最初に歩くことの歴史へとわたしを導いたのは核兵器だった。思考や連想のたどる道筋はいつだって思いがけない出来事に満ちている。一九八〇年代、わたしは反核活動家としてネバダ核実験場に対する春のデモに参加していた。ネバダ州南部、米国エネルギー省が管理するロードアイランド州ほどの大きさのこの土地で、一九五一年以来、合衆国は今日までに千を越える核爆弾を炸裂させてきた。ときとして核兵器というものは、政治キャンペーンや出版物やロビー活動があげつらうような、まるでピンと来ない額の予算や、廃棄物処理の費用や被害想定額の数字でしかないように思えてしまう。軍拡競争も反対運動もどちらもお役所的で現実感がなく、現実の身体と現実の場所の破壊に関わるはずの本当の主題をわかりにくくさせていたのかもしれない。しかし、実験場ではそうではなかった。大量破壊兵器が炸裂していたのは、わたしたちがデモのたびに一、二週間のキャンプを張った地点から遠くない荒涼とした風景のなかだった(一九六三年以降は地下実験に移行したが、いずれにせよ放射線が大気中に漏洩することは多く、常に大地は揺るがされていた)。わたしたちがいたのは数字の戯れを突き抜けた場所だった。そこにはアメリカのみすぼらしいカウンター・カルチャーの落とし子だったわたしたちだけではなく、広島・長崎の生存者、仏教の僧侶とフランシスコ会の修道士・修道女、平和主義に転じた退役軍人、反骨の物理学者、核の影響下に生きるカザフスタン、ドイツ、そしてポリネシアの活動家、そしてその土地の主である西ショショニ族がいた。その向こうにあったのは場所、視界、行為、そして感情のリアリティ、あるいは手錠、イバラ、土埃、炎熱、(end17)渇き、被曝リスク、被爆者の証言のリアリティだった。砂漠の陽光の目映さ、オープンスペースの自由、そして何千もの人びとがつくりだす昂揚した光景がそこにはあった。核爆弾は世界史を描くに相応しい道具ではないという信念をわたしたちは共有し、荒々しくも美しい砂漠に向けて、そしてその近傍で着実に準備されてきた破滅に向けて、いわば自らの身体による信念の証立てをしていたのだ。歩くというかたちをとったわたしたちのデモは、フェンスの立入り自由な側では大人しい行進だが、立ち入り禁止区域の側では逮捕に直結する不法侵入とみなされる行為だった。ソローがはじめて表明した市民的不服従、もしくは市民的抵抗というアメリカの伝統的行為にわたしたちは空前の規模で参画していた。
ソローその人は自然を詠う詩人であると同時に社会批評家だった。その市民的不服従、戦争と奴隷制を賄う納税を拒否したことと、その帰結として獄に繋がれて夜を過したことは有名だが、それ自体は受動的で土地を歩き回って風景を読み解いてゆくことと直接重なるわけではない。しかし、ソローは釈放されたその日にベリー摘みの遠足の先頭に立った。核実験場では、キャンプ、行進そして不法侵入という一連のわたしたちの行為のなかに、大自然の詩学と社会批判が融合していて、ソローのベリー摘みの一行がいかに革命的な一団となりえたか、わたしたちには理解できたような気がした。砂漠を進み、家畜の逃亡防止用の溝を越え、立ち入り禁止区域に足を踏み入れる。ただ歩くというその行為が政治的言明に帰結する理路は、わたしに啓示をもたらした。抗議活動の舞台へ移動する道すがら、地元の海岸地域では見られない西部の風景をわたしは発見した。そしてその風景と、わたしをそこへ導いたさまざまな物語を渉猟(end18)するようになった。西部の開拓のみでなく、歩くことや風景へのロマンチックな嗜好、あるいは草の根の抵抗と変革の伝統、そしてさらに古い、霊的な到達点を目指す巡礼と歩行の歴史。実験場での経験に結びつく歴史のすべての重なりを描こうとするうちに、わたしは書き手としての自分の声を発見していった。さまざまな場所とその歴史を書くなかで、わたしは歩くことについて考え、書きはじめたのだった。
(レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、17~19; 「第一章 岬をたどりながら」)
(……)さんのブログ、五月一四日付。したのエピソード、あらゆる方面からみてあまりにもおもしろすぎるというか、すさまじすぎる。要素と情報がもりこまれすぎというか、こんなにいろいろ詰まってるはなしある? という感じで、そんじょそこらの小説などにはまったく太刀打ちできない豊穣さ。
ひさびさにこのとき((……))のお客さんがやって来た。むろん例のごとく長時間にわたる立ち話がはじまるわけで、今日は二時間ほどまた色々と濃密でディープであやしい話を聞かせてもらったのだけれどその皮切りはたしかFさんの交通事故の話題で、前歯もなくしてしまってえらく気落ちしているようだったから幸福と不幸は表裏一体、ピンチとチャンスも表裏一体、前歯がないんだったらたとえば前歯のない顔を活かして営業職に就けばいい、インパクト大だから絶対に取引先に覚えてもらうことができるぞ、このあいだ会ったときそんなふうに励ましてやったのだ、みたいな無茶ななぐさめエピソードからはじまって、だが死んでもおかしくない事故で死ななかったということはこれはやはりまだ死んではないけないという上からのメッセージだったのだろう、と二歩目には早くもスピリチュアルな領域に突入し、それでどういう経緯だったかは忘れてしまったけれど、これはいかなるメディアも報じていない情報なのだがアメリカが内戦の準備をはじめている、アメリカ政府は大量の戦車と猛獣ハント用の銃弾を4億発購入しそれらを各州の警察に配備した、軍隊にではなく警察にだ、アメリカはこれらの兵器を用いてみずから内戦を起こす手筈をすでに整えている、なぜなら戦争は儲かるから、というようなアレがはじまり、ウォール街デモの真相はイルミナティとアノニマスの対立であると断言するのに、あのそれって何情報ですか、とたずねると、ウィキリークスだ、とあって、と、ここまで書いたところで関連ワードで検索をかけてみたところ、見事に情報源らしいウェブサイトがヒットした(→http://www.news-us.jp/article/262279084.html)。この手のウェブサイトにありがちな一目瞭然の胡散臭さっていったい何に由来しているんだろう? フォントサイズ? フォントカラー? 段組み? ぜひともバルトに構造分析していただきたいと思うのだけれど、それはそれとして、お話はイルミナティだのフリーメーソンだのに加えて日月神示の予言とかヒトラーの予言とかどんどんどんどん危ない方向に傾きだし、終末世界を描く古今東西の伝承や宗教や神話に共通するのは世界が崩壊する最後の最後のところで半神半人あるいは半霊半人の存在が地上にあらわれて救いをもたらすという展開である、という総括にとどまらず、どういう筋立てだったか、とにかく『マトリックス』は「気づいているやつ」が制作したに違いない、主人公の名称「ネオ」は日月神示の予言に登場する「根尾」と同音、さらにヒロインの名称「トリニティ」の「トリ」は「トリオ」や「トライアングル」という言葉からもわかるとおり数字の3という意味がある、数字の3といえばやはり日月神示の予言の中で重視される数であるし、それをいえば『マトリックス』はまぎれもない三部作である、と最後のは悪ノリしていまじぶんが勝手に追加したものだけれどとにかくそんな感じで、なんか改めてスピリチュアルやら陰謀論やらヒッピーやらロハスやらって相性良いよなぁと思った。ただこのお客さんの面白いところは、前回も書いたかもしれないけれども、ヒッピーかつスピリチュアルな側面が多分にあるにもかかわらず、日本は徴兵制を取り入れるべきだと考えているらしいというところで、それは幸福の科学が政治的にあそこまでthe保守estだと知ったときの驚きとよく似ていたりするのだけれど大川隆法についてはひとまずこの動画ですべて片付けておくとして(http://www.youtube.com/watch?v=sJm5X9lZ8jQ&feature=related)、なんというか、ラヴ&ピースなカルチャーを愛好しつつも日本は軍隊を持つべき、あるいは核武装すべき、みたいな、そういう組み合わせというのはよくよく考えてたら不自然ではないというか不自然かもしれないけれどありえてしまうんだという事実がじぶんにはとても新鮮に感じられるというのがすごくあって、あれは辛酸なめ子だったか、たしか護憲派の皇族ファンみたいなそのキャラをはじめて知ったときにも目を見開かれる思いがしたのだけれど、じぶんをまず右だの左だの大枠で規定した上でなにか事が起こったときに同類の人間がどう動くのか観察しそれに追従するみたいなありかたを大多数のひとはたぶんとっていて、とっているのだと思うけれど、そうではなくて、あくまでも個別の事例ごとにその都度判断を下す、じぶんの所属する集団や階層の空気を読んだりじぶんという持続する文脈を意識したりすることなく、個別の判断を律儀に下していく、下し続けていく、そういうふうに生きることができればいい、政治的な事柄にたいするじぶんの倫理はもうこれしかないんではないか、と、前々から感じていたこのありようを、まさに体現している、といえばいくらなんでも褒めすぎというか、差別感情と切り離せない陰謀論も戦争まっしぐらな徴兵制もじぶんはクソ喰らえだと思ってやまないわけだしそういうものをたやすく称揚してみせる浅はかな身振りには端的に嫌悪感を覚えるのだけれど、でもま、向かう先は大いに間違っているとはいえこのひとはこのひとなりにその都度の判断をある程度は実践できているんでないか、と、ヒッピーでスピリチュアルな改憲派・徴兵制論者みたいな組み合わせを前にして思う、そういう意味でじぶんの目には魅力的にうつる瞬間もあったりする。ただこのひとが徴兵制を設けたほうがいいかもしれないと主張する理由というのがまた、命を失うすんでのところまでいくぎりぎりの体験を男子たるとも一度は通過すべきである、そうすることで生の力を実感することができる、そのような経験には軍隊生活が打ってつけである、みたいな論法に基づくもので、要するに、グランドキャニオンに子供を置き去りにするネイティヴアメリカンやライオンをひとりで狩りにいかせるマサイの通過儀礼みたいな、そういう面からの徴兵制支持という、政治的意図うんぬんとはまた遠く離れたものだったりするのがアレといえば滅法アレである。
世界を思うがままに操作している特権的な黒幕がいる、という陰謀論を好む主体にありがちな発想というのは、一神教に通じるものがある。と、そんなふうにまとめることで陰謀論の話はいったんやめることにして、じぶんとしてはここから先の話のほうがむしろとても印象に残ったのだけれど、ただこれどこまで固有名詞を明らかにしてしまっていいのかよくわからないので、とある大学、ということにしておくけれど、震災があって二ヶ月ほど経ったときだったか、とある大学が福島から疎開してくる母子を無料で受け入れますみたいなかたちで留学生用の寮を解放したことがあったようで、いや、そもそも事の発端は福島の母子を西へ逃がす活動をしている福島の男性が街頭演説みたいなかたちで援助をもとめた結果、そのとある大学の女生徒が手をあげてそこから話が大学側にも伝わってトントン拍子に、という経緯だったか、なんせまあはっきりとは覚えていないのだけれどとにかくそういうプランがあって、で、そのお客さんも震災以降、原発の勉強会やら内部被曝にかんする講演会だとかに積極的に参加していたらしくてどうにかしなきゃといてもたってもいられないと思っていたその矢先に、とある大学のプランを知って、ボランティアというかチームメンバー募集みたいなのに手をあげたらしい。ただ、そこでいっしょに活動した学生が腐りきっていた、汚れきっていた、日本の政治家以上だ、最悪だった、とえらく語気を荒くするので、いったい何があったんですか、とことの次第をたずねてみると、なんでも最初に手をあげてくれた女子大生、彼女はプロジェクリーダーにあたるわけなのだけれど、その彼女は福島の男性から最初現金で30万円だかをあずかり、それでこっちに避難してきている福島の母子の面倒をひとまず見てほしいと、そういうふうに頼まれたらしいのだけれど、その30万円をあろうことか学生ボランティアたちはじぶんたちの飲み食いの費用にばかばかと費やしてしまったらしく、解放された留学生寮には連日二十人だか三十人だかのボランティア学生、とはいうものの実際はパーティ気分でだべりたいだけの学生どもがたむろし、大半が何をするわけでもなしに飯くって菓子くって酒のむだけみたいな、そんな体たらくだったらしい。で、このままだと30万円が底をついてしまうとプロジェクトリーダーの女の子から電話がかかってきたときにはじめて、今まで黙っていたけれど手伝いひとつせずにただだべる目的できている連中の食事代まで出しているのはなぜか、その費用は彼らにじぶんで出させるべきではないか、とそのひとは軽く叱ったらしいのだけれど、すると、だってうちの学生は目の前の食べ物はみんな食べちゃう習性があるんです、みたいなワケのわからん返事があったとかなんとか。で、そのひとはだいたい仕事上がりにいつもくだんの寮に立ち寄ることにしていたらしいのだけれど、寮の中に入るとだいたいいつも学生たちはこたつに入って寝そべりながらポテチ食って雑談しているだけみたいな、で、子供たちに食事は作ってあげたのかとたずねるといつも決まって誰も作っていない、仕方がないのでじぶんひとりで料理をはじめることになる、むろん誰も手伝いに来ようとはしない、頼みこんだところで十数人いる中からようやくひとりやってくるみたいな、そんな状況がずっと続いたとかいうことで、まあおそらく学生連中から煙たがれていたんだろうな、年上のいかついおっさんが張り切ってるのが疎ましかったんだろうな、それも陰謀論とかスピリチュアルとかそういうあれこれを頻繁に口にされたらそりゃまあ引いてしまうのも無理はないわな、と、学生諸君に同情するところがないわけでもないし、この話にしたところで学生の側からの言い分を聞いていないのであまりどうのこうの断言するわけにはいかないのだけれど、それにしたところでたとえば、新しく清潔な留学生寮を避難してきたひとびとにあてがい学生は古いほうの寮に泊まり込む、という当初の予定を悪びれもせずに逆さまにしたり、避難してきたひとびとを駅までむかえにいって大学まで送りとどける目的でそのお客さんが知人を頼ってわざわざ借りてきた車を、福島から◯○人の母子がこの日に到着しますよとあらかじめ知らされていた日に私用に用いてしかも事故を起こす、さらにその事故についての報告はいっさいなし、詰め寄ると修理代を根切りはじめる、事故当時の車にはあずかっていた子供が同席、運転手は運転免許こそいちおう持っているものの運転経験はほとんどなし、みたいな、もうどこからどうつっこんでいいものやらさっぱりな状況なんかを聞いているとそれはいくらなんでもちょっとひどすぎるだろと思わざるをえないわけで、とにかくこのままではいけない、こいつらに任せておいたらいずれ大きな事故がおきるに違いない、ということで、友人知人の中からボランティアやらNGOやらそのあたりの経験豊富なひとたちにSOSを出して、それでちょいちょい様子を見てもらったりもしたらしい。その友人知人の中のひとりがいちど学生たちのあまりの体たらくにキレて声を荒げた場面があったらしいのだけれど、そのときもプロジェクトリーダーの女性は、ああわたしそういうの無理ですー、とまるで反省するふうでもなしにひょうひょうと場を立ち去ろうとしたりしたというし、被曝した母子用にとわざわざなんとか玄米みたいなのを無料で差し入れたりしてくれた有機栽培の農業をしている友人さんもいたみたいなのだけれど、その差し入れも結局、大半は学生がかっ喰らってしまったらしく、挙げ句の果てには、「なんとか玄米おいしい、そろそろなくなるから新しいのお願いしまーす」みたいな電話までかかってくる始末だったみたいなことも言っていて、こちらのことを思いきり見くびった態度をとったり小生意気な発言ばかり口にするそうした委細諸々、大小問わず山のように降り積もる毎日だったらしい。とにかくキレたら負けだ、ぶん殴ったら終わりだ、そうしたらもう二度とここに出入りできなくなる、そうなってしまえばだれが子供らの世話をするのだ、と、そういう一心で諸々こらえにこらえたというのだけれど、それでもやはり我慢にも限度があるというもので、あのな、おれこういう仕事してるやろ、やから◯◯人とか●●人なんかもよお知ってるわけよ、つながりあんのよ、そんでな、50万でひと殺すやつとかおるわけ、中にはな、頼んだら50万で殺るようなんがおるわけよ、三人一組でローテーション組んで請け負うてんのやけど、おれな、正直このときばかりはな、封筒に詰めたわ50万円、京都銀行の封筒に、それでその封筒を机の引き出しに入れたまんまにしてな、こらえにこらえた、とかなんとかまあサラッとこわい話が混じっていたりもしたのだけれど、最終的には、おれがこの経験で得たものがあるとしたら忍耐力やな、辛抱の力、子供らのためやと思うたらこらえることができた、みたいなことも言っていた。あのな、いちばん最初にな、福島からこっちに避難してきた小学校低学年の女の子、その子おれに最初におうたとき何て言うたと思う? 放射能もってきてごめんなさい、そんなん言うたんやで、ちっちゃい女の子が、おれもうほんまに胸にぐっとささってな、なんとかしたらなあかんて思うた、ほんまに、まあただおれがなんとかしようと踏ん張ったところで、日月神示の予言によると6月に世界が破滅するらしいからどうしようもないんやけどな……。
で、そのプロジェクトは結局テレビやら新聞やらの取材がわんさか受けるくらい注目を浴びることになって、例のプロジェクトリーダーの女の子なんかもまるで英雄みたいに持ち上げられることになったらしいのだけれど、色々と奔走したそのお客さんや彼の友人知人は完全無視みたいな、女の子も取材の中でいっさい触れないみたいな、だいたいそういう扱いだったらしい。これさっきも書いたことであるけれど、一方の側から聞いた話だけを参照にしてもう一方をこいつら屑だわと断罪するのはちょっと浅はかだし、それに小説でいえばこのお客さんというのはある意味「信用できない語り手」みたいなところもないこともないので余計にそうなのだけれど、ただじぶんが唯一、いっさいの抑制や配慮なんかを取っ払って全面的にその怒りと罵詈雑言にもろ手をあげて参入する気になったエピソードがあって、それは子供たちに焼き物を教えるワークショップ中のこと、そのときに講師役をした女生徒が夜、火をつけたかまどの前に座りこんで酒をのみながら「あたしに出来るのはコレだけだ」みたいなことを言っているのを見たときにはさすがに「じゃがいもの皮剥くくらいは出来るやろが!」と怒鳴りつけたくなったという話なのだけれど、これにはマジで胸糞悪い思いがしたというか、自己陶酔型の似非アーティストないしはさっぶい芸術家気取りほどぶち殺したくなるやつはいない、そういう連中の浅はかさというのは心底吐き気を催す、こういう勘違いしたパチモンどもが寄り添い合って形成した集団ほどサブイボの立つものはない、とこれは心底思う。まあ、そんな話はどうでもいい。総括するに、思い込みの激しくやかましい年長の正義感とボランティアを大義名分にした仲良し学生らの合宿気分が最悪のかたちで衝突したとか、実状はだいたいそんなところなのかもしんないなと無責任に思っている。
あと、ほかにも震災のある二ヶ月ほど前から首から上が毎日カッカッカッカしてやまず、これは近いうちに何かあるぞと周囲に言い触らしていたところ、じっさいそのとおりになった、というような話もあったけれど、いい加減長くなってきたのでもういいや。
一〇時半すぎに離床。覚めたのは一〇時前だったがなかなか起きられず。布団のしたで腹やこめかみを揉んだり。あと目を閉じて眼球を上下左右にうごかしたりまわしたりするという目のストレッチもよくやっておいた。さいきんとみに視力の低下とか目の疲れをかんじるので、しばしばやってととのえたほうがよい。起きると水場に行ってきて、もどるときょうはなにを読もうかなと隣室にはいった。おととい蓮實重彦の『見るレッスン』を読み終わり、きのうサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』も読み終えていたので、あたらしい本にうつるタイミングだったのだ。なにを読んだってよいのだけれど、いつも迷う。ロドルフ・ガシェがポール・ド・マンについて書いた『読むことのワイルドカード』というやつがいちおう念頭に浮かんでいたのだけれど、みれば二段組でたいへんそうだし、これを読むならやっぱりド・マンをぜんぶ読んでからのほうがよいかなという気もして、棚のおなじ区画にあったド・マンの著作も見てからしかし棚のまえをはなれ、室内のべつのところに積んである本をみるとマルクス・ガブリエル関係の新書とかがあり、そのへんもいちおう読んでみようかなとはおもいつつも岩波文庫の『福翁自伝』が目に留まって、これを読む気になった。とはいえ、一冊だけでなく二冊並行して読んでいくというやりかたはよいかもしれない。できるような気がしてきた。一冊を小説とか詩などの文学作品、もう一冊をそれいがい、というカテゴリー分けですすめていくとバランスが良い気がするが、しかしそういうことを決めてもどうせ貫徹できないというか、小説とそれいがいって決めたけどでもいま読みたいのはこれとこれで両方とも文学いがいなんだよなあ、みたいなことが起こるに決まっている。ともかく自室のベッドにかえって『福翁自伝』を読み出したが、おもしろい。むかしのはなしというのはそれだけでわりとおもしろい。福沢諭吉は幼少時はけっこう生意気だったり、やんちゃな子どもだったようだ。独立不羈というか、封建制度についても阿呆らしい、いやだいやだとおもって藩を出るしかねえとかんがえていたり、藩主すなわち殿様のなまえが書かれた反故紙を兄がいじっていたところをどたばたとあるいて踏んでしまったときに兄にこっぴどく叱られたというエピソードがあるのだが、そのさいにも、口ではわたしがほんとうに悪かったですとあやまりながらも心中ではぜんぜん謝っていなかったと述べ、殿様のあたまじたいを踏んだわけじゃなし、書かれたなまえを踏んだからってなんなのだとおもったといい、さらにその後、殿様のなまえを踏んで駄目なら神様のなまえを踏んだらもっと悪そうだ、ためしてやろうと札をひそかに踏んだり、それを便所に持っていって、なにをしたのかははっきり書かれていなくてわからないがなにかをしたらしく(小便をかけたとか水にながしたとかか?)、そうしたときにはさすがにちょっとビビったがけっきょくなにも起こらないのでそれみたことかとおもった、という。信心や民俗的宗教心は子どものころからなかったようで、あるとき稲荷様を見てやろうとおもって家の社かなにかをあけてみるとただの石がはいっていたのでじぶんで拾ったべつの石と取り替えておいた、またとなりの家の稲荷も同様にみてみると木の札がはいっていたのでそれもとりのぞいておいたところが、時期になるとみなが知らずに御神酒を捧げたり祭りをやったりしているので、馬鹿め、おれが入れておいた石を崇めているとは、とひとりで笑ってよろこんでいたという。なかなかの悪ガキぶりで、こいつ、と笑ってしまう。いままだ26までしか読んでいないがそういうおもしろいエピソードはけっこうあって、福沢は豊前中津藩の出身で、いまでいう大分県中津市のあたりらしいが、母親もとうぜん同藩の士族橋本浜右衛門なるひとの長女だったというのだけれど、このひとはあまり身分にとらわれずに下層の衆と交際するのも「数寄」(21)だったといい、「出入りの百姓町人は無論、えたでも乞食でも颯々 [さっさ] と近づけて、軽蔑もしなければ忌 [いや] がりもせず、言葉など至極丁寧でした」(21)と書かれている。中津にはチエと呼ばれていたある女乞食がいて、そのひとは乞食だからとうぜん臭かったり汚かったり、シラミがうようよしているようなひどい格好をしていたらしいのだが、福沢の母親はそのチエを呼び寄せて庭に入れ、シラミを取ってやっては、そのように「虱を取らせてくれた褒美に」(22)食事をあたえていたといい、福沢じしんも母の脇で石をもってかまえて、取ったあと台石のうえに乗せられたシラミをつぶしていくという手伝いをしていたらしく、じぶんは汚らしくて汚らしくていやだった、いまおもいだしてもいやだと言っているが、こんなことはなかなかできるものではない。
いま帰宅後の夜一〇時五〇分。(……)さんのブログのつづき。グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』の引用。「火夫」についての、「私が描いたのは人間ではない。私はひとつの出来事を物語ったのです。これは一連の形象です」というコメントとか、そのあとの「人が写真を撮るのは、ものを意味の外に追っ払うためなのです。私の書く物語は、一種肉眼を閉じることです」とか、やっぱりたいしたこと言ってんなあとおもう。この本はじぶんもみすず書房のソフトカバー版で読んだのだけれど(そしてそのあと売ってしまった)、ひとつめの引用は記憶になかった。とうじはピンとこなかったのだろう。この本はヤノーホの証言の真正さがけっこうあやしいと、かれがじぶんで捏造したエピソードもあるのではないかといまではかんがえられているみたいなことが解説に書いてあったとおもうのだけれど(もちろん証言というものはすべてそうであるにしても、この『対話』のカフカはつうじょうの証言本よりもさらに、カフカ当人というよりもヤノーホがつくりだした「カフカ」として読まれるべきだろう、みたいな趣旨だった気がする)、しかしこの本の「カフカ」はたしかにいかにもカフカっぽいことをいくつも言っていた。したのふたつめなんてかなりすばらしいとおもう。「奇蹟を逃れて自己限定に走る」とか、「生活とは、とりわけものとともにあること」とか。
別の機会に――私がドクトル・カフカに青少年犯罪のあるケースを話したとき、話題はふたたび小篇『火夫』のことに及んだ。
私は、十六歳のカルル・ロスマンの姿には、なにかモデルがあったものかどうかをたずねた。
フランツ・カフカは言った。「モデルは多いといえば多かったし、ないといえば、まったくありませんでした。しかし、もうすべては古い話ですからね」
「若いロスマンの姿も、火夫の姿も、じつに生きいきとしています」と私は言った。
カフカの顔付きは曇った。
「それは副産物にすぎません。私が描いたのは人間ではない。私はひとつの出来事を物語ったのです。これは一連の形象です。それだけです」
「でも、やはりモデルがなければなりません。形象は見ることが前提です」
カフカは微笑んだ。
「人が写真を撮るのは、ものを意味の外に追っ払うためなのです。私の書く物語は、一種肉眼を閉じることです」*
「予期しない訪問を邪魔だと感じるのは、どう見ても弱さのしるしです。予期されぬものを怖れて逃げることです。いわゆる私生活の枠に閉じこもるのは、世界を統御する力に欠けているからです。奇蹟を逃れて自己限定に走る――これは退却です。生活とは、とりわけものとともにあること、つまりひとつの対話といっていい。これを避けてはいけない。あなたはいつでもお好きなときに来ていいのです」
この日のこともあと勤務時のことだけ書いておけばいいかな。(……)
(……)
(……)
(……)
(……)九時直前のもので帰還。駅で待つあいだや電車内では『福翁自伝』を読んだ。マスクをつけていると音読というか、声は出さないが無声音で口をうごかして読むことができるのでよい。声を実体化せずとも、口をうごかしたほうがやはりなにかあたまが冴えたり、やる気が出る感じがある。ここからして、音読の効用というのは声を出すことではなくて口をうごかすことから来ているのではないかとおもっているのだが、そのあたりをだれか証明してほしい。音読をすると外部化されたじぶんの声をじぶんで聞くからウェルニッケ野がはたらいてよりあたまが刺激されどうのこうのみたいな説があるのだけれど、七日の日の帰路に電車内で読んでいるときとかも、無声音だから電車の走行音でじぶんの声じたいは聞こえないわけである。それにもかかわらずやはりあたまがよくはたらくような感じがあったので、口腔内とかその周辺の筋肉をうごかすということになにかある気がするのだが。