわからないなんともいえないにおいがして、今でも嗅いだら絶対にわかる、あのときのにおいと一緒だと確実に言える、と語っていたのが印象的だった。駅そのものは無事だったらしいのだけれど途中の鉄橋が崩れたり線路に瓦礫が積もったりで通常ならば15分もあれば到着する浜松から磐田までの帰路に何時間もかかって帰宅すると、磐田もまた焼夷弾によってものすごい被害を受けていてOさんの実家を含めてその周囲の住宅すべてが全焼していたらしい。元々はアルコール工場だったかを狙っての米軍による爆撃だったらしいのだけれど軌道が少し逸れてしまった結果としての住宅区域全滅で、助かったひとたちにたずねまわってもだれひとり母親の行方を知るひとはおらず、病み上がりの身体のことだからおそらくはもう無理だろうと覚悟を決めながらそれでも被災者の集まる場所を探しまわり、結局その日は駅前だったかに当時あった見知らぬ乾物屋の中で一泊させてもらった。それで翌日焼け落ちてしまった家から一里ほどのところにある母親の実家をたずねてみることにしたところ、幸いなことにそこで母親と無事に再会できたということで、安否を心配した親戚だかが駆けつけて実家まで連れてきてくれたらしいのだけれど、いずれにせよ住む場所もなし、その日から終戦後しばらくにいたるまでは母親方の実家の鶏小屋に一家で住むことになったのだという。鶏小屋といっても粗末の代物なんかでは全然なくてとても立派で、広い敷地を半分にくぎってその片方に鶏たちを集めてもう片方にて一家が寝起きすると、だいたいそういう案配だったらしいのだけれど、その鶏小屋から見た夜景だったかそれとも焼け落ちる前の家から見た光景だったか、いちど隣町に空襲があって焼夷弾がどんどんどんどん落とされて火の手が燃えあがりそこに敵機の姿を探す探照灯が地上から幾筋も走る、それらすべてが遠い距離ゆえに無音で展開されるのを目にした記憶がOさんにはわりとはっきりと残っているらしく、とてもきれいだった、美しかった、ナイアガラの滝の花火のようだった、と語っていた。鶏小屋の前にあったおおきなおおきな木蓮の樹の美しさもはっきり目に焼き付いている、とも。焼夷弾といえばこれはじめて聞くようなアレなのだけれど、当時は軍部からの命令で民家の屋根は瓦だけ残してあの屋根裏の地にあたる天井の板みたいなのはぜんぶ取り外すように言われていたらしい。民家に直撃した焼夷弾が屋根裏に引っかかるなどして手の届かないところに残ってしまうとそこからたちまち火の手があがって家が全焼してしまうからだと、だから屋根は瓦だけの最低限度の構えにしておいて直撃した焼夷弾が居住スペースに落下するようにせよと、それでいざ焼夷弾が落ちた場合にはすぐに箒で叩くなりして被害のひどくならないうちに火を消し止めろと、そういうことであったらしい。そして事実、Oさんの母親はその空襲の際にも病み上がりの身ながらじぶんの家に落下した焼夷弾の火をすべて自らの手で消し止めたということでこれすごすぎだろという話なのだけれど、ただやっぱり誰もがみんなそんなに強気でいられるわけもなくて空襲となった途端に家など構わずに逃げ去ったひとたちもたくさんいたらしく、そういうところからあがった火の手によって結局そのあたりの一帯の民家がすべて焼け落ちるということになってしまった、皮肉なものだけれどよその家からあがった火の手を消すべく助けにむかったひとたちの家のほうが結局全焼してしまうみたいなこともたくさんあった、ということだった。得体の知れないにおいの漂う焼け野原を歩いていると、ところどころ焼け残った廃材とか電柱なんかに人間の髪の毛だけがぐるぐるに巻き付いて残っているのを目にしたと、これがいちばんビジュアル的に強烈な話だったかもしれない。あと、Oさんはもともとよそのお宅からもらわれてきた子だったらしく、というのも当時はよくあったこととそれはじぶんも色んなところでよく目にし耳にするけれど、子宝にめぐまれない夫婦が近所に住んでいた仲良し子だくさんの夫婦から産まれたばかりのOさんを引き取ったとかなんとかいう話で、それでOさんの産みの親は子供が十人以上いるような大家族の長だったようなのだけれど東京のほうに出かけていた長女ひとりだけを残して二度にわたる空襲でその一家はみな焼け死んでしまったらしい。Oさんの母親は防空壕の中で幼い子供をひっしと抱きかかえながら死んでいたのだという。たまたまよその家に出されていたから助かったのだと考えると妙な気持ちになるとOさんは語っていて、たとえばじぶんの祖父にしても満州に滞在していたとき当時は死の病だった結核に罹ってしまったもののたまたま同じ部隊にいた軍医が日本でも有数の結核のエキスパートで日本ではまだそのひとしか扱うことのできない治療法のおかげでどうにか一命をとりとめることができたり、あるいは上官に付きそうかたちで日本に新兵をむかえにいったそのときに終戦を迎えたものだからシベリア抑留をぎりぎり免れることができたとかそういう奇跡としかいいようのない偶然の綱渡りで助かったのだと身体感覚で納得のされる命みたいなのがあるわけで、やっぱり戦争を実地で経験している人間とそうでない人間とではかなり死生観みたいなのが変わるのも無理はないと思ったけれどそれら先の世代からやはり偶然の綱渡りで継承されるじぶんのこの命、いまここにあること、ここでこうして書いていること、そういうことを考えているとなんなんだいったいこれはと変な気持ちにもなってくる。むごい話もたくさんあったようだけれど当時の生活に関する愉快で美しい挿話もいくつかあって、たとえばOさんの家は鰻屋だったらしいのだけれどその関係から遊女らとも顔をあわせる機会なんかがよくあったという。今ではとても考えられないことだけれどOさんの通学路にも遊郭がいくつかあって、はなばなしいその建物の前を通るたびに赤い襦袢や布団なんかが干してあるのが目につき、幼心ながらになにかエロティックで美しいものを感じたとかなんとか、なかでもひとりの遊女がOさんをかわいがってくれたらしく、母親の身に着けているのとはぜんぜん違う着物の懐からがま口を取り出し、細くて白い指先で小銭をつまみだしてそれを紙にひょいひょいと包んで小遣いをたびたびくれたという話なんてとても素敵で、あとOさんの家には123部隊みたいな数字は忘れちゃったけれどそういう部隊の軍人が三人下宿していて、夜なんかその軍人の腰に下げたサーベルのかちゃかちゃと鳴る音と連れ立って歩く遊女のからんころんがよく響いて、そのたびに家のひとたちはまーた◯◯さんったら遊んでるわとか口にして、幼いOさんにはその意味こそよくわからないもののやっぱりなにかしら官能的な気配を敏感に察知していたといっていて、なんかこんなふうに書いていると中勘助銀の匙』みたい。あと、これは当時よくあった話として聞いたのだけれど、兵隊にとられた夫の戦死の通知が送られてきたものだから家を継ぐために新たな婿をとらなければならないとなって実際にとって暮らしはじめたところ当の夫が帰ってきて死んでなかったのかよみたいな、そういう話は少なからずあったみたいで、Oさんの聞いた話ではけっきょく戦地から帰ってきた夫に家を継がせて別の嫁をあてがり、元の嫁とその二番目の夫には別の家を用意してそこに住ませたという処理がなされたらしいのだけれど、これが通例なのか特例なのかはわからない。Oさんの同級生の父親に兵隊として家族を日本に残して満州に渡りもう日本に戻ることはできないだろうからと現地で新たに別の嫁さんをむかえたはいいものの命を落とすこともなく終戦、しかたなく二番目の嫁さんを連れて日本に戻ってきたという事件があったらしくそのときはわりと大変な騒ぎになったらしい。結局その一件については満州からひきあげてきた旦那さんと二番目の嫁さんに別の家をあてがい、本家は元の奥さんとそのひとり娘(Oさんの同級生)、それに奥さんの兄の三人で継ぐことになったという。

     *

店に到着してわりとすぐこの日((……))のお客さんがやって来た。ちょこちょこ店のほうには来てくれていたらしいのだけれどどうもじぶんのシフトに入っていない時間帯や曜日ばかりであったらしい。ひさしぶりの再会となったそのためなのかどうかはわからないけれど今日はたっぷり一時間半にわたって立ち話をした。強烈な話を山ほど聞いたのでひととおりメモしておきたいのだけれどまずそのひとの友人知人まわりがぜんぶ面白すぎて、たとえば新聞や雑誌の片隅に募集広告の載っているようなエッセイであったりコラムであったり作文であったり川柳であったりポエムであったりするさまざまな公募のその賞金だけを稼ぎとして生活しているひとがいるらしいのだけれどこんなのは序の口で、そのひととは別にクラブやディスコの店内装飾というかデザインというかデコレーションというかその界隈では知らないひとなんていないというくらいとても有名なひとと一緒にタッグを組んで同じ業界で若いころから活躍していた芸大上がりの友人というのがいて、むろん将来超有望だったのだけれど仕事をやっていくうちに何かしら人間関係でトラブルがあったりやりたいようにできない葛藤があったりで早々と引退してしまって以来十数年間ずっとパチプロとして生活しているらしいのだけれど、何年か前の夏にとうとうお金が底をついてしまっていよいよどうしようもなく、ちょうど祇園祭の時期だったらしいのだけれどひょっとするとあれだけ多くのひとが行き交うのだから財布のひとつやふたつ落ちているかもしれないと思いそれで祭の中を何時間も歩き回ってみたものの収穫はなし、あきらめて鴨川の河川敷をひたすら北上し続けていたところ暗闇の中に黒光りするものがあり近づいてみるとなんとそれが見事に財布で、この時点でもう出来すぎているような話ではあるのだけれどそれで拾って中身を確かめると現金6000円とキャッシュカードがあって、けれど6000円じゃどうにもならない、生活費に充てるにしてもパチンコの軍資金にするにしてもとにかく少なすぎる、というわけでこれはもうカードを使うしかないとニット帽にサングラスとマスクを装着してATMの機械の前に立つこと三度、しかし結局犯罪に手を染める最後の踏ん切りがつかず結局その6000円を片手に一世一代の大勝負という感じでパチンコ屋へ行ったらしいのだけれど、そこから三日で50万円稼いだ。息を吹き返した。流れを呼び込んだ。それで最終的に貯金を200万近くまで増やしたらしいのだけれどそこから流れが変わって、たった二、三ヶ月の間にものの見事にどん底へUターン、数日前にひさしぶりに会ってみたところとにかくもう悪事を働くしかない、犯罪に手を染めるしかないとぶつぶつ言い続けていたらしい。で、そのひとと最近よくつるんでいるひとというのがいてもちろん現在ギャンブル三昧でやはりどん底という点では同じ、何かの慰めのように銀行強盗の計画ばかり建てているひとらしいのだけれどそのひとの経歴というのがもう無茶苦茶で、元々ヤクザだったらしいのだけれどあいつは頭がおかしいということで破門か何かされてしまって、頭おかしいってクスリか何かのやりすぎか何かですかとたずねると、そういうのにもそれ相応に手を出してはいただろうけれど根本的にぶっとびまくっているのだという返事があって具体的なエピソードを幾つか教えてくれたのだけれど、たとえば30歳のときそのひとは毎日着流しに木刀を差して町中をうろつきながらすれちがう通行人ことごとくにケンカを売りまくっていたらしい。それでいちど50歳くらいのおっさんにケンカなら買ってやる、けれどここじゃ人目につく、うちに庭があるからそこでなら相手してやる、さっさとついてこいと言われて、まんまとついていったところ現場に到着するなりものの数分で足腰のたたなくなるほどボッコボコにされまくったらしく、というのもそのおっさんというのが空手と少林寺拳法の師範だったらしいのだけれど、そこでまたすごいのが木刀を杖がわりにしてふらっふらになりながらどうにかして立ち上がったその元ヤクザのひとが立ち去るまぎわに言い残した台詞というのが「い、一年後……もう一度、ここで……」だったという奇跡のようなエピソードで、ていうかなんすかそのひと、漫画か何かにかぶれまくってたんすかとたずねると、うん確かにそいつその当時むちゃくちゃ『バガボンド』にはまってたなぁとあって絶対それじゃん! 間違いないじゃん! と死ぬほど笑った。それでそのひとはそれ以降はたけぞうスタイルのライフをやめたようで一時期はヒッピーにかぶれ、たけぞう時代とは打って変わりいつもニコニコしてラヴ&ピースだったらしいのだけれどそういうキャラにも行き詰まってしまったのか、40歳になったのを契機に総合格闘技パンクラスをはじめて、元々体格はいいほうだし根性は座ってるしケンカ慣れしてるしという利点はあるものだからそんな歳からはじめたにもかかわらずけっこうすんなりとプロデビューしてしまって、けれどいざ実際にリングにあがってみるとやっぱり若いころから英才教育みたいなのを受けている連中には勝てず、それでそちらの方面も諦めてしまっていまではギャンブラー、先に紹介した芸大上がりのギャンブラーとつるんでひたすら悪事を企む毎日を送っているらしい。で、そのふたりとはまた別に、世界中を渡り歩きありとあらゆるドラッグをキメまくったひとというのがいて、ネイティヴアメリカンの儀式なんかにも参加したことがあるとかなんとか、どこの国の部族だったか忘れてしまったけれどフックのようなものを胸の一部に引っかけてそれを思い切り引っ張って肉の一部をぶちっとひきちぎるみたいなハードSMな通過儀礼まで体験済みで、でもそのひとはただのジャンキーではないらしくて「壁を突き破りたい」「悟りを開きたい」が口癖のインテリらしい。知覚の隅々まで味わいつくしたい、それによって次元を上昇させたいみたいなことも言っていたというその伝聞から察するにどうもニューエイジの嫡子らしい。現在は日本で生活しておりダウン症自閉症の子供たち相手に絵を教えているとのこと。
で、ここまでが友人知人回りのお話であったのだけれどこれらのお話をしてくれたそのひと当人にしてもかなり面白くて、それはむろん前回お話したときもそう感じたわけであるけれどやっぱり世界中旅して回ったみたいなアレであるだけにニューエイジでスピリチュアルな方面にはけっこう興味があるらしくて仏陀にまつわるエピソードを色々と話してくれたりして、印象に残っているのは崖の下に腹を空かせていまにも死にそうな虎の親子を見つけたときによしそれじゃあこの身を捧げようと飛び降りたとかいうエピソードとか、あるいは菩提樹の下で瞑想に瞑想を重ねまくったあげくに出た結論がなにごともほどほどがいいよねだったと、しかもその結論というのが仏陀の瞑想するそのすぐ近くの川を下っていく船上の楽士が弟子にむけてチューニングをレクチャーしているときの教え「いいか、弦ってのは強く巻きすぎても緩すぎても駄目なんだぞ」からまんまとパクったものだったというエピソードなんかで、それにしても仏陀にせよイエスにせよ孔子にせよソクラテスにせよみんな著作は一冊も残してなくてただ弟子や信者が書き残しているだけっていうのもふしぎな話ですね、そのせいで仏教なんかはずいぶん歪曲されとるみたいですけど、と話すと、書いてしまえば歪曲は逃れないみたいなことをこれもやっぱり仏陀の話だったかどうかは忘れてしまったけれど言っていたとかなんとか、口承が伝言ゲームみたいになってしまうのはわかるけれどよくよく考えてみれば書き残されたもの=テクストにしても同じであることは批評の歴史なんか見ているとたしかに腑に落ちるなぁと思っていたところ、アボリジニに代々伝わる物語を知っているかと問われた。知らないと答えると、文字でも口承でもないディジュリドゥという彼らの楽器を通して伝承されている秘密の物語というのがあるのだということで、これすごい話だわ、第三の体系だと思って興奮した。仏教の関係からバラモン教とかラマ教とかの話になってそれで最終的に空海の話になったのだけれどそのひとは空海が大好きみたいで、たしか司馬遼太郎の本で読んだとか言っていたけれども空海はバリッバリの水銀ジャンキーだったらしいことが最近明らかになったとかでなんかその辺りの話も面白かったのだけれどいちばん面白かったのはやっぱりそのひとが四国八十八ヶ所めぐりを30歳くらいのときに実行したという話で、じぶんの誕生日と空海の命日の両方を巡礼中にむかえることができるようにと季節は春だったらしいのだけれど、20キロくらいの荷物を背負って33日間だったか毎日野宿して本当に楽しかった、あんなにすばらしい経験はほかになかったと言っていて、ああいいなぁ、暖かくなってきたらまたヴァルザーしたいなぁと思った。巡礼中は毎晩のように心霊体験にあったと言っていて、たとえば耳元で女の話し声が聞こえたとか眠っているじぶんの周囲を練り歩く足音が聞こえたとか色々言っていて、これまでいちばんおそろしかった心霊体験はどんなんでしたかとたずねると、部屋で眠っているとつけっぱなしにしていたステレオから流れる音楽のボリュームが下がったかとおもえばいきなりキーンという鋭い音に変じて同時に部屋の扉をがちゃがちゃどんどんする音が聞こえてやばいと思っても動けない、そうこうしているうちに足音が近づいてきてあおむけに眠っているじぶんの周囲を歩いている、おそろしいので目をつむっているといきなりじぶんの両足首をがしっと引っ掴んでそのままテーブルの下までひきずられた、はっとして目を開けると元いた布団の上にじぶんは横たわっていてステレオも元通り、あのまま目を開けなかったら連れていかれるところだったという話で、まあそのあたり典型的な金縛り体験だなという気がしないでもないというか最近はあまりなくなったけれども一時期はわりと頻繁にじぶんも金縛りにかかったもので、ただじぶんは金縛りの恐怖体験というのが要は夢と同質のもので来るぞ来るぞという期待とか不安とか恐怖とかがそのまま直にかたちをとってあらわれてしまうだけのものにすぎないという特命リサーチの結論を大いに支持するものなので(なぜなら若いころからしばしば金縛りにまつわる恐怖体験に見舞われていた母が番組でそのメカニズムを知ったとたんに金縛りにこそあえど恐怖体験とはいっさい無縁になったから)そのあたりはいまひとつ楽しめなかったというか恐怖を感じることができなかったのだけれど、ただ巡礼後しばらくは普通にひとと会ったり話したりしているときなんかにも不意に光の玉がその背後をよぎっていったりするのが目につくことが頻繁にあったという話はけっこう面白かった。毎日歩き通していると足が歩行に適したかたちに変形するし身体がいちばん負荷のかからない歩き方をおのずと習得する、それと同じで霊場ばかりめぐって危険な野宿をくりかえしているとそれに適した知覚が形成・拡張されていくのだからみたいなその話はいまじぶんの書いている小説にも大いに通ずるところがある。
それでこのひとと話していて感心したというか面白いなと思ったのはこのひと自身かなりニューエイジでスピリチュアルでヒッピーなひとであるのだけれど一見するとそこらへんとの相性なんかがかなり良さそうな諸々の陰謀論めいた言説にかんしてはかなり批判的であったり、あるいは先に紹介したどうしようもない友人知人たちは結局のところ国家や社会による抑圧の被害者、仕組みの犠牲者、皺寄せの責任をとらされている運の悪い弱者なのだと見なす視点を持っていながらそれでいてたとえば原発を軍事と経済という国家を延命するための観点から擁護するなどしていて、それらひとつひとつの意見の是非はともかく型通りのキャラクターにおさまらないというか、相反する属性を兼ね備えている独自性みたいなのがわりと感じられて、良くも悪くも文脈やポジションや党派なんか意識せずひとつひとつの事例をその都度その都度独立するものとして判断し処理を施してきたひと特有の矛盾したいびつさだと思った。

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日付がまわるかまわらないか、お土産あげるから喫茶店来なさいとOさんから電話があったのでちゃちゃっと着替えて閉店時間ぴったりに来店するという荒業に出たところ、デパートで北海道フェアがやっていたとかいうことでロイズのポテトチップスにチョコレートがコーティングしてあるあのクソ美味いやつをいただいた。YATTAー!! それから結局二時半くらいまでお店にだらだら滞在させてもらったのだけれど会うひと会うひとにひたすらどぉなっちゃってんだよ人生がんばってんだよと愚痴を垂れ続けるというノンアルコールな酔漢っぷりで、思えばこの数ヶ月というものいたるところで「ところで、ここだけの話、ここだけの話ですよ! ドミートリィ・イワーノヴィチ! ごほごほ! いや失敬! ええ、こいつはまったくもってここだけの話なんですけれどね! おやおや、眠ってしまってはだめですよ! わたしの秘密を打ち明けようっていう瀬戸際なんですからね! そうです! ここだけの話ですよ、ドミートリィ・イワーノヴィチ! 近いうちに(そう近いうちに、です! おそらく年内に、いえいえむしろ六ヶ月以内に!)50万ルーブル、いいですか、50万ルーブルですよ、そいつがわたしの懐に転がり込むって寸法なんです! いえね、これはほとんど確定している事実(ええ、事実と言い切ってしまってもいいでしょう! もっとも事実などという不確かな語を操る度胸がわたしにあればの話ですけれどね!)なんですよ! へ、へ、へ! そういうわけでね、ドミートリィ・イワーノヴィチ! わたしはここで柄にもなく二杯目のコーヒーを注文するというわけです! マスター! わたしは至急おかわりを要求しますよ! おかわりをね!」とドストエフスキーの小説に出てくる図に乗った小役人みたいな態度で自らの出世を確定済みの事実のごとく吹聴しまくってきたのだけれど、いやほんと立つ瀬ないんですけどコレといった案配でいかんともしがたい。とりあえず新潮は使い回し不可と応募規定に記載されているので文藝のほうに回してみて、それでも駄目だったら同人誌業界に進出するか幻の処女作(じゃないけど)として封印してしかるべき時期が到来したときに公開するみたいな、そういう方向に舵を切ろうかなと思案している。なんにしても情けない話だ。六年間書き続けてきてはじめて手応えのあるものができたと思ったのにこの体たらくだなんて。

 勤務。(……)
 (……)
 (……)


 勤務後は(……)と物件の重要事項説明を読み合わせるために(……)へ。電車内でのことはとくにおぼえていない。目をつぶって休んでいた。(……)に着いたのが七時半くらいだったはず。(……)は八時ごろになるというはなしだったので、電車を出るとベンチについてしばらくぼけっとしたり、目をつぶって思念を見たり、スマートフォンで(……)さんのブログをちょっと読んだりしていた。そうして時間がちかくなると立って改札へ。出て、壁画前に立ち尽くして待つ。けっこう待った。そのあいだ目のまえを行くひとびとのながれに漠然と目をむけたり、その横顔を注視してみたり(とはいえ眼鏡がないとたいして精細には見えないが)。こういう群衆のなかにはいればだれもそう目に立たず、あからさまに奇特なかっこうに見えたりとか、つよく印象にのこるようなひとはいない。洒落っ気もみんな似たりよったりに見えてくる。マスクをはずしているにんげんは待っているあいだにぜんぶで三人見た。さいしょのふたりはかんぜんにつけておらず、さいごのひとりは顎のあたりまでずらして顔を露出していたかたち。さいしょに見かけたひとはまあごくふつうのと見えるサラリーマンで、眼鏡をかけたワイシャツすがたで、ぜんぜん気はつよくなさそう。ふたりめは老婆。さいごのひとも一人目よりは恰幅の良いサラリーマンのおっさんだった。
 じきに(……)が来たのであいさつして、飯を食うためまた(……)のうえに行くかということに。(……)はこちらと同様しごとのあとに来たのでフォーマルなかっこうだが、ストライプのはいった濃いグレーのスラックスにベスト、ネクタイはピンクっぽいいろのもので、かれは背が高く不健康なくらいに痩せているので脚はめちゃくちゃ細いのだが、そのためにかなりすらっと見えてなかなか決まっていた。ビルにはいってフロアを行きながら横をみて、ずいぶん細いなとむけると、オーダーメイドだという。からだが細すぎてふつうのサイズだと合わないのだと。決まってるよと好評をつたえてエレベーターに行き、八階のレストランフロアへ。きょうは物件探しや手続きを手伝ってくれたというかぜんぶやってくれたお礼として飯をおごるつもりでいたので、(……)が食いたい店をえらんでもらうことに。フロアをちょっと回り、「(……)」に決定。入店して手を消毒。平日木曜日の夜だしフロアにひとのすがたはあまり多くなく、店もどこもわりと空いているようなようすだったのだが、なぜかこの店は人気で席がよく埋まっていた。奥の一席に案内され、向かい合って座り、メニューをみて注文。こちらはうどんでも食いてえなとおもいつつ珍しく迷ったのだけれど、けっきょく丼ものに気が向いて、そこでも三つあるなかで迷ったのだけれど、鮭のかば焼きと肉が乗ったやつにした。(……)は真鯛のだし茶漬け。あちらの品がさきに来たので気にせず食ってくれと食事をはじめてもらう。食べるようすを見ながら、茶漬けなんてもうずいぶん食ってないわとつぶやき、茶漬け食べる機会ある? ときいてみると、いやない、と。子どものころ永谷園のやつけっこう好きだったけどな、とこちら。それこそ実家にいて用意があれば食べるけど、いまわざわざ食べようってならないな、と(……)は言った。だし茶漬けはうまかったらしく、これは正解、まちがいなく正解、と口にしながら食っていた。しかもだし汁はおかわり自由らしい。ずいぶん気前の良いことだ。こちらの品もまあふつうにうまいわけだが、あとでわかったのだけれどここ数日のじぶんは胃が悪かったようなので、たぶんそんなに味を楽しめるコンディションではなかったのだとおもう。料理を待っているあいだやそのあとで、互いにしごとのはなしなどする。送別会などがたてこんでいるとメールできいていたのでそのへんをふってみると、火曜日がどういうあいてだったかわすれたが関係のあるひとの送別会で朝まで飲んでいて、さらに明けて水曜は昼間からバーベキューがあったのだという。大学生みたいな生活してんなと笑えるが、朝まで飲んだあとにほんのすこしだけ仮眠を取っただけでバーベキューに出向いたというからきついだろう。ほんとうは行きたくないし、はー、さっさと帰りてえ、っておもいながらいたんだけど、というので笑った。おまえそんなかんじだっけ? ときくと、少人数ならいいけれど集団でというのはもともと好きじゃない、との返答。そのバーベキューは(……)が新人のころにしごいてくれた上司が主催でながくつづいているらしく、ぜんぶで四〇人とかいっていたかな。そのくらい大量に参加者がいるらしく、会社のなかのいろいろな支店などあちこちからやってくるという。それじゃあ人脈があるんだなそのひとは、というと、まあそうだと。くわえて友だちや恋人、家族などを自由につれてきていいからそれで参加者が増えるのだという。その上司はめちゃくちゃ厳しいにんげんで、鬼上司ってかんじかときくと肯定がかえったが、厳しいというのは理詰めでくるタイプだと。だから(……)も新人のときはしこたまやられて反抗的な態度も取っていたというが、ただ理詰めだから言っていることはまともではあるので、納得じたいはできると。(……)はしかし(……)で生まれ育った元ヤンキーの面目躍如というわけで持ち前の反抗心を発揮し(というのはこちらの冗談で、そこまでヤンキー育ちではなかったはずだが、とはいえ中学時代には粗暴なやつらも周りにいただろうし、高校時代も父親のお古であるサイズのおおきなストライプスーツ(緑色)をふだん着ていて、見ようによってはなかなかいかついかっこうだった)、上司に説教されるといったらふつうはこちらからあっちのデスクにでむいて上司は座ったまま、こちらは立った状態で神妙にはなしをきくものだが、なぜか上司のほうがでむいてきて、(……)がじぶんの席についたまま視線をしたに落として不満げな仏頂面ではい、はい、と繰り返すという態度をとっていたという((……)はそのはい、はい、を実演してみせた)。そのうちに上司が、ちょっと待って? なんでおれがおまえのとこまできてんの? おまえのほうが来るのがふつうだよね? と気づいたらしい。そういう反抗をみせながらもしかし(……)は、まあ相性が良かったんだろうねともいっていた。いろいろよく教えてもらったというこころもあるのかもしれない。じっさい、部下にやるべきことをやらせるのがむずかしいというはなしのときも、新人のときは、チッ、うるせえなとおもってたけど、じぶんがいま上司になってみてよくわかる、いやよくあんなに何回もくりかえし言ってきたな、めちゃくちゃ根気あったなって、と述懐していた。(……)はいま店長のたちばになっているわけだけれど、部下どう? できるやついる? ときいてみると、ちょっとかんがえたあと、いやー……いないね、という返答がかえり、それでそんな方面のはなしになったのだった。眼鏡にかなうやつはいないか、と受けて笑う。きょうもひとり、女性の部下を泣かせてしまったという。なんだったか、顧客がぐずぐずしていて契約するか否か決めきれず、管理会社など各方面を待たせてしまっているのに十分対応をしていないとかで叱ったようなはなしだった。でもやばいぜ、いまはもうなんでもパワハラになっちゃうから、とむけると、いやほんとに、かんぜんにパワハラだからね、と(……)はじぶんでみとめていた。訴えられたら負けるぞ、と笑っておく。いまの新人や若いひとはそだてるのが難しいというか、怒るとすぐにいやになってしまうという、なぜなのかわからないが巷間よくきかれる印象の認識を(……)も口にしており、そういうことをいいだしたらわれわれももはやおっさんだというほかはないが、それにしても不動産業界というのはずいぶんブラックで、体育会系なのだなとおもった。(……)じしんはもともとぜんぜん体育会系ではなく、中学から剣道をやってはいたけれど高校にはいってすぐに辞めていたはずだし、こちらといっしょに学校を抜け出して近所の団地のあいまにある公園でベンチにすわって煙草を吸っていたくらいだし(こちらは優等生なので吸っていない)、むしろ体育会系とそぐわないようなにんげんだったとおもうのだが。まあ営業だからね、けっきょく数字出さないといけないから、ということだった。逆に、マジでこいつは駄目だ、ぜんぜんできない、どうしようもないっていうひとはいる? と質問したながれでそういう発言が出た記憶だが、具体的にこの部下というのはあがらなかったものの、手を抜くやつがいちばん駄目だね、という返答があったのだった。これはここまでできるだろうということをきちんとやっていない、と。そういう文脈で営業とはというはなしが語られて、なによりも結果や数字をみられるわけだが、ここが難しいところで、たとえば電話を方々にかけるとなったとき、運が良ければさいしょの一件で契約が決まって成績になるかもしれない、でも運がわるいひとは何十件もかけてようやく一件決まる、それがどちらもおなじ成績とみなされてしまう、でもだからといって、何十件もかけてがんばったひとがわるいとは言えないし、運が良かったひとが良いともいえない、その逆に、何十件も決まらなかったひとが良いとも言えないし、運良く一発であたったひとがわるいとも言えないと。そういう事情がありつつも、(……)からみると部下のなかには、いやもうすこし電話をかけられるだろう、何件かけたの? というかんじのひとがいるようだった。そういうプロセスのぶぶん、どれだけ電話をかけたかという点は記録にのこらず、結果としての数字だけがのこって取り扱われるので、どれだけかければオーケーなのかとかは言いづらいし、比較もしづらいわけだが、その点で努力が足りないのでは? とおもうことがあるようだ。それでいえば似たようなことはこちらも職場でかんじてはいて、(……)先生のことをちょっとはなした。このことは職場にいるときの時間の記述によく書いているし、ほんらいは公開する話題の範疇ではないのでめちゃくちゃはしょっていえば、たとえば準備をはやくからはじめておきながらさいごのほうでは暇になってうごかずにいるので、こちらとしては予習をもっとみっちりやって授業の質をあげるとかできることをやってほしい、というようなことだが、いっぽうではそうおもいながらもたほうでは、なんかそういうこと言うのめんどうくせえしいちいち注意したくないし、となにもせずに落としている現状である。べつにふつうに言ってもよいし、職場のことをかんがえるならむしろ注意したほうが良いのかもしれないが、そのへんをあまり締めずにゆるくやりたいなというきもちもいっぽうにあり、言ってもなんかしょうがなさそうというこころもすこしはあり、なんかそういう先輩とか上司じみたふるまいをとりたくないという都合のよいこころもありつつ、注意するならまあこちらよりも(……)さんから正式にはなしてもらったほうがいいかな、というあたまがわりと大きい。ただそうおもいながらも、(……)さんにそのへんどう感じているのか聞いたり、相談したりはしていないわけだが。事務給が出る時間を多めに取っておきながらなにもやらずにいるようすが見られるということを(……)にはなすと、そりゃダメだね、給料泥棒だからなという反応がかえり、こちらもそうは思うし、不公平感もまったくかんじていないわけではないのだけれど、なんか給料泥棒だというような、そういう批判や(もし注意するとして)注意のしかたもしたくないというのが実情だ。ところで、(……)の職場や業界はうえのようなはなしを聞くかぎりあからさまにブラックで、これを知らないひとのはなしとして、世間一般の一例として聞いたらこちらはまごうことなくクソだなとおもうだろうし、なんの躊躇もなくクソだなと断じてやまないだろうが、友だちがじっさいにそこではたらき生きている環境としてそれを聞くと、それはクソだと断じたり、パワハラだからやめたほうがいいとはっきり批判することはできないし、(……)が知らないところでこのように書いたりかんがえたりしていても、いやマジでクソだなという逡巡のないおもいがあたまのなかに形成されないし、そのように書きつけることもできない。またところで、部下にやるべきことをやらせるというはなしのときに(……)は、ほんとに何回も根気強く言うしかないね、しつこいくらいに言うしか、それで嫌われても、それが店長だから、といっていたが、嫌われるうんぬんはおいても、まあたしかにそれはそうだろうなあとこちらもおもう。けっきょく面と向かって直接ことばで、というのは声と身体で、指示や注意や意図をつたえないと満足につたわらないものだと。(……)さんはそのへんがわかっていなかったというか、わかっていなかったわけではないとおもうが、忙しさもあってそこに労力をかけることができなかった、あるいはかけようとしなかった。担当表に指示書きが書かれていたとしても、みんな読まないものなのだ。読んだとしても、そんなにじっくりは読まない。これをやってほしいということを、直接つたえないといけないし、まず指示書きを読んでいなかったら、指示書きを読んでくださいということをいちいち言わないといけない。そして、個々の具体的な行動の指示ではなく、もうすこし広い方針とか、はたらきかたとか、授業のさいの構えとか、そういう単一の行動ではないことがらはいちどいわれてもにんげんたいしておぼえやしないので、おりのあるごとになんども繰り返し言わなければならない。とはいえいまは指示の伝達や講師間コミュニケーション、また講師と室長間のコミュニケーションの面で特段の問題はないとおもうが、書いてあるからということで済ませてしまうとうまくいかないこともあるだろうし、またその後にとってもよいことにはならないかもしれない、ということだ。室長がいちいちひとりひとりの講師にはなしかけて、ことばと意味を交わす時間をかさねていかなければ、とうぜんながら関係ができていかないのだ。とうじもおなじことはおもっていたが、(……)さんはその点を軽視していたようにおもえる。たいして(……)さんは、意識してか否かは知らないけれど、そのあたりをけっこううまくやっているように見える。
 飯を食っているうちに九時がちかづいており、時計をみると八時五〇分だったのでもうこんな時間かとつぶやいて、喫茶店に行くことに。会計はこちら持ち。礼を言って店を去り、ありがとうございました、ほんとうにたすかりましたと(……)にもあたまを下げ、エレベーターにむかった。一階まで一気に降りて、駅前のエクセルシオールに。おのおの飲み物を買い、小テーブルをふたつつなげて書類の確認・読み合わせへ。主には契約書と重要事項説明書と、あと不動産界隈では「東京ルール」と呼ばれているらしいが、なんだったかな。わすれたので検索したところ、そう、退去するさいの原状回復やその費用負担などについてあらかじめ契約時に確認をしておかなければならない、というやつだ。契約書には物件の所有者の変遷が記されており、さいしょは(……)なんとかいうひとが持ち主だったのだけれど、そのあとおなじ名字の女性にうつっていたのでなるほどこれは旦那が死んでその奥さんに所有がうつったんだなとか、そのあともなんどか変わっていて、現在では(……)に住んでいる(……)というひとの持ち物になっているらしいのだが、へー、こういうのちょっとおもしれえなとおもった。契約書の部分部分や、重要事項説明のほぼ全体は(……)が早口で読み上げていき、いっしょに内容を確認する。全体を見たかんじでは(……)として気になるところはほぼなく、物件の契約としてごくごくスタンダードな内容になっているとのことだった。ただ一点、退去時の費用負担についてあまり詳細で具体的なことが書かれていなかったので、そこだけ(……)は気になったようで、出るときにぼったくられないように気をつけないと、なんもなければだいたい原状回復でとられるのがまあ二、三万くらいで、四万いったらそれちょっとたかくないっすか、って言ったほうがいいかもね、とのことだった。しかし項目ごとの具体的にかかりうる費用は重要事項説明のうしろのほうにあり、そこをみると、いろいろあるなかのどういう項目だったかわすれた、全般的にということだったか、まさしく四万円からと書かれてあったので、そうなるとちょっと高い印象だと。しかしまあなんでもよろしい。ふつうに行けば退去はけっこう先だろうし、その程度の金はくれてやる。まあそのときに金があるかわからないというか、むしろいまよりも困窮している可能性のほうが高いともおもえるが。それで(……)としてはきょう契約書への記入も済ませてしまうあたまだったとおもうしこちらもそうだったのだが、会いはじめた時間が遅かったし、飯と読み合わせでだいぶ時間がかかって喫茶店が閉まる一〇時が間近になってしまったので、いったん書類はあずかって家で記入し、あさっての土曜日の夜に渡すことになった。
 それで退店し、駅へ。(……)は電車ではなく車で来たという。改札前であいさつして別れ、帰路へ。そうしてこのあとがなかなかたいへんで、電車内でひさしぶりにけっこうな不安の高潮があったのだった。(……)行きは六番線で、ホームにおりて先頭のほうまで行き、あたりで手持ち無沙汰に待っているひとびとのあいだに悠々とはいるところまでは余裕綽々だったのだけれど、電車が来て乗ると七人掛けの席の端あたりに位置を取って、目の前は扉の左脇について座席端にもたれながらスマートフォンをみている男性が立っており、そうして扉がしまって発車するととたんに緊張が高まってきた。というか発車前、電車にはいった時点でたぶん予感はおぼえていたとおもうが、飯を食ったあとで腹にものがはいった状態なので嘔吐恐怖におそわれたのだ。いちおう発作といってもよいレベルかもしれない。パニック障害の発作としてはやはりいちばんさいしょにかんぜんに不意打ちで来られたそのときがもっともひどく、それがトラウマになっているとおもうのだが、じぶんにとって発作というとあれで、その後はすでに予期不安でもって恐怖までのみちすじが舗装されているから発作的なことになってもそれはまあ予測通りではあって(というかその予測が不安を生んでそれに耐えられなくなるのがパニック障害というものだが)、だからある意味でさいしょの一回以降発作そのものというのは起こっておらず、ぜんぶ「発作的」の範疇におさまっているような気もするし、今回にしてもむかしとは苦しみのレベルがぜんぜんちがいはするのだけれど、とはいえひさしぶりに、これはやばいな、とちゅうで降りなければならないかもしれないとおもうくらいではあった。まずさいしょの一駅のあいだがそこそこ難儀で、緊張が身内にふくらんでうちからややつきあげるような感覚になり、からだがかたくなってその場から逃げ出したいのをなんとかやりすごすのだが、同時に胃のあたりがよくうごめいてひりひりするようなかんじも顕著で、緊張・不安・恐怖・ストレスというものは胃にあきらかにあらわれる。もともと嘔吐恐怖はもっているのでそのストレスが胃に作用して悪くなるのか、それとも胃のほうが器質的にわるくてそれが嘔吐恐怖につながるのか、それは相関的でどちらがさきということもないのだが、ただこんかいのばあいは、気づかないうちに胃が悪くなっていたのだなとおもわれた。そのせいで緊張にたいする耐性が弱くなっていたという要因がひとつにはあるのだろう。ちょうどこの日から一週間前、先週の木曜日だったか、帰宅後に飯を食うとき頭痛のために吐き気がするということがあったが、あのときすでにいくらか悪くなっていたのだろう。ちがうわ。この三日前、この週の月曜日だった。だからそこから三日しか経っていないわけで、この日もけっこう悪かったのだろう。胃をしっかり健康に保っておかないと、こちらのばあい飯食って電車に乗ったらこうなってしまうわけで、それはきつい。それで(……)を越えたあとも緊張はけっこうあっておりおりに高まるのを、森田療法の精神で抵抗せずに、立ったまま目を閉じじっとして受け流そうとするのだが、右手はつり革をもって左手はポケットに入れていたところが、緊張が高くなるとじっとしているのがつらくてからだをちょっとうごかさざるをえず、左手で座席端にある縦棒の手すりをつかんでからだをささえたりした。ひさしぶりにたしょうの見通しの絶望感というか、このままだときついぞという感じを得ていたのだが、(……)についたところで右方、車両の一番端であり一号車なので電車全体の端ということにもなるが、その角に立っていたひとが降りてスペースが空いたのでそこにはいりこみ、それでわりとたすかった感があった。嘔吐恐怖をおぼえながらじっさいに吐いたことはいままでいちどもないのだけれど、仮に吐いたとして目の前にひとがいるとやはりまずいからそれで余計に緊張になるのだけれど、角のスペースならいちおうだれにもかかることがないからちょっとだけ気が楽になるわけである。そうして目をつぶって森田療法の精神をつづけているうちに、どうにかなりそうだという心身になった。しかしその後の帰路のあいだも緊張感は身内にずっとつづいており、帰って以降寝るまでもそうだったし、ひさしぶりにいつどこにいても不安、生きてあることじたいが不安だというような、じぶんとは不安であるというような感覚をおもいだしたなとおもった。そしてちょっとおどろくことに、この部分を綴っている現在は五月三一日の午後一一時前だが、いまも書きながら身に緊張が生じて滞留しており、胃もけっこう良くなったとおもっていたのにすこしだけひりついて胃液を出しているような感覚があるし、だからそれくらいに余波が残存する程度のものではあったのだろう。やや不意打ちだったのがおおきかったのだとおもう。精神疾患とは不意を打つものである。さいしょの発作はかんぜんにそうだったし、最終的に鬱様態にいたった二〇一七年末から一八年初のときもじぶんはもう治ったとおもっていた。精神疾患はかならずひとの予想を超えてくる。災害とおなじだ。