2022/6/3, Fri.

 (……)原子というものはおそろしく微小で、非物質的な物、すなわちまだ物質ではないがすでに物質に似た物、つまりエネルギーの非常に微小な、早期の、中間的かたまりであって、まだとてもこれを物質と考えるわけにはいかない。それはむしろ物質的な物と非物質的な物との中間物、その境界点と考えられなければならない。ここに、有機物の偶然発生とは別の偶然発生、つまり一段と神秘的、一段と冒険的な自然発生の問題、非物質から物質が発生するという問題が登場してくる。実際、有機自然と無機自然の間の深淵と同様に、あるいはそれ以上に物質、非物質間の深淵を埋めることが切実な問題となっている。そ(end585)して、有機体が無機的結合から生ずるように、物質が非物質的結合から生ずるという、いわば非物質の化学が生れてこなければならなくなる。そして原子は、物質の原生類や無核類――すなわちその性質からいって物質的であってしかも物質的でない物ということになる。しかし「小さいとさえいえない」ところへ到達すれば、そもそも標準というものがなくなってしまう。「小さいとさえいえない」とは、すでに「おそろしく大きい」と同じ意味である。こうして原子までおりていくことはきわめて危険だといっても過言ではない。なぜなら、物質を徹底的に分解し微分していくと、突然天文学的大宇宙が眼前に展開してくるからである。
 原子はエネルギーの充満した一宇宙を構成しており、その体系内では、太陽にも似た中心体の周囲を多くの天体が自転公転し、たくさんの彗星が、中心体の引力によって外心的軌道内に引きとめられながら、光年的速度でその天空を飛びちがっている。これは、多細胞生物の身体を「細胞国家」と呼ぶのと同じように、たんなる比喩ではない。分業の原理によって組織された社会的団体としての都市や国家が、有機的生命に比較できるばかりか、それらは有機的生命の反覆なのであるが、それと同様に、ぬくぬくと服を着込んだ青年研究者の頭上に、厳寒にきらめく谷の上方に、月光に青白く漂っている無数の集団と群像の大宇宙をなしている星の世界は、自然の深奥に存在する原子の中に、最も広大に反映しながら反覆されているのである。原子内の太陽系の中のある遊星、つま(end586)り物質を作りあげているいろいろの太陽系の群星や銀河中のある遊星――これらの内界的天体は、地球を生命の存続に適するようにしている状態と同じ状態にあると考えてはいけないだろうか。神経中枢がほろ酔い加減で、皮膚が「異常」な状態にあり、禁じられている事柄の世界でもすでにいろいろなことを経験済みにしていた青年研究者にとって、そういう考えは荒唐無稽な空想どころか、執拗に迫ってくる、きわめて明白で論理的真実性を帯びた想念ですらあった。内面的天体を「微小」であるというのは、はなはだ不当な言葉というべきであろう。大きいとか小さいとかいう標準は、「最小」分子の宇宙的性質が明らかになったとたんにもはや通用しなくなり、内外の概念もまた次第にその根拠を失っていくからである。原子の世界が外界であると同時に、私たちの棲んでいる地球も、これを有機的に見れば、おそらくきわめて深い内界である。ある研究者は、奔放な空想力をもって、肉も骨も脳髄も、いっさいが太陽系によって構成されている宇宙的怪物を空想し、そして、それを「銀河動物」と呼んだ。もしそうだとすれば、ハンス・カストルプが考えたように、究極に到着したと確信した瞬間は、同時にまたすべてをはじめからやり直す瞬間だということになる。そしてハンス・カストルプという人間の最深部、奥の奥にも、もうひとりの、もう何百人ものハンス・カストルプ青年がぬくぬくと服にくるまって、月の明るいアルプスの高原の寒夜を見おろすバルコニーにからだを横たえ、指をかじかませ、顔を火照らせ、人文的、医学的関心から人体の生活を研(end587)究しているのではなかろうか。
 (トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)、585~588)


 一〇時前に覚醒。それいぜんにも覚めたようで、あけた記憶がなかったがカーテンがすでにあいていた。天気は雲なしの澄み切った晴れとは行かず、水色がだいぶ希薄だったけれど、ひかりのあかるさもふくまれていて暑い。布団のしたで深呼吸をしてからだに酸素と血をめぐらせる。みぞおちや腹のあたりも揉んでおく。胃の感じはかなりすっきりした。みぞおちや肋骨をやわらかくするのが最適の正解だったようだ。いま一二時四三分でカレーを食ったあとだが、胃液の逆流感はほぼないし、腹にひっかかりもほとんど見当たらない。とはいえだからといって胃とか食道がきのうにくらべて格段によくなっているわけがなく、たとえばもし食道に炎症が起こっているとすればそれはつづいているはずなので、油断せずにさらなる回復をはからなければならない。したがって太田胃散は飲んだ。
 一〇時二〇分をすぎて起き上がり、コンピューターを消毒スプレーとティッシュで拭き、洗面所へ。深呼吸をすると血がめぐって肌の調子がよくなるので、起き抜けのわりに比較的しゃきっとした顔にみえる。洗顔し、みずを飲み、トイレにはいって小便を放ち、部屋にもどるとベッドにころがって読書をした。J. D. サリンジャー野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』。123から154。ホールデンはジェーン・ギャラハーのことをうだうだかんがえていたが夜のニューヨークシティにくりだす気になって、タクシーに乗ってアーニーの店に行っている。アーニーというのは黒人のピアニストで、そこはホールデンの兄であるD・Bの行きつけの店で、ホールデンじしんも過去になんどか行ったことがあるという。タクシーのなかでは運転手とはなしたり、店についてからはピアノ演奏を耳にしたり、狭苦しい席にとおされてD・Bの元恋人と遭遇したりしているが、そういう経過のあいまあいまにホールデンはたびたび、「インチキ」とか「いやらしい」ということばでさまざまなものごとにたいする嫌悪や反感を表明している。それは作品がはじまってからこれまでもずっとそうだったのだが、いかにも反抗心あふれる不良少年といったかんじだ。かれの気分をあらわすことばのうち支配的なものは「気が滅入る」である。ジェーン・ギャラハーがウォード・ストラドフォードと車のなかでデートしたということを聞いたあたりから、ホールデンは頻繁にこのことばをつぶやきだした印象だが、読み返してみるとすでに14ページでそういう気分におそわれている。歴史のスペンサー先生に別れのあいさつをしに行った一幕である。「中へ入ったとたんに、僕は、来るんじゃなかったと思ったね。先生は『アトランティック・マンスリー』を読んでたが、そこらじゅうに丸薬だの散薬だのがちらばってて、いろんなものがみんな、ヴィックスのノーズ・ドロップみたいな臭いがしやがるんだ。気が滅入っちゃったよ。だいたい、僕は、病人ってものがどうも好きじゃないんだが、このときの先生は、生まれたときにそいつでくるんでもらったんじゃないかって気がするくらい古ぼけた、情けないバスローブを着てやがったんだ。これでますます気が滅入っちまったのさ」。ニューヨークに着いてホテルにはいったときのことも、「僕にあてがわれたのは、すごくきたない部屋で、窓からは同じホテルの向こう側しか見えないのさ。たいして気にはしなかったけどね。あんまり気が滅入っちまって、眺めのよしあしなんてどうでもよかったんだ」(97)と言っている。学校を去って都市に来た以降は、この気の滅入りを、孤独とか疎外感のようなものとして理解するのが解釈としては順当だろう。どこかで「さびしい」ということばで心情をあかしていたおぼえもあるし、それとあわせるなら、ホールデンがだれかに電話をかけたいとおもったり、女性とかかわろうとしながら関係構築はできずつかの間のやりとりだけで終わってしまうことをくりかえしているのも、そういう空虚な心境を埋め合わせたいという欲望のあらわれだということになる。しかしそれはかれがほんとうにもとめていることではないので、やりとりをしているうちに嫌になってしまったり、そもそもさいしょから気乗りがしていなかったりして、決定的な踏みこみにいたることはない。かれがほんとうに気になっているのはジェーン・ギャラハーのことなのだ。「彼女があのエド・バンキーの野郎の車の中に、ストラドレーターといっしょにいるとこへ考えが行くたんびに、気が狂いそうになったんだ」(126)というわけで、このあたりが標準的な理解の線だろうが、ホールデンはじっさい、威勢のよい不良少年の生意気さのいっぽうで、妙に葛藤めいてうじうじうだうだとしたようすをみせてもいる。いかにもセンシティヴな思春期少年の感じだが、その気の滅入りがどうやらピークに達したらしいのが、アーニーの店を去ったあと、ホテルまで長いみちをあるいて帰るあいだのことである。とつぜん、「僕はとても意気地がないんだから。努めて外にはそう見えないようにしてるけど、実はそうなんだ」(138)という吐露があるのだ。たかだか一六歳のくせに汽車内で同級生の母親にぺらぺら嘘をつきながら酒にさそっていたり、「ラヴェンダー・ルーム」でも女性らに声をかけてダンスをしていたりと、読んでいるこちらとしてはむしろずいぶん度胸があるなという感想をもつのだが、そのためかここにきて出し抜けにあらわれる弱気の表明は印象的だ。そうしてうじうじした気分のままホテルに帰るとエレベーター・ボーイに女はどうかと声をかけられ、やはり「気が滅入っちまって、考えることさえできなかった」(143)ために、誘いを受け入れてデリヘル的な女性を部屋に呼んでもらうことになる。しかし、「かなりセクシーな気持やなんかになっては来たけど、それでもやはり不安」(144)で、それにつづけて「実を言うと、僕はまだ童貞なんだよ」という告白があり、けっきょく部屋に来た「売春婦」(146)がドレスを脱いでも、「セクシーどころか、気が滅入ってたまんなかった」(148)し、「むしろ憂鬱な気持」(151)になってしまい、ちょっとはなしただけで金(五ドル)を払って帰らせてしまう。とうぜんながら、「いやあ、みじめな気持だったな。君には想像もできないほど気が滅入っちまったんだ」(154)ということになる。
 一一時九分から瞑想をした。枕のうえに尻をのせてゆるめのあぐらをかき、さいしょのうちしばらくは深呼吸。やはり瞑想のときもまず深呼吸をしてからだをぜんたいてきにやわらかくするプロセスをいれたほうがよい気がする。そうしてそとの鳥の声をきいたり、進行中の小散文のことをかんがえたり。もう終わりはさきに書いてしまっているし、だいたいのながれもおもいついてはいるのだが、こまかい接続をどうやるかなあというところ。三〇分ほど座った。それで上階に行き、ジャージにきがえ、ゴミを始末したりして、洗面所で再度洗顔。食事はきのうのカレーとサラダののこりである。このとき空は灰色の雲がはびこって家をつつむ空気は鈍く沈んでおり、台所は蛍光灯をともされているくらいだったのだが、飯を用意しているあいだだったか階段をあがってきた母親が、もう入れたほうがいいかなと雲行きのあやしさをあやぶみながらベランダに出たところ、まさしくぽつぽつ降ってきたというのでこちらもそこに行き、協力して洗濯物をとりこんだ。午後二時前現在だと雨はやんで大気のいろもすこし軽くなり、さきほどちょっと日なたがみえた瞬間もあった。あしたは軽トラで荷物運搬だが、おそらく雨は降らないもよう。
 食事とともに新聞。イーロン・マスクがCEOをつとめる電気自動車大手のテスラが人権法案を意に介さず新疆ウイグル自治区にあたらしいショールームをひらいたというはなしがあった。米国としては中国とのむすびつきは限定的にして、切り離しをはかりたい経済分野もあるものの、テスラはおおいに実利優先で、イーロン・マスクは中国は市場として重要であり、将来的にはわれわれの市場のうち二五~三〇パーセントを占めることになるだろうといっているらしい。かれはさいきんTwitterを買収して投稿チェックをゆるめたり永久凍結されているドナルド・トランプのアカウントを復活させたりする見込みということで取りざたされているが、たしかもともと加速主義とかオルトライトとかとちかい立場で、民主主義を廃したトップダウン型の企業経営的な都市国家を提唱したりしていた記憶がある(いま検索したら、都市国家みたいなものを提唱していたのは、たぶんマスクではなくてピーター・ティールのほうだ)。だからたぶん人権なんかもあんまり気にしないのではないか。ほか、ウクライナでは南部ヘルソン州ウクライナ軍が反攻をつよめ、州知事によれば二〇の集落を奪還したと。ルハンスク州のセベロドネツクは八割方ロシアに制圧されたという。地元州知事もそれをみとめていると。四月に任命されたばかりのロシア軍総司令官が更迭されたうたがいがあるともつたえられていた。New York Timesが、もう二週間すがたをあらわしていないとしてそのように報じているらしい。
 食器と風呂を洗い、白湯をもって帰室。Notionを準備して、きょうは音読をやるのではなくてもう日記を書きはじめてしまった。きのうの記事にちょっとだけ足して完成させ、きょうのこともここまで書くと二時。あしたの運搬のために荷物をまとめ、インフラ方面の手続きもしておかなければならない。


 そのあとめんどうくさいが引っ越しの準備をするかというわけで、とりあえず持っていく本を袋に入れることに。室内にあった紙袋をとりあげててきとうに文庫本から入れていく。鶏舎や豚舎の家畜たちも顔負けのせまくるしさでぴったりと詰めていく。さいしょのうちはティッシュで本についている埃をはらっていたのだが、本をとったあとのラックなんかにもどうせ埃がたまっているので、とちゅうから掃除機をつかいだした。首の部分をとりはずしてみじかくし、接合部に刷毛というか埃をかき取る用の毛がもうけられているので、それで一冊ずつとりあげては掃除機でなでまわすようにしてきれいにしつつ袋に入れていった。とりあえず文庫本をどんどん入れていき、最終的に部屋の左右に積まれていた区画の文庫本はほぼなくなった。とはいえほかの棚もあるし、また隣室にもあるのだが。紙袋だけではなくてむかし(……)の、いまはwelciaがはいっているビルのLOFTで買った布素材のボックスもふたつあったので、これも利用した。いっぽうには隣室の椅子のうえに置きっぱなしにしていた書抜きを待っている本たちをおさめ、もういっぽうはなんかごついやつの箱にしようともくろんだ。ごついやつといえばなにを措いてもまずムージルの書簡と日記である。これを入れ、さらにプルースト全集三巻(書簡の巻をふたつと、批評とか雑文みたいなものをおさめた一巻)、そうしてマラルメ全集の二巻(『ディヴァガシオン』)と四巻(書簡)をいれるとそれでいっぱいになった。ほかにもフローベール全集とかランボー全詩とかロートレアモンとかパスカル全集とかあったのだが(ぜんぶフランス! おれはそんなにフランスかぶれだったのか?)。あと、ABCマートの縦にながい紙袋が上階の戸棚にあったのでそれももらい、これはミシェル・レリスの袋にすることにした。みすず書房の日記二冊を底に据え、そのうえにむかしAmazonで買ったもろもろの作品と、何年かまえに四巻で出た『ゲームの規則』をおさめる。しかしこのうちいままでに読んだのは日記二冊だけである。あと『幻のアフリカ』もあるわけだがそれは文庫の袋のどこかにいれた。そうしてさらにいま気づいたが、『日常生活のなかの聖なるもの』はいれわすれたんではないか? 隣室の棚に置いていたとおもうので。ABCマートの袋はもうひとつ、やはり背が高いものがあって、これはしかももう一枚よりもおおきなものだったので、さいごにそれにこれはやっぱり持っていかなくてはという単行本をいろいろ入れた。ヴァルザー著作集とか、松本圭二セレクションとか、つづきで何冊か持っているやつや、フーコーの講義録や主著(『狂気の歴史』『言葉と物』『監獄の誕生』と箱入りの三冊にくわえ『性の歴史』も三巻とも、いちおう持つだけは持っている)、パウル・クレーの日記と書簡とか、あと『ムージル・エッセンス』とかそのへんである。そんなに持っていくつもりはない、おいおいすこしずつはこぶつもりだなどと言っておきながら、みていればあれもこれもとなってやはりだいぶの量になり、かぞえなかったが袋と箱はぜんぶでたぶん一〇個くらいにはなったのではないか。七、八個だったかな。しかしこうしてみると紙の本はやっぱりたいへんだし、電子書籍もいいよなあという気になる。ムージルの日記や書簡とかプルースト全集とかそういう箱入りのやつは一冊でも重いし、三冊くらい重なるとそれだけでマジで重いぜ? ずしりと来る。結果として室内の本はたしょうかたづき、塔は低くなりはした。あまり変わっていない部分もあるが。というかラックなどは空いたスペースにほかのところにあった本をうつしたりもしたので、そこまで空いたわけではない。作業中はつまらないし歌をうたいながらやろうとおもって窓を閉め、上田正樹とありやまじゅんじの『ぼちぼちいこか』をながして歌いながらやっていた。そのあとはFISHMANSの『98.12.28 男達の別れ』。”なんてったの”を熱唱する。作業開始からまもなくしてこれはマスクをつけたほうがいいなとおもって取ってきたし、窓も閉めているので暑く、肌着でいても汗だくになった。本をおさめた袋たちは廊下に出しておいたのだが、そのあとそれを玄関に運搬。単行本をたくさん入れたABCマートのでかい袋は相当重い。階段をのぼりながら落ちやしないか注意しなければならなかったくらいだし、そもそもこれ袋破れるんじゃないかなという気配もすこし感じた。ほかの袋も重いは重いがそこまでではない。片手でなんとか持てる。そのあと上階の仏間にうつり、衣服などの準備。布団やタオル類や洗面具などは母親がもう用意してくれていたのでまったくありがたい。それを確認し、服もべつにそんなに持っていかなくてもいいな、着たいやつだけ持っていって古いのとかダサいのとかはいいやとおもい、自室の収納から見繕って仏間にはこび、それをたたんで袋におさめた。その他寝間着や下着、靴下など。ジャージをいれわすれたがそんなものはのちにリュックサックではこべばよい。リュックサックも、山に行くひとが背負っているようなでかいやつを運搬用として一個買ってもよいかもなとおもった。本もいちおうおいおい運んでいくつもりではいるし。しかし部屋に置く場所があるかということが問題だ。棚を買うのも面倒くさいが、床に置くとなるとさすがに大量すぎる気がするし、袋に入れたままだと目にふれないからよくないのだよな。そういやあれがあそこにあった、つぎはあれを読もう、というあたまが生まれなくなる。ともかくそういうわけで布団も服も本もそろったし、あとはアンプとギターだけだなとおちついた。しかしよくかんがえればあしたはいったん帰ってくるつもりで、五日も(……)や(……)くんと会うのに実家から行くので、ギターはそのときもっていけばよいのだ。ギターをあした持っていってしまうと、五日に会うときに新居に行って取ってこなければならないので手間になる。とはいえ、そうでなくてもふたりはたぶんふつうにアパートを見るつもりだとおもうから、どうせおなじことではあるのだが。そうかんがえるとあしたもっていってしまったほうがよいのかもしれない。
 済むと四時半くらいだった。それから部屋にもどって、インフラ方面の契約もすることに。電気とガスは東京電力(TEPCO)のページで、水道は東京都水道局のページでさしたる手間もかからず容易にできた。どれも利用開始日は六月七日にしておいた。その日は休みなので。ガスは立ち会いがいるので、一五時から一七時を希望時間にしておいた。それからインターネット契約にうつって、光回線用のコンセントがあるわけなのでそれが良いのだろうが、ようわからんしauひかりでいんじゃね? とサイトをおとずれたり、検索して解説サイトをみたりする。まずauひかりが対応しているかという問題があって、auのサイトからそれを確認する。というか数日前にも一回調べたのだけれどそのとき対応していないという結果が出ており、非対応のお客様には提携業者のサービスを提供できますとかいうことでJ:COMに飛ばされたのだった。そのあたりで面倒くさくなってやめたのだが、今回おなじみちを踏み、飛ばされるのはauスマートバリューだとJ:COMと契約を組み合わせることができて安くなりますよみたいなページなのだけれど、この割引サービスを受けるにはネット回線だけではなくて、それともうひとつテレビか電話もセットで契約しなければならないのだった。そんなものはいらん。なのでJ:COMのネット契約単体でむすべばいいじゃあないですかと住所を入れて対応サービスをみると、320Mコースというやつしかなく、もうこれでいいわと申込みまであと一歩のところまで行ったのだけれど、そこで、しかしこれは光回線ではないのでは? とたちどまり、いろいろ調べてみた。J:COMはもともとケーブルテレビの企業なので、そのネットはネット回線だけでかんがえると割高らしく、そのわりに通信速度も遅めだという評判のようだ。テレビとかほかのサービスといっしょにできるサービスが豊富なので、その点がメリットなのだが、ネットだけで利用したいひとにはそう良いものではないという情報があったので、じゃあなんか光回線のやつがやっぱいいのかなとなった。そもそもauひかりってなんやねんということでこれについても調べてみたところ、まずauひかりマンションというやつがあって、これはもともとauひかりの設備を入れているマンションやアパートにおいて導入できるらしい。それいがいにauひかりホームという区分があり、これは本来一戸建て用のサービスなのだが、解説ページによればauひかりマンションに対応していなくても、つまり住所検索でマンション用サービスが出てこなくても、戸建て区分で検索すればauひかりホームに対応しているばあいがあるというのでそうしてみたところ、みごとわが(……)は申込受付中の表示をあらわした。これだ。auひかりホームには1G、5G、10Gという区分があり、だいたいみんな5Gをつかっているようで、auのサイトの申込み案内でもこれがおすすめとされていたが、5Gだとどんなもんなのか、どういうことをやる利用者に適しているのかとそのへんさらに調べてみると、まあとにかくはやいははやいらしい。オンラインゲームも安定的にできると。しかしおれはオンラインゲームなどやらん。あるページによれば、5Gだの10Gだのいっているけれど、ふつうに家庭でインターネットをつかう分にはそんな速度はいらず、大容量のデータをダウンロードするにしても100Mbpsも出ればじゅうぶんだと。じゃあJ:COMでもいいじゃん、というはなしなのだが、しかしさきにもふれたようにJ:COMはネットだけで契約すると光回線よりも月額がむしろ高くなってしまうらしい。そうなればauひかりの1Gかなというわけで、あとそもそもいまのパソコンとか機器とかはだいたいはそもそも1Gbpsまでしか出ないような仕様になっているらしく、それいじょうを出すにはそれ用のルーターとかLANケーブルとかが必要だという情報もあった。そのへんになるとまたよくわからなくなってくる。あと戸建て用のauひかりホームを導入するとなると工事というか回線引き込み作業が必要で、管理会社や大家に連絡してその点了承をえておかなければならないというし、申し込んで工事まで一か月くらいはかかるらしい。まあスマートフォンがあるし、べつにパソコンでネット見れなくてもいいかなとおもっていたのだが、そうこうしているうちに、そういやポケットWi-Fiとかいうのがあるじゃないかとおもいだした。ふつうにネットをつかうのにそんなに通信速度がいらないのなら、ポータブル型のそういうやつでもじゅうぶんなのでは? と。しかもそれだったらそとで自由にパソコンでネット接続することもできる。そういうあたまでさらに検索すると、WiMAXというやつがおすすめですよとかいう業者の回し者みたいなページが出てきて、ポケットWi-FiWiMAXは厳密にいえばちがってて、とか説明があるのだけれどそうなるとまたわけがわからん。ただ通信速度比較表をみるにWiMAXは70Mbpsくらい出ると書かれてあって、それならこれでいいじゃんと。しかしいっぽうで、ポケットWi-Fi的なやつはたしかまえに(……)くんがつかっていたような気がするし、そもそもかれのほうがはるかにこういう方面に詳しいのだから、ネットにかんしてはまだ決めないで五日に会ったときにいろいろ教えてもらえばいいやという結論に落着し、その旨LINEにつたえておいた。
 そうするともはや七時過ぎである。きょうばかりは家事をサボったことをゆるしてほしい。食事へ行くと父親が帰宅していた。もうぜんぶ準備できたのかときくので、まあいちおうとこたえて膳を用意。唐揚げやタマネギなどの味噌汁ほか。自室に帰ってウェブをみながら食べる。そういえばネット契約について調べる過程でいまの回線速度を測定するページをおとずれたのだけれど、10Mbpsくらいでクソである。我が家のネットがどういう契約になっているのか、すべて父親まかせなのでなにも知らないが。たぶんケーブルテレビ業者のやつなのではないか? そりゃZOOMもやりづらいわ。食事を終えると階をあがって食器を洗い、洗い桶に放置されていたものもついでに洗っておき、白湯をもって帰室。みぞおちをもみほぐしたために苦しいということはほぼなくなったのだけれど、食後はやはり口のなかにわずかに胃液らしい味が生じて、胃酸じたいはよく出て逆流しているようだ。酸味というよりはほんのすこししょっぱいような感じなのだが。ふざけやがって。ふつうに医者に行ったほうがよい気もするが、面倒くさいので、とりあえず太田胃散をつかいつづけて駄目そうだったらH2ブロッカーをためしてみるか? ここまで書くと九時一一分。LINEでやりとりし、五日は13:30に(……)駅となった。とすればやはりあしたもうギターを運んでしまったほうがよいだろう。しょうじきギターをもっていっても弾く機会とれなさそうではあるが。モノレール下広場にでむいてそとで弾くか、近所の公園とかで弾くか、それか二週に一回くらいスタジオを取ってまじめに練習するか。さいごの案ができればいちばんよいのだけれど、忙しさと金の面でそんな余裕があるかうたがわしい。もし定期的にスタジオにはいる生活にできたら、そろそろちゃんと曲のコードをとったりして弾き語りの練習をしたい。


 夜、Sophie Hardach, “The languages that defy auto-translate”(2021/3/23)(https://www.bbc.com/future/article/20210322-the-languages-that-defy-auto-translate(https://www.bbc.com/future/article/20210322-the-languages-that-defy-auto-translate))を読了。

Once it has found and translated the relevant information, the search engine sums it up for the user. It's during this summarising process that neural models display some of their strangest behaviour – they hallucinate.

Imagine you are searching for a news report about protesters who stormed a building on a Monday. But the summary that comes up says they stormed it on a Thursday. This is because the neural model drew on its background knowledge, based on millions of pages of training text, when it summarised the report. In those texts, there were more examples of people storming buildings on Thursdays, so it concluded this should apply to the latest example too.

Similarly, neural models may insert dates or numbers into a summary. Computer scientists call this hallucinating.

"These neural network models, they're so powerful, they have memorised a lot of languages, they add words that were not in the source," says Mirella Lapata, a computer scientist at the University of Edinburgh who is developing a summarisation element for one of the teams.

 あとは特段の記憶もない。書抜きをしたりものを読んだりして、はやめに、一時四〇分には消灯した。あした(……)が来るのは一〇時なので、八時前には起きたかったので。