2022/6/16, Thu.

 こうした新世代の巡礼すべてがおりなす歩行者の大河と、そのさまざまな水源を思いえがくとき、その源流にいるのは、半世紀を遡るころのひとりの女性だ。それは三月の雪解け水のようにささやかな一滴だ。一九五三年一月一日、ピース・ピルグリム〔「平和の巡礼者」〕とだけ知られる女性が、「人類が平和の道を学ぶ日まで、さすらい歩きつづける」ことを誓って旅に出た。彼女が自身の使命を知ったのはそのずっと以前のことだった。一晩ひとりで森のなかを歩いていたときに、彼女の言葉によれば「人生を神と奉仕に捧げるという、一点の迷いもない願い」に打たれ、アパラチアン・トレイルの二〇〇〇マイルを歩き通して使命に応える準備をした。名前を捨てて巡礼に旅立つ以前の彼女は農場育ちで、平和活動に熱心だった。率直で、生活も内面もシンプルに生きるという自分のモットーがほかの人にも役立つはずと信じる、すぐれてアメリカ的な人物だった。歩きつづけた年月の道中と出会いを綴った手記は、きらめくような感嘆符に満ち、屈折や独断や疑念とは無縁だ。
 彼女の巡礼の第一歩は、パサデナローズボウル・パレードに参加することだった。陳腐なお祭りが遠大な旅路につながる、というのはどこか『オズの魔法使い』を思わせる。農場育ちでやる気にあふれ、踊るマンチキンとともに黄色いレンガ道に踏み出すドロシー。ピース・ピルグリムは二十八年間あらゆる天候の下を歩きつづけ、アメリカとカナダの全州、さらにメキ(end95)シコへ足を運んだ。若いとはいえない年齢で出発した彼女は、ネイビーブルーのパンツとシャツにテニスシューズという出で立ちで、胸に「平和の巡礼者」と染めたチュニックを着た。背中のフレーズは「平和のために徒歩で大陸横断中」から「世界の軍縮のための徒歩一〇〇〇〇マイル」、そして「平和のために歩く二五〇〇〇マイル」へと少しずつ変わった。濃い青という色を選んだことを「この色は汚れが目立たず、安らぎと精神性を感じさせる色なのです」と手記に書いている。そこにも彼女の曇りのない敬虔さが顕われている。人並みはずれた頑健さとスタミナは心のもちようから、と彼女自身はいうが、むしろそれは逆なのではと思わずにいられない。彼女はいつもその飾らない服装で、吹雪も雨も、砂嵐も熱波もくぐり抜けてきた。墓地やグランドセントラル駅の床で眠るとき、あるいは、いつものように知りあったばかりの友人の家のソファに横になるときもそれは変わらなかった。
 文章のほとんどは特別な主張を語るものではない。しかし国内外の政治についての立場は明確で、朝鮮戦争・冷戦・軍備競争を含めてひろく戦争に異議を唱えている。パサデナで歩きはじめた当時は朝鮮戦争マッカーシー赤狩りが続き、核戦争と共産主義への恐怖に駆られて、多くの人びとが服従と抑圧の下に身を縮めた時代だった。アメリカの歴史のなかでもっとも寒々しく、ただ平和を主張するということにさえ、英雄的な勇気が必要だった時代。そんな一九五三年の年始めにピース・ピルグリムが着のみ着のまま、ポケットに「櫛と折りたたみの歯ブラシとボールペン、それに自分のメッセージと連絡先のコピー」を入れただけで出立したのは驚くべきことだった。そして好況下、資本主義が自由の霊宝の如く奉られてゆく時代にあっ(end96)て、彼女は貨幣経済から身を引いた。それ以後、彼女は一銭たりともお金を持たず、使ってもいない。モノを持たないということを、彼女はこう語っている。「わたしがどんなに自由かわかるかしら! 旅に出ようと思えば、ただ立ち上がって歩き出すだけ。わたしをしばるものは何もないの」。おおまかにはキリスト教が祖型となっているものの、その巡礼の源には一九五〇年代の文化的・精神的危機があるように思える。それはジョン・ケージやゲイリー・スナイダーをはじめ、多くの芸術家や詩人を禅や仏教などの非西洋的な伝統の探求へ向かわせ、キング牧師ガンジーの非暴力主義と真理への意志 [サティヤーグラハ] を学ぶためにインドへ向かわせたものだ。
 メインストリームを外れた人びとはその空間からも退くことが多いが、ピース・ピルグリムはメインストリームから撤退しつつ、むしろ存在感を強めていった。彼女流の信念と国家的なイデオロギーの仲立ちとして、まさにそこにいることが求められるようになったのだ。いわば、彼女は巡礼者であると同時に伝道者でもあった。平和のための二五〇〇〇マイルの歩みは、達成に九年間を要した。その後も平和のための歩みを続けたが、もう距離を数えることはやめている。「宿を得られるまで歩く、食べ物を授かるまで食べない」と書いている。「わたしは頼み込むということをしません。お願いしなくとも与えてくださるのです。人びとのなんと優しいことでしょう! ……道中でどれくらいの人が声をかけてくださるかによりますがわたしは一日におよそ二五マイル歩きます。約束のため、泊まるところがなかったために一日で五〇マイル歩いたこともあります。凍えるような夜には体を温めるために幾晩も歩き通しました。渡り鳥のように、夏には北へ、冬には南に向かうのです」。活動が広く知られるようになったあと(end97)では講演に呼ばれることがふえ、会場まで自動車の送迎を受けることもときどきあった。そして一九八一年七月、皮肉なことに車の衝突事故によって彼女は世を去った。
 巡礼者と同じく、彼女もまたターナー夫妻が述べた境界 [リミナル] 状態へ参入していた。日常のアイデンティティとそれを支えていたモノや環境を捨て、匿名的で虚飾がなく、目的をはっきりと見据えた状態。トルストイがマリヤの憧れとした書いたもの。彼女がなし遂げた徒歩の旅は、その信念の強さ以外にもさまざまなことを教えている。まず、彼女がそれまでの自分の名前と生活を捨てて癒しの旅に出なければならないほど、世界は深刻な問題をかかえていたということ。さらに彼女が日常性から離れ、お金や建物や場所にまもられることなく旅に進んでゆけたということは、根底的な変革と信頼がもっと大きなスケールでもありうるという希望を示唆していた。そして第三に彼女が担っていたもの。信者やスケープゴートとして追放されたヘブライ人の身代わりとして罪を引き受けたキリストと同じように、共同体の罪を自らのものとして、彼女は世界の状況に対して個人の責任で応えようとした。その生き様は単なる模範ではなく、証しと償いだった。しかし、なにより異例なのは、巡礼という宗教的な形式に政治的なメッセージを託した点にあった。巡礼は伝統的に、自分や愛する者の病と癒しに関わるものだったが、彼女は世界を蝕む病として、戦争と暴力と憎悪に向きあおうとした。その動機になった政治的なもの、そして神威に頼るのではなく同胞たる人びとへの働きかけによって変革しようとしたこと。これらの点で、彼女は現代世界に数多ある政治的巡礼の先例になった。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、95~98; 「第四章 恩寵への上り坂――巡礼について」)


 さくばんはパニック障害の症状でなかなか消耗したのでもうはやめに寝ようとおもって零時半に消灯した。今朝はなんどかさめつつも最終的な起床は一一時ごろ。ここのところねむりがみじかめだったが、ひさしぶりにたっぷりと布団に滞在できた。むかいの保育園ではきょうも子どもたちがわいわい騒がしく活動しており、また市議選の選挙カーもおりおりやってきて拡声された音声をあたりにわたらせており、けっこううるさいはうるさいのだが、意に介さず、ときおり意識をとりもどしながらもねむりつづけた。寝床で深呼吸。離床するとみずを飲んで顔を洗い、ちょっと背伸びなどしてからまた床にもどって書見。ピエール・アド/小黒和子訳『生き方としての哲学』。古代の哲学者たちは哲学的な言述をするだけではなくて、内面性の形式や生き方の選択として哲学を実践しようとしていた、したがってかれらの記述の関心は体系的に矛盾や瑕疵のない理論をつくりあげようとすることよりも、弟子や読者を教育してその生き方を変えさせることにあり、いわば情報を与える(アンフォルメ)ことではなくて育てる(フォルメ)ことにあったのだ、と。古代の哲学者たちの記述がときに矛盾していたり、一貫性がないように見えたり、書き方がつたないようにおもえたりする理由はそこにあるという。哲学において言述=理論と実践の対立はつねに存在してきたが、古代以後もたとえばカントなどは後者に優位性をあたえており、古代世界がキリスト教世界に置き換わってからというもの一見しては前者が優位になったようにみえるものの、実践に目をむけ重きを置くかんがえの命脈は絶えずたもたれていた。とはいえ哲学という営みには語ること、言述を構築することじたいの魅力があり、それだけで満足してしまうという危険性がつねにあることに注意をはたらかせるべきだろうと。だいたいそのようなはなし。古代哲学の学者だからとうぜんなのだがいかにも古典的で、ほとんど反動的と言ってもよいくらいの言い分かもしれず、ほんにんもわたしの単純さは一部のひとから冷笑を受けたものですが、などともらしているけれど、こちらはわりと興味がある。なんだかんだ言ってじぶんは古代ギリシア的な「善い生き方」のテーマに関心がある。
 ときおり起き上がってちょっとストレッチなどしながら零時すぎまで読んだ。そのあと瞑想。保育園はたぶん零時ちょうどくらいから昼寝の時間にはいるのだとおもわれ、このあたりの時刻になると子どもたちの声はまったく聞こえずしずまって、ただ周辺を車が走りすぎていくおととか、選挙カーの音声とかがさしはさまるのみなのだけれど、この時間は保育士のひとたちもようやくほっと一息、というところだろうなとおもった。二〇分ほどで短く切り、それからきのう組み立てた椅子に座ってチョコチップスティックパンを食った。そうしてきのうの記事にnoteのコメントのことを書いたあと、きょうのことをここまで記述。椅子のうえであぐらを組み、その脚のうえもしくはなかにパソコンを置くかたちで打鍵している。体調はまあ悪くはないが、腹がしくしくするような感じがやはりないでもなく、電車に乗ればどうせまた緊張して吐きそうになるのだろうというのは容易に見て取れる。したがってきょうは出かけずに(あとで飯などを買いに行ったりはしたいが)自宅にとどまり、とりあえずきのうとちゅうになった机を完成させたい。あととにかく保険証を手に入れないと精神科にも行きづらいわけだから、入手に向けてうごきたいが、そのためにはまず転出届を出して証明書をゲットしなければならず、(……)の転出届のPDFをコンビニで印刷しなければならない。しかしこれを郵送で出したとして、証明書がもどってくるにもたしょう時間がかかるのだろうから、来週の勤務には間に合わんのではないかとおもうが。あと溜まっている洗濯物も洗いたいのだけれど、天気はいまのところあいにく真っ白な曇天で、気温はそこそこあるし暗くはないからたしょうは乾きそうだけれど、積極的に干したくなる空模様ではない。Yahooのページで予報をみるといちおうきょうは曇り時々晴れらしいのだが。あと、さくばんは体調を優先してシャワーを浴びずに寝てしまったので、これから湯浴みをしたい。


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 (……)さんのブログ、五月一七日分から梶井基次郎。やはりすごくて、どうしたって勝てんな、という感じ。

 私は好んで闇のなかへ出かけた。溪ぎわの大きな椎の木の下に立って遠い街道の孤独の電燈を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を跳めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは溪の闇へ向かって一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚の木があったのである。石が葉を分けて戞々(かつかつ)と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚の匂いが立ち騰(のぼ)って来た。
 こうしたことは療養地の身を噛むような孤独と切り離せるものではない。あるときは岬の港町へゆく自動車に乗って、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。深い溪谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜が更けて来るにしたがって黒い山々の尾根が古い地球の骨のように見えて来た。
 (梶井基次郎「闇の絵巻」)


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 一首: 「この夜がまたあることのいとしさに掟よ惑え掟よ惑え」


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 きょうのことを記述したあとはシャワーを浴びた。天気はあいかわらず白い曇りでやはり洗濯をする気にならないが、いまつかったバスタオルとフェイスタオルくらいは干しておいて、夜にシャワーを浴びるときにまたつかうかとおもった。あした晴れるとよいのだが。あしたは洗濯機と冷蔵庫が届く。湯を浴びたあとは雑巾で床や寝床のうえを掃除したり。とくにシーツのうえにこまかなゴミがけっこう散っているのが気になっていたので、乾いた雑巾でそれを払うように床のほうに追いやって、もういちまいの雑巾を濡らして拭き取り、流しでゆすいではまた拭き取るということを何回か。ハンドクリーナーは買わずに雑巾でがんばろうかなともおもっていたけれど、こうしてやってみると腰が疲れるし、手間がかかってやはり大変だ。買ったほうがよいかもしれない。それかむかしながらの箒と塵取りでがんばるかだな。そのあと机の組み立てにはいった。きのう足と天板の支えになる縦棒を左右逆につけてしまったので、その向きを変えるところから。せっかく締めたネジをまたはずさなければならない。組み立ての詳細はめんどうくさいのではぶくが、ところによっては重いパーツをもちあげて支えなければならないし、しゃがんだり膝立ちになったりしながらネジを回さなければならないし、かなり疲れた。とくに腰が疲れて、四時ごろに天板を乗せるところまで行ったのだけれど、腰が限界だったので天板の段ボール箱開封するまえに寝床で休んだ。座布団を背と床のあいだにはさんで腰を押しつけながら左右にこすってほぐす。Chromebookで(……)さんのブログを読んだ。このアパートに来るまでなぜか気づかず、実家ではベッドにいるときも一回りおおきめのもうひとつのパソコンのほうでウェブをみたりブログを読んだりしていたのだけれど、Chromebookのほうがちいさくて軽いのだからそちらのほうが寝転がりながらつかいやすい。Amazon Music専用というあたまがあってそれに固まっていたようだ。また、わたしは気づいてしまったのだが、Chromebookは画面を露出させるかたちで逆方向にたためばタブレットにもなる。だから電子書籍を読むのにKindleを導入しようかなとおもっていたけれど、わざわざ買う必要はなく、これでPDFとか電子書籍とか読めばよいのだ。じっさいPDFファイルで送られてきた(……)くんの小説はそうして読んでいる。そうしてちょっと休んでから起き上がり、段ボール箱をはさみであけて天板をとりだし(かなり重い)、組み立ててあった下部のうえに乗せ、したから六か所をネジで留めた。ネジを留めるための道具はレンチが同封されているわけである。椅子のほうと机のほうとではかたちがすこし違い、机のほうにはいっていたレンチのほうが細く長い。そうしてようやく完成。かなり疲れた。しかし完成したあとにまだやらなければならないのがゴミのかたづけで、段ボールをどこに置いておくかなというのに困ったが、机のほうは薄いのでひとまず南側の壁際(スーツなどがかかっている壁)、収納スペースのした、本がたくさん置いてあるその端にさしこんでおいた。いらないビニール袋もたたんでプラスチックゴミの袋へ。ゴミ捨てルールのファイルをみてみると発泡スチロールは「製品プラスチック」というくくりで、「容器包装プラスチック」とはちがうので、わけなければならない。ビニール袋のなかにひとつおおきめのものがあったので、プラスチックゴミは四五リットルまでの透明もしくは半透明の袋に入れて出せばよいということだが、これに入れればよいのではないかとおもった。それで机の段ボールにはいっていたやつや、椅子の段ボール箱のなかに入れておいた発泡スチロールをその袋へ。さいしょは二つに割るくらいで入れていたのだけれど、そのうちにこれもっとこまかくすればいいじゃんと気づき、細長いやつをまるでサラダにつかう野菜の葉っぱをちぎるようにして細分化し、おおきなやつも、こちらは厚いのでもっとなにか剝ぎ取るような、肉を剝ぐような感じでこまかくしていった。細分化は細長いかたちのビニール袋の口からちょっとしたに手を入れてやるのだが、ゆびを発泡スチロールにつっこんでガシガシ砕いているとマシュマロの微細片じみたその破片がまるで泡のように手指のあちこちにまとわりつき、静電気があるからだろうか払ってもぜんぜん落ちないので、しかたなく流しのほうに行ってそこで払うのだけれど、そういう過程で床のうえにパラパラこぼれおちるのは避けられない。作業が終わったあとにそれもまた雑巾で掃除しなければならなかった。発泡スチロールはややおおきめのものがひとつだけのこってしまった。袋はテープがないのでひとまず口を洗濯バサミで閉じて、やはり収納スペースのした、さきほどさしこんだ段ボールのまえに置いておいた。巨大な綿あめのように見えなくもない。あるいは溶けない雪が詰めこまれた筒状の袋。発泡スチロールがかたづくといわゆるプチプチ、袋型の緩衝材を始末。これはたたんで袋に入れるだけだが、この袋というのは椅子の段ボール箱のなかにまたおおきくて表面にいろいろ文字が書かれてはあるけれど半透明のやつがあったので、これを容器包装プラスチックのゴミ袋につかえばよいではないかとおもってそうしたのだった。プチプチのたぐいはその区分でよいらしかったので。さらにこのあいだの火曜日に出せなかったプラスチックゴミと、ここ二、三日で溜まったそれを両方ともその大袋のなかに入れておき、ひとまず流しのしたの収納にかくしておいた。来週の火曜日に出さなければならない。おおきいし、大袋のなかにべつの袋がふたつはいっているし、それはルール的にOKなのかわからず、持っていってもらえるかちょっと不安だが。椅子の段ボール箱のなかにはいっていたこまかな段ボールは紐がなければ始末しづらいなというわけでそのままにしておくことに決めたが、ここで困るのがこの解体できない段ボール箱の置き場で、現時点では洗濯機台の横に置いてあったわけである。しかしそこは冷蔵庫を置く予定なので、あした届くまでにどかしておかなければならない。となればとりあえず、より窓側にずらして布団と北壁のあいだに入れておくほかないが、そのためには布団を南側にもうすこしずらさなければならない。いまのままだと段ボール箱をさしいれられるほどのスペースがないのだ。そして南側の壁際にはアンプがあるから、それを机のうえに移し、布団の脇の座布団のうえに置いてあったChromebookとか本とかも机上にうつして、机のうえをセッティングすることにした。そうしてできあがった配置はまず椅子の正面にパソコンがあり、左手には本(いま読んでいる『生き方としての哲学』)、右側にはChromebookとか書き抜きノートとかMobile Wi-Fiとかを置き、そして右奥の端にアンプを横向きに置いた。そうしておととい買った七個だか挿せる電源タップをそのまえに、やはり横向きに。この電源タップはタップぶぶんから出るケーブルの付け根を九〇度曲げることができるという型なので、机の端からしたに落とす感じで九〇度曲げ、枕元、南壁の右端(つまり西南の角)にあるコンセントにつなげている。アンプのケーブルもそちらにつなげ、そのほかアンプのうえに置いたスタンドライトとかパソコンの電源ケーブルとかはすぐそばのタップのほうに挿している。ケーブル類がやや煩雑ではあるがまあよい。アンプのうえにはスタンドライトのほかにもうひとつ、ティッシュも置いてある。あと椅子のしたには床面保護用の透明なビニールシートを引いており、それは長方形だが正面にむかって、つまり縦向きにながいかたちで敷いており、椅子にわりあてられたそのスペースはそう広くはないが、まあそんなにうしろに下がる気もないしじゅうぶんである。机のしたには、そのビニールシートのうえに重ねるかたちで、すこし気の抜けたような、ひかえめな緑色のコットンラグを敷いている。これも長方形だが横向きで、サイズは100×140だったはずだから横幅が120の机の範囲を容易にカバーしており、収納スペースしたの本のきわから布団のきわまでをちょうど覆うようなかたちになっている。机を正面、南壁のきわに寄せてしまうとそこにかかっているスーツ類が取りづらかったり、収納スペースにアクセスしづらかったりするので、壁からすこしはなしてかろうじて通れるくらいの空間をあけている。そういうわけで机と椅子がセッティングされ、布団も南側にずらして足もとのほうに生まれたスペースを埋めるようにして段ボール箱を置いておいた。そのさきの角、すなわち東南側の端にはアコギが壁にもたれている。セッティングが済み、床に落ちているこまかいゴミたちも雑巾で拭き取り終えると、LINEで(……)くんが机椅子を組み立てたら写真を撮っておくってくれと言っていたので、スマートフォンで部屋のようすを四枚撮影し、メールに添付してgmailに送り、そこからダウンロードしてLINEにあげるという迂遠な方法でお披露目した。「刮目せよ! これがわたしの部屋である」と打っておいた。好評。その時点で六時くらいだったはず。干しておいたバスタオルにフェイスタオルに雑巾を取りこんでカーテンレールにかけておき、これで音楽も聞きやすくなったしというわけで、おくればせながら"(……)"の最新音源を聞いた。音像がきれいではっきりしているようにおもったのでその旨LINEにつたえておき、それからきょうのことをここまで記述して七時二三分。なにしろ机と椅子ができたので打鍵がしやすい。きちんとした椅子なので座りごこちもよく、尻や腰をやわらかくもしっかり受け止めてくれる感じがあり、そのうえであぐらすらできる。そろそろ飯を買いに行きたい。あした冷蔵庫が来るので、そうすればようやく野菜が保存できる。


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 飯を買いに行きたいと言いながらも、FISHMANSの"バックビートに乗っかって"をきいた。椅子で音楽がきけるようになって快適である。そのあとちょっとストレッチなどしてから、数日前に郵便受けにはいっていたチラシ、(……)という市議会議員の市政レポートを読んでみた。NHK党で、NHK党というのはれいの立花孝志がつくったNHKをぶっ壊したがっている党で、このひとのプロフィールにも立花孝志にスカウトされたとあるからその時点でうーんといいたいところではあるのだけれど、ところがチラシにかかれてある内容は自殺防止の取り組みについてとか、「デートDV」についての若者の啓発とか、ゴミ屋敷問題についてとかで、ふつうに大事なこと、まともなことを言っており、「公共施設のNHK衛星放送を契約解除!」というのはぜんたいのなかではむしろちいさな扱いになっている。


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 ほぼ八時ちょうどに部屋を出て買い出しへ。かっこうは肌着の黒シャツのうえにグレンチェックのブルゾンを羽織り、したは真っ黒なズボンというわけで、さいきんはいつもこれがちょっとそとに出るときの服装になっている。腕時計を左の手首にはめ、リュックサックを背負い、財布と携帯はブルゾンの左右に入れて、マスクをつけてみずのペットボトルを持って部屋を出ようと扉のまえに立つと、ちょっとだけ緊張を感じた。じっさいに鍵をあけて扉をくぐってみてもからだがすこし緊張を帯びているのがわかる。たんにそとに出るだけでもそうなのだ。やはりここさいきんの体験からして公共空間にたいする無意識のトラウマのようなものがはたらいているらしい。階段をおりて建物のそとに出て、脇の自販機のゴミ箱にみずのペットボトルを捨てる。地面に一個ボトルが落ちていたのでそれもついでに入れておいた。そうしていったん右に折れつつもあたりを見回し、やっぱり裏から行くかとおもって方向を逆に変え、ライトをともした自転車がとおりすぎていくのとすれ違って公園のほうへ。まわりの家から料理のにおいがもれてみちにただよっている。公園の脇からみぎに折れておもてへむかうと、細道のとちゅう、みちのど真ん中にちいさなバンがとまっており、夜のなかでは黒いかたまりとして見えたそれはちかづいてみると郵便局の車だが、赤みはあきらかならず黒々と街灯のひかりをはねかえしている。とおりをわたってふたたび細い道にはいって裏を行く。そうおおきなものではないが緊張はつづいており、胃のあたりがちょっとうごめいてちくちく痛むのにもそれがはっきりと感じられる。またひととすれ違うさいに、そのひとに暴力をふるうような発想が勝手に湧くというか、そういうイメージがこちらの意思にかかわりなく浮かんだりするのだが、これは二〇一八年初にもあった現象で、当時はそれが自生思考のようにおもわれてじぶんを見失い、統合失調症になりかけているのではないかと恐れたものだ。じぶんは無意識のうちにひとを傷つけたがっているのだろうかといううたがいも生じたものだが、今回かんがえてみるに、これはやはり不安や緊張のなせるわざで、脳だか無意識だかがトラウマ的に外界や公共空間に不安を感じるようになっているから、それをあたえてくる他者が意識下で敵として認定されているのではないかと推測した。二〇一八年にはおのれの欲望をうたがったけれど、今回すくなくともいまのところは自己は確固としており、暴力にたいする欲望をいだいているのではなくて、不安からくる防衛反応としてそういうイメージが生じているように感じられる。一八年当時のようにいちいちそれに動揺するということもない。
 家々のうえをひろがって埋め、とおくマンションの灯を抱いている空はまったくの灰色、曇りの夜で味も情もない。通りにあたって(いまGoogle Mapで調べたところ、この通りはとくに街道などではなく、「(……)通り」というなまえらしい)横断歩道をわたりながら左右を見通し、道路のさきで信号が青緑を点じているのを目にする。スーパー(……)に入店。足でペダルを踏んでアルコール液を手に。籠を持って店内をまわった。駅につうじる細道をあるいているときに聞こえる音楽はやはりこのスーパーからで、店内でソウルなんて聞いたおぼえないぞとおもっていたところがきょうはいるとたしかにソウルフルな音楽がかかっていた。こんなBGMをながすスーパーなんてめずらしいのではないか? 野菜とか豆腐とか刺し身のあたりとかを冷やかしつつ、まずさいしょにガムテープとか段ボールをまとめるための紐をもとめたが、そのまえにトイレットペーパーの区画に行き当たり、一袋買っておくかと八個入りのものを選んだ。それから荷造り紐とクラフトテープをゲット。しかしいま気づいたが、段ボールを切る用のカッターを買うのをわすれた。ついでにGATSBYのワックスもひとつ買っておき(髪のセットなどあまりしないとおもうが)、それからカップヌードルも、(……)が送ってくれた電気ケトルがあるのだから、(まだ使用の準備をしていないけれど)それをつかえばカップラーメンが食えるはずだと買っておくことに。日清のシーフードと味噌と、どん兵衛の鴨出汁蕎麦。そうして今夜および翌朝の飯をもとめる。おにぎりを照焼きチキンとツナマヨネーズと鮭の三つえらび、照焼きチキンマヨネーズの手巻きも一個籠に入れた。醤油の小袋も無料らしかったのでもらっておく。それからけっこう量がありそうなサラダボックス(細切りのキャベツとかニンジンとかや、葉物がたしょう)を食うことにして、ドレッシングはシーザーサラダを小袋でもらい(二一円)、島原手延素麺のパックがあって麺が食いたくなったのできょうはこれにするかと選択した。その他クリームのはいったコロネを取って、それで会計へ。わりと威勢のよい、中年から初老くらいの、髪がぜんたいに灰色になった男性店員がレジをつとめてくれた。見た目はさほど威勢のよさそうなにんげんには見えないのだが、ありがとうございま~す! というときのいいかたがそこそこ威勢がよくて、飯屋とか祭りの屋台とかをちょっとおもわせないでもない。箸はだいじょうぶですか? と聞きつつ、品物を読みこむ機械のこちら側にたくさん差してある割り箸を示してみせたので、じゃあお願いしますと言いつつじぶんで手にとって一個もらっておいた。半セルフレジなのでまえのひとがはなれたのを見計らって会計機械のまえに移動し、店員が値段をいいながら籠をおくってくるのに礼を言って支払いをする。二七〇八円で、三〇〇〇円を入れたが八円はうまい具合に見つからなかったのでそれで会計。二九二円のお釣り。しかしこんな調子で既製品をバカスカ買っていてはとてもでないがやっていけないので、さっさと自炊ができる環境をととのえなければならない。背後の台にうつって食品でないものやカップラーメンはリュックサックに、食べものは持ってきたビニール袋に入れ、トイレットペーパーはそのまま持つことに。退店。
 横断歩道をわたって来たみちとおなじく裏路地にはいると、しぜんと歩調がゆったりとなって、息を吐きながら一歩を軽く踏むようになった。空は灰色の曇天、南のとおくにマンションの灯が暖色でともっている。ゆっくりあるけば脇の家の縁にいくつかあしらわれている、大量の葉がぎゅっと詰まったような円筒形の植木に目が行き、すぐ目のまえだから眼鏡がなくとも葉の一枚一枚のわかれが、とはいえ夜だから鮮やか歴然というほどでなく翳をあいまにはさんでつながりながらよく目に映り、緑色は闇をはらんで置き換えられて、黒っぽく充実している。とちゅうの小公園に白髪のひとかげがあり、なにやらしゃがみこんで、野良猫に餌でもあげているようなすがたと見えたが、動物の気配もなく、なにをやっているのかわからなかった。緊張はあいかわらず薄くつづいていたが、夜道をゆっくりと、ひとりで歩いていることの自由がそれにまさっていた。大気はわずかにぬるいくらいで体温になじみ、風というほどのものはないがときおり動きが肌にふれ、これがやはり自由なのだ、夜にひとりで、ゆっくりと歩くこと、夜道、歩行、孤独、風、それが自由の条件なのだとおもった。帰り道であることも寄与するのだろう。外出の目的が果たされなくなったあとだからだ。FISHMANSの"WALKING IN THE RHYTHM"があたまのなかにながれだすのはたとえばそういうときである。ひだりてにはビニール袋を提げ、みぎてにはトイレットペーパーを持っており、ペーパーの袋はビニールのあいだにひらいた持ち手の穴がちいさくて指にちかいからそうしようとしなくとも歩みにつれてちょっと前後にゆれ、リズムが生まれ、まるですこし踊っているような気配が寄ってくる。植物が動物のように、犬猫のように親しげな夜だった。垣根、植木、空、街灯、大気のゆらぎ、まわりの家からもれる食事のにおい、窓を染める明かり、おもてを行く車のひびき、薔薇の香り、停まっている車の後部ガラスにうつりこむ電灯の光点、家々、影、足音、ものたちのすべてが自由の符牒だった。催眠剤は必要ない。ほのかな野生の酩酊がそこにあるのだ。そうしてアパートに着く。トイレットペーパーを地面に置くと、自販機でみずと、「カルピス THE RICH」の二八〇ミリリットルのボトルを買った。財布をとりだすためにおろしたリュックサックを片方だけで背負い直し、両手をまた埋めて階段をのぼり、部屋にもどる。
 服を脱いでジャージにかわり、テープや紐は段ボール箱のうえに置いておき、ギャツビーのワックスは洗面所へ、そうして飯を食う。机ができたので食いやすい。カルピスを飲み、サラダをまず食べる。きのうのきょうで嘔吐恐怖がまったくないわけではないので、千切りになったキャベツのさきが喉にあたるのがちょっと食いづらかったが、問題はない。素麺も食い、おにぎりや手巻きも食った。あとチョコチップスティックが二本のこっていたので、平らげてしまおうとおもったのだが、一本だけで満足したので、さいごの一本はあした食べればいいかとのこしておいた。食っているあいだはLINEをみたりウェブをみたり。食後からここまで書いて一〇時半くらい。とちゅうでnoteをのぞいたついでに三つある詩をぜんぶ読み返してみたが、時間を置いて読んでみるとどれもそこそこ良いような気がした。でもやはりいちばん良いのは一番かな。みじかいけれど無駄がなくてうまく雰囲気を出しながらうたえているような気がする。これだけ再掲しておく。

 真っ白な雨だ

 雨粒は
 無調の静穏を奏でる

 その聖なる永遠の反復が
 人
 であることの浮薄を隠してくれるなら

 魂よ 君は歌い
 そして踊るがいい
 歓待の風が君を満たしながら横切り
 境界を突き抜けていくその瞬間

 名はほどけ散ってかたちを失い 君は一つの比喩となるだろう

 (2020/4/19, Sun.)


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 そののちにたいしたことはなく、だいたいまた本を読んだりウェブをみたり。三時四〇分まで夜更かしして消灯。