彼らが急ぐ先には新しい家と、十九世紀の夜明けが待っていた。家とは湖畔の小村グラスミアにたつコテージのことだ。すでにおわかりかもしれないが、このふたりの健脚の持ち主は、ウィリアム・ワーズワースとその妹ドロシーにほかならない。北イングランド、ペナイン山脈を横切った四日間に彼らがなしたこと。その徒歩の旅によってふたりが成し遂げた、あるいは(end133)そう試みたことはまさに偉業だった。なにがそれを可能にしたのか、はっきりとしたことはいえない。彼らよりもはるかに遠くへ、はるかに悪い条件のなかを歩いた者がいなかったわけではない。その三十年ほど昔、詩人とその妹が生まれるころには、人びとはブリテン島の荒々しい自然を賛美するようになっていた。山岳、断崖、荒地、嵐、そして海、滝。フランスやスイスではわずかな先駆者が高山へ挑みはじめ、十四年前にはヨーロッパの最高峰モンブランの頂にはじめて手が届いた。ワーズワースと彼の仲間は、徒歩の旅をそれまでとは違う新しいものへ変えたといわれてきた。それはただ歩くことを目的に、風景にわけいる愉しみのために歩く人びとの系譜の礎となり、多くの実りをもたらした。歩くということを文化的活動として取り入れ、美的な経験として受け入れたのはこのロマン派の第一世代だったとはよくいわれることだ。
クリストファー・モーリーは、一九一七年にこう書いている。歩くということが芸術になったのは十八世紀以降ではないかとつねづね思っていた。有名なジュスラン大使の著作は十四世紀に多くの徒歩旅行者が旅の空にあったということを教えてくれるが、旅路の物思いや景色を楽しむために戸外へ赴いた者はいなかった……。一般的にワーズワース以前には、純粋に歩きのリズムを楽しむために野山を歩くということは珍しいことだった。ワーズワースは哲学の道具として両脚をつかった最初の人間だと、よく考える。(end134)
ワーズワースが生まれる一七七〇年はすでに十八世紀の半ばを過ぎていたが、モーリーの最初の一文はそれほど間違っていない。ただし、芸術としての歩行とクロスカントリー・ウォーキングを組みあわせて考えたところに取り違えの余地が生まれている。モーリーを端緒として歩くこととイギリス文化という主題を採り上げた三冊の書物があるが、いずれもこの種のウォーキングがはじまったのはワーズワースと仲間たちが徒歩旅行に出立した十八世紀後期なのだと述べている。
(レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、133~135; 第六章「庭園を歩み出て」)
いま午後四時。いろいろ過ごしてそろそろ日記を書くかというところなのだが、そのまえに音楽をちょっと聞いて英気を養おうかなとおもい、一九六一年のBill Evans Trioの"All of You"を聞くことにした。数日前にもちょっと耳にしたときがあり、それはあれだ、アンプのフォノイコライザーを試したときだが、そのさいに気づいたのだけれど、Amazon Musicの『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(三枚組)の音源で"All of You (take 1)"をながしたところ、まったくべつのときの録音になっていたのだ。たぶん晩年の、Marc JohnsonとJoe LaBarberaとのトリオじゃないかとおもわれるのだが、晩年にやったVillage Vanguardでの公演のコンプリート版も出ていたはずなのでそれが混ざったんじゃないかと推測している。いぜんはもちろん、問題なく一九六一年の音源だったのだが。そういうことを知っていたのできょうは検索すると出てくるもうひとつのほう、真っ白なジャケットのやつのまわりを赤い枠で囲ったようなデザインになっているほうで聞こうとおもってこちらでながしてみると、これがまた"All of You (take 1)"をながしてもじっさいに出てくるのは"All of You (take 3)"なのだ。さすがにさいしょの一音で聞き分けられるほどに聞き込んではいないのだけれど、テイク1ってこんな感じだったかなという違和感は冒頭から感じており、Motianはシズルシンバルを頻繁にシャラシャラやっているし、ピアノソロにはいるまえにちょっとだけ溜めのような雰囲気があるからそこでこれテイク3じゃない? とおもい、さらにすすむとピアノソロのとちゅうでテイク3であることをしるしづけるフレーズ、カードをめくるようなという比喩でいぜん書いたそれと、その直後につづくきれいな山型のつらなりが登場したので、これテイク3だわと確定された。そこで切って"All of You (take 2)"をながしてみるとこれはふつうにテイク2、テイク3のほうがもしかしてテイク1と入れ替わっているのかなとおもって"All of You (take 3)"をながしたところがこれはテイク3のままだった。したがってテイク1が聞けない。ちなみに赤枠のない真っ白なジャケットのほう(もともと聞いていたほう)でも確認してみると、take 1はべつのときの音源で、take 2はそのまま、take 3はtake 1とおなじべつのときの音源になっていた。どうなってんねん。困る。それでしかたなく、take 1を聞きたいとなれば三枚組がまとまっている音源ではなく、Vol. 1から3に分かれているほかの音源で聞かないと駄目かなとおもってそのタイプのものをひとつ選んでみたところ、これは問題なくただしいtake 1がながれだしたので、ああこれだこれだと八分ほど聞いた。ところがそれはそれでまた、さいごのテーマにもどってもう終わるという直前で、なぜかすでに過ぎたベースソロの一部がとつぜん混線的に闖入してきておどろいた。どうなってんねん。なんとかしてほしい。いま追加で簡易的に確認してみたところ、Vol. 1から3に分かれている音源のうち、照明のもとのEvansの横顔がジャケットになっているやつはたぶん瑕疵がないようなので(take 1のさいごのほうしか確認していないが)、take 1を聞きたかったらこれで聞くしかない。それか実家から持ってきたハードディスクをつないでiTunesで聞くか。
それでいちおうtake 1をきいてみたところ今回はLaFaroのタイミングがこんなにはやかったかな、という印象を受けた。すばやくうごきまわるのは言うまでもないのだけれど、ただビートや発音のタイミングがおもったよりも前寄りな気がされ、正確な聴取かわからないが印象としてはEvansより、それどころかMotianよりもわずかにはやく先駆けるように、どんどん突っこんでいくような感じを受けた。またMotianのドラムソロはやはり変で、とくに後半、ちょっと危なかっしくおもえるいなたさがありつつも、いっぽうでロールの回転がずいぶんなめらかだったりして、妙な共存のちぐはぐさがある。キックの踏み方がてきとうにしか聞こえないと過去にもなんども記してきたが、ここにある上半身と下半身の分離感はほかで聞いたことがないもので、それはさいきんのめちゃくちゃハイテクなドラマーがやるような、うえとしたでほんとうにまったくべつのリズムを叩き出すみたいな統制されたテクニックではちっともなく、ただ噛み合っていないというだけ、微妙な齟齬があるだけなのだ。ところがそれでなんとか成り立ってしまっている。Motianがどういうつもりで、どういう感覚でこういう叩き方をしたのか、それがいつまでたってもわからない。ただ下手くそなだけ、つたないだけと聞く向きがあってもおかしくはないとおもうが、ところがMotianはぜったいに単にヘタウマなだけのドラマーではない。じぶんはそれに確信を持っている。ブラシワークなどむしろきれいでうまい。繊細さもある。ヘタウマ的な要素があるのはたしかだろうが、それだけではない、まちがいなく突然変異的な特異種である。気体性と空間性の観点からそのあたりを探究することができるだろうとむかしからおもっているのだけれど、それいじょうなにもやっていない。もっと音楽を聞かなくては。
きょうは八時半に起床した。さくばんは夕食を取ったあと、一一時くらいからどうもエネルギーがなくなったようで、決定的になにをやる気も起こらずに「英語」記事をちょっと読んだり、椅子についたまま目を閉じて休んだりしていたのだが、じきに横になりたくなったのである程度消化がすすんだのを見計らって、零時を過ぎたあたりで布団のうえに倒れてしまった。そしてそのまま休んでいるうちに意識を失ってしまったのだ。パニック障害が再発めいてきているおりだし、早寝は大事なのでむしろ良かったかもしれない。二時か三時くらいにいちど覚めたのでそのとき明かりを落として就寝した。それできょうは八時半に起き、シャワーを浴びず歯も磨かずに寝てしまったのですこし気持ちが悪いが、とりあえず顔を洗い、みずを飲み、寝床にもどって読みもの。Chromebookで(……)くんの小説を読み、さいごまで読了した。けっこう楽しめた。新潮の新人賞に送ったというが、文体的にはいわゆる純文学方面のそれではないといわざるをえないだろう。簡素に過ぎるし、比喩も紋切型のものしか使っていなかったとおもう。また、描写らしい描写がほぼなく、説明するような文章の書き方が多い。したがって記述によって運動を喚起させる感覚とか、鮮やかな表象感覚とかはない。ただこの点は一人称で語る主人公の性格や、また作品がとりあげている題材からするとそれでもよいのかもしれないともおもった。じぶんがこの作品でおもしろいというか、まず特筆する点だとおもったのは、島田健司というパワハラ的な課長のあまりのウザさで、こいつマジでほんとうにウザいな、というのがよく書けているように感じた。かれの言動、セリフ回しがほんとうにウザい。しかもこの小説は(……)くんの実体験にかなりの程度もとづいているから、誇張がないわけではないだろうが、この課長もたぶん現実でもわりとこういう言動をしていたはずで、その点をかんがえると、(……)くんよくこんなところで耐えてたな、おれだったら即座に精神を病んでたわ、死んでたわ、それかこいつをぶん殴ってクビになってたわとおもった(というかじっさい、(……)くんも精神を病んだわけだが)。そういう事情を知らないひとがふつうの読者として読んだばあい、もしかしたら戯画化が過ぎているように、あからさまでわざとらしすぎるように感じるかもしれないが、ともかくウザい。また荒木という、主人公と同期で会社にはいった男性がいて、かれは会社の体制に批判的な目を向け、その欺瞞をあばき分析批評してみせる人物で、いってみればソフィストのおかしさを糾弾する哲学者の立ち位置なのだけれど、終盤にあるかれと主人公の議論なんかはけっこうダイナミズムがあって良いように感じたし、そのさいごで課長が自殺した(かもしれない)中島を排除するために追いこんだんじゃないかという仮説が出てきて、その後の展開につうじていくのもなめらかなながれだとおもった。その後の展開というのは中島の死の理由を知るべくかれのSNSを読むというもので、そこでやはりかれはじぶんの意志で自殺したのだという確信がとれた主人公佐伯は、その事実からじぶんもみずから去ればよかったのかという気づきに至って自殺をこころざすのだけれど、ここはいわば一種の啓示である。そうしていろいろ調べたりしたあと樹海に行ってみちを逸れようというところで課長から電話が来て引きもどされてしまうという終わりかただが、この後半から終盤にかけての物語的なながれはなかなかおもしろくできているようにおもった。佐伯は会社と課長に追いこまれ洗脳されるようなかたちで極論を身につけていくのだけれど、中島の自殺を確信して啓示を受けても、それは極論からさらなる極論に飛ぶだけで客観的には解決になっていない(佐伯ほんにんとしては決定的な解を見出したつもりになっている)というのもおもしろい。しかもそれが成就されないままに終わってしまう。このへんの展開と、課長や荒木のキャラクター、また会話でのやりとりなどがじぶんがおもしろい、良いとおもったこの作品のポイントである。ただそうなるとやはりこれは、文体からしても、いわゆる純文学というよりは、いわゆるエンターテインメントのほうに寄った魅力の作品なのではないか。じっさい全体的に、人物像だったりその立ち位置(役割)だったり、要素の構図がかなりわかりやすかったり、佐伯の狂いがあからさますぎるようにおもえたり、かれが物事を説明したり解釈したりと論理づけるさいに通念的なアフォリズムのような一般性をつかいすぎていたりするように感じられた。そうなると作品の構造や細部の感触として平板さがつよくなってしまい、もうすこし複雑さだったり厚みだったり襞的な手触りのようなものがやはりほしくなる。また描写や風景といったものがほぼまったくないのも気になる点で、それはこちらの個人的な好みの問題でもあるけれど、それを措いて、佐伯はかなり論理的なタイプのにんげんだから、意味と論理から距離を取る要素としての描写や風景をもっと活用すれば、それでまたなにかべつのダイナミズムや変容や組み合わせをもちこめたような気がするのだ。そういったことごとはありつつも、作品としてクソつまらんということはなく、けっこうおもしろかったし、文章はじぶんの好みからすると簡素にすぎるとしても、誤字がひとつもなかったし、読んでいて違和感をおぼえるぶぶんもなかったし、うえに触れたようにきわだった箇所もあったわけで、この文体の範疇で(……)くんがきちんと丁寧に意を凝らして書いたということは明確なようにおもえる。まえにかれとはなしたときに、推敲のときにぜんぶ音読してベストなことばやかたちを探ると言っていたけれど、この作品でもきちんとそれをやったのだとおもう。ただおもいだしたが、誤字はなにか一箇所だけあったような気がした。なんだったかわすれてしまったが。ここはこの漢字ではないはず、とおもったような記憶がある。
読み終えると九時半くらいで、寝床から起き上がった。八時ごろに覚めて布団のしたで深呼吸をしているあいだに、(……)さんにメールを送って先日の礼や謝罪をつたえるとともに、大事を取って来週一週間休みにしてもらえるよう頼もうという気になっていた。漢方薬が効いたのか否か、からだの感じはそうわるくなく、自室にいればほぼ平常で問題はないと言って良いのだけれど、ただ起きてそんなに時間が経っていないあたりではやはりなんだかそわそわするような気がするし、また電車や職場でどうなるかというのがわからない。というかたぶんまた相当緊張するなという気がする。正直ビビっている。それで(……)さんにはだいぶ手間を取らせてしまうが追加で一週間休ませてもらって、このあいだに転出や転入、健康保険などの手続きを済ませ、なるべくはやく精神安定剤をもらう。とはいえ再来週からまたはたらきはじめるとしても、精神安定剤はそこには間に合わないかもしれないが。漢方薬はそんなに即効性があるものではないだろうから、効くとしたらいくらか間がいるだろうというあたまもある。いずれにせよ実家に年金手帳などを取りに行かなければならないから、そのときに電車に乗ってどうかというのを確認できる。またふつうに今次のことを理由に休日を稼ぎたい、はたらきたくない、という打算的ななまけ心もある。あと二五日に(……)くんおよび(……)くんとの会合がはいっていて(……)で会うことになっていたが、これも大事を取っていったん延期させてもらおうとおもっている。それは作品の感想をメールで送るついでに伝えればよろしい。とにかくヤクを手に入れさえすればどうにかなる。ヤクは今回はおそらく毎日飲む必要はないはずで、電車に乗るまえとか、勤務のある日とかだけ飲めばどうにかなると予測している。半頓服という感じか。
それで携帯でメールをつくって(……)さんに送り、ついでに兄にも浄水ポットくれとSMSで送っておき、母親にも年金手帳を探しておいてほしいとメールしておいた。それで一〇時くらい。そのあとはけっこうながくウェブをみてしまった。そうしながらとちゅうで飯も食った。さくばん食わなかった冷やし中華に、豆腐、あと手巻きふたつ。漢方薬も食前なので食べはじめるまえに飲む。それで一二時半くらいまでデスクで過ごした。そのあと歯を磨いたり、シャワーを浴びたり。シャワーを浴びたあとは、フェイスタオルはけっこう湿っているわけだが洗面所のタオル掛けにかけておき、バスタオルは今晩もういちどつかうつもりで洗濯バサミをつかってハンガーにつけ、窓のそとに出しておいた。きょうの天気はきのうとちがって晴れる気配のない真っ白な曇天なので、あまり効果はなさそうだが。ただ出してまもなくハンガーが風にすべって端のほうに行ってしまったので、なかに吊るしておくかとレースカーテンの向こう側、網戸とのあいだにかけておいた。それできのうきょうの日記を書きたいところなのだけれどからだがまだそういうモードになりきっていない感じがしたので、寝床で書見しながら脚をマッサージして血を巡らせることにし、ピエール・アドはきのう読み終わったし(……)くんの小説も読み終わったからあたらしく本を読み出したいがなににするかとおもって収納スペースのしたに置いてある本たちのまえに行った。七月三日に会合があってそれはホッブズ『リヴァイアサン』の二巻目が課題書だからそろそろ読みはじめなければならない。並行してもう一冊読むとして、バランスを取るなら小説や詩などの文芸作品なのだが、あまりそういう気にもならない。『トリストラム・シャンディ』をとりあげてめくってみればかなりおもしろそうではあるがなにしろ上中下の三巻ある。さいきん買った本のあたりを見ていると、蓮實重彦の『ショットとは何か』に惹かれたのでこれを読んでしまうかとおもって手に取った。そうして寝床にあおむけになって書見。部屋はだいぶ暑いので窓の片側はすべて開放して網戸にしており、とはいえレースのカーテンは開け放たないでちょっとすきまがのぞくくらいで外気を取りこんでいる。臥位から見える空はせまく、電線がすくなくとも四本とおって長細くくぎられているが、どこをとっても差異も変化もなく真っ白である。あいまに「胎児のポーズ」を取ったり、足の裏を合わせた姿勢をとったりしてからだに血を巡らせながら読んでいたが、そのうちに起き上がって椅子につき、そこでさらに読書をつづけた。そうして84まで一気に。ドン・シーゲルの『殺し屋ネルソン』とニコラス・レイの『大砂塵』がじぶんの「原点」(22)だったのかもしれないと蓮實は言っており、前者は「何の予備知識もなしに見て、いきなりとち狂った」(20)といい、後者も「これにも狂いまくりました」(21)とのこと。しかしそんなシーゲルの『殺し屋ネルソン』という作品はいまだにDVD化もされていないらしく、各種の映画辞典のたぐいでもシーゲルの扱いは基本的にちいさく、とりあげられていても『殺し屋ネルソン』の名が出ることはないという。「わたくしの手もとにある辞典類で唯一、例外的に『殺し屋ネルソン』に言及しているのは、ジャン・テュラールの『映画辞典』(1997)で、ゴダールほか何人かがこの作品の高い品質を評価したと書いた後で、「物語の緊密な構成と、ミッキー・ルーニーの驚くべき演技」を絶賛している」(31)という。そういうわけで蓮實重彦はシーゲルや『殺し屋ネルソン』を評価しなかったり知らなかったりする向きを、れいのいやみったらしい言い方で各所でくさしながら、Wikipediaのページに「old-fashioned gangster picture」という説明があるのに、「「オールドファッション」じゃない! 決定的に新しいのです。『殺し屋ネルソン』のあの画面の生々しさを評価できなければ、映画を見たということにはならないはずですが……。となると、フランスのテュラールを除けば、わたくしがほとんど唯一の人間じゃないですか、世界で『殺し屋ネルソン』を絶対的に評価しているのは……」(38)と述懐している。
そうして四時前になると日記を書きたいが、そのまえにみずを買うことに。空になったペットボトル三つ(みずのものふたつと、あとWelch'sのぶどうジュースを飯を食うまえに飲んでいたのでそれも)を持って、ジャージに肌着のままで部屋を出る。すぐだからと鍵はかけなかった。部屋の扉をぬけるととたんに外気が涼しく感じられて、室内はやはりかなり暑い。階段を下りて建物のそとに出て、自販機の脇のボックスにペットボトルを捨てると、みずをふたつと、きょうはじめて気づいたがクラフトコーラとかいうのがあったのでそれも買ってしまった。しかしパニック障害がまた出てきている現状、カフェイン取っちゃまずいだろうとはおもうのだが。しかしちょっと飲みたい。そうしてもどると飲み物を冷蔵庫に入れ、ついでに流しに放置してあったプラスチック容器などを洗った。みずを切るために流しの角などに立てかけておく。飯を食ったあとの洗い物を乾かす方策もどうにかしなければならないな。やはりなにか入れ物のたぐいを買う必要があるのだろうが。それで四時にいたったあたりで上述のように日記を書くまえにちょっと音楽を聞こうとおもったところが、Bill Evans Trioの音源の不備に気づいておいおいとおもったので、それをさきに綴ってしまった。ここまで記すともう六時一七分。あまりガーッと記したという感じはなく、とちゅうで脇道にそれたりもして時間がかかったが、五時くらいからなんだか心身が落ち着いたようになってきて、ゆるやかに記した。きのうもそうで、だいたい五時くらいから行動に向かう感覚、ちょっと前のめりになっているような感覚がうすれて、いまここの時間に焦点をあてる、というような意識になってきたのだった。(……)さんのブログをのぞくとこちらにたいする言及があって、自費でもいいからとりあえず病院に行って薬をもらっておくべきではないかとあったが、たしかにそれもそうだなとおもった。金はかかるだろうが、頓服用の数錠でもとにかくヤクがあればわりとどうにかなるわけだし。せっかく(……)に来たので近間のあたらしい精神科を開拓したいきもちもあるけれど、でもここはやはり長年かよって事情をよく知っている(……)クリニックにまたお世話になるべきだろうなとおもう。まえにこちらが統合失調症騒ぎを起こしたときに父親が相談しに行ってくれた(……)クリニックというのも(……)にあって、そこの先生も丁寧にはなしを聞いてくれてかなり良さそうだということだったが、(……)クリニックに行けばはなしはかなりはやいだろう。それに(……)クリニックなら三年前まで通っていたわけだから、継続扱いになるかもしれない。初診扱いになったらたぶん一か月先とかだが。しかしもう六時を過ぎたから、きょうは営業時間が終わっている。いまさっそく、いちおう電話をかけてみたけれど、やはり出なかったのであしただ。とおもったがあしたも日曜だから休みだ! 月曜日だ。あと、五時過ぎくらいに(……)さんからメールの返信があって、来週の欠勤は問題なくOKしてくれたし、調整はこちらがやるから気にせずゆっくり休んでくれ、二七日の復帰ももし難しそうならまた相談してくれとあったのでまったくもってありがたい。この利益最大主義のエゴイズムが行き渡っている資本主義社会において得難い人材だ。心身が平常にもどって問題なくなったらかのじょのために職場でよりできることをやろうという気にもなるではないか。「ご体調優れないなか、ご連絡ありがとうございます」とあるのには、そんなにすぐれないわけじゃないんだけどな、とちょっとうしろめたい気持ちが生じないでもないが、しかしそれもわからないし、二〇一八年もだんだんやばくなっていったわけだし、じぶんでは感じないだけでけっこうやばいところにいるのかもしれない。そう考えて判断するべきだろう。なにしろ精神疾患はつねに予想を超え、不意を撃ってくる。これが原則だ。そういえば(……)さんが書いている、「むかし心理学の入門書みたいな本で読んだことがあるのだが、ストレスというものは環境の変化によってもたらされる、しかるがゆえにたとえ結婚や同棲といったポジティブな変化であろうと、それが環境の変化であるかぎりやはりひとはストレスを感じる」というのは、プルーストがほぼ同じことを『失われた時を求めて』の最序盤で書いていた。子どものころの語り手が感じやすすぎるので、習慣の変化が、それが喜ばしいものであっても、恒常性の変化というだけで苦しみになる、というような記述だった。
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一首: 「うるわしき地獄の底の遮断機でことばを燃やしつかめ哄笑」
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(……)さんのブログ、五月一九日。梶井基次郎「檸檬」の引用。したの箇所はこちらも好きで読むたび書き抜いてきたが、あらためて読んでみて、「裸の電燈が細長い螺旋棒(らせんぼう)をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来」というのがやはりすばらしいなとおもった。一時期は夜道をあるいて街灯のひかりを目に受けながら、この比喩をおもいだすことがよくあった。
またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに賑かな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのが瞭然(はっきり)しない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、その廂が眼深に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒(らせんぼう)をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋(かぎや)の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。
(梶井基次郎「檸檬」)
―――
うえに記したようにとりあえず自費でもいいからヤクをもらおうと決めたわけだが、そう決めてみるとなぜかそれでかえって緊張するようなところがあり、そわそわするので瞑想した。そうするとわりとおちつく。ただやはり、からだの奥のほうでちいさいながら、不安や緊張のかけらめいたものが、おりおり顔を出しては消えていく、といううごきを感じる。きょうはもうなるべく心身に負担をかけないようにしてだらだら過ごそう、飯もキャベツなどがのこっていてサンドウィッチもあるし、買い出しに行かず部屋にこもろうとおもい、それからちょっとのあいだはだらだらしていたのだが、しかし部屋にいてやることと言ってけっきょくものを読むくらいしかないわけで、この日のそれ以降はだから読書に精を出すことになった。蓮實重彦の『ショットとは何か』である。この日で148まで行った。まあふつうにおもしろいというか、映画というものをほぼ見ないしぜんぜんよく知らないわけなので、それだけでも新鮮味があってたのしめる。蓮實重彦のスタンスじたいはもう知っているものだが。
夕食は上述どおりキャベツを千切りというほどでない、大雑把な細切りにし、大根をスライスし、サラダチキンも薄く切ってそこに添え、すりおろしタマネギのドレッシングをかける。そのほか豆腐と、BLTサンドウィッチ。BLTってなんやねんとおもったが、ベーコン・レタス・トマトらしい。レタスっていえばSouliveのひとがLettuceっていうバンドをやっていたおぼえがあるなといま急におもいだして、あのへんのジャズファンク聞きたくなってきた。そんなに聞いたことはなくて、Lettuceはたぶんいちどもなかったはずだし、Souliveはたしか『Up Here!』というアルバムだった気がするが、それが地元の図書館にあったので借りて聞いたくらい。ただそのアルバムのさいごだかに、たぶん日本版のボーナストラックとして一二分くらいのライブ音源が収録されていたのだけれど、それがかなりよかったことはおぼえている。
そのほか特に書くこともねえんだよな。だいたい本を読んだり、ブログをみたり、ウェブをみたりしていたわけで。書抜きもしなかった。一時くらいにシャワーを浴びた。ながしに洗って置いてあったプラスチックパックもどこかのタイミングで鋏で切って袋に入れた。いまゴミ箱はひとつあってそれにティッシュなど燃えるゴミを入れているけれど、プラスチックゴミ用の箱ももうひとつほしい気はする。あと洗濯物を入れておく籠かなにか。いまはビニール袋にひとまず入れていて、それでもべつに良いといえば良いのだが。あとキャベツを切るのには流しの左隣に置かれた洗濯機のうえをつかっている。調理はもしかすると意外とそこで行けるかもしれないという気がしてきた。その左には冷蔵庫があるのでその上面にもものを置けて、いまは紙皿とか醤油とかラップとかを置いてある。まな板などが乾いたあともそこにかたづけている。調理は洗濯機のうえでがんばるとして、あと必要なのはフライパンに鍋、ザル、そして洗ったものを置いて干しておくためのなにか。飯は机で食っているが、盆というか膳のようなものか、ランチョンマット的なものをつかったほうがよいだろう。あとはアイロン。アイロンもなんか電気屋よりニトリのほうがピンとくるものがありそうな気がしているのだが。ハンディクリーナーはひとまず措いておいて、しばらく雑巾でがんばってみよう。ほかにやらなければならないこととしては転出・転入や保険類の手続きに、段ボールを解体すること、洗面所や床を掃除すること、冷蔵庫のなかをセッティングすること、(……)くんにメールを送ること、あたりか。携帯方面の住所変更もしておく必要がある。シャワーを浴びたあとはまた書見して、二時一八分に消灯。よい具合に眠気がしぜんと満ちてきた。寝るまえはやはり紙の本を読むのがよいのだろう。