(……)生産性指向の世のなかにあって、思考することはたいてい何もしないことと見なされているが、まったく何もしないのは案外難しい。人は何かをしている振りをすることがせいぜいで、何もしないことに最も近いのは歩くことだ。歩くことは意志のある行為でありながら、呼吸や心拍といった身体の不随意なリズムに極めて近い。作業と休息、存在と行為の繊細なバランスの上で思索と経験を生み、そのうちどこかへ到達する肉体的な労働である。(……)
(レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、13; 「第一章 岬をたどりながら」)
- 「英語」: 712 - 727
午後一時。(……)さんのブログ(五月一三日付)を読んでいると、「日本語では「柳のよう」という比喩は外見ではなく性格を表現することに使うとレクチャー」と出てきて、え、そうだったの? とおもった。しかし「蒲柳の質」というと病弱な体質についてつかわれる。まあ、外見にしても性格にしても、蒲柳の質にしてもいままでつかったことないが。
覚醒したのは一〇時直前。さくばんはれいによっていつか意識をうしない、気づくともう明けて午前六時だった。室内の電気がついているうえにカーテンのむこうから白んだ朝の空気がもれてきていて、明かりの用がなかった。それからまたねむったかたち。布団のしたで深呼吸をして一〇時二〇分に離床。水場へ。顔を洗ったり小便をしたり。もどるときょうはサリンジャーではなくて蓮實重彦『見るレッスン 映画史特別講義』(光文社新書)を読むことに。インタビューをもとにした本らしい。だいたいのところあれがすばらしい、この監督だったらこれがいちばん良いのでこれをみなければならない、ということを言っているだけのような感じ。さいきんの日本の若手もすごいということも言っており、男性だったら濱口竜介と三宅唱のふたりを、女性だとドキュメンタリー監督の小森はるかと小田香のふたりを推している。とくに後者ふたりは絶賛。
一一時をすぎて上階へ。ジャージにきがえてあらためて洗顔。髪もちょっと濡らして梳かす。食事は生サラダに焼豚を載せた小鉢と、タマネギやらトマトやらをつかったソテーと煮物の中間みたいな料理と米。新聞の文化面をみると、一九年だかに亡くなったドナルド・キーンの生誕一〇〇年が迫っており、神奈川近代文学館で展示がおこなわれていると。ひとつには教育者としての側面に焦点をあてたもので、キーンなどの第一世代が日本文学を海外に紹介したあと、弟子たちがより研究を深めていくさまがみてとれるという。ある弟子の女性はかれが編集した日本文学集みたいな本を読んで就職をやめて研究をこころざし、博士論文でだれをとりあげるかまよっていたときに、いろいろなタイプの文章をものした正岡子規がよいだろうとアドバイスをもらったり、女性は結婚して出産したら研究をやめるものというかんがえが支配的だった時代に学究をつづけるようサポートをしてもらったと。べつの弟子によれば、生徒たちには「ミスター」「ミス」の敬称をつけて呼んでいたといい、そんな先生はかれしかいなかったという。ひじょうにていねいな人柄だったようだ。
いま帰宅後、夕食を食べたばかりの午後一一時。(……)さんのブログ、五月一四日付に梶井基次郎「冬の日」の引用。ここのさいしょの二文、「街路樹から次には街路から、風が枯葉を掃ってしまったあとは風の音も変わっていった。夜になると街のアスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた」というのはほんとうにすばらしいとおもう。なんでもない文なのに。このようなシンプルさで、なんでもなさで、このようなニュアンスを書けるということ。じぶんにはとても真似ができない。
街路樹から次には街路から、風が枯葉を掃ってしまったあとは風の音も変わっていった。夜になると街のアスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた。そんな夜を堯(たかし)は自分の静かな町から銀座へ出かけて行った。そこでは華ばなしいクリスマスや歳末の売出しがはじまっていた。
友達か恋人か家族か、舗道の人はそのほとんどが連れを携えていた。連れのない人間の顔は友達に出会う当てを持っていた。そしてほんとうに連れがなくとも金と健康を持っている人に、この物欲の市場が悪い顔をするはずのものではないのであった。
(梶井基次郎「冬の日」)
きょうはガス立ち会いのために三時ごろにはアパートに行って、四時まえくらいから立ち会ったあと日記を書いたり、近間のサンドラッグでこまかいものをたしょう買ったり。立ち会いのまえとか帰るまえとか帰路とかでけっこう本も読み、蓮實重彦『見ることのレッスン』は読了してしまった。新書だし、だいたいのところあの映画はよい、あそこがすごい、あれを見なければならないと言っているだけで、なんら小難しいはなしもしていないので、スラスラとかんたんに読めた。映画のおもしろさのひとつは、「細部が見せる一種の色気」(184)、「存在の色気」、「存在することそのものの「艶」というか「色気」のようなもの」(186)だと古井由吉なんかがいいそうなことをいっているが、この「存在の色気」をじぶんはよくわかるつもりでいる。よくわかるつもりというか、蓮實重彦がこういうことをいっているのを読んで、ああやっぱそうだよな、めちゃくちゃよくわかる、とおおいにうなずくところがある。じぶんのばあいは映画を見つけない人種なので、日々の世界そのものにたいしてそれをおぼえるわけだが。要するにものと風景。じぶんがひたすら風景に惹かれるのもそういうことだろう。そこでじぶんが感じているものがほんとうに蓮實重彦の言っている「存在することそのものの「艶」というか「色気」」とおなじものかどうかはわからないが。「あらゆるものには、いわば存在の気配というべきものがあり、それがたまたまなのか、あるいは意図的なのか、とにかくまざまざと画面に映された時に、人を引き付けて驚かせてくれるのです」(185)ともいっているけれど、「存在の色気」よりもこの「存在の気配」といういいかたのほうがじぶんにはわかるかも、ぴったりくるかもしれない。
帰路の電車内で蓮實重彦の新書を読み終わったあとはJ. D. サリンジャー/野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(白水uブックス、一九八四年)を読んでいた。きょうは219からはじまって、いまのところ265まで。これまでまあふつうというか特別なおもしろさや興味深さは感じていなかったが、きょうはすこしおもしろみをおぼえた印象。こちらの気分とか心身の調子が書見にむけて乗っていただけではないかという気もするが。女友達のサリー・ヘイズに駆け落ちみたいなことを提案して物別れに終わったあと、ホールデンはフートン・スクールにいたころの同窓生であるカール・ルースに電話をかけて夜にバーで会う約束をとりつけている。それまでのあいだは嫌いだといっている映画をみたりうだうだして過ごし、バーでルースに会ったあとはしこたま酔っ払って夜中にサリーに電話をかけたり、洗面所であたまを水に漬けたり、ラジエーターのうえに座ったり、夜の街をあるいてセントラル・パークに行ったりしているのだが、このへんのすこし奇矯なふるまいはちょっとおもしろかった。公園まで行ったところで妹フィービーに贈ろうとおもっていたレコードを落としてしまい、レコードは「五十ばかしのかけらに割れちまっ」たのだが(238)(さすがにそんなにこまかく砕けないだろうからこれもれいの誇張だろうが)、これが起こったときには読んでいるこちらもすこしだけ悲しくなった。そのあと深夜に自宅に忍びこんでフィービーを起こしてはなしをしているのだけれど、ここのやりとりやフィービーのさまざまなそぶりなどはけっこうおもしろかった。フィービーには妙に大人びたところもあるいっぽうで、子どもってたしかにこういうことやるよねというふるまいもみせている。ちなみにホールデンはフィービーに学校を追い出されたということをやすやすと看破されており(ホールデンはそれをにおわせるようなことはほとんどなにも言っていなかったのに、フィービーは天性の直感ともおもうべきすばやさで即座に確信にいたっている)、なんだかんだ言い訳するものの、「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」(263)と辛辣なことをいわれている。そのながれで妹はなんでもいいから好きなものをひとつ言ってみなさいよともとめるのだが、そのさいのホールデンの回想が印象的だった。エルクトン・ヒルズにいたころの同窓生であるジェームズ・キャスルという生徒のことをおもいだすのだけれど、かれはべつの生徒について「とてもうぬぼれの強い奴だ」(264)といったことで目をつけられ、仲間とともに部屋に押しかけてきたその生徒に発言を撤回するよう強制される。しかしかれは頑としてきかず、「手荒なこと」をやられるのだが、それでもきかず、かわりに窓から飛び降りて死んでしまうのだ。まだ一〇歳くらいの子どもであるフィービーとのやりとり、しかも「好きなもの」をなにかいうという文脈で、突如としてこのようなショッキングな事件の説明があらわれるのは印象的だった。弟アニーのことを語ってかれがすでに死んでいることをなにかのついでのようにあっさりといってみせたときも同様だが、トーンとか性質がちがうような話題をホールデンは語りのとちゅうで無頓着にさしはさんでみせる。語る内容にあまりこだわりがないというか、どんなことでも区別や差別をせずにあっけらかんと語ってみせるような印象だ。とはいえ、かれが語る内容というのはおそらく二種類に大別できて、つまりかれが好きなものと、かれが嫌いなもの、「インチキ」とか「いやらしい」ということばをむけるものである。そして、後者のほうが割合としては圧倒的に高い。だからかれはほとんどどんなものにたいしても、「インチキ」だ、「いやらしい」、「気が滅入る」と嫌悪や反感や憂鬱を示し、そうした周辺世界への反発がさまざまな学校を退学してきた経歴にもつながるのだろうが、たほうではそういう世界とそれなりに馴れ合って生きているような印象だ。嫌いだと公言している映画を見にいったり、たいして惹かれもしない女性に声をかけたりしているわけである。いっぽう、かれが好きなもの(ひと)はたとえば弟のアリーであり、ジェームズ・キャスルも妹の問いを受けておもいだしたからには好感をもっていたのだろうが、このふたりはともに死んでいる。『ロミオとジュリエット』のなかではマキューシオが一番好きだと174でいっているが、マキューシオも劇のとちゅうで死ぬ。アリーの死因は白血病である(61)。ジェームズ・キャスルは上述のような事情で死ぬ。マキューシオについては、「ロミオやジュリエットが自殺するとこよりも、マキューシオが殺されるとこのほうがずっと気の毒な感じがしたんです」(173)、「実を言いますとね、僕は人が殺されたりすると、頭に来ちゃうんです――ことに頭がよくて愉快で、といった人がですね――しかも、自分のせいじゃなく、他人のせいで殺されたりしますとね。ロミオとジュリエットが死ぬのは、あれは、少なくとも自分たちのせいですから」(174)と述べている。
ホールデンには口癖がいろいろあって、「インチキ」と「いやらしい」もその主要なものだが、ほかには「参ったね」というのが頻繁に出てくる。「これには僕も参ったね」というようなことを言い過ぎだというくらいにたびたびさしはさんでおり、しかもぜんぜんたいしたことではないような、どうでもいいようなことについてもよくつかっている。その初出ははやくも6ページ(つまり二ページ目)、兄のD・Bが書いた「秘密の金魚」という短篇小説について述べる箇所で、「自分の金魚をどうしても人に見せたがらない子供のことを書いたものなんだ。どうして人に見せたがらないかというと、自分の金で買ったからだっていうんだな。これには参ったね」と言っている。
うえにも書いたようにこの日はガスの立ち会いで(……)のアパートに出向いた。道中のことはわすれたので省く。(……)駅からのことはすこしおぼえている。どうせだから違うルートで行ってみようとおもい、これまで駅を出てからすぐ細道にはいっていたところ、右手に折れてすこしだけ線路に沿うべつのみちをえらんだのだ。だいたいの方角はわかっているし、アパートまではおおかたまっすぐ東方向でたんじゅんなので、問題がないだろうと。たいした迂回にもならないとみこんでいたし。それで行くと、道沿いにはたとえば美容室があって美容師の男性がいま髪つくろいを終えたばかりらしい若い女性客と店のまえではなし、おたがいにまたお願いしますといいあっていたり、また小学生の下校時でランドセルを背負ったちいさなすがたがいくつもかけてきたり、そのさきの角では見守り員らしい高年らが通りをわたる子どもたちに気をつけるように声をかけたりしている。出たとおりはもうひとつの細道を抜けたさきとおなじで、ああこの位置なのねとおもった。せんじつ(……)と食ったカレー屋のさきだ。それでぶらぶらアパートへ。三時直前についた。郵便ボックスをみると不在配達表がはいっており、これは(……)が電気ケトルを送ってくれたものだが、はやくもきのう来ていたらしい。あとで再配達をたのむかと持って部屋にはいり、ガス業者が来るまでどうするかなと漫然といたところがインターフォンが鳴った。意外とはやいがガス業者かなとおもって、部屋のなかに受話器とモニターがあるにもかかわらず確認もせずに扉をあけると、さにあらず、佐川急便のひとで、再配達をたのんでもいないのにわざわざもういちど来てくれたのだった。礼を言って小包を受け取り、不在配達表がはいってたとおもいますけど、破棄してください、というので了承した。声の高くて細い、覇気のないような男性だった。それから日記も書くべきなのだがなんとなくやる気にならず、ごろごろしながら本を読んで過ごすかとして、さいしょは座布団を枕に床にそのまま寝転がっていたがやはりもう布団を敷いてしまおうともってきたものをビニール袋からとりだして、シーツもつけず、枕もまだカバーもつけないが置いてそこで書見した。蓮實重彦の『見るレッスン 映画史特別講義』である(うえに書いたタイトルはまちがいである)。上述したようにこの日に読了した。寝転がりながら書見しているうちに携帯をみると着信記録があったので、業者だなとおもってかけかえし、お世話になりますとあいさつして、あちらがなまえをいうのにはいそうですとこたえて、一五分くらいで着くというので了解して、よろしくお願いしますと電話を切った。それからまた本を読んで過ごし、じきに階段をあがる足音が聞こえ、まもなくインターフォンが鳴ったのでまた確認もせずに出て、ガス業者の男性を受け入れた。短髪で、頭頂のほうはちょっとうすくなったひとで、どこかで見たことがある気がするような顔だった。とはいってもマスクつきだが。さいしょにガスのメーターを見るようにいわれたので、いっしょに部屋のそとに出て、通路とちゅうの壁をあけたところにある機械を確認((……)と内見に来たときに鍵が置かれていたばしょである)。「ガス止め」という表示が出ていたのだが、いまからこれをわたしが解除して、そうするとつかいはじめとなる、大地震が起こったときなどは自動的にガスの供給が停まってまたこの表示が出ることがある、そういうときは横のここにある「復帰ボタン」を押してみてください、とのことだった。復帰ボタンを押してみてくださいと男性が言ったときはいくらか説明があったあとで、「~~のときは」「~~したら」という条件節がはなれてしまい、それでこちらは押してみてくださいというのをいまためしに押してみてくださいの意と取って、はいと受けて身をかがめてボタンにゆびを伸ばそうとしたところが、ああいや、そういうことがあったときには、となったので、すみませんと言って互いにちょっと笑みをもらした。それからなかへ。ガスの元栓ははいってすぐ右のキッチンとはいえないような、ほぼ流し台だけのそこにあり、それを開けて業者はチェックをはじめた。なにやら計器をつなげて、水道からみずも出したりして調べていたが、そのうちに給湯器のばしょをもとめはじめ、ちょっとベランダ見せていただきますねと窓にむかったところがカーテンをあけてみえるそれがベランダどころではない、ほとんど柵がついているだけの代物なので、あ、ベランダはほぼないんですね、とあちらは笑い、こちらも笑いつつ、そうなんですよ、これがバルコニーと称されていたんですけど、と受けた。それから給湯器の位置がわからないのでちょっと探してくるとのことで、そとに行った業者はなんどか出入りをした。そのあいだこちらは布団のうえでまたちょっと本を読んだりして過ごす。業者のいないすきに計器もちょっと見てみたが、周囲を黒い枠というか縁にかこまれたなかにアナログ式の、円型のメーター表示があるもので、業者はガスを調べるさいにこの機械をバシバシというほどでなく、ゆび一本か二本くらいでしきりにコツコツたたいていた。それにどういう意味があるのかはわからない。とくにボタンとかがあったわけではない。メーターの表示面をコツコツやっていたもので、振動による針のぶれをみていたのだろうか。そのうちにもどってきて、じゃあ確認をお願いしますというので立ち上がると、給湯器はちょっとわかりづらかったんですけど、さっきのメーターのうえにありました、と言い、もともと置かれてあったコンロの火をつけて、ほんとうはこの火が、この(横の)流しの高さを超えるとまずいんですけど、でももうこれしかないんで、置けないのでね、しょうがないんでこれで気をつけてつかってください、換気扇も(とうえを示し)、(コンセントがまだはいっていなかったので)これからつなぎますよね? つけて、気をつけてつかってください、あとシャワーが出るかどうか確認してみてください、というわけで水場にはいり、シャワーのほうも湯が出ることを確認した。それで終い、業者は機械からプリントして出した結果報告の用紙と、注意事項などを書いたパンフレット的な説明書を渡してきたので受け取り、ありがとうございましたと礼を言って扉を出ていくのを見送った。そのあとはまだちょっと書見してから日記。収納スペースにパソコンを置いて立位で打鍵する。このとき書いたのは四日の記事と、あと五日を少々だろう。七時すぎくらいまでやった。そのあと疲れたのでまた寝転がって書見し、そうして帰途についた。帰ってからの印象はとくだんにない。
あとあれだ、支出の記録をみておもいだしたが、六時だかそのくらいに近間のサンドラッグに行ったのだった。腹が減ったのでなにかパンひとつくらい買って食うそのついでに、入り用なものをいろいろもう買っておこうとおもったのだ。雨降りだった。もってきた傘をさしてぶらぶらみちを行く。ストアで買ったのは歯ブラシや歯磨き粉(とくにこだわりはないのだが、どちらもGUMにしておき、歯ブラシは掃除とかにもつかうかなとおもって三つ買っておいた)、シャンプーにボディソープ(男性用コーナーを見て、MAROとかでもいいかなとおもったのだがなんとなく却下し、ウル・オスというのをむかしいちど買ったことがあってけっこうよかった印象だがこれは二五〇〇円くらいで高いし、あいだをとって知らなかったメーカーの、ちょっと高めのやつにした)、キンチョール、箱入りのマスク、トイレ用洗剤(実家のものはトイレのマジックリンであり、職場のトイレも同様なのだが、どうせだから違うやつにしようとおもって「ルック」の泡洗剤みたいなやつにした)、あと(……)市のゴミルールをまだ調べておらず把握していないのだが指定の袋もあったのでもう買っておけとおもい、燃やせるゴミ用(黄色)と燃やせないゴミ用(濃緑)でそれぞれ小型と中型、計四つを買っておいた。あとトイレの消臭剤(消臭力アクアソープ)に、パンはいざみてみればどれも胃にわるそうにみえるのだが、しかしカスタードのはいったクリームパンひとつ、余計に胃にわるいんではないかとおもうがそれをえらんでしまった。飲み物としてアクエリアスも。たぶんそのくらいだったかな。七四八九円だった。会計をしてもらったビニール袋に品物を入れ、おおきくふくらんだそれを片手に持って傘をさしながらゆるゆるとアパートへ帰還。あとそうだ、この日に業者が来るまえ、というか配達員が来るよりまえだった気がするが、インターフォンの音量を調節したり(もとの設定だとけっこううるさい)、あかるさを調節したりと設定をすませ、記録されていた画像も削除しておいた。なんと部屋のまえに立ったにんげんの画像を自動で撮影記録してくれるというすぐれものである。画像は六個か七個あって、ふたつはことしの一月一日にだれだかがうつっているやつで、これは大家かだれか、たぶんリフォームを終えて確認みたいなことではないか。もう二つくらいはきのう来た佐川のひと、あとひとつやはり郵便配達員みたいなすがたがあり、五日に来たときの(……)と(……)くんの写真もあった。